★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.192

師走。後三週間もすれば今年も終わります。
みなさん、どんな一年でしたか?
北杜市の黄葉を見て回る機会が持てなかったので、先日、所用で東京に向かう途中、大月市猿橋(日本三奇橋のひとつ)に立ち寄り紅葉を楽しみました。
(写真貼付)

どうぞ良い年の瀬をお迎え下さい。
今年もRyuの目をお読み頂き有難うございました。
皆様からの投稿をお待ちしています。
来年も宜しくお願いします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.192》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

テオ・アンゲロプロスと「ギリシャ現代史三部作」−

燃料税に抗議する「黄色いベスト運動」がフランス全土を席巻し始めて一ヶ月も経っていない。「左でも右でもない」と登場した元社会党エマニュエル・マクロン大統領の化けの皮が剥がれたのだ。彼こそ、大衆増税と法人減税を「規制緩和」の財政的基礎に据える「富裕層の代理人」に他ならない。デモ規制の警察官による運動への消極的支持もあってなかなか「秩序が回復されない」という事実は、当然日本では報道されていない。半世紀前の「パリ五月」の再来と言われるには理由がある。
ヨーロッパを覆う富裕層の寡頭支配がほころび初め、国家でさえ手が届かなくなったヨーロッパ中央銀行ECBという怪物への反感がくすぶっている。イギリスのEU離脱騒動もこの序曲を構成している。ヨーロッパはリベラルな民主主義の大陸、というのはフィクションに過ぎず、現実には階層序列システムが機能している。真っ先に弱小国が追い詰められ、これら諸国で歴史の浅い民主主義的システムが破壊されていく。2010年のギリシャ危機は記憶に新しい。以降ユーロ圏の危機は収束するこなく拡大の一途をたどっているのだ。

さて、今年の夏は日本ばかりで無く全世界的に酷暑が覆い尽くした。7月23日ギリシャアテネ近郊の山火事により現代ギリシャの映画監督、故テオ・アンゲロプロスの山荘が全焼し貴重な資料が失われた、と報じられた。彼が、70年代初頭に革新的な映画技法と現代ギリシャの苦難の歴史の描写の二つで衝撃に登場した、ことは知っていた。しかし、残念ながら彼の作品を観る機会はなかった。この事件に背中を押されて、彼の「ギリシャ現代史三部作」と言われる『1936年の日々』(1972年)、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)をDVDで購入し観ることになった。偶発的な契機ではあれ、私の「映画の旅」の大きな欠落部分を埋めることができた。望外の幸せと言うべきか。

ギリシャは国家としては若い。古代の繁栄が終わってから、ギリシャ人は東地中海沿岸の各地でひっそりくらしていた。オスマントルコの領土になっていたギリシャ独立運動が起こったのは19世紀に入ってからで、イギリスなどの援助で独立が達成されたのは1830年のことである。その後第一次大戦の敗戦国トルコからトルコのエーゲ海沿岸部を割譲、ここで驕ってイギリスに後押しされてトルコの首都アンカラまで攻め入って大敗北、領土を失うなどしていたが。
その内に、ヒトラーやムソリーニの手が伸び1936年にメタクサス将軍のファシズム独裁制が確立した。その後のイタリアとの対立、背後で動くイギリス、と言う状況で1941年ドイツと連合するイタリアの支配に下る。レジスタンスの始まりである。1944年10月ドイツ軍の撤退とアテネの解放、英軍の進駐、王党派勢力の伸長、チャーチルスターリンの密約によるパルチザンの排除から内戦が始まっていく。内戦終結後の1952年、アメリカの圧力によって選挙制度が改変されパパゴス将軍による右派政権が成立、これが1963年まで続くことになる。

ギリシャ現代音楽の巨匠ヤニス・クセナキスも第二次大戦中レジスタンスに加わり、戦後も反軍事政権・反英抵抗運動で国外脱出、欠席裁判で死刑判決を受けながら、パリでル・コルビジェメシアンらに師事し建築家・音楽家としての仕事を成し、1974年の文民政権成立でようやく赦免されることになった。
メリナ・メルクーリは、映画「日曜はダメよ」で1960年カンヌ映画祭で女優賞を獲得、同名の主題歌がアカデミー主題歌賞を受賞し全世界で唄われ、中学生の私の耳にも残っている。彼女は、1967年ギリシャパパドプロス軍事政権が成立すると反政府運動に加わり、国外追放され、パリでの亡命生活を経て、1981年PASOK(全ギリシャ社会主義運動)がギリシャ初の左派政権を樹立すると、アンドレアス・パパンドレウ首相の下文化大臣を務めることになった。

