★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.183

春の訪れを感じる頃になりました。
我が家の福寿草も三月になって花をつけました(写真貼付)。
この花を観ると、さあ春が間近だと感じます。
あとひと月もすれば神代桜が満開の頃になります。
この神代桜の末裔とのふれ込みの我が家の桜も芽吹いてきました。

●あれから丸7年。明日はあの“3.11”、忘れまじ。

行動美術TOKYO展には多くの知人・友人に観に来ていただけました。
懐かしい友の顔もありました。
私は3月1〜3日まで美術館にいました。お会い出来なかった方には改めて感謝申し上げます。
今回出品した作品は今月のRyu ギャラリーで紹介します。
また、4月16日(月)〜21(土)の銀座のギャラリーで催されるグループ展に出品致します。
追ってまたご案内致しますが、ご都合のつかれる方は是非観て下さい。
宜しくお願いします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.183》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−Artificial Intelligence (AI) について−

今朝、2月4日の日曜日、NHK日曜討論では、「AIの問題点と将来」について話合っていた。世界に於けるAIに関する論文の数は、アメリカとイギリスが一位と二位を争い、その他のローロッパ諸国が上位を占め、例外としてアジアからは中国が4位であったと記憶する。日本は10位で世界全体の論文数の3%強を占めるのみであった。アメリカは全体の37%であったように記憶している。普通なら、日本が10位だった理由は日本人の英語力(書く能力)の問題に違いない、と判断してしまうのだが、日曜討論を聴いていて、いや待てよ、と感じた。そこで、アメリカで出版された英英辞典を二冊引き出してきて調べてみた。Intelligence の意味をである。両辞書共殆ど同じで、(1)第一義が学習力(Ability to learn) 、(2)第二義は理解力(Ability to understand)であった が、日曜討論の出席者は全員が「人工知能又は人工頭脳」と言っていた。
学習力や理解力は、単なる知能でもなければ頭脳でもない! 寧ろ「応用知力又は応用脳力」であり、これでは日本語としてピンと来ないので、「知識を増やし修正して応用する力」と言えばピンと来る。私の語彙では、「知性」がIntelligence に最も近い。知識の量ではなく、得た知識をどうするかという質と応用の問題だ。
日本の現状を凝視すると、大学入学試験に必要な知識を詰め込む大学受験予備校が、日本の教育姿勢を象徴しているようで、考えさせられてしまった。
先生も学生も「知識」を詰め込んで記憶していれば試験の及第点は取れると考え、それで良しとしているのだろうか。大学も予備校も一クラス50人位の学生数で、「知性」が教育できると考えているのだろうか。知識を自分のものとして把握し自分の意見構築に役立てていく力を「知性」と私は定義する。
日本の学生が意見を述べず、社会に出て会社員になっても自己を表明したが
らない日本人の性向は、学生時代に育まれたと考えると、腑に落ちる。日本人は「和」を保つために議論をしたがらない、と言う人が多い。これは、明らかに江戸時代の文化賞賛である。確かに「和」が必要な時は頻繁にある。これは日本だけではなく、世界的に言える。しかし、「和」が必要なのは、「和」が壊されて意見の一致が見えず、争いが起きる時である。しかし、「和」よりも個性のある(他人と異なる)意見や、創造的(他人とは当然異なる)考えや、時には、危険を冒しても必要な意見の表明が成されなければ問題が起きたり、問題が解決しない時がある。特に国際的には、このような事態をしばしば経験する。北朝鮮問題や米国のTPP脱退などの際に経験したと考える人は多い筈だ。
以上のような話を日本企業の社長さんにしたら、「その通りで、日本の会社は、欠点矯正型であり底上げ型です。能力のある人を伸ばしていく型ではありません」と言われた。この的確な説明に驚くと同時に納得したのである。
意見の無い人を引っ張っていく意見のある人を、英語では mind-leader と言い、逆に引っ張られるだけで意見の無い人をweak person (follower)と言う。勿論どちらも程度問題であるが、「和」だけを追求して自分の意見を表明しない人は、英語圏だけに限らず、どの文化でもweak person だ。日本でも然りである。 
謙遜な人や上品な人で、余り自我を張らない人も当然いることは、筆者も承知している。
従って、「人工知性」の難しさは、技術的なことよりも寧ろ、文化的相違による価値観の違いの重要性を理解して、如何にこれをAI (人工知性)に注入(教育)するかにかかっているように考える。異文化間に於ける人間同士の相互理解の難しさと同じである。即ち、AIを人間のレベルまで引き上げることの難しさが、問題の中心課題と云える。
以上のことに関しては、今朝の日曜討論会では、1人も気が付いていなかったか、難し過ぎて無視したのかのどちらかであろう。もし技術的課題だけが問題なら、チャップリンによる1936年製作映画のモダーン・タイムスの中で中心課題として既に暗示されていた。より突き詰めると、結局は、「人間が欲するのは何か」、へ帰結する。今朝の討論会の出席者の中には、哲学や倫理の専門家もいたので、中心課題が人間自身の問題であることを認識していた人もいた筈である。もしそうなら、NHKや司会者側の問題意識の低さだったのかも知れないし、Artificial Intelligence を「人工知能」と言う通常の訳に甘んじていたことを考えるなら、やはりNHK側の問題であったのかも知れない。ところで、「人工知性」は既に応用されていて、将棋や囲碁の世界で活躍している。しかもプロは、
人工知性から種々の新しい作戦を教わっている。人と人、人と人工知性、人工知性と人工知性、などの組み合わせで相互教育をするなら、その進歩の広さと速さは只ならない結果を生むだろう。質の改善や改革が将棋や囲碁の世界では既に進行中であり、遅かれ早かれ他の分野にも波及するであろう。

