★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.193

新年明けましておめでとうございます。
本年も「Ryuの目」をよろしくお願いします。
白州は穏やかに新年を迎え、元旦から良い天気が続いています。(写真貼付)

さて、どんな一年になるのでしょうか。
世界の不安定要素は増し、妙なナショナリズムが。
躍動感の無い日本政治。
知性と民主主義を改めて見つめ直す年になるのでしょうか?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.193》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は空閑重則さんです。

−嬉しく思う−

芸能人などがインタビューで「嬉しく思います」と言うのを聞いて違和感を覚えるのは私だけだろうか? この言い方は皇室専用だと思うのだが。
「嬉しい」の丁寧な言い方は「嬉しいです」「嬉しく存じます」「嬉しゅうございます」である。しかし後二者は謙譲のニュアンスが強く、天皇陛下は誰に対してもへりくだることができないのでこれらを使えない。それなら「嬉しいです」で良いのだが、何かさびしいので「思います」を付けることになったのだろう。
とにかく、一般人がこれを使うと「お前は天皇か!」とツッコミたくなる。

次に槍玉に上げるのは「あげる」だ。昔の人(つまり我々及び上の世代)は、目下の者には「やる」のが当然だった。現在は子供はおろか、ペットに対しても「餌をやる」が「ご飯をあげる」になり、最後は「亡くなって」悲しむのだ。そのうち「先日うちの猫が逝去しました」 という人が出てくるかもしれない。
もう10年以上前のこと。何かの競技で優勝したスポーツ選手の父親のインタビューがテレビであり、彼は「よくやった。褒めてやりたい」と語ったのだが、字幕ではそれが「褒めてあげたい」となっていたのに驚いた。どうも「やる」は差別語の一つに数えられ、脚本などの原稿に書くと直させられるようだ。物書きの一部の人はこれを嫌って「やる」「あげる」を使わないで済む言い回しを工夫しているように感じる。私は孫にご飯を「食べさせる」ことにしている。
悲しいことに、現在ではかなり年配の人にも「あげる」派が増えている。果ては物品に対しても「このネジを締めてあげて…」などというのが聞こえてくる始末。

日本語の敬語はたしかに面倒だが、うまく(正しく)使えば話者が自分をどう思っているのか、相手との関係をどう思っているのかが問わず語りに伝わり、便利なものでもある。なにしろ1人称、2人称の言葉の多さは日本語が世界一だと言われる。それから多いのが「死ぬ」を意味する言葉だ:

死去 死亡 逝去 崩御 物故 往生 没する 亡くなる 世を去る 逝く みまかる くたばる 昇天 主に召される 成仏

など。

これらも亡くなった人の素性や話者との関係を示すために使い分けられる。
何かと面倒な日本語ではあるが、実は大変論理的で、柔軟で、便利な言語である。その件についての考察はまた後日。



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 生活感覚とは −

40年以上も前の話になりますが、私の建築の恩師からある時次のような話をされたことがあります。
「フランスの建築家のル・コルビュジェに師事した日本の建築家が、その体験談の中で、“コルビュジェが夕食の食材を自転車に乗って自分で買い出しに出かけていた”との話が紹介されている。この“ 生活感覚 ”は建築家にはとても大切なんだ」
   註:ル・コルビュジェはフランスの建築家で、近代建築三大巨匠の一人。
     上野にある国立西洋美術館設計の建築家。

当時はこの“ 生活感覚 ”の意味するところがあまりピンと来ていなくて、まあ多少炊事洗濯くらいは知らないと住宅の設計は難しいのだろう程度の認識でしたが、この言葉は何故かずーと頭から離れることはありませんでした。東京で生活してる頃は毎晩遅くに帰宅し、家事等々は妻に任せっきりの生活でしたが、10年程前に山梨に移住し、日常生活に必要で、自分で出来る身の回りのことは基本的に自分でするシンプルな生活に次第になって行きました。
野菜作りもその中の一つなのですが、土いじりをしていると次第に土の状態が気になるようになり、ミミズや虫の具合を観察するようになり、更に微生物の働きの重要性をも認識するようになりました。雑草の生え方が毎年違うことも知りました。
数年前、この地域では殆ど見ることのない大雪が降り、背丈までも積もりました。その雪解けには数ヶ月を要しましたが、その間いつもの雑草は雪の下でじっと待ち、雪解けと共に一斉に芽を出してきました。そして、驚いたことに、雑草はその間、例年の倍もの根を張り拡げて耐えていました。この生物の力強さには感動すら覚えました。
そんな生活の中で、人は大きな自然に育まれて生かされているんだとつくづく感じるようになりました。
そして、“生活感覚”とは、単に日常生活の諸事をこなすと言うことだけではなく、日常生活を通して人が生きて行くに必要な森羅万象に思いを遣ると言うことではないかと思うようになりました。
金子みすずの“大漁”という詩にあるように、見えてる世界だけが世界ではない。見えていない、或いは、見えない世界へも思いを遣る想像力。
人間の為に自然があるのではない、壮大な自然があるからこそその中で人間は生きていけるんだ、と。
その思いは私の絵の制作にも影響するようになりました。創作していく上での重要なスタンスとなってきたと感じています。
恩師との出会いがもたらしてくれたこのような認識の拡がりは、建築の域を超えて私の生き方へも影響を及ぼしていました。

この建築の恩師は、大学2年時に初めてお会いして以来、50年以上に亘って公私共にお世話になった私にとって掛け替えのない先生ですが、昨年秋に逝去されました。
一昨年秋にお見舞いに行った時にこんな話をしたところ大層喜んでおられたのが印象的でした。
歳月を感じます。