こうして戦後も半ばが過ぎて行く。アンドレアス・パパンドレウの政権は1989年まで続いたが、その後は中道右派の新民主主義党(ND)との政権争いが続き、2009年10月総選挙でPASOKが圧勝しアンドレアスの子ヨルゴス・パパンドレウが首相の座についた。彼はND前政権がGDP比3%台と発表していた同年の財政赤字の数値は嘘で、実際には12.7%の予想、と曝露した。(このごまかしはゴールドマン・サックスの入れ知恵だった)「ギリシャ危機」の始まりだ。政府債務がすでにGDP比100%を超えていたため、にわかにデフォルト不安が広がった。
今もくすぶるユーロ危機の第一波となったのだ。ギリシャではECBやIMFとの財政運営を巡る瀬戸際の攻防が始まる。2015年就任した急進左派連合(SYRIZA)を率いる若きティプラス首相の掲げる「反緊縮財政」=「反国民抑圧」は追い詰められたところからの不服従・抵抗に他ならず、EU圏初めて、ただ一つの「反緊縮政権」として民主主義の希望を集め異彩を放っている。これが現在のギリシャである。

アンゲロプロスの映画技法が特異なのは、(『旅芸人の記録』1975)まず「ワンシーン・ワンカット」であろう。これは、(彼の映画は屋外ロケが多いが)ギリシャの風景の中での人の動きを追うのに適している。しかも、同じ風景の中で時が移行する。1952年パパゴス将軍の選挙カーが通り過ぎると、同じシーンで今度は1939年メタクサス将軍支配下でのドイツ第三帝国情報相ゲッペルスの来訪が告げる自転車の男が走ってくる。その後別の道を1952年のパパゴス将軍の選挙カーが通り去った同じ道を1942年のドイツ軍の車が来るという具合である。
『狩人』(1977年)では、1976年のクリスマスイブに狩猟に集った富裕階級が雪の中からまだ血が生暖かい47年のゲリラ戦士の死体を発見するという始まりで戦後に続く苦渋を描いている。ギリシャと言えば青い海にさんさんと照る陽光、というのが通説的イメージだが、それはふさわしくないと考えた彼は、全て曇天下の屋外撮影をしている。
こうして生涯現代ギリシャの苦悩を綴り続けたアンゲロプロスは、2012年1月24日、撮影現場に徒歩で向かう途中、非番の警官が運転するオートバイに跳ね殺された。

2010年の夏、「ギリシャのようになるな」と消費増税+法人減税の音頭取りをした、ギリシャから遙か離れた極東の島国の総理大臣がいた。日本の政治家が概して無知・無教養なのか、シナリオを書く官僚がそうなのか、事実は両方なので全てが彼の責任ではないのだろう。「何とも失礼な」、というのが第一印象だったが、この時ギリシャが国家として会計をごまかすのを助けたのがゴールドマン・サックスで、日本の1990年平成バブル崩壊の引き金を引いたのもこれら大手投資銀行だった、という事実を知っていたのかしら。国家の財政運営が金融投資家の意向に左右されている点では日本はギリシャのはるか先を行っていると言うのに。(終わり)


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 故郷個展顛末記・その2 −

10月26日(金曜日)。
個展初日です。開館は11時、その30分前にはギャラリーに入ることにしました。初日なので験担ぎでもないのですが、ギャラリーに向かう道中にある琴崎八幡宮にお参りをすることにしました。高校時代は大晦日にこの神社にお参りしたことが何度かありましたが、その頃に比べると神社は整備され随分綺麗になっていました。個展成功を祈願し、帰ろうと階段を下りかけた時ふと脇に目が行きました。そこには“八方塞がり”の文字が書いてあります。近寄ってみると、占いの九星気学でいうところの九紫火星の人が対象と書いてあり、昭和21年2月〜22年2月生まれも対象になっています。私は昭和21年11月の生まれですので、まさにその中に入っています。いやいや初日なのに縁起でもないなー。別に占いを信じるタイプではないのですが、まっ、とりあえず“開運”のお札を求めて再度祈願してギャラリーへ。
30分前にギャラリーに着くと既に開館されており、オーナーが出てこられ、「もお、お客さんが見えてますよ」と笑顔で仰る。中に入ると下関から行動美術会員の方がご夫婦で見えてました。「前回よりもずーっと良くなっている。絵に品格がある」との評。“八方塞がり”のわりには幸先良いではないか!!
開館時間には高校の先輩に前日依頼した修正ポスターも無事届けられひと安心。
平日にもかかわらず初日とあってその後も、幼友達、同級生、先輩後輩、美術部の後輩、親戚、葉書やポスターを見て来られた方、入場者がつづきます。
午後になって地元の新聞社が取材に来ました。何とこの記者も高校美術部の後輩であることがわかりました。何だかローカルでいいなー。この日もお祝いの花が東京の知人から寄せられました。初日は県内のあちこちから多くの方が来場されました。

