★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.186

梅雨入りしました。緑が映えます。
山梨には海がありません。瀬戸内海で育った私にはいささかもの足りません。
そこで広くなった畑に波を想わせる畝を作ってみました(写真貼付)。
これも移住生活の楽しみ方。

停滞感漂う日本の政治。選挙制度に問題ありか?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.186》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

働き方改革

「リーダーが後ろから全員の背中を押していく(落ちこぼれを防ぐ)型」が日本の指導者のスタイルであるのに対して、アメリカでは「リーダー自ら先頭を切って全員をぐいぐい引っ張っていく」というのが私のこれまでの経験であり理解しているところです。私はアメリカ在住53年になりますので、以上の相違を十分に理解出来ます。
今朝、2月25日日曜日、NHKの「働き方改革」と題する日曜討論を聴いていて、聴くに耐えられなくなり、途中からこの文章を書き始めた次第です。討論会の出席者が「才能を認める働き型」を余りにも理解していないのに驚いただけではなく、ある怒りさえ覚えた自分に驚いた次第です。
勿論、アメリカでは、「才能(宝)を認める(発見)型」即ち「才能開発型」が一般的です。日本の企業では、毎年4月に新卒新入社員を一堂に集めて、社長が訓示を与えます。このような光景はアメリカの会社ではあまりお目に掛かれません。アメリカでの社員募集は、その時点で会社が必要とする部署に必要な人材を配属する目的で採用します。採用された新社員は、当然その部署に必要な才能を発揮することが期待されます。

以上の考察が「企業の成績向上」とどう関係するかを考えて見ますと、社員の才能と企業の生産性向上との関係が見えてきます。先ず、「才能を認めたがらない」会社で才能豊かな人を採用した場合は「宝の持ち腐れ」になるだけではなしに、能力ある新入社員は自分の才能を持て余し、職場に対して失望感を募らせるに違いありません。会社にとっては、社員への給料は会社の生産性向上のための投資です。その職場に合った能力を発揮して生産性が上昇すれば当然給料も上がる筈です。才能に見合った給料を支払わないと、アメリカでは自分の才能を評価してくれる企業に移りたいと考えます。一方、どの国にもいる「才能に恵まれていない人」はどうすればよいのでしょうか。どの会社にも、特別な才能を必要としない内容の仕事はあります。給料は据え置きのまま、誰でも出来る仕事を担当させます。間接的に「我が社において貴方の将来は明るくありません」と言っているのと同じです。このような職種は、人口頭脳の発達によって次第に置き換えられていきます。従って才能のある人がより一層必要とされる時代になっていきます。即ち生産性の向上は、人間に特異な才能を要求ししているのです。
現在、世界における日本の生産性は、一時期の世界一位から滑り落ちて、先進7カ国の最下位の7位に甘んじています。GDPでは3位、日本人一人当たりでは14位、OECD加盟25ヶ国中で日本の生産性は20位で、日本人一人当たりの生産性は21位です。首位はどの部門でもアメリカです。日本はニュージーランドより多少上です。因みに、生産性とは、
  労働生産性GDP / 総労働量 が政府が採用する方式であり、
  労働生産性=生産量(Output)/ 投入量(Input)が企業の方式です。
以上は経済界だけの問題ではなく、それを支える教育と文化、そして日本人の国際性とに直接関係している重要な課題です

一般に日本文化、と言われるものは、江戸時代の鎖国270年間に育まれたと言われます。江戸時代は世界史でも珍しく、徳川幕府の強権による鎖国政策の実施により、国内外の戦争皆無社会になりました。即ち、天皇家を頂点に徳川幕府が代行政治を行い、大名は今で言う県知事であり、一般市民は、原則的に一律の規則下で同等の価値を担わされました。機会均等ではなく、皆等しい存在価値の国民として位置付けられました。封建政治の下で一般市民のエネルギーは、市民生活の向上、特に教育と芸術(趣味)に向けられました。鎖国により外国とは無関係となり、国民の国民による生活習慣が培われた時代だった、と私は理解しています。
華道、茶道、剣道、弓道俳諧、歌舞音曲、浮世絵、等々が百花繚乱し、所謂日本的文化が成熟した時代でした。「みち(道)を極める」方法論が発達して、師匠と弟子の関係は、全ての分野に浸透し、親子関係にまで及んだようです。浄瑠璃や歌舞伎などにみるように人情の細やかさが特に注目を浴びました。江戸末期には、西郷隆盛勝海舟坂本竜馬、高杉新作、などの少数の偉人の指導によるしん無血革命があり、開国の新時代を迎えましたが、一般の日本人は、江戸時代をそのまま明治に持ち込みました。これが明治、大正、昭和を経て、平成の現代に至るまで、江戸を引きずっていると、私は解釈しています。

人を信頼して約束(商取引も含めて)をする日本の習慣が、アメリカの弁護士を介する商取引に啓発されて、日本政府の一声により、日本の大学に法学部が多設されました。アメリカ方式を契約社会と呼んで、文化的には非人間的であるかのように糾弾する人も出ました。しかし、契約無しに交わされた約束が、一旦反故になりますと、日本での商取引が混乱から相互不信に陥ることを経験し、契約の重要性を学びました。しかし時が経つに従って弁護士過剰に陥り、現在では法学部廃設の方向に向かっています。
今、国会では、政府の発案で、裁量労働方式を法律化しようと議論が交わされています。才能ある人に対して、どのような報酬を払うか、を議論しているようですが、不思議なことに、未だに能力の違いを認めようとしていません。
特殊な仕事をする際、成果(結果)に重きを置き、短時間で成果を出す人に、長時間働いている人と同じ報酬を与えるかどうかを法律化するということのようですが、才能を認めてその能力に見合った報酬(時間給で差)を与える、という考え方がありません。人がより多くの報酬を貰うのは、その人の価値がより高いからであって何も不思議ではない筈です。時間の問題ではなく能力の問題なのです。高級品には高い値段がつくのと同じです。しかし、新入社員を一律に採用して、社員を区別したがらないのが日本の企業であり日本の文化です。
50年以上前ですが、日本のある会社の社長が大学に来て、「どうか特殊な才能教育をしないで貰いたい。会社用の仕事のための教育は我が社で行いますので、大学では一般教育に力を入れて信頼できる人を育成し、学生に変な癖をつけないで頂きたい」。信じ難い本当の話です。しかも今の国会答弁と同じなので、50年間変化していないのが分かります。

資本主義社会では、高級品、特殊技能、野球の名選手(イチロー)、名マラソン選手(設楽悠太選手)、ノーベル賞受賞者、等々、に高給を払うのに、疑問を挟む人はいないと思います。人、商品、芸術、技術、頭脳 などの価値の差を認めることは、我々の日常生活で行なっているのに、いざ一列に並んだ新入社員を相手に訓示を垂れると、全員同じに見えてしまうようです。入社後も同じように成長していくと信じる人はいない筈です。努力を惜しまず才能を磨き続ける社員には、その能力を認めて給料を増やし、個人のためにも会社のためにもなるようにしむければ、ウィンウィンとなります。日本の小学校の運動会で、徒競走をした生徒全員が一斉に手を繋いでゴールインさせたと言う話を聞きました。
残念ながら、この話と日本の企業の姿勢は同じように私の目には映ります。

恐らくは、江戸時代の封建制度の名残なのでしょう。アメリカにも才能の一律化を追求する姿勢が全く無い分けではありません。しかし、それを批判して議論をする場が必ずあります。アメリカの民主主義では、個人の才能に価値を置きますので、個人が他人と異なることには、危機感を抱きません。しかし、この危機感こそが日本での問題のようです。諍いがなく丸く収まっている「和」を尊ぶ日本文化と、自分が他人と異なり、可能なら他人より秀でていることを喜ぶアメリカ文化と、どちらがより優れた仕事の効率とその結果を生むでしょうか。
答えは歴然としています。仕事内容が繰り返しの多い場合は日本であり、仕事内容の根底から創造性を必要とする場合にはアメリカです。アメリカ追従で倣った通りを繰り返していればよかったJapan as No. 1 の1980年代には日本が有利であり、創造性と指導力発揮を必要とする仕事の場合には、当然アメリカに軍配があがります。よって、現在は、アメリカに軍配が上がっています。先に示した労働生産性の国際比較がそれを証明しています。
トヨタ生産方式で、Just in Time やカイゼン方式は、多分その中間に位置すると考えます。カイゼン(改善)は言葉通り、発想の新しさで勝負するのではなく、今ある方式を改善して効率をよりよくすることなので、創造的新しいアイディアの発想とは姿勢が異なります。