◆今月の山中事情153回−榎本久・宇ぜん亭主

−初夢−

無人島に漂着したのは、私とその人の二人だけであった。すべてまさかという偶然が重なってそうなった。であるからその人は友人でも上司でも同僚でもなく、わが国の○○である。
ハワイ沖で船が難破した結果こうなった。○○である彼ゆえ、危機管理に対しては万全であったにもかかわらず、まさかの事態となった。二人共何も持っていない。私は一介の料理人。まずは生きなければならない。サバイバルが始まった。
とりあえず食料を見つけなければならない。そのためにはまずは火を熾さなければと思った。幸い乾いた木々がそこいらにたくさんあった。固そうなものを見つけ、擦り合わせていたら火がついた。南に位置しているため棕櫚(しゅろ)などの糸状のものが難なく手に入り、引火も早かった。海岸を物色していたらアルミ缶を三本ほど見つけ、貴重な道具として拾った。枝で口を広げ細長い小さな鍋の替わりとして作った。なるべく生で食べず、火を通すことによって消毒の意味もあったからだ。
○○は率先して何かをしようとする性ではなく、私のすることを見ているだけである。小さな川が流れていたのはラッキーだった。水はそこで充分すぎるほどまかなえたが、野営の所まで三百メートル位ある。水を運ぶといっても入れるものがないので大きな草の葉を利用して運ぶのだが、途中洩れてしまい、アルミ缶にたっぷり入れるには、めんどうだが何度か往復しなければならない。
ポリタンクがあればと嘆いた・・。そういう単純な作業には○○はマイペースでやった。浜の石を起こし、貝や小魚を探す。それを茹でて食べた。空腹が満たされるわけはなかった。
単純作業のもう一つは、乾いた木を探すことだった。○○にこのことをやって貰った。火を絶やしたら困るのでとにかくストックをしておかなければと思った。
無人島の第一日目が終わった。波の音がうるさかったが、一日中動き回っていたのでいつの間にか眠ってしまった。翌朝島の中に入ってみた。奥深くはいるのは危険なので、ほんの数十メートル位入ったらシダが生い茂っていたので、若芽を採った。川伝いに来たのでこういう植物が育っていたということはもっと様々の植物があるかも知れない。島の大きさも皆目わからないが、猛獣はいないようだ。川の近くに野営を移し、とりあえず小屋を作った。
南の人達がそうしているのをテレビで見ていたので、上手とはいかないものの雨はしのげるだろう。まずは拠点が出来た。○○はうつろな表情をするばかりで、覚悟というものが感じない。冗舌だったあの時の頃がみじんも感じられないのである。シダの若芽は枝に刺して焙って食べた。ぬるっとした食感がしてみどりの味が喉を落ちて行った。
漂着五日目になっても何の気配もない。○○はすっかり焦燥している。いくらなんでも誰かが助けに来るだろうとふんでいただけに完全に打ちひしがれているのだ。それまですべからくお膳立てのされた暮らしをしていたゆえ、この事態を把握することが出来ないので。とは言え、私の行動にも限界がある。二人分の食料はそれなりに採り尽くし、再度、海岸の石を起こして貝を採ったり、全く味のしない海草を茹で腹の足しにしている。島はみどりだらけだが、一体どれが食べられるものなのか分からないゆえ、島が啄んだ果実なら安心だろうと採ってはみたものの決しておいしくはなかった。あの日以来天候に恵まれたのは幸いだ。
高度に発達した現在の地球にあって、この島は地図には無いのかすべてが遮断されているとしか言いようがない。航空路もはずれているようで、飛行機の音も聞こえない。遠浅の海は、舟影は地平線に見えるだけで声など届かない。日射しの強い時間帯は体力を消耗することになるので小屋に横たわるようにしている。
○○と言えばすっかり諦めてしまったのか、無言の時間が続く。こういう状況に身を置いてしまったばかりにその処置をどうすればよいのかという能力が涌かないのだ。この間まで勇ましく戦争のことを語っていた姿は今はなく、戦争をせずともこの有様だ。ただただ我が意を通すことに奔走していたのが嘘のようである。私なりに考えて用意した粗末な食べ物でさえ、むさぶるように食べるその姿に、人は究極の状況になると、それまでの立場をかなぐり捨て、一介の飢えたる動物と化することなのかと私は悲しい気持ちで見ていた。
あれほど多用した「権力」というものが、今はどこにも見受けられず、万能であった筈の○○は生きる方便の中でやらねばならないことをひとつも知らなかった。
幸か不幸かここで目が覚めてしまった。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「遊 in green」シリーズです。
  サイズはA4(29.7cm×21cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.192

師走。後三週間もすれば今年も終わります。
みなさん、どんな一年でしたか?
北杜市の黄葉を見て回る機会が持てなかったので、先日、所用で東京に向かう途中、大月市猿橋(日本三奇橋のひとつ)に立ち寄り紅葉を楽しみました。
(写真貼付)

どうぞ良い年の瀬をお迎え下さい。
今年もRyuの目をお読み頂き有難うございました。
皆様からの投稿をお待ちしています。
来年も宜しくお願いします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.192》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