10月27日(土曜日)。
30分前にギャラリーへ。この日もいろんな方々が観に来てくれました。4歳の時、親の留守に二人でワインを飲み救急車騒ぎになった幼友達。家族連れで観に来て下さった方も。午後には中学時代の同級生がオリジナルブレンドしたコーヒーを持参してくれました。何とも良い香り。前回の時も持参してもらい密かに期待していましたが、早速の登場です。観に来て下さった方々もこのコーヒーを楽しんで下さいました。絵を観ながらおいしいコーヒータイム。
この日の地元新聞(宇部日報)に、昨日の取材の記事が載りました(写真貼付)。
逗留先のご主人から早速、新聞に出てる旨の連絡があり、夕方、ギャラリーからの帰り道のコンビニで新聞調達。なかなか素敵な文章で紹介されていました。

10月28日(日曜日)。
この日はギャラリーに入る前に極楽寺というお寺に寄りました。これは前々回のRyuの目で「木喰」の話しをしましたが、この時、木喰の彫った仏像がここ宇部極楽寺に遺されているのを知り、個展に合わせて是非観たいと思っていたからです。前々日にお寺に電話をするといつでも観に来ても良いとの返事。
9時頃にお寺に着きましたが、喪服の人の姿がちらほら。どうやら法事のようです。お寺の奥さんに先日電話した者と告げると、快く仏像の所に案内して下さり、その後はご住職が話しをして下さいました。木喰上人の仏像5体(写真貼付)をゆっくりと観て、法事の始まる少し前に退散。仏像の笑顔に気持ちも和らぎます。
この日も様々な知り合いや、新聞を見た人が来て下さいました。学校の美術の先生が、少し離れた光市からわざわざ観に来てしばらく鑑賞の後、子供達への教え方で困ってることや、子供達の興味のあり方の話しをしばらくしました。昔のような決まった教え方では子供達は乗って来ず、興味を惹くものから入って制作に導くのがいいみたいですとのこと。私は導入のきっかけは何でも良いのではないかと思うと伝えました。何か創作することの面白さを感じればそれでいい。そこから様々な始まりがあるはずだから。
この日から夜は宴会五連ちゃんの始まりです。例の“苦行”の始まりでもあります(前回参照)。が、愉し!!!

10月29日(月曜日)。
休日明けの中日なので今日は少ないだろうと思っていましたが、この日も30名を越える方々が観に来られました(写真貼付)。かつて宇部での初めての設計の機会に、建築工事の現場監督を担当してくれた方がご夫婦で美祢市
から。東京からはわざわざ個展を観に宇部に帰ってきてくれた同級生夫妻。
私が高校生まで過ごした社宅のお隣の先輩とは55年振りの再会。地元の画家夫妻。
今回の展覧会で感じたことは、絵を描いてる方が多かったということです。
前回、或いは前々回も観て下さっていて、それからの変化をしっかりと観て下さっていました。この日は高校時代の様々な学年の方が見に来られ、会場はさながら各学年の同期会の様相を呈していました。これもまた楽しからずや。
この日の夜は高校の美術部の先輩達が歓迎会を開いてくれました。妻、三女も一緒にフグ三昧の夜。