以上から考えますと、労働生産性の国際競争の場での先進国中最下位を抜け出すためになすべき日本の課題は、発想方や姿勢や文化に変革を起して、個人の特殊価値を認め、個人の主義主張を表明することに誇りを感じれる環
境をつくることです。これは言語を変えるのと同じぐらいの大変化です。同じ日本語でも、自己主張が可能な語彙、表現法、発想法を用いる必要があります。
これは、教育の大改革でもあります。超過勤務をしても仕事が片付けば、例え上司がいても、当然の権利として平然と「仕事が終りましたので、お先に失礼します」と言って帰れる環境をつくることです。これが出来ない体質がその企業にあるなら、それは労働生産性の低い、国際競争力の無い企業として、落ちこぼれるか、下請けのその又下請けに甘んじて、創造性とは無縁の組織に低迷していくでしょう。即ち企業が指導力を発揮し続けていきたいなら、その企業の体質改善は至上命令なのです。

他人と異なることに危機感を憶えて、日本は自国の労働生産性が先進7ヶ国中最下位であることに恐怖を覚えて心配になり、その後「発奮」して、国の創造力を結集して能力開発型へ向かって突き進むことは、日本人なら必ず出来ます。
日本政府も経財界も教育機関も、更には、芸能界をも巻き込んで、現実を確りと「認識」し、日本国の才能発見に最大限の努力をする企画を立てれば、日本の将来は明るいと言えます。デザイナーや建築家、作曲家や彫刻家、等、既に世界の舞台で羽ばたき、創造力を発揮している日本人が数多くいます。生産性や教育の分野で羽ばたけない訳がありません。
先ず、現実を直視して、認識を新たにすることです。国際間の生存競争に勝ち抜くための至上命令なのだ、ということを確と「認識」することがその第一歩です。

2018年3月10日 日本の伝統的な才能開発の手法を呼び起こしましょう!
岸本雄二、クレムソン大学名誉教授



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その34/にわか大工 −

移住生活(2009年5月移転)が10年目に入りました。早いものです。
10年近く経つと建物も多少手入れが必要になります。我が家のウッドデッキもあちこちに木腐れが生じてきました。デッキの使用材は2×6材です。厚さは4cm程ありますが、この樹種はもともと水に強いものではありません。予算の関係で水に強くて硬い材料を使うことが出来ませんでした(東京のお台場あたりで使用されてるウッドデッキは雨にも強く硬い輸入材で価格もそれなりの高いものです)。でも“木の感触”は捨てがたく、防腐塗装で何とか持たせてきましたがそろそろ限界です。ウッドデッキの広さは3m×15m程で、使用されてる2×6(ツー・バイ・シックス)材は3m程の長さの物が100本。これをそっくり工務店に新しくしてもらうとなかなかの金額になります。そこで、想定外だった野菜作りにも挑戦した私が今度はにわか大工に挑戦です。これまで図面は引くものの、自分で作るのは初めてです。いささか不安なので、緊急に取り替える必要のある8本だけを試みることにしました。Jマート(ホームセンター)で防腐処理された長さ3.65mの2×6材(1本3,000円程)を2.9mにカットしてもらい。家まで運んでもらいました。
まずはカットしてもらった本材と残りの端材に再度黒の着色防腐塗料(キシラデコール:元々はドイツで開発された浸透塗料)を塗ります。建物の色調は黒で、ウッドデッキも黒塗装されています。周りの自然の中に溶け込み、あまり自己主張しない佇まいをと思って黒にしました。
さて、いよいよ工事に取りかかります。傷みの激しい部分の板を剥がしてみると、予想されたこととは言え、デッキ材を受ける中央部の横材(梁:2×10)が傷んでいます。
我が家は南側のウッドデッキに向かって下がる片流れの屋根を採用しています。軒先には雨樋は設けていません。冬の積雪量をそれなりに予測して、雪で樋が破損するのを避ける為に設けませんでした。その為屋根からの雨水は直接デッキに落ちてきます。落下水の当たるその部分の傷みは他よりもひどくなっていました。これは設計時より予想しており、その予防策として、雨の時には幅90cm程の人工芝を軒に沿って15m程敷くことにしました。当初は雨が止んだ後は乾燥を促すためにすぐにこの人工芝を巻き戻していましたが、段々とズボラになり、巻き戻ししないでそのまま放置することも・・・やはりこれは木の寿命を短くしてしまう。雨上がりに人工芝を15mに渡って巻き戻すのもなかなかの作業。他に方法はないものか目下思案中。
と言う訳で傷んだ横材にはカットで生じた端材で補強することにし、元々使用されていたステンレスのスクリュー釘を回収して2×6材を打ち込みました。当初思っていた以上に作業は進み、塗装を含め2日間で処理することが出来ました。残り98本。いささか気の遠くなる作業ですが梅雨明けあたりから再開かな?
忙しい夏になりそうです。



◆今月の山中事情146回−榎本久・宇ぜん亭主

−究極のAI−

近い将来、車社会はAI搭載の自動車運転になるとされている。それによって自動車産業界はその方向を転換せざるを得ない状況にある。自動車産業という重厚長大な産業が今後は家電の範疇に入る産業となるようだが、この時代に生きる者としてはまだまだ不安要素が多く、もの珍しさが涌いて来ない。
ハンドルが勝手に動くことは、いくら安全と言われても、今の段階ではおいそれと受け入れることは無理だ。車が電気や水素などのエネルギーで動くものにシフトする地代になろうとはボンクラな私の頭では思ったことがなかったが、それがなろうとしている。
現代に生きる者の判断は、そうなることを希望している者と、旧態でよいと思う者に分かれるが、それも当然と思う。世には必ず先駆者がいる。電話を例にとれば、ケイタイの普及はたいした時間もかからぬうちに世界中に普及してしまった。この現象をみれば、車もその運命にあるようだ。
おもしろい話を思い出した。時代ははるか数十年前のことである。ということはまだ車など見ることも出来ない田舎の話です。
冬にでもなると鈴の音を鳴らして一頭の馬が橇(そり)を曳いて現れた。とある食堂の前で庄助爺さんは手綱を引いて馬を止めた。馬は店の前で、雪降る夜を、庄助さんが出てくるのを静かに待つ。ほどなく庄助さんが出て来て手綱を振ると、馬は再び橇を曳き始めた。次の馴染みの店の前で又、馬を止めた。
庄助さんは馬の頭をなで店にはいる。馬の頭にかなり雪が積もった頃、ごきげんになってよろけながら橇に乗りこんだ。町はずれに来た時、最後の店の前に止まった。馬は町に出た時の庄助さんの行動を熟知していた。夜も更けた頃、庄助さんはすっかり出来上がり橇の毛布にくるまった。無意識に手綱を引けば馬は我が意を得たりと雪道の家路を鈴を鳴らしてたどった。
そして馬は無事主人を家に連れ帰ったのです。
あの頃の日本ではどこでもみられた光景だった。
“究極のAI”搭載の乗り物はこうしてずい分前から存在していたのでありますが。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め/位相」シリーズの最新作です。
  サイズはP30号(65.2cm×91cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.185

五月です。鯉のぼりの季節です。
先日、“道の駅南清里”に鯉のぼりを見に行きました(写真貼付)。

連休が明け、白州では田圃に水が張られ、いよいよ田植えが始まります。
透明感に溢れたこの日常の光景がこころを癒してくれます。(写真貼付)

4月の銀座のギャラリーでの展覧会には多くの友人知人が観に来て下さいました。
感謝申し上げます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.185》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は空閑重則さんです。

以前住んでいた北京のアパートの近くにナツメパンの店がある。
2011年に初めて行ったとき、常用スーパーの隣なのですぐ眼についたが、とにかく常時屋外の行列なのである。昼間でも零度前後という北京の冬に5m(20分待ち)程度の行列ができている。好奇心を抑えきれず買ってみると、なかなか旨い。そして安い。
一斤10元(500g170円)だが「一斤買うと半斤おまけ」なので1斤120円弱である。味はというと、程よい甘さと埋めこんだ干し棗の香りがくせになる。

2016年の秋、その列がやたらに長い日が続いた(50mくらい)。不思議に思っていたら数日後に閉店してしまった。貼紙を見ると「当店は**月**日をもって閉店します。近いうちに近所で再開します」とあるが期日は書いてない。長い行列は、最後のチャンス・お別れ買い ということだったらしい。
その後数度北京を訪れたが再開の様子がない、と思っていたら2017年のある時大きなビルの中にある常用スーパー(2階と3階)でナツメパンの匂いがする。
店員に「いい匂いがするね」と聞くと「下の階から流れて来るんだよ」。なるほど、同じビル1階の奥まった場所に再開して、やはり行列ができている。これなら冬の行列もつらくない。めでたしめでたし。