テオ・アンゲロプロスと「ギリシャ現代史三部作」−

燃料税に抗議する「黄色いベスト運動」がフランス全土を席巻し始めて一ヶ月も経っていない。「左でも右でもない」と登場した元社会党エマニュエル・マクロン大統領の化けの皮が剥がれたのだ。彼こそ、大衆増税と法人減税を「規制緩和」の財政的基礎に据える「富裕層の代理人」に他ならない。デモ規制の警察官による運動への消極的支持もあってなかなか「秩序が回復されない」という事実は、当然日本では報道されていない。半世紀前の「パリ五月」の再来と言われるには理由がある。
ヨーロッパを覆う富裕層の寡頭支配がほころび初め、国家でさえ手が届かなくなったヨーロッパ中央銀行ECBという怪物への反感がくすぶっている。イギリスのEU離脱騒動もこの序曲を構成している。ヨーロッパはリベラルな民主主義の大陸、というのはフィクションに過ぎず、現実には階層序列システムが機能している。真っ先に弱小国が追い詰められ、これら諸国で歴史の浅い民主主義的システムが破壊されていく。2010年のギリシャ危機は記憶に新しい。以降ユーロ圏の危機は収束するこなく拡大の一途をたどっているのだ。

さて、今年の夏は日本ばかりで無く全世界的に酷暑が覆い尽くした。7月23日ギリシャアテネ近郊の山火事により現代ギリシャの映画監督、故テオ・アンゲロプロスの山荘が全焼し貴重な資料が失われた、と報じられた。彼が、70年代初頭に革新的な映画技法と現代ギリシャの苦難の歴史の描写の二つで衝撃に登場した、ことは知っていた。しかし、残念ながら彼の作品を観る機会はなかった。この事件に背中を押されて、彼の「ギリシャ現代史三部作」と言われる『1936年の日々』(1972年)、『旅芸人の記録』(1975年)、『狩人』(1977年)をDVDで購入し観ることになった。偶発的な契機ではあれ、私の「映画の旅」の大きな欠落部分を埋めることができた。望外の幸せと言うべきか。

ギリシャは国家としては若い。古代の繁栄が終わってから、ギリシャ人は東地中海沿岸の各地でひっそりくらしていた。オスマントルコの領土になっていたギリシャ独立運動が起こったのは19世紀に入ってからで、イギリスなどの援助で独立が達成されたのは1830年のことである。その後第一次大戦の敗戦国トルコからトルコのエーゲ海沿岸部を割譲、ここで驕ってイギリスに後押しされてトルコの首都アンカラまで攻め入って大敗北、領土を失うなどしていたが。
その内に、ヒトラーやムソリーニの手が伸び1936年にメタクサス将軍のファシズム独裁制が確立した。その後のイタリアとの対立、背後で動くイギリス、と言う状況で1941年ドイツと連合するイタリアの支配に下る。レジスタンスの始まりである。1944年10月ドイツ軍の撤退とアテネの解放、英軍の進駐、王党派勢力の伸長、チャーチルスターリンの密約によるパルチザンの排除から内戦が始まっていく。内戦終結後の1952年、アメリカの圧力によって選挙制度が改変されパパゴス将軍による右派政権が成立、これが1963年まで続くことになる。

ギリシャ現代音楽の巨匠ヤニス・クセナキスも第二次大戦中レジスタンスに加わり、戦後も反軍事政権・反英抵抗運動で国外脱出、欠席裁判で死刑判決を受けながら、パリでル・コルビジェメシアンらに師事し建築家・音楽家としての仕事を成し、1974年の文民政権成立でようやく赦免されることになった。
メリナ・メルクーリは、映画「日曜はダメよ」で1960年カンヌ映画祭で女優賞を獲得、同名の主題歌がアカデミー主題歌賞を受賞し全世界で唄われ、中学生の私の耳にも残っている。彼女は、1967年ギリシャパパドプロス軍事政権が成立すると反政府運動に加わり、国外追放され、パリでの亡命生活を経て、1981年PASOK(全ギリシャ社会主義運動)がギリシャ初の左派政権を樹立すると、アンドレアス・パパンドレウ首相の下文化大臣を務めることになった。

こうして戦後も半ばが過ぎて行く。アンドレアス・パパンドレウの政権は1989年まで続いたが、その後は中道右派の新民主主義党(ND)との政権争いが続き、2009年10月総選挙でPASOKが圧勝しアンドレアスの子ヨルゴス・パパンドレウが首相の座についた。彼はND前政権がGDP比3%台と発表していた同年の財政赤字の数値は嘘で、実際には12.7%の予想、と曝露した。(このごまかしはゴールドマン・サックスの入れ知恵だった)「ギリシャ危機」の始まりだ。政府債務がすでにGDP比100%を超えていたため、にわかにデフォルト不安が広がった。
今もくすぶるユーロ危機の第一波となったのだ。ギリシャではECBやIMFとの財政運営を巡る瀬戸際の攻防が始まる。2015年就任した急進左派連合(SYRIZA)を率いる若きティプラス首相の掲げる「反緊縮財政」=「反国民抑圧」は追い詰められたところからの不服従・抵抗に他ならず、EU圏初めて、ただ一つの「反緊縮政権」として民主主義の希望を集め異彩を放っている。これが現在のギリシャである。