10月30日(火曜日)。
この日の朝、妻と三女が宇部を離れ帰途につきました。我が家の猫二匹の世話をいつまでも留守をみてくれてる姉に任せっきりと言う訳には行きません。と言う訳で、これまでお茶出しを担当してくれてた妻に代わり、同級生二人がこの日からお茶出しを担当してくれることになりました。ありがたいことです。
この日は朝から行動美術の方が光市から二人で見えました。昼過ぎ、国宝や重要文化財修復の第一人者で、地元で活動されてる日本画家の馬場良治さんも見えました。地元の美術商の方、親しい歯医者さん、同級生、先輩、関西
からたまたま宇部に来られていたご夫婦、案内を差し上げた地元の方々。
今日も同級生からオリジナルブレンドコーヒーの差し入れ。ありがたい。
午後になって奈良から同級生がわざわざ観に来てくれました。しばらく鑑賞した後、夜の私との呑み会に備えて一旦ホテルへ。閉館と同時にお茶出し担当の同級生と市のかつての中心街に繰り出し、奈良からの同級生と合流。奈良の同級生は9月の行動展も観に来てくれ、その夜一杯飲んだ仲間ですが、その時私が前日の飲み過ぎで不調だったのを覚えていて、「今日は調子大丈夫か?」と諭される始末。“苦行”の効果が試されます。

10月31日(水曜日)。
小学の頃、近所でよく一緒に遊んでいた一級下の友達が卓球仲間と来てくれました。50年ぶり位でしょうか、懐かしさが蘇ってきます。前回も観に来て下さった方々。宇部にある美術館の主任、この日もいろんな方が来場下さいました。
明日の最終日を控え、大きな作品の搬出が気になっていました。山梨から送ってもらった運送会社の宇部支店に数日前に連絡し、その扱いについて連絡待ち状態だったのですが一向に連絡がないのでこちらから連絡すると、絵の描かれた木製パネルは扱わないとの回答。それは困る、送ってもらったんだから責任持って送り返して欲しい旨伝えると、じゃあ山梨の甲府支店の方から宇部支店に電話するよう伝えてくれと言う。甲府支店に事情を説明し、宇部支店を説得して欲しい旨を伝える。その後数時間連絡が無く、午後遅くになってやっと甲府支店から連絡が入り、以前、宇部支店で絵を扱ってトラブルになったらしくビビッている。何があっても文句は言わないと一筆を入れ、荷物は自分で梱包して宇部支店まで持って行くこと。宇部支店で梱包状態をチェックしてから引き受けるかどうか判断するとの回答。これには唖然。責任ある企業の体を成していない!宇部支店のこの運送会社には頼まないことにし、額縁を手配してくれた画材屋さんに相談したところ、自分の所の荷物を扱ってくれる別の運送会社に頼むことにしましょう。但し、絵とは絶対に言わないで、ただただ木製パネルで通すから了承してほしいとのこと。最近は、絵と言うと扱ってくれないらしい。
この点、関東の業者さんはまだ融通が利くので有り難い。ということで一件落着、ホッ!
この日印象に残ったのは、一人で観に来られていたご高齢のおばあちゃんがしばらく鑑賞されていましたが、そっと私に近寄ってこられ「私は体調が良くはありませんが、今日は絵を観て元気が出ました。ありがとうございました。またこの次を観せて下さい」と話されました。このような反応は予想だにしていなかったことで、驚きと同時に凄く嬉しい気持ちなりました。
今回は赤を主色とした絵が多かったせいか、元気をもらいましたと仰る方が何人かいらっしゃいました。ただ自分の為に描いてるに過ぎないので、その絵を楽しんでもらえればとは思っていましたが、そのことで他の人が元気な気持ちになれたと言われ、これは喜びです。
この日は搬入・展示を手伝ってくれた高校の同級生の家に泊まることになっていて、閉館時に迎えに来てもらい同級生の家に向かったのですが、かつての中心街からは結構離れている地域でしたが様々な大型店舗が並んでおり、
宇部も随分拓けたものだなと感心。
かつての中心街が寂れ、離れた所に大型店舗が建ち並ぶ光景はどこの地方も同じような現象です。
夕方には同じく手伝ってくれた他の同級生も合流し、深夜まで。
いよいよあと一日。