1年余り経って再訪した。味は変わっていないが、行列はほとんどない。
客にとってはありがたいが、これでは売上げが相当減っているのでは、と不安になった。気になるのは、これは「常時行列」の宣伝効果がなくなったせいなのではないか、ということだ。 群集心理と口コミの効能を考えさせられる事象である。(終り)



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
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− 移住生活・その33 −

5月の連休も明け、野菜作りの始まりです。昨年に比べて気温も高いようで、植え付けには良いようです。今年から畑の広さがこれまでの倍以上に拡がり、いささかもてあまし気味ではありますが、畑のデザインも兼ねて楽しみたいところです。
さて、春を迎え例年通り野菜作りの準備に取りかかりました。3月の上野での行動TOKYO展、4月の銀座でのグループ展を終え、次の冬に備えての薪作りも済まし、とりあえずひと区切りがつきました。しばしの気分転換を兼ねて野菜作りにいそしみます。

4月。まずは連休明けからの畑の植え付けに備えて長ネギの苗作りにとりかかりました。プランターで作るのですが、昨年の秋に試みた長ネギとタマネギの残った苗が少しあり、再利用を考えていますが、長さ7,8cm位の苗ではネギなのかタマネギなのか私には見分けがつきません。とりあえず植えてみることにしました。
昨秋植え、越冬したタマネギの生育が今年は順調のようで、初めてのことです。これまで悪戦苦闘でなかなかそれなりのサイズにならなかったのですが、テニス仲間から勧められた追肥が効いたのでしょうか。どんなサイズのタマネギになるか収穫が楽しみです。
今年の苗の植え付けはだいたい例年通りで、ジャガイモ、サトイモ、生姜に始まり、トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、ゴーヤ、カボチャ、サツマイモと言ったところで、種物としては人参、花オクラ、小松菜、パクチ、インゲン、オクラ、ルッコラ、枝豆、ラディッシュ等です。今年はスイカにも挑戦してみます。

この時期山菜も楽しみのひとつです。早春、まずはお隣の許可を得て蕗の薹採りをしました。冬枯れの雑草類に埋もれて蕗の薹が育っています。半分土の中に埋もれた直径3,4cm程の蕗の薹を採り、天麩羅にして食べました。この香りが何ともいい。気持ち贅沢!
ミョウガ、ウドも採れます。
5月になると我が家から歩いて3,4分のところにあるお店で毎年山菜料理を楽しむことができます。10種類ほどの山菜を堪能します。これも移住生活の楽しいところ。
自然の恵みに感謝です。



◆今月の山中事情145回−榎本久・宇ぜん亭主

−冷蔵庫−

仕事と言うにはおこがましいほど実体はなきに等しいのだが、肩書きはまだ自営業者である。ある日、冷蔵庫の調子が悪くなったので業者に見てもらった。
冷蔵庫はすでに十年が経っている。耐用年数は充分過ぎてはいたが、大幅なオーバーでもない。まだ使用は可能と思った。フロンガス内蔵の古いタイプの冷蔵庫ゆえ下取り価格は〇円で、調子の悪いところは冷却機だった。冷蔵庫の心臓部だ。冷凍庫用もついているので二台分だ。応急処置の修理でも一台三十万円かかると言う。冷凍庫の方も近い将来調子が悪くなるとの見方だ。二台分六十万円は痛いのだが、それ以上に心配なのは、夏場に急に止まったら材料が皆パーになる。決断をせまられた。
営業担当の彼は二十代の青年。人生がいっぱいある彼は私にまず年齢を聞いた。たたみかけるように、あと何年仕事をするつもりかと聞く。冷蔵庫のことばかり気をとられ、私はその質問で我に返った。仕事をあと何年やるかなどと言うことはこれまで考えていなかったからだ。普段は、古希だ、七十だと年寄りぶっていたが、仕事をしている時の気概は三十、四十のままでいたからだ。七十を超えた私は彼にそう投げかけられ即座に答える年数を用意していなかった。
悲しいかな、若い彼の質問に未来を語ることは出来ず、空を見ていた。にわかに人生の終わりのところに居ることを気づかされ、唇を噛んだ。定年のない仕事とは言え、そろそろそのことも考えたらと言われたようで、若い彼を羨ましく思った。だがどうしてもまだ辞める気は起きず、それに反発した。

少子高齢化が言われて久しいが、今将にそのようにせまって来ている。私を含めいよいよ実感させられているのだ。市報に人口推移が毎月書かれているが、前月比は常にマイナスだ。それに伴い、本来ならば営業の望みなど不可能なのだが、究極、たった一人の為にやり続けることとて選択肢に入れることでも良いような気がして継続を選んだ。
寿司店を営む友人がいる。彼は九〇まで板場に立つと明言する。その意気込みに触発されてもう少し続けようと我が身にも語りかけた。
最新式の冷蔵庫が鎮座した。節電タイプと言われていたので翌月の電気料を見たら前月の半分になっていた。音も静かで、深夜に止まる心配がなくなったことでゆっくり寝ることが出来ている。
数年のローンを抱えることになり、これまで無借金経営が自慢だったが、このことは我が身にプレッシャーをかける意味でも必要かとも思う。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は、4月に銀座のギャラリーでのグループ展に出品した作品で
 「大地の目覚め/位相・春」です。
  サイズはP100号(112cm×162cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.184

4月です。
樹齢2000年と言われる山高神代桜エドヒガン)は今年も見事な花を咲かせました。(写真添付)
例年よりも10日ほども早い満開でした。
この末裔と言われる我が家の桜もいち早く満開になりました。(写真添付)
北杜市域は標高に差があり、例年、4月いっぱい桜を楽しむことが出来ますが、さて今年はどうなることやら。

●先月ご案内しましたが、16日から銀座のギャラリーでグループ展が始まります。
 ご都合のつかれる方、ご覧いただければと思います。
 ★第7回 WORK TEN(行動出品者10人展)
  ・日時:2018年4月16日(月)〜4月21日(土)
     12:00〜19:00(最終日は16:00まで)
  ・場所:ギャラリー風
     中央区銀座8-10-4 和孝銀座8丁目ビル2階
     tel.03-6264-5171

  *私は以下の時間に会場に居ます。
   ・4/16(月)   13:00〜19:00
   ・4/20(金)  15:00〜19:00
   ・4/21(土)  13:00〜16:00


では《Ryuの目・Ⅱ−no.184》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

ダルトン・トランボと「ブラックリスト」−
一昨年2016年の夏、久しぶりに出かけた川崎のシネマコンプレックス(=シネコン)で『トランボ=ハリウッドに最も嫌われた男』の封切りを観た。1977年刊行のブルース・クック著「ダルトン・トランボ」(2016年日本での映画公開とほぼ同じ時期に和訳が出版されている)を映画化したものだ。

 ともかくこれほど痛快な映画はない。異常なまでの迫害にさらされ、それと戦い、しかも最後に打ち勝つ、感動的な物語だ。 当時の合衆国では、先住民やアフリカ系、アジア系、ユダヤ系さらに「遅れてきた」南欧・東欧系の人たちへの差別が渦巻いていた。彼は、世界大戦の惨禍に身近に接し、大恐慌渦中の銀行家の専横と労働者の困窮を見ていながら、それを見ないふりをすることはできなかった。そしてナチズムが台頭し、スペインでの暴虐が始まったとき、ハリウッドで、脚本家、監督、俳優、そしてプロデューサーの一部までも、ほとんど一世代丸ごとと言っていいほどの多数が左に傾いていったのは不思議ではなかった。

 こうしてトランボも共産党員になる道を選んだ。しかし彼は独特の共産主義者だった。靴屋の店員の子として生まれ、パン工場で働きながら大学へ行き、小説家を目指した青年時代、競争心が強く物質主義的で、仕事の成果と自分への評価がドルで表現される社会で率直に金を追い求め、少なくとも若い頃は苦手なことは避けてきた。努力が(ドルで)報われる社会、まさにアメリカ的な、アメリカに典型的な共産主義者だったのだ。ハリウッドに邸宅を構え、「不遜にも政府に抗う人たち」が「スイミングプール・コミュニスト」と揶揄された。他人を虐げない限り自分の稼ぎで贅沢をして何が悪い。信念や道理を大事にし、いつでも贅沢な生活を手放す用意があり、事実そうしたのが彼らだった。