アンゲロプロスの映画技法が特異なのは、(『旅芸人の記録』1975)まず「ワンシーン・ワンカット」であろう。これは、(彼の映画は屋外ロケが多いが)ギリシャの風景の中での人の動きを追うのに適している。しかも、同じ風景の中で時が移行する。1952年パパゴス将軍の選挙カーが通り過ぎると、同じシーンで今度は1939年メタクサス将軍支配下でのドイツ第三帝国情報相ゲッペルスの来訪が告げる自転車の男が走ってくる。その後別の道を1952年のパパゴス将軍の選挙カーが通り去った同じ道を1942年のドイツ軍の車が来るという具合である。
『狩人』(1977年)では、1976年のクリスマスイブに狩猟に集った富裕階級が雪の中からまだ血が生暖かい47年のゲリラ戦士の死体を発見するという始まりで戦後に続く苦渋を描いている。ギリシャと言えば青い海にさんさんと照る陽光、というのが通説的イメージだが、それはふさわしくないと考えた彼は、全て曇天下の屋外撮影をしている。
こうして生涯現代ギリシャの苦悩を綴り続けたアンゲロプロスは、2012年1月24日、撮影現場に徒歩で向かう途中、非番の警官が運転するオートバイに跳ね殺された。

2010年の夏、「ギリシャのようになるな」と消費増税+法人減税の音頭取りをした、ギリシャから遙か離れた極東の島国の総理大臣がいた。日本の政治家が概して無知・無教養なのか、シナリオを書く官僚がそうなのか、事実は両方なので全てが彼の責任ではないのだろう。「何とも失礼な」、というのが第一印象だったが、この時ギリシャが国家として会計をごまかすのを助けたのがゴールドマン・サックスで、日本の1990年平成バブル崩壊の引き金を引いたのもこれら大手投資銀行だった、という事実を知っていたのかしら。国家の財政運営が金融投資家の意向に左右されている点では日本はギリシャのはるか先を行っていると言うのに。(終わり)


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 故郷個展顛末記・その2 −

10月26日(金曜日)。
個展初日です。開館は11時、その30分前にはギャラリーに入ることにしました。初日なので験担ぎでもないのですが、ギャラリーに向かう道中にある琴崎八幡宮にお参りをすることにしました。高校時代は大晦日にこの神社にお参りしたことが何度かありましたが、その頃に比べると神社は整備され随分綺麗になっていました。個展成功を祈願し、帰ろうと階段を下りかけた時ふと脇に目が行きました。そこには“八方塞がり”の文字が書いてあります。近寄ってみると、占いの九星気学でいうところの九紫火星の人が対象と書いてあり、昭和21年2月〜22年2月生まれも対象になっています。私は昭和21年11月の生まれですので、まさにその中に入っています。いやいや初日なのに縁起でもないなー。別に占いを信じるタイプではないのですが、まっ、とりあえず“開運”のお札を求めて再度祈願してギャラリーへ。
30分前にギャラリーに着くと既に開館されており、オーナーが出てこられ、「もお、お客さんが見えてますよ」と笑顔で仰る。中に入ると下関から行動美術会員の方がご夫婦で見えてました。「前回よりもずーっと良くなっている。絵に品格がある」との評。“八方塞がり”のわりには幸先良いではないか!!
開館時間には高校の先輩に前日依頼した修正ポスターも無事届けられひと安心。
平日にもかかわらず初日とあってその後も、幼友達、同級生、先輩後輩、美術部の後輩、親戚、葉書やポスターを見て来られた方、入場者がつづきます。
午後になって地元の新聞社が取材に来ました。何とこの記者も高校美術部の後輩であることがわかりました。何だかローカルでいいなー。この日もお祝いの花が東京の知人から寄せられました。初日は県内のあちこちから多くの方が来場されました。

10月27日(土曜日)。
30分前にギャラリーへ。この日もいろんな方々が観に来てくれました。4歳の時、親の留守に二人でワインを飲み救急車騒ぎになった幼友達。家族連れで観に来て下さった方も。午後には中学時代の同級生がオリジナルブレンドしたコーヒーを持参してくれました。何とも良い香り。前回の時も持参してもらい密かに期待していましたが、早速の登場です。観に来て下さった方々もこのコーヒーを楽しんで下さいました。絵を観ながらおいしいコーヒータイム。
この日の地元新聞(宇部日報)に、昨日の取材の記事が載りました(写真貼付)。
逗留先のご主人から早速、新聞に出てる旨の連絡があり、夕方、ギャラリーからの帰り道のコンビニで新聞調達。なかなか素敵な文章で紹介されていました。

10月28日(日曜日)。
この日はギャラリーに入る前に極楽寺というお寺に寄りました。これは前々回のRyuの目で「木喰」の話しをしましたが、この時、木喰の彫った仏像がここ宇部極楽寺に遺されているのを知り、個展に合わせて是非観たいと思っていたからです。前々日にお寺に電話をするといつでも観に来ても良いとの返事。
9時頃にお寺に着きましたが、喪服の人の姿がちらほら。どうやら法事のようです。お寺の奥さんに先日電話した者と告げると、快く仏像の所に案内して下さり、その後はご住職が話しをして下さいました。木喰上人の仏像5体(写真貼付)をゆっくりと観て、法事の始まる少し前に退散。仏像の笑顔に気持ちも和らぎます。
この日も様々な知り合いや、新聞を見た人が来て下さいました。学校の美術の先生が、少し離れた光市からわざわざ観に来てしばらく鑑賞の後、子供達への教え方で困ってることや、子供達の興味のあり方の話しをしばらくしました。昔のような決まった教え方では子供達は乗って来ず、興味を惹くものから入って制作に導くのがいいみたいですとのこと。私は導入のきっかけは何でも良いのではないかと思うと伝えました。何か創作することの面白さを感じればそれでいい。そこから様々な始まりがあるはずだから。
この日から夜は宴会五連ちゃんの始まりです。例の“苦行”の始まりでもあります(前回参照)。が、愉し!!!