11月1日(木曜日)
さあ、最終日。
この日もいろんな方が観に来られ、1週間が順調の内にあっという間に過ぎた感があります。何故だかこの日は時間の経つのが早い感じ。
最終日なのでいつもより1時間早く、4時になり閉館。すぐさま片づけ搬出作業に入りました。搬入時と同じメンバーが手伝いに揃ってくれました。絵を求めて下さった方が数名閉館時間に合わせてわざわざ取りに来られ、嬉しそうに持ち帰られました。配送する売れた作品とそれ以外を仕分け、手際よく梱包が進みます。大きな作品はこちらの梱包が終わった頃に画材屋さんが取りに来てくれ、文句が出ないように梱包し直してくれるとのこと。我が家へ送り返す小作品等は段ボール箱に入れ梱包修了。クロネコ宅急便が時刻通りに来てくれ、6時には全ての搬出作業が終了しました。お世話になったギャラリーのオーナーにお礼の挨拶をし退散。
山梨から宇部のギャラリーに絵画を送ってくれた運送会社の宇部支店が返送に応じてくれないというハプニングもありましたが、無事配送関係も処理でき、夜は逗留先のご夫妻の呼びかけで、助けてもらった方々を含め10名程で中心街にあるお店で打ち上げ。
“苦行”も解禁して大いに飲み、久し振りのカラオケ三昧でした。

今回の個展はとても楽しく、毎日20〜30名の方々が観に来て下さいました。
前回、前々回も来て下さった地元の一般の方々が今回も沢山みえ、「絵が大分変わりましたね、今回はいいですね、元気をもらいました。次回も是非」と。
また絵を描いてる方々からもやる気が出ました有難うございましたと。
観に来られた方々には非常に好評で、絵を求めて下さったお陰で赤字にならなくて済みました(これ重要!)。
楽しい一週間でした。お世話になった方々に感謝、感謝です。


◆今月の山中事情152回−榎本久・宇ぜん亭主

−陰影−

一撃をくらったような記事を見つけた。
谷崎潤一郎が記した『陰翳礼賛』なる本がある。建築や庭、器、食事、歌舞伎、能そして化粧まで及ぶ幅広く、奥深い話しが散りばめられた話が書かれた本という。「この國の文化は陰翳のなかで培われたのだからこれ以上明るくしないでほしい」と言う警鐘を込めた本です。
漆器の椀のいいことは、まずその蓋を取って口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に容器の色と殆ど違わない液体が音なく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持ちである。人はその椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いてるので、そこから湯気が立ち昇りつつあることを知り、その湯気が運ぶ匂いに依って口に啣む(ふくむ)前にぼんやり味わいを豫覚(しょうかく)する。
その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れた出す西洋流に比べ、何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。』漆の椀に対し、谷崎はこんなこだわりをもって食事をしていたことにおそれ入る。
作家の鋭い観察力に対し作り手も渾身をふりしぼる。同書の後半で谷崎はパリから帰った人物の話として「陰翳」の功徳を紹介している。
『欧州の都市に比べると、東京や大阪の夜は格段に明るい』という話しを紹介している。『恐らく世界じゅうで電燈を贅沢に使っている国は、亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だ』これが昭和初期の巴里帰りの友人の感想なのである。
また同書にはアインシュタイン博士も大阪に案内されたときのエピソードが出てくる。汽車の窓外を見て、アインシュタイン博士が『あゝ、彼処に大層不経済なものがある』と言ったのは、電信柱か何かに白昼から電燈のともっているのを指したらしい。
この国が陰翳に鈍感になって来たのはどうも最近のことではないらしい。
谷崎の文章は続く。
『どうも近頃のわれわれは、電燈に麻痺して、照明の過剰から起こる不便ということに対して案外無感覚になっているらしい』待合、料理屋、旅館、ホテルなどが電燈を浪費していると指摘。四隅の影をなくすほどの照明には日本美を感じないだけではなく、暑い。明るいうちから過剰に照明されてしまうから涼しさを感じないというのである。「陰翳礼賛」は「まあどういう具合になるか、試しに電燈を消してみることだ」と勧めて終わっている。
平成三十年九月十六日(日)東京新聞 玄侑宗久氏「うゐの奥山」より抜粋


昭和の初期に、我が国に於いて「あかり」の弊害を唱えられていたとは思いもよらず、文明の象徴だった電燈は我が家に於いては決してそうは思われなかっ
た。いわゆる裸電球と呼ばれたそれは、たしかに熱く、よく芯が切れ、どこの
家にもストックされていた。昭和が終わり平成の今、夜景を見ると、只きれい
と思うだけで良いのかとも思う。「あかり」は幸福や平和の対価でもあるので
フクザツな気持ちになる。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 
今月の一枚は個展に出した作品で「煌」シリーズです。
  サイズはA4(29.7×21cm)です。
  (アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。