 当時言われた「アメリカ的」とは、戦時経済による国内経済の過熱化、それがもたらす社会対立の尖鋭化が進む中での「持てる側」の行動規範である。この「純粋アメリカニズム」の論理は、第一次世界大戦前後から大戦間時代、戦中、さらに戦後の冷戦時代を通して、アングロサクソン中産階級を中心に、移民系住民の個別の民族的ナショナリズム、民族集団に対して誰であれ合衆国への忠誠を求め、排他的であれと主張するものであった。 1947年下院非米活動委員会がハリウッドに目を向け、全ての映画人を「友好的」と「非友好的」に分けた。後者の「非友好的証人」に対し召喚状が発せられ聴聞会に喚問した。喚問されたうち10人が証言を拒否し、議会侮辱罪に問われ1949年に最高裁で上訴が棄却され、1950年6月刑務所に収監された。(「ハリウッド・テン」)

 「あなたは共産党員か?過去にそうであったことがあるか?」という質問に対して、合衆国憲法修正第一条(信教・宗教・出版・集会の自由)を根拠に回答を拒否したのである。現に共産党員の人も、過去あった人も、そうでなかった人もいた。しかし、それに答える必要があるのだろうか?(トランボは1948年に離党している)

 アメリカには建国以来二つの伝統がある。民主主義と反動主義である。「民主主義の国アメリカ」と言うがこれは贔屓目な呼称で、半分しか真実ではない。民主主義の伝統に属する人たちはいつも守勢に立たされていたのだ。自由がいつも脅かされていた国だ。奴隷廃止論者も自分の正体を隠さなければならなかった。秘密にする必要があったかどうか、議論の余地はあるが、秘密主義を嫌う人たちは沈黙を罪の自白だと解釈した。自明のことだが、一つの質問に答えてしまうと、政府は自分たちにはどんな質問もできる権利があると思ってしまう。共産党員ではなかった?、よろしい、ここで一つのハードルを越えた、と安堵しても次がある。こうして仕方なく自分の知っている共産党員の名前を口走ることになる。しかし、政府が誰に対してもこのような権利を持つことは認められない、民主主義というもうひとつのアメリカの伝統に忠実でなければならない、と思う人も決して少数ではなかったのだ。「赤狩りの時代」はアメリカ社会を深刻な分裂に陥れた。

 トランボが刑期を終えて出てきてそれからが正念場であった。聴聞会開始とともに始まった「ブラックリスト」の時代は終わるどころか、ますます苛烈を極めていた。50年代の「冷たい戦争」という時代背景がある。脚本家トランボは秀作が書ける人だった。しかも脅威的なスピードで仕上ることができた。ともかく多作だったのだ。密かに偽名や代理でやり過ごし作品を流通させ、ブラックリストに挙げられた他の脚本家たちにも仕事を回し生活を援助した。この映画脚本の「闇市場」がなくてはハリウッドが機能しなくなるまでにしたのだった。こうして、計画的にしぶとく戦い「ブラックリスト」の無力化をもぎ取ったのだった。耐えることも美徳かもしれないが、待っているだけで向こうから勝利がやっては来ない。這い上がっていって一つ一つ潰していく、このしぶとさがまた素晴らしい。

 1953年制作(同年アカデミー賞受賞、1954年日本公開)の『ローマの休日』は親友脚本家を代理に立てた。(1992年になってアカデミー協会は受賞者をトランボに変更し、翌年妻クレオにオスカーが授与された。調査の上全米脚本家組合WGAが正式にクレジットを修正したのは2011年になってからだ。) 一時「疎開」していたメキシコで見聞した少年と牛を題材にした、偽名「ロバート・リッチ」の脚本作品『黒い牡牛』(1956年制作、同年日本公開)は1957年にアカデミー賞を受賞した(トランボにオスカーが贈られたのは1975年になってからだ)。ブラックリストを破って最初にトランボをクレジットしたのは、『栄光への脱出』(1960制作、1961年日本公開)のオットー・プレミンジャー監督だった。追いかけるように続いたのが『スパルタカス』(1960制作、同年アカデミー賞受賞、同年日本公開)の主演・製作総指揮のカーク・ダグラスである。

 映画『トランボ』では、主人公とその妻を演じた、ブライアン・クレストンとダイアン・レインの好演は言うまでもないが、嫌みな反共評論家ヘッダ・ホッパーに映画『クイーン』(2006年)の名演技でヴェネツイア映画祭で女優賞を獲得したヘレン・ミレンが扮して適役だ。オットー・プレミンジャー監督、カーク・ダグラス、この人たちの「そっくりさん」は微笑ましいが、 ヘッダ・ホッパーとコンビで「アメリカの理想を守るための映画同盟」でトランボたちに対抗したその同盟議長を4年間も勤めたという背の高い大根役者、「デューク」ことジョン・ウエインのそっくりさんには笑っ てしまう。

 『黒い牡牛』のプロデューサーでトランボの闇市場時代を支えたキング兄弟の次男フランクは1959年にインタビューに答えて言った。 「(トランボに共産党員かどうか尋ねたことがありますか?)もちろん尋ねませんでした。彼の政治信条にも宗教にも肌の色にも興味はありませんから。関心があったのは彼の作品です。あれはいい作品ですよ。カトリックの幼い少年とペットの話です。そこに何か共産主義的なものがありますか? 世界中のあらゆる国々のレビューをお見せしましょうか? それとまったく逆のことが書かれていますよ。このビジネスに必要なのはよりよい脚本家であって、政治家ではないのです。」 

このフランク・キング役にコーエン兄弟の作品の常連で『バートン・フィンク』の不気味な保険セールスマン役を演じた巨漢ジョン・グッドマンが扮している。トランボをクビにしろと脅しに来た大手映画制作会社の重役をバットを振り回して撃退したのには迫力があった。

 極めつけは、映画同盟や在郷軍人会の切符の不買運動とデモの中、『スパルタカス』を鑑賞し、出てきて「感想? 良い映画だね。きっと大ヒットするよ!」とコメントしてブラックリストの終焉を政治的に宣言したジョン・F・ケネディの実物だった。下院非米活動委員会の一員でもあった反共の闘士ニクソンの時代は終わったのだ。(つづく)


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その32/名残の雪 −

3月21日、お彼岸の中日、夜明け前あたりから雪が降り出しました。予報では大雪になる可能性もあるとか。桜の開花宣言が出始めた時期です。
“名残の雪”です。
ほのかに白み始めたころ目が覚め、雪はどんな具合かなと気になり2階の窓から外に目をやると、15メートルほど先にある桜の木の脇に鹿のカップルが佇んでいるではないですか。これは珍しい。餌を求めてでしょうが、二匹でしばらくじーっとしています(写真貼付)。白州に移住してきてから何度か鹿は見ましたが、大体が車の音に驚いて逃げまどうことばかりでした。今回のように人の気配を察することなく、じっとくつろいでいる風に見える鹿を見るのは初めてです。何とも言えない静寂とゆったり感と親しみを覚えるしばしの癒される素敵な時でした。
季節はずれの雪で我が家の猫も縮こまっています。朝の内にストーブ用の薪を部屋の中に運び込み、一日中火を絶やさないように準備。この冬用の残りの薪もあとわずかになってきました。ぎりぎりもつかな・・・。
雪はそのまま一日中降り続けました。お昼頃で10cmくらい積もったでしょうか。水分を多く含んだ重い雪です。この時期の雪は重く、溶けやすい。
夕方5時位に雪の降り続ける中、我が家から5分ほどで行ける温泉に行きました。“白い世界”を楽しもうと、少々寒かったのですが雪の舞う露天風呂に入りました。辺りは雪、雪。祭日ですが、雪のせいでお客はまばら。ゆったりできます。久し振りにのんびりした気分になり、これぞ“名残の雪”なんだなーと浸っているうちに“イルカ”が歌ってる「なごり雪」のメロディーがふと頭をよぎります。
  汽車を待つ君の横で僕は
  時計を気にしてる
  季節はずれの雪が降ってる
・・・・
歌詞ははっきりとは思い出せないのですが、何となく口ずさみたくなるいい雰囲気。“独りの世界”に入っていました。額や頬にあたる雪が何とも心地よく刺激してくれます。口の中に入らないかなと顔を上に向けて口を開けるもののなかなかうまくはいかない・・・いい時間だ。
しばらくして、目下制作中の100号の絵に意識が向かいました。今日の昼間の描く作業はあまり上手く行かなかったので途中で止めていました。さて、明日はどの様に進めていけばいいかな、そうだ、春を意識した色の構成だからもう少し白味を多くしてみよう・・・。気持ちのゆったりした、良い時間です。
季節はずれの“名残の雪”は思わぬ“ゆったりした時”を与えてくれました。