10月29日(月曜日)。
休日明けの中日なので今日は少ないだろうと思っていましたが、この日も30名を越える方々が観に来られました(写真貼付)。かつて宇部での初めての設計の機会に、建築工事の現場監督を担当してくれた方がご夫婦で美祢市
から。東京からはわざわざ個展を観に宇部に帰ってきてくれた同級生夫妻。
私が高校生まで過ごした社宅のお隣の先輩とは55年振りの再会。地元の画家夫妻。
今回の展覧会で感じたことは、絵を描いてる方が多かったということです。
前回、或いは前々回も観て下さっていて、それからの変化をしっかりと観て下さっていました。この日は高校時代の様々な学年の方が見に来られ、会場はさながら各学年の同期会の様相を呈していました。これもまた楽しからずや。
この日の夜は高校の美術部の先輩達が歓迎会を開いてくれました。妻、三女も一緒にフグ三昧の夜。

10月30日(火曜日)。
この日の朝、妻と三女が宇部を離れ帰途につきました。我が家の猫二匹の世話をいつまでも留守をみてくれてる姉に任せっきりと言う訳には行きません。と言う訳で、これまでお茶出しを担当してくれてた妻に代わり、同級生二人がこの日からお茶出しを担当してくれることになりました。ありがたいことです。
この日は朝から行動美術の方が光市から二人で見えました。昼過ぎ、国宝や重要文化財修復の第一人者で、地元で活動されてる日本画家の馬場良治さんも見えました。地元の美術商の方、親しい歯医者さん、同級生、先輩、関西
からたまたま宇部に来られていたご夫婦、案内を差し上げた地元の方々。
今日も同級生からオリジナルブレンドコーヒーの差し入れ。ありがたい。
午後になって奈良から同級生がわざわざ観に来てくれました。しばらく鑑賞した後、夜の私との呑み会に備えて一旦ホテルへ。閉館と同時にお茶出し担当の同級生と市のかつての中心街に繰り出し、奈良からの同級生と合流。奈良の同級生は9月の行動展も観に来てくれ、その夜一杯飲んだ仲間ですが、その時私が前日の飲み過ぎで不調だったのを覚えていて、「今日は調子大丈夫か?」と諭される始末。“苦行”の効果が試されます。

10月31日(水曜日)。
小学の頃、近所でよく一緒に遊んでいた一級下の友達が卓球仲間と来てくれました。50年ぶり位でしょうか、懐かしさが蘇ってきます。前回も観に来て下さった方々。宇部にある美術館の主任、この日もいろんな方が来場下さいました。
明日の最終日を控え、大きな作品の搬出が気になっていました。山梨から送ってもらった運送会社の宇部支店に数日前に連絡し、その扱いについて連絡待ち状態だったのですが一向に連絡がないのでこちらから連絡すると、絵の描かれた木製パネルは扱わないとの回答。それは困る、送ってもらったんだから責任持って送り返して欲しい旨伝えると、じゃあ山梨の甲府支店の方から宇部支店に電話するよう伝えてくれと言う。甲府支店に事情を説明し、宇部支店を説得して欲しい旨を伝える。その後数時間連絡が無く、午後遅くになってやっと甲府支店から連絡が入り、以前、宇部支店で絵を扱ってトラブルになったらしくビビッている。何があっても文句は言わないと一筆を入れ、荷物は自分で梱包して宇部支店まで持って行くこと。宇部支店で梱包状態をチェックしてから引き受けるかどうか判断するとの回答。これには唖然。責任ある企業の体を成していない!宇部支店のこの運送会社には頼まないことにし、額縁を手配してくれた画材屋さんに相談したところ、自分の所の荷物を扱ってくれる別の運送会社に頼むことにしましょう。但し、絵とは絶対に言わないで、ただただ木製パネルで通すから了承してほしいとのこと。最近は、絵と言うと扱ってくれないらしい。
この点、関東の業者さんはまだ融通が利くので有り難い。ということで一件落着、ホッ!
この日印象に残ったのは、一人で観に来られていたご高齢のおばあちゃんがしばらく鑑賞されていましたが、そっと私に近寄ってこられ「私は体調が良くはありませんが、今日は絵を観て元気が出ました。ありがとうございました。またこの次を観せて下さい」と話されました。このような反応は予想だにしていなかったことで、驚きと同時に凄く嬉しい気持ちなりました。
今回は赤を主色とした絵が多かったせいか、元気をもらいましたと仰る方が何人かいらっしゃいました。ただ自分の為に描いてるに過ぎないので、その絵を楽しんでもらえればとは思っていましたが、そのことで他の人が元気な気持ちになれたと言われ、これは喜びです。
この日は搬入・展示を手伝ってくれた高校の同級生の家に泊まることになっていて、閉館時に迎えに来てもらい同級生の家に向かったのですが、かつての中心街からは結構離れている地域でしたが様々な大型店舗が並んでおり、
宇部も随分拓けたものだなと感心。
かつての中心街が寂れ、離れた所に大型店舗が建ち並ぶ光景はどこの地方も同じような現象です。
夕方には同じく手伝ってくれた他の同級生も合流し、深夜まで。
いよいよあと一日。