2018年2月4日 日曜討論に触発されて、 岸本雄二、クレムソン大学名誉教授



◆今月の隆眼−古磯隆生
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   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 3.11の痕跡 −

先日、ある抽象画家の展覧会がありました。その画家は宮城県在住の方で、あの“3.11”(東日本大震災)を経験されました。
それまでは水平線と円弧による構成の抽象画で、「大自然の大きな摂理の中で人間の営みは塵のようなもの」という世界を水平線で観念的に表現してきた。
だから“3.11”は自分のような抽象画には影響はないと思っていたと仰ってました。
が、“3.11”以降、時が経つにつれて、自覚しない内に何かが変わってきた。
大地がうねり、平らな海が立ち、渦となって迫る様を目の当たりにし、以前のように平安な水平線は最早表せなくなった・・・と。
画家のこころの中に深く刻まれた様(さま)でした。

私は東京にいて“3.11”を経験しました。それまでに経験したことのない異常な揺れに恐怖を覚えました。テレビでは濁流が押し寄せ、拡大する様を映しだしていました。今進行している現実とは思えない光景が繰り広げられていました。
その後私はもっぱら山梨での生活に入っていきました。東京にいる頃は、公園、庭園などの造られた自然を眺め、追い求めてきました。人工環境の中に少しでも心安らぐ自然らしきものをと。
眺める自然・・・3.11以降、山梨での生活はこの“眺める自然”が欺瞞ではないかとさえ感じるようになっていきました。自然は眺める対象ではない。
その中の小さな存在として、その中の小さな一員として、人間は育くまれていることに気付かされました。それは時に過酷な試練を人間に与える。でもその恵みで人間は生きている。以降、それまでの都会生活で無意識に避けていた虫や泥や微生物の営みに親近感さえ覚えるように変わっていきました。

私の絵にはこの一、二年の間に山々、水平線、地平線が織り込まれてきました。
それは、“大地”の表象だけではなく、この広大な大地のなかで存在出来ていることの意識の表象でもあります。それは安寧なだけの世界の表現ではなく大地が裂けるような苛烈な自然をも“自然”なのだと受けとめる思いを込めてのものです。私の意識の変化だと感じています。
そして最近気付いたのは、風景画家はその風景の美しさなりを只々描くのではなく、実は自分の目で風景を描くことを通して人間の存在のあり方を問うているのではないかと。

今尚仮設住宅で暮らして居られる方も多い。自然が荒れ狂い、原発のもたらした恐怖は忘れ去られ、まるで日常生活に関係が無いかのように日常が過ごされていく。が、心のどこかにその痕跡があるはずなのだ。


◆今月の山中事情143回−榎本久・宇ぜん亭主

−寒波と鰯−

この一月、二月の寒さには本当に堪えた。秩父は山峡の町である。土地の人は「秩父谷」とそのことを表現している。その谷を遠くシベリアで生まれた寒波が襲って来て、皆を震いあがらせた。炬燵を出れば足元はすぐ冷える。暖かいものを作ってもすぐ冷める。ふとんに潜っても冷気が差し込む。湯たんぽを抱いて、なんとかこの寒さをしのいで来たが、気の毒なのは新潟、北陸地方を中心とする日本海側の方々だ。その大寒波をまともに受け、市民生活は機能不全となった。あの波状攻撃にはとにかく耐える以外手はなかった。思えば、新潟は昨年からずっと天候の異常さが目立った。
豪雨、熱波、寒波、豪雪と、これでもかといわんばかりに立て続けに起きた。
自然災害の猛威に只かわいそうにと言うしかなかった。その間新潟方面がおだやかな日の時は無性によろこんだものだった。
それにしても、あれほどの豪雪地帯にもかかわらず、あれほど多くの人が暮らしているのは世界的にみても希なことだと言う。彼等は豪雪と闘い、豪雪を利用するいろいろの知識を身に付けた故、多くの人がそこにいる証なのかと思った。
寒天、高野豆腐、凍み大根、寒晒し(そばの実、粉、唐辛子などを冷気に晒す)などのほか私の知らない諸々のことがこの寒さを利用して行われるのもこの時期である。そのことをものともせずいそしむのだから脱帽である。凄い!
そんな折、青森の陸奥湾に大量の鰯が打ち上がったと報道があった(2/1)。
海水温が以上に冷えたからだとのコメントだったが、私は「ん?」となった。
陸奥湾だけなぜ異常冷海だったのかと思ったからだ。それであるならば、北海道や日本海側の鰯も同じ目に遭っても不思議でないからだ。しかしそれは無かった。もう一つのコメントは、大きな魚に追われ、陸奥湾に逃げ込んだ鰯は逃げ道を失って打ち上がったのではないかという説。私はその見方が妥当と思った。
そして私はちょっとひねくれて考えた。人間一網打尽にされ、柊(ひいらぎ)に刺され、人間の安泰の為の飾り物にされるより集団自殺を選んだ方がましだと考えた行動だったのではと・・・。
それにしても鰯達はあわれだった。一時は大群を成して大きな魚を追い払おうとしたであろうが、逃げ場を失い散り散りとなり、いたしかたなく浜に上がったのか。それを思うと不憫でならない。厳冬の浜に累々と鰯が仮死状態で打ち上げられている様は悲しいというだけではなかった。生物の掟はなんとむごいものか。
金子みすず」」の詩に大海の中で鰯の葬儀の詩がある。私はそれを思い出した。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は行動美術TOKYO展に出品した作品で「大地の目覚め/位相・赤」
です。
  サイズはP150号で162cm×227cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。