◆今月の山中事情144回−榎本久・宇ぜん亭主

−落ちる−

これ迄米軍機、自衛隊機は一体何機墜落したものだろう。そしてその都度トップは「二度と繰り返してはならない」と言う。
真相の究明をする間もなく又次の事故が起き、又「二度とこのような事故は起こさせないよう徹底する」を繰り返す。真相が解ったとしても、機体の老朽化や操縦ミスを理由にして、根本的な原因は知らされない。特に、米軍側のそれは日本当局は破片一つも検証することが出来ないのが現状だ。そしていつも犠牲になるのが日本国民である。守ってあげているのだからモノは言うなというのが日米トップの考え方だとしたらやりきれない。
敗戦国の悲しさだろうが、その同調ぶりがどうしても理解出来ない。守るすべのない市民が、ある日鉄の塊が落ちて来たら逃げ惑う以外どうしろと言うのか。
少なくともその不安を与えないことが日米当局が対処しなければならないことなのだと思うが、私の目には何ひとつ国民側に配慮した方針を見ることが出来ない。それよりもあと何機墜落したら本腰を入れてこの重大さに気づくのかと聞きたい。
佐賀県神崎市で起きた自衛隊のヘリコプター事故。通称「アパッチ」と言われる攻撃用のヘリで、主に戦車を狙うヘリと言われる。一機八十億円。十三機配備されている。そのヘリが住宅地上を普通に飛んでいることが露呈した。それが今回の事故を起こした。民家の周辺には畑があるにもかかわらず、民家に墜落した。真相が解明したとしても被害者の精神的苦痛は消えない。首相は同型機の飛行停止を命じたが対処療法だ(今頃は又飛んでいるかも知れない)。
その舌の根が乾かぬ間に又三沢基地所属の米軍機F16が基地近くの小川原湖に燃料タンクを投棄した。こともあろうにそこではしじみ漁の最中であった。
日本を守る道具が日本人を襲う「モンスター」になっている。基地の公益性を理由に最高裁は住民の声を認めないのが今の司法だ。
なさけない

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「戯」です。
  サイズはA4(21cm×29.7cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。


★「はてなダイアリー」というブログでRyuの目の掲載をしています。  
  これまで発信したものは全て掲載しています。
  私のホームページにリンクしておりますのでご覧下さい。
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★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.183

春の訪れを感じる頃になりました。
我が家の福寿草も三月になって花をつけました(写真貼付)。
この花を観ると、さあ春が間近だと感じます。
あとひと月もすれば神代桜が満開の頃になります。
この神代桜の末裔とのふれ込みの我が家の桜も芽吹いてきました。

●あれから丸7年。明日はあの“3.11”、忘れまじ。

行動美術TOKYO展には多くの知人・友人に観に来ていただけました。
懐かしい友の顔もありました。
私は3月1〜3日まで美術館にいました。お会い出来なかった方には改めて感謝申し上げます。
今回出品した作品は今月のRyu ギャラリーで紹介します。
また、4月16日(月)〜21(土)の銀座のギャラリーで催されるグループ展に出品致します。
追ってまたご案内致しますが、ご都合のつかれる方は是非観て下さい。
宜しくお願いします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.183》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−Artificial Intelligence (AI) について−

今朝、2月4日の日曜日、NHK日曜討論では、「AIの問題点と将来」について話合っていた。世界に於けるAIに関する論文の数は、アメリカとイギリスが一位と二位を争い、その他のローロッパ諸国が上位を占め、例外としてアジアからは中国が4位であったと記憶する。日本は10位で世界全体の論文数の3%強を占めるのみであった。アメリカは全体の37%であったように記憶している。普通なら、日本が10位だった理由は日本人の英語力(書く能力)の問題に違いない、と判断してしまうのだが、日曜討論を聴いていて、いや待てよ、と感じた。そこで、アメリカで出版された英英辞典を二冊引き出してきて調べてみた。Intelligence の意味をである。両辞書共殆ど同じで、(1)第一義が学習力(Ability to learn) 、(2)第二義は理解力(Ability to understand)であった が、日曜討論の出席者は全員が「人工知能又は人工頭脳」と言っていた。
学習力や理解力は、単なる知能でもなければ頭脳でもない! 寧ろ「応用知力又は応用脳力」であり、これでは日本語としてピンと来ないので、「知識を増やし修正して応用する力」と言えばピンと来る。私の語彙では、「知性」がIntelligence に最も近い。知識の量ではなく、得た知識をどうするかという質と応用の問題だ。
日本の現状を凝視すると、大学入学試験に必要な知識を詰め込む大学受験予備校が、日本の教育姿勢を象徴しているようで、考えさせられてしまった。
先生も学生も「知識」を詰め込んで記憶していれば試験の及第点は取れると考え、それで良しとしているのだろうか。大学も予備校も一クラス50人位の学生数で、「知性」が教育できると考えているのだろうか。知識を自分のものとして把握し自分の意見構築に役立てていく力を「知性」と私は定義する。
日本の学生が意見を述べず、社会に出て会社員になっても自己を表明したが
らない日本人の性向は、学生時代に育まれたと考えると、腑に落ちる。日本人は「和」を保つために議論をしたがらない、と言う人が多い。これは、明らかに江戸時代の文化賞賛である。確かに「和」が必要な時は頻繁にある。これは日本だけではなく、世界的に言える。しかし、「和」が必要なのは、「和」が壊されて意見の一致が見えず、争いが起きる時である。しかし、「和」よりも個性のある(他人と異なる)意見や、創造的(他人とは当然異なる)考えや、時には、危険を冒しても必要な意見の表明が成されなければ問題が起きたり、問題が解決しない時がある。特に国際的には、このような事態をしばしば経験する。北朝鮮問題や米国のTPP脱退などの際に経験したと考える人は多い筈だ。
以上のような話を日本企業の社長さんにしたら、「その通りで、日本の会社は、欠点矯正型であり底上げ型です。能力のある人を伸ばしていく型ではありません」と言われた。この的確な説明に驚くと同時に納得したのである。
意見の無い人を引っ張っていく意見のある人を、英語では mind-leader と言い、逆に引っ張られるだけで意見の無い人をweak person (follower)と言う。勿論どちらも程度問題であるが、「和」だけを追求して自分の意見を表明しない人は、英語圏だけに限らず、どの文化でもweak person だ。日本でも然りである。 
謙遜な人や上品な人で、余り自我を張らない人も当然いることは、筆者も承知している。
従って、「人工知性」の難しさは、技術的なことよりも寧ろ、文化的相違による価値観の違いの重要性を理解して、如何にこれをAI (人工知性)に注入(教育)するかにかかっているように考える。異文化間に於ける人間同士の相互理解の難しさと同じである。即ち、AIを人間のレベルまで引き上げることの難しさが、問題の中心課題と云える。
以上のことに関しては、今朝の日曜討論会では、1人も気が付いていなかったか、難し過ぎて無視したのかのどちらかであろう。もし技術的課題だけが問題なら、チャップリンによる1936年製作映画のモダーン・タイムスの中で中心課題として既に暗示されていた。より突き詰めると、結局は、「人間が欲するのは何か」、へ帰結する。今朝の討論会の出席者の中には、哲学や倫理の専門家もいたので、中心課題が人間自身の問題であることを認識していた人もいた筈である。もしそうなら、NHKや司会者側の問題意識の低さだったのかも知れないし、Artificial Intelligence を「人工知能」と言う通常の訳に甘んじていたことを考えるなら、やはりNHK側の問題であったのかも知れない。ところで、「人工知性」は既に応用されていて、将棋や囲碁の世界で活躍している。しかもプロは、
人工知性から種々の新しい作戦を教わっている。人と人、人と人工知性、人工知性と人工知性、などの組み合わせで相互教育をするなら、その進歩の広さと速さは只ならない結果を生むだろう。質の改善や改革が将棋や囲碁の世界では既に進行中であり、遅かれ早かれ他の分野にも波及するであろう。

2018年2月4日 日曜討論に触発されて、 岸本雄二、クレムソン大学名誉教授



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 3.11の痕跡 −

先日、ある抽象画家の展覧会がありました。その画家は宮城県在住の方で、あの“3.11”(東日本大震災)を経験されました。
それまでは水平線と円弧による構成の抽象画で、「大自然の大きな摂理の中で人間の営みは塵のようなもの」という世界を水平線で観念的に表現してきた。
だから“3.11”は自分のような抽象画には影響はないと思っていたと仰ってました。
が、“3.11”以降、時が経つにつれて、自覚しない内に何かが変わってきた。
大地がうねり、平らな海が立ち、渦となって迫る様を目の当たりにし、以前のように平安な水平線は最早表せなくなった・・・と。
画家のこころの中に深く刻まれた様(さま)でした。