11月1日(木曜日)
さあ、最終日。
この日もいろんな方が観に来られ、1週間が順調の内にあっという間に過ぎた感があります。何故だかこの日は時間の経つのが早い感じ。
最終日なのでいつもより1時間早く、4時になり閉館。すぐさま片づけ搬出作業に入りました。搬入時と同じメンバーが手伝いに揃ってくれました。絵を求めて下さった方が数名閉館時間に合わせてわざわざ取りに来られ、嬉しそうに持ち帰られました。配送する売れた作品とそれ以外を仕分け、手際よく梱包が進みます。大きな作品はこちらの梱包が終わった頃に画材屋さんが取りに来てくれ、文句が出ないように梱包し直してくれるとのこと。我が家へ送り返す小作品等は段ボール箱に入れ梱包修了。クロネコ宅急便が時刻通りに来てくれ、6時には全ての搬出作業が終了しました。お世話になったギャラリーのオーナーにお礼の挨拶をし退散。
山梨から宇部のギャラリーに絵画を送ってくれた運送会社の宇部支店が返送に応じてくれないというハプニングもありましたが、無事配送関係も処理でき、夜は逗留先のご夫妻の呼びかけで、助けてもらった方々を含め10名程で中心街にあるお店で打ち上げ。
“苦行”も解禁して大いに飲み、久し振りのカラオケ三昧でした。

今回の個展はとても楽しく、毎日20〜30名の方々が観に来て下さいました。
前回、前々回も来て下さった地元の一般の方々が今回も沢山みえ、「絵が大分変わりましたね、今回はいいですね、元気をもらいました。次回も是非」と。
また絵を描いてる方々からもやる気が出ました有難うございましたと。
観に来られた方々には非常に好評で、絵を求めて下さったお陰で赤字にならなくて済みました(これ重要!)。
楽しい一週間でした。お世話になった方々に感謝、感謝です。


◆今月の山中事情152回−榎本久・宇ぜん亭主

−陰影−

一撃をくらったような記事を見つけた。
谷崎潤一郎が記した『陰翳礼賛』なる本がある。建築や庭、器、食事、歌舞伎、能そして化粧まで及ぶ幅広く、奥深い話しが散りばめられた話が書かれた本という。「この國の文化は陰翳のなかで培われたのだからこれ以上明るくしないでほしい」と言う警鐘を込めた本です。
漆器の椀のいいことは、まずその蓋を取って口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に容器の色と殆ど違わない液体が音なく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持ちである。人はその椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁がほんのり汗を掻いてるので、そこから湯気が立ち昇りつつあることを知り、その湯気が運ぶ匂いに依って口に啣む(ふくむ)前にぼんやり味わいを豫覚(しょうかく)する。
その瞬間の心持、スープを浅い白ちゃけた皿に入れた出す西洋流に比べ、何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。』漆の椀に対し、谷崎はこんなこだわりをもって食事をしていたことにおそれ入る。
作家の鋭い観察力に対し作り手も渾身をふりしぼる。同書の後半で谷崎はパリから帰った人物の話として「陰翳」の功徳を紹介している。
『欧州の都市に比べると、東京や大阪の夜は格段に明るい』という話しを紹介している。『恐らく世界じゅうで電燈を贅沢に使っている国は、亜米利加と日本であろう。日本は何でも亜米利加の真似をしたがる国だ』これが昭和初期の巴里帰りの友人の感想なのである。
また同書にはアインシュタイン博士も大阪に案内されたときのエピソードが出てくる。汽車の窓外を見て、アインシュタイン博士が『あゝ、彼処に大層不経済なものがある』と言ったのは、電信柱か何かに白昼から電燈のともっているのを指したらしい。
この国が陰翳に鈍感になって来たのはどうも最近のことではないらしい。
谷崎の文章は続く。
『どうも近頃のわれわれは、電燈に麻痺して、照明の過剰から起こる不便ということに対して案外無感覚になっているらしい』待合、料理屋、旅館、ホテルなどが電燈を浪費していると指摘。四隅の影をなくすほどの照明には日本美を感じないだけではなく、暑い。明るいうちから過剰に照明されてしまうから涼しさを感じないというのである。「陰翳礼賛」は「まあどういう具合になるか、試しに電燈を消してみることだ」と勧めて終わっている。
平成三十年九月十六日(日)東京新聞 玄侑宗久氏「うゐの奥山」より抜粋


昭和の初期に、我が国に於いて「あかり」の弊害を唱えられていたとは思いもよらず、文明の象徴だった電燈は我が家に於いては決してそうは思われなかっ
た。いわゆる裸電球と呼ばれたそれは、たしかに熱く、よく芯が切れ、どこの
家にもストックされていた。昭和が終わり平成の今、夜景を見ると、只きれい
と思うだけで良いのかとも思う。「あかり」は幸福や平和の対価でもあるので
フクザツな気持ちになる。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 
今月の一枚は個展に出した作品で「煌」シリーズです。
  サイズはA4(29.7×21cm)です。
  (アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.191

すかり秋になりました。今日は秋らしい天候です(写真貼付)。

故郷、山口県宇部市での個展もお陰様で盛況の内に終えることができました。
様々にお手伝いくださった皆様に感謝申し上げます。
この個展の顛末は今回と次回の2回に分けて「今月の隆眼」で報告させて頂きます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.191》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 今月はお休みにさせて頂きます。



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 故郷個展顛末記・その1 −

10月26日から11月1日まで、生まれ故郷の山口県宇部市で3回目の個展を開きました。会場は1、2回目と同じギャラリーです。なかなか落ち着いた雰囲気の広いギャラリーで、ちょっとした美術館と言った感じです。
ギャラリーの一角には座敷が用意され、庭(和風)も設けられています。
ここにはお茶出しするサービスカウンターも用意されていて、観賞後に座敷で一服できるよう設えてあります。(写真貼付)

秋の行動展が10月1日に終わり、個展に向けて制作の追い込みといった時期に体調不良と所用が重なり、白州出発前の一週間に何とか予定の作品数を仕上げるといったドタバタもありましたが何とか間に合わせることが出来ました。用意した作品は45点程で、150号1点、100号2点、50号1点、30号1点、20号2点、4〜10号の小品を38点。その内の30点を展示し、途中で差し替える事を念頭に準備しました。
小品は3分の2を開催の2週間ほど前に宇部の画材屋さんに送って額入れしてもらい、150号と100号は運送屋さんに依頼し、その他は車に積んで宇部に向かいました。これまでは大きな作品はクロネコのヤマト便で送ることが出来ましたが、今年からこのヤマト便がサイズ制限(縦*横*高さの三辺合計が2mまで)を設けるようになり、大きな作品を送ることが出来なくなりました。
絵を描かれてる方は皆さんお困りと思われます。山梨から山口まで送ってくれる運送会社を何とかみつけましたが、送料は以前に比べて倍ほど。この運送会社は支店毎の対応がマチマチで、個展が終わって送り返す段になって問題が起きることになりました。

10月24日の早朝3時半に我が家を車で出発。この日は平日なので高速割引を利用するには深夜割引(3割引)しかなく、朝4時までに高速道路に入らねばなりません。長距離の高速利用ではこの3割引は大きいので早朝出発となりました。我が家から15分ほどの所に小淵沢ICがあり、ここから高速道路に入ります。
白州から宇部まで凡そ860km、中央自動車道東名高速道路名神高速道路→中国自動車道→山陽自動車道で向かいます。途中の休憩を入れて凡そ13時間(ネット10時間)のドライブです。家内と三女の三人で、1時間半毎に運転を交代しながらの道中です。
我が家を出発時は雨で肌寒い天気。車の上に載せた50号と30号の作品はシートで包んであるとは言えいささか心配。太平洋側に近づくと天気も回復し、ドライブは順調に進みました。広島県の宮島SAで1時間ほど最後の休憩をして16時半に逗留先である同級生のゲストハウスへ無事到着。高速道路は一般道と違ってそれぞれの地域の面白さがあまり感じられないので楽しみが少ないのですが、長距離なので致し方ないところ。
到着した日から心温まる宴席が始まりました。と同時に、私にはアルコールの種類と酒量の制御という“苦行”の始まりでもありました。と言いますのも、9月の行動展の時、観に来てもらった友人達と調子に乗って四連ちゃんの呑み会を続けた結果、飲み過ぎてしまい、体調を崩すという情けない事態を招いてしまったからです。反省!
この展覧会でも連日の宴会が想定されます。

10月25日。さあ搬入と展示作業です。9時半前に展示会場のギャラリーに到着しました。ギャラリーのオーナーが再会を笑顔で迎えてくれました。運送会社に依頼した大きな作品は前日に届いており、程なく画材屋さんから額に入った小作品も届き、10時には展示を手伝って貰える高校の美術部の先輩や同級生も揃い、荷解きから作業開始。小作品を持参した絵と数点入れ替え、レイアウト開始。
まず、大きな作品のレイアウトから始めました。事前に大きな作品のレイアウトは想定していましたので、それで良いかの確認をし、続いて小作品25点のレイアウトに入りました。これまでの経験を生かし、隣り合う色がお互いに引き立つように小品の入れ換え作業を何度も繰り返します。その間に大きな作品の飾り付けが順調に進みます。3回目ともなると皆さん手際がいい。作品のレイアウトを決めるとどんどん飾り付けが進み2時には30点のレイアウト完了。
なかなかいい感じだ。
絵の飾り付けの目処が立ったので受付の記帳用紙の準備や掲示ボックスのポスター飾りに取りかかりました。1点だけ作成持参したA-2サイズの大きなポスターを飾り付けようとして、とんでもないことに気づきました。
“ポスターの絵が上下逆さま!!!”
いやー、我ながら愕然。何を焦ったのか、自分でも全く気づかないでやってしまいました。困ったなと思い先輩(デザイナー)に相談したところ、一応予備として絵の部分だけを持参しておいたので、その部分だけ貼り替えて明朝の開館までに届けてあげようと神の助け。ホッ!!
とんだハプニングでした。午後になって、友人達からお祝いの花が届き、気分も盛り上がってきました。
夜は手伝ってもらった人達とご苦労さん会と前夜祭の宴。
さあ、いよいよ明日から始まりだ!
つづく。

◆今月の山中事情151回−榎本久・宇ぜん亭主

−聞こえぬ生活音−

戸建ての多いこの田舎でさえ近所の台所の音が聞こえて来ない。俎(まないた)を叩く包丁の音が聞こえて来るのは商売屋からであり、近所の家からの音がしないのである。キッチンの配置の違いや、労働の仕方が変わり、夕食時が他と同じとは限らなくなったり、スーパー等でおかずを買って、作るのを省いている家庭が多くなったからなどであろう。
かつてはその家の夕食がわかったものだ。いろいろのにおいが外に洩れ、「ここの家は今日はカレーだ」「この家はさんまか」と歩きながらわかったものだが、田舎と言えどもそれがしないのである。立派な構えの家には高齢の夫婦だけというお宅もあり、宅配という手で済ましている。手助けと言ってしまえばそれまでだが、老人ターゲットビジネスとしてデパート、スーパー、コンビニの惣菜売場は盛況で、その役目を果たしていると言わんばかりに大いに売り上げに寄与し、「母の味」になってしまっている。もちろん食育を重視し手を抜かず、三度三度きちっと自家製のお宅もあることは知っている。
男女が機会均等に働ける(働かされている?)時代になって、皆が忙しくしている。収入をより多く得るため台所のことはいの一番に省かれた。私にとっては皿の触れ合う音、蛇口をひねる音、スプーンの落ちる音など隣家から聞こえる生活音が郷愁となってこみ上げて来るものがあるものだったが、そんなことを口にすると全く別の解釈をされ、暮らしにくい世となった。
便利になった世の中は、お湯をそそげば有名店のスープが即座にいただける。あらゆるレパートリーの料理が二、三分で食卓を賑やかにすることが出来る世だ。会社を出る前にスマホに触れれば、クーラーが室内を快適な環境にしておいてくれる。お風呂も沸けば、洗濯物だってたたまれている。もちろん部屋の掃除もしてある。この暮らしが満足な人はそれはそれで幸福であろう。その反対にいる人はこういうことで良いのかと思っている。便利に馴れた人は不便を嫌い、百年、二百年前の生活を望む人もいる。
時はあたかも明治百五十年とか。その時も世の中が文明開化だとひっくり返っていたのか?
私はと言えば、相変わらず鍋のフタを落としたり、皿や茶碗をぶつけて生活音を出している。ただし、郷愁を感じてくれる人は居るか?