私は東京にいて“3.11”を経験しました。それまでに経験したことのない異常な揺れに恐怖を覚えました。テレビでは濁流が押し寄せ、拡大する様を映しだしていました。今進行している現実とは思えない光景が繰り広げられていました。
その後私はもっぱら山梨での生活に入っていきました。東京にいる頃は、公園、庭園などの造られた自然を眺め、追い求めてきました。人工環境の中に少しでも心安らぐ自然らしきものをと。
眺める自然・・・3.11以降、山梨での生活はこの“眺める自然”が欺瞞ではないかとさえ感じるようになっていきました。自然は眺める対象ではない。
その中の小さな存在として、その中の小さな一員として、人間は育くまれていることに気付かされました。それは時に過酷な試練を人間に与える。でもその恵みで人間は生きている。以降、それまでの都会生活で無意識に避けていた虫や泥や微生物の営みに親近感さえ覚えるように変わっていきました。

私の絵にはこの一、二年の間に山々、水平線、地平線が織り込まれてきました。
それは、“大地”の表象だけではなく、この広大な大地のなかで存在出来ていることの意識の表象でもあります。それは安寧なだけの世界の表現ではなく大地が裂けるような苛烈な自然をも“自然”なのだと受けとめる思いを込めてのものです。私の意識の変化だと感じています。
そして最近気付いたのは、風景画家はその風景の美しさなりを只々描くのではなく、実は自分の目で風景を描くことを通して人間の存在のあり方を問うているのではないかと。

今尚仮設住宅で暮らして居られる方も多い。自然が荒れ狂い、原発のもたらした恐怖は忘れ去られ、まるで日常生活に関係が無いかのように日常が過ごされていく。が、心のどこかにその痕跡があるはずなのだ。


◆今月の山中事情143回−榎本久・宇ぜん亭主

−寒波と鰯−

この一月、二月の寒さには本当に堪えた。秩父は山峡の町である。土地の人は「秩父谷」とそのことを表現している。その谷を遠くシベリアで生まれた寒波が襲って来て、皆を震いあがらせた。炬燵を出れば足元はすぐ冷える。暖かいものを作ってもすぐ冷める。ふとんに潜っても冷気が差し込む。湯たんぽを抱いて、なんとかこの寒さをしのいで来たが、気の毒なのは新潟、北陸地方を中心とする日本海側の方々だ。その大寒波をまともに受け、市民生活は機能不全となった。あの波状攻撃にはとにかく耐える以外手はなかった。思えば、新潟は昨年からずっと天候の異常さが目立った。
豪雨、熱波、寒波、豪雪と、これでもかといわんばかりに立て続けに起きた。
自然災害の猛威に只かわいそうにと言うしかなかった。その間新潟方面がおだやかな日の時は無性によろこんだものだった。
それにしても、あれほどの豪雪地帯にもかかわらず、あれほど多くの人が暮らしているのは世界的にみても希なことだと言う。彼等は豪雪と闘い、豪雪を利用するいろいろの知識を身に付けた故、多くの人がそこにいる証なのかと思った。
寒天、高野豆腐、凍み大根、寒晒し(そばの実、粉、唐辛子などを冷気に晒す)などのほか私の知らない諸々のことがこの寒さを利用して行われるのもこの時期である。そのことをものともせずいそしむのだから脱帽である。凄い!
そんな折、青森の陸奥湾に大量の鰯が打ち上がったと報道があった(2/1)。
海水温が以上に冷えたからだとのコメントだったが、私は「ん?」となった。
陸奥湾だけなぜ異常冷海だったのかと思ったからだ。それであるならば、北海道や日本海側の鰯も同じ目に遭っても不思議でないからだ。しかしそれは無かった。もう一つのコメントは、大きな魚に追われ、陸奥湾に逃げ込んだ鰯は逃げ道を失って打ち上がったのではないかという説。私はその見方が妥当と思った。
そして私はちょっとひねくれて考えた。人間一網打尽にされ、柊(ひいらぎ)に刺され、人間の安泰の為の飾り物にされるより集団自殺を選んだ方がましだと考えた行動だったのではと・・・。
それにしても鰯達はあわれだった。一時は大群を成して大きな魚を追い払おうとしたであろうが、逃げ場を失い散り散りとなり、いたしかたなく浜に上がったのか。それを思うと不憫でならない。厳冬の浜に累々と鰯が仮死状態で打ち上げられている様は悲しいというだけではなかった。生物の掟はなんとむごいものか。
金子みすず」」の詩に大海の中で鰯の葬儀の詩がある。私はそれを思い出した。

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は行動美術TOKYO展に出品した作品で「大地の目覚め/位相・赤」
です。
  サイズはP150号で162cm×227cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.182

2月になりました。
寒さが続きます。春はまだかな?

アメリカの核戦略指針に追従とは・・・・。
この政権はどこまで追従するのでしょうか。

行動美術TOKYO展、ご都合つきましたらご覧下さい。
3月1日〜7日、上野の東京都美術館にて。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.182》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

−映画「バートン・フィンク」と脚本家−

現代アメリカの最も優れた映画監督・脚本家であるコーエン兄弟の作品に「バートン・フィンク」(1991)がある。コーエン兄弟は80年代から製作を始めたが、この作品で、カンヌ映画祭パルムドール、監督賞、男優賞の三冠を獲得、一気に檜舞台に躍り出た。彼らの映画はハリウッド好みではない。続く「ファーゴ」(1996)と「ビッグ・リボウスキ」(1998)、これら初期三部作でもたっぷり楽しませてくれるのだが、有名な「ノーカントリー」(2007)になると、それはもう身の毛のよだつ、シュールレアリズムの極致に誘ってくれる。

それはともかく、この映画は、40年代初頭ニューヨークの劇作家バートン・フィンクがロサンゼルスの映画製作会社社長に招かれ、B級映画の脚本を頼まれ悪戦苦闘し、予想もしない展開に巻き込まれる話だ。映画が無声映画時代を終え大衆娯楽の柱になっていく時代、資金を用意し、投資する製作会社・プロデューサーと製作現場、脚本家、監督、俳優、スタディオ運営、カメラ、照明などの技術者たち、これらの間の分業・協業関係が形成され始める時代だった。

アメリカ映画産業草創期には舞台芸術分野の影響と言うより、劇作家(演劇では劇作家または戯曲家と言われる)の協力は不可欠であった。「協力」と言っても綺麗事ばかりではなく、「バートン・フィンク」で描かれているように、ドルを持った製作会社が脚本を買い叩き、一攫千金を狙う、と言うケースは珍しくなかった。ニューヨークに集まった劇作家たちにまずは小遣い稼ぎの機会を提供し、さらに運が良く当たればそれで生計が立てられるまでになることも珍しくはなかったのだ。
製作者が脚本家に提示するものも「イメージ」程度のものでしかないことが多く、それが脚本家のセンスに合わないものであれば最初からまとまりようがない。
低い報酬で集められた複数の脚本家に個々別々に書かせ、撮影開始直前に全員解雇、新たに雇った脚本家にこれらの本をまとめさせ、まったく別物をひねり出してクランクインする、というようなことも行われた。
控えのホテルで書かせながら撮影が同時進行する、ということもあったらしい。

脚本家について書き始めたのは、脚本家の仕事を抜きに映画は語れないし、私が続けようとしている「映画の旅」は、監督が演出し俳優が演技する場を作り上げる脚本家(つまり「作家」である)を軸にして叙述しなければ、と考えたからなのだ。日本では、ある映画作品について語る場合、俳優や監督の名前は知られていても、脚本家を知る人は少ない。
舞台が劇作家がいないと演じられないことは理解されても、意外なことに映画は俳優と監督で作られるもの、と誤解されているようなのだ。映画も大衆娯楽的な要素が強いとは言え、表現芸術の一つである。特に草創期の舞台芸
術との関係を知れば、可能性に満ちた魅力ある分野だから才能のある若者が多く集まった。

歴史的事件として知られているが、1947年から1960年まで、アメリカ映画産業に癒えない傷を残した赤狩りの嵐が吹き荒れた。チャップリンの「国外追放」(彼は英国籍で、国務省が彼の再入国禁止を決定していた)はこの嵐の前夜の事件であった。赤狩りは脚本家を中心に多くの映画人を巻き込んだ。資料を整理していて驚いたが、私が過去楽しんだ殆どの映画がその被害に遭った映画人の作品だった。 当時パージされた多くの優れた脚本家たちは、偽名で作品を発表したり、赤狩りに同調しない製作者・監督たちが脚本家の別名で作品を世に出したこともあった。
「credit」という言葉があるが、もともとは「謝辞」という意味で、映画の最終画面でプロデューサー・ディレクター・俳優・各種技術者の名前が表示されるものだ。2000年以降、赤狩りの時代の多くの作品の本当の作者は誰なのか、全米脚本家ギルド(WGA:WritersGuild ofAmerica)が中心になって、膨大な聞き取りや調査を積み上げている。このような事実に対する執着と執念が歴史について真剣な姿勢を育てていくのだろう。

「1960年映画の旅」は、企てた当初とは趣を変えて行った。黄昏に入った私の人生を彩り豊かなものにしてくれている、と言っても良い。 ちょっとしたエピソードも知ることができた。エリア・カザンから「エデンの東」(1955)の主役のオファーを受けたマーロン・ブランドは、カザンが赤狩りで密告者となったことに腹を立て当然にも蹴飛ばした。マーロン・ブランドのような反骨者ではなく線の細いジェームス・ディーンだったからあれだけのヒットになったのだから、カザンも諦めが付こうというものだが、それほど単純ではなかったようだ。 
もう一つ、「ローマの休日」(1953)はオードリー・ヘップバーングレゴリー・ペックで歴史的な名画となったが、エリザベス・テーラーケーリー・グラントで撮るプランが併行して練られていた、とか。 もう言葉が出ない。


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− 異次元生活体験談 −

“異次元”などとたいそうな表題でいささか恥じ入る思いではありますが、話は孫の世話体験談です。
ことの経緯を簡単に説明しますと、昨年の11月のことですが、1月出産予定の娘(次女)が仕事での動き過ぎにより絶対安静を医者に申し渡され、急遽入院することになりました。そこで問題となったのが保育園に通う3歳の孫(男子)の世話をどうするかということでした。我が家族では妻、三女、私の三人の交代で対応することにしましたが、諸般の事情からまずは身軽に動ける私が娘家族のいる東京にということになり、これには本人(私)もさることながら周りの不安も察せられるところではあります。

私の若き頃は“マイホーム主義”なる言葉が流布し定着し始めた頃でした。私生活を優先させるという生活意識ですが、今でこそ共働きの増えた時代環境では当然のこととなっていますが、当時の意識環境としてはやはりまだまだ“仕事第一”。そんな状況でしたから毎晩遅くになって帰宅する生活パターンで、子育ては妻に任せっぱなし。そんな訳で、自分の子供達の成長期に共に過ごした経験が少ない私は、今回のような緊急事態に於いては全く役に立たない存在です。が、致し方ありません、やるしかない!!
わたしはこの難関をはたしてどう突破出来るのか?本人が一番不安。

11月半ば、まずは三人で東京に乗り込み、風邪気味で保育園を休み、ママの緊急入院で気持ちが不安定になっている孫に相対することになりました。パパに我々三人が加わって賑やかとなり孫も気が紛れているようでした。二日間の“実習”(?)を終えて家内と娘は山梨に帰り、さあそれからの一週間、私一人での実践が始まりました。私の一日の仕事は、まず孫を起こすことから始まり、朝食を食べさせ、保育園に連れて行き、帰ってから掃除、洗濯、買い出し、夕食作り(夕方の保育園のお迎えは原則パパがやります)という、私には超ハードな任務。このうちの難関は「朝」と「夕」です。「朝」は目覚めから保育園に連れて行くまで、「夕」は食事の支度です。日頃は東京と山梨に離れて生活しており、たまに孫達に逢う程度でしたから、生活を共にするなどとは想定外。
未知の世界に突入。

さて、孫は風邪も治り日常生活の始まりです。全てが初めてで不慣れな私はまずは初日が大変でした。父親が早朝出勤なので私が朝7時過ぎに起こします。これがまずはひと難関。ママ、パパのいない寝起きは当然のごとくご機嫌斜め。近づくと来るなと泣き出します。しばらくは放っておくしかなく、本人が近づいてくるのをじーっと待ちます。“忍耐忍耐”
やっと近づいてきたらまずはトイレに連れて行って自分でオシッコをさせ、それから慣れない手つきで着替えさせ、テレビの子供番組を見せながらの朝食開始。本人の自主性を重んじ?手を出さないで、一時間かけてのゆっくり朝食。“忍耐忍耐”
朝食が終わると、歯磨きをさせてから8時45分頃には家を出ます。出来るだけ手を出さない方針で沓はきも本人にさせます。何とか沓はきが終わり、ママチャリに乗せて保育園には9時に入ります。初めての日、保育園の場所は近くだったなーと勝手に想定していた私は、想定外の距離にルートを間違え、窮余の一策でダメもとながら孫に聞いてみると「そこをひだりだよっ」、「むこうはみぎだよっ」との指示。本当かな?と思いつつも行ってみるしかない。しばらく行くとなんとか無事保育園にたどり着くことが出来、ホッ!
いやいや、これも“忍耐忍耐”

午前中には掃除・洗濯・買い出しをこなし、午後はやっと自分の時間、一息つきます。ホッ!
1月末までに制作予定の作品の構想練りをと行く前は思っていましたが、なかなか気持ちが集中出来ず、諦め、せいぜい読書くらいです。

夕食作りは4時位から取りかかります。孫の好きそうなメニューを予め9種類ほど教えてもらい、そのうちの6種類に挑戦してみることにしました。豚汁、カレー、肉野菜炒め、煮込みうどん、肉豆腐、豚の生姜焼き、です。東京に住んでる頃は殆ど料理をすることが無く(せいぜい一年に一、二度スパイスからカレーを作ってはいましたが)、山梨に移住してからやっと少し妻の家事を手伝う程度にはなっていましたが、それでも単独での食事作りはあまりしていませんでした。ですからどんな調味料を組み合わせて味作りをするか分かりません。
ということで、ネット検索と妻からのメールによる遠隔操作で対応することにし、いざ本番。カレーや肉野菜炒め以外は初作りばかりの料理でしたが、思いの外失敗もなく、「なかなか行けるじゃん」と少々自信も。孫もパパも旨いと驚くほどの量を食べてくれました。やったねっ!
こんな生活が1週間続いた後、3日間妻と交代し再び今度は2週間の挑戦となりました。最初の一週間の経験がものをいい、対応の仕方は分かってきましたが、疲労の蓄積は限界状況なるも何とか乗り越え三女と交代。

これまでに経験したことの無い“異次元”の時間は、様々なことに気づかされました。家事を一人でこなす生活の経験があまりないばかりか、今回はこれに“孫の世話”という想像しなかった役目も加わり、いきなりハードルの高いトライヤルでしたが、やれば何とか出来た!!そんな自分を発見。
“生活すること”を実感し、畑での野菜作りに感じるような思わぬ感動を覚えた次第であります。疲れはしましたが、感性が「違う次元」で刺激されました。
3歳の子でもそれなりにこちらに気を遣うことも発見。休みの日曜日には長女家族が来て孫を連れ出してくれ、孫も大いにストレス発散!
とにかく予想をはるかに越えて何とかやりこなせ、我ながらよくやったと少々自信が芽生えた次第でした。
異次元生活顛末記。

申し添えますと、娘は1月7日に無事女の子を出産致しました。


◆今月の山中事情142回−榎本久・宇ぜん亭主

−正月考−

大寒波にて正月の余韻にひたれる間もなく二月になってしまったその寒波だけでなく、このところ「正月だ」と言う気持ちがやたらなくなった。
「正月」ということにその意識が失せて行っているのは年齢のせいなのだろうかと思ったり、いやそうではなくそれを感じさせることが身の廻りから消えたからではないかとも思う。たしかにテレビはせっせと三日間はそれなりに「正月」を醸し出す大さわぎを演出してくれてはいたが情緒はない。スーパーもデパートも然り、「正月」を煽りたて「正月」になりますよとは誘うも、その前はクリスマス、ハローウィンと煽ったあとで、只々物売りをしているだけだ。
大きな会社の前には立派な門松は見られるが、各家々の松飾りはかなりの確率で飾られていない。洋風のリースのようなものをたまに見かけるが、「正月」を祝う儀礼が消えてしまった。トランプ、すごろく、はねつき、たこあげは我が家に於いては絶滅した。孫が来ても当然のごとくゲーム機だ。こちとらはそのようなものは持ち合わせていないから一緒に遊ぶ方法もなく立ちすくむ。
「正月」をわずかに意識させられるのは、我が職業のおせち料理作りである。そしてそれに欠かせないものが「もち」だ。我々子供の頃は「もち」こそ「正月」しか食べられないものだった。
それゆえ、本当に「正月」が待ち遠しく暮れになるとあちこちで「もち」をつく音を聞き、何日かすると「もち」が食べられると楽しみにしていたものだ。が、今は「正月」を待たずともいつでも「もち」は食べられる。
ありがたみがない。それ故テレビ、ラジオから聞こえる♪もういくつ寝るとお正月♪のメロディーは空しい。
おせち料理もしかり。本来の意味を逸脱し商業本位と化し豪華さを競っている。
このことが果たして是であるのかと私は眉をひそめている。
本年も一月三日に中野にある菩提寺に行き墓参してきた。行き帰りずい分多くの車とすれ違ったが、すべての車に正月飾りはついていなかった。あの昭和の象徴のようなボンネットにこれ見よがしに飾っていた「正月飾り」は今の人には「ださい」ものとなっていた。
「正月」はこうしてそれを感じさせることが身の廻りから知らぬ間に消えていて、それによって「正月」の雰囲気がなくなったのだ。しかし誤解してほしくないのは、このことを言うのは私だけのことで、若い方々はそれぞれの思いで「正月」を迎え、充分満喫されている筈だ。又、おのおのの地方では、そこにある伝統的行事を「正月」の儀式として脈々と伝えている方々がいることも知っている。

「正月」に事件がありました。
元旦に神棚にとある盃でお神酒を捧げた。四日にそれを下げた時、お神酒が無くなっていた。なんと神が飲み干してくれていた。まさにイタリア映画「マルセリーノ、バンビーノ」(邦題:汚れなき悪戯)の日本版かと思った。盃の裏を見た。
うっすらと漏れていた。釉薬のかかっていないところがマッチ棒位あり、その辺りが浸みていた。それが三日かけて盃を空にしたもよう。
だが、大事なのは、一瞬でも神が降臨してお神酒を干してくれたのだと考えたことは、それはそれで素直によろこんでもよいのではなかろうか。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め/位相2018」 です。
  サイズはP50号(80.3cm×116.7cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

2 (注の注) カズオ・イシグロを英語で読もうと思ったところ、洋書はアマゾンでもやたら高い。しかしKindle版(電子書籍)は何と100円!

スマホKindleアプリを入れて買ってしまった。図書館有料化の案もこれに負けるのか? 饅頭怖い、アマゾン怖い。



◆今月の隆眼−古磯隆生
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   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 移住生活・その31 −

2009年5月に移住して以来、山梨で9回目の新年を迎えました。
気持ちはすっかり山梨人間か。

さて、今年は例年より寒くなるのが早いように思います。この時期の畑はタマネギ、ニンニク、エシャロットの越冬のみで、他は5月まで休耕です。越冬する野菜の追肥は2,3月ころで、収穫は5,6月ころです。この間の畑作業はあまりありませんが、5月植え付け用の苗を育成させる作業は2月頃から徐々に始まります。
この数年天候不順が続き、我が畑の野菜収穫はなかなか思うように行きませんでしたが、それでも昨秋物は前年に比べて何とかましでした。と言ってもダイコン、白菜、サツマイモです。一昨年は植え付けの時期を失してしまい散々な出来でしたので、昨年は少し早めに植え付けをしました。しかし、例年に比べて冷え込みが早く、その影響は成長具合に如実に顕れました。野菜に限らずでしょうが、自然界は天候に非常に敏感です。鈍感なのは人間だけかも知れません。

昨年は種の育成からの挑戦を試みました。それまでは種苗店で苗を購入して畑に植えていましたが、それなりの費用が掛かるのと、種からやってみたいとの気持ちが芽生え試みることにしました。種苗店で買った種は別として、前年の収穫物からとった種はネギ、トマト、キュウリ、オクラ、ゴーヤ、ピーマン、花オクラでしたが、結局発芽したのはネギ、トマト、花オクラのみで、F1種の物はやはり殆どが発芽せずダメでした(キュウリだけ1本芽が出ました)。

花オクラの種は初めてで、知り合いから送ってもらったのですが、気温がなかなか上がらなかったせいか芽を出したのは3本だけで、それも成長が遅く夏も後半になってやっと成長を始めました。9月位から花も順調に咲くようになり、10月始めまで毎晩花を食しました。オクラの香りと粘りと食感の味わいはとてもいいものでした。種もとれたのでこの夏も楽しみです。
昨年収穫した松本一本ネギの種は冬に芽を出させ、5月に畑に植えましたが順調に成長し、我が食卓を楽しませてくれました。
今年も種からの育成に挑戦です。いずれ自分なりのノウハウが・・・を期待して。

自然は様々な表情を見せます。畑をやってるとそのことをよく実感するのですが、季節の変化は当然としても、ちょっとした天候の変化、わずかな気温の変化にも反応します。
そのことがまた限りなく感性を刺激します



◆今月の山中事情141回−榎本久・宇ぜん亭主

−まんじゅう−

 日輪の大きな丸や初明かり   ひさし

年頭にあたり、本年もよろしくお願い申し上げます。
正月ですので鏡餅のようなまあるいおまんじゅうのことを本年一番目の山中事情とさせていただきます。

「まんじゅう」と言えば、甘い「あん」が入っているものと青年期まで思い込んでいました。ホテル時代に中華料理の厨房で見た「肉まん」を知るまで、「まんじゅう」は甘い「あん」が入っているもの以外はないと思っていましたので、「肉まん」を初めて食べた時は、あまりおいしいという実感はなかった。
「肉まん」は中華料理の一つですが、それまで中華料理と言えばギョーザ、チャーハン、ラーメンと限定する位乏しい知識しかありませんでした。長じてホテルに入社し、中国料理の厨房を垣間見たその料理の数々に驚いたことは当然でありました。

●横浜中華街で一個五〇〇円の「肉まん」を買いました。横浜に住む二男の嫁のオススメの肉まんだったが、どう身贔屓しても、申し訳ないがおいしいとは思わなかった。それなら日頃スーパーで買っている三ヶ入り四〇〇円の方が私の口には合っていた。中華街だからと言ってすべておいしいと思ってはならないことを知らされた。(あくまでも個人的見解)

●関越道三芳パーキングエリア下り線側に「肉まん」の引き売り屋の車が止まっていた。呼ばれたごとくその車に寄って「肉まん」を買った。空腹だったので味は期待しなかった。が、私は間違っていた。なんと好みの味だった。もっと欲しいと思えど、すでに車中である。それも高速道路だ。Uターンは出来ず、あきらめた。一年後又寄ってみたが、そこにはその車はなかった。店舗営業でなかったので、その日だけのスポットだったか。残念。

●「肉まんに社運をかけました」という大層なキャッチフレーズを流したコンビニをテレビで見た。いつの間にか肉まん嫌いが肉まん好きになっていた私は、そのキャッチフレーズに反応した。社運をかけるほどの「肉まん」とは尋常ではない。何ほどのものかとそのコンビニに飛び込んだ。店員に「社運をかけた肉まんを下さい」と言ったのだが、きょとんとしている。私の顔をけげんそうに見て「これですかねえ?」と蒸し器の中の三、四種を指差す。アルバイトゆえ社長が言ったことなど知らないのだろう。突然奥に行って上司に聞いて来たのか「やはりこれ
だそうです」と又蒸し器のそれを指差す。その三種を買い「社運をかけたのだからきっと旨いよね、旨かったら又来ます」と言って来たのだが、未だ行っていない。答えは「社運をかけた」形跡が見当たらないからである。
結局、例の引き売り屋の肉まんがいかにおいしいか再認識した。
このコンビニの戦略を考えてみた。「社運」というコピーを流せば、私のようにすぐ反応する顧客が大勢いて期待を持つ。とりあえずは売り上げ増につながり、次の展開も考えられる。私のように次は買わない客と又買う客に分かれるが、そのコピーは「おいしい」とは言っていない。だが客は「おいしい」を求めている筈だ。やられたのである。
肉まん三題でした。

正月です「肉まん」も「鏡餅」もまん丸です。この年が円満な世の中でありますことを祈念しています。

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「落」シリーズです。
  サイズはB3(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

1 最近のニュースで文芸春秋の社長が「文庫本を図書館に置かないでほしい」と要望しているとのこと。最初はとんでもない話だと思ったが、出版文化を守るためにはそういうことも必要かもしれないと思うようになった。 拙案:図書館が一冊50〜100円の貸出料を取って出版社と著者に支払うというのはどうだろうか?

蔦屋の店がアマゾンに食われてどんどん減っているという。書店が減るのは良くないと思い、店で面白そうな本を見つけたらなるべくその場で買うようにしている。外れも多いが。