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー

 今月の一枚は個展に出した作品で「煌」です。
  サイズはB4(36.4×25.7cm)です。
  (アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.190

先日の第73回行動展には多くの知り合いの方々(60人を越える)が観に来て下さいました。
ありがとうございました。

さて今月の26日から故郷、山口県宇部市で3回目の個展を開きます。(写真貼付)

宇部故郷個展…「古磯隆生・パステル画展 3rd」
  ・会場  ギャルリー小川
        山口県宇部市西宇部北7-7-38
tel. 0836-41-0005
  ・会期  2018年10月26日(金)〜11月1日(木) 11:00 - 17:00
        会期中は無休、最終日は16:00迄

*会期中は私(古磯)は会場に居ます。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.190》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

大人は判ってくれない

今回は50年代末から60年代にフランスから始まり世界を席巻した映画史の一大事象=「ヌーベル・バーグ」について書くことにする。その作品群(狭い意味での「ヌーベル・バーグ」=フランス人監督作品)に実際に接したのは
70-80年代で、しかも感銘を受けた作品は多くはなかったと思う。
約半世紀にわたって数多く映画を観てきたが、名作と同じ数以上の駄作あり、で最近DVDの時代になって観直してみても「やっぱり」としか思えなかった作品がかなりある。 
とは言え、「一大事象」だから見方や視点を変えるとそれなりに興味深く、振り返る意味はあると思う。

ところで、極東の島国の映画少年が最初に「ヌーベル・バーグ」の臭いを嗅いだのは実はソ連映画だった。
これも何かの偶然なのだろう。「誓いの休暇」(1959)という映画だ。これはカンヌ映画祭でグランプリを取ったこともあって早くに日本で上映され私は中学時代に観ている。人類初の人工衛星スプートニク(1957)を夜空に探した記憶と並んで、私にとってのソ連の二つの鮮明な記憶になっている。ソ連にとっての第二次大戦は「大祖国戦争」で、それまでは、ひたすら正義の戦争を鼓舞し戦勝を祝し戦士は英雄として賛美されるものだった。この映画ではそれらがテーマにはならず戦争で引き裂かれる男女の愛がもの悲しく描かれていた。
フルシチョフスターリン批判が1956年だから政治的な「雪解けの時代」と歩調を合わせていたのだろう。ソ連映画にとっての「ヌーベル・バーグ」の象徴的な作品だったのだ。日本映画では、大島渚の「青春残酷物語」(1960)、「日本の夜と霧」(1960)、「日本春歌考」(1967)、などがある。「日本春歌考」は公開と同時に観たが、それ以外は70年代だった。

「大人は判ってくれない」(1959)はヌーベル・バーグの旗手と言われるフランソワ・トリュフォーの初監督作品になる。もう一人の旗手ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1960)と並んで二大作品とされている。トリュフォー自身の経験を綴ったと言われるこの映画が興味深いのは、フランスにおける親子関係、大人と子供の関係を活写していることだ。この12歳の少年には嘘言癖があるらしく、彼に言わせれば「本当のことを言っても信じてくれないから」で、親子間の断絶は相当深刻なものになっていた。学校をサボって家出を繰り返す彼は、遊ぶ金欲しさにとうとう父親の職場からタイプライターを盗もうとして失敗する。
警察に捕まり親が呼ばれる、のではなく、親が警察に突き出し「性根をたたき直して欲しい」と、署長が取りなそうとするのを断り、親の方から少年鑑別所送りを希望するのだった。鑑別所から脱走し、砂浜を海に向かって歩くシーンで終わるが、死を覚悟している表情ではなく、広大な海が何かの希望を示しているように見えるのが救いになる。

フランス、特にパリ盆地を中心にした地域は、政治的には自由と平等を信じ、宗教的には脱キリスト教化し、家族はほぼ完全に核家族化している。映画の場面は第二次大戦後10数年のパリの労働者街だが「パリは燃えなかった」こともあり戦争の傷跡は見られない。大家族制度ではないので小児労働は殆どなく、また家族=両親の扶養能力も限られているので義務教育を終えれば自立傾向が強まる。(近年は「日本並み」にパラサイト・シングルが増えているそうだが)こうした環境での「個人主義」は大人の人格が基準になり、子供に大人と同質の人格が認められてはいない。フランスの大人が子供に対して抑圧的だと言われる理由だろう。

勝手にしやがれ」という題名の由来は何か? 何となくこの退嬰的な映画の内容を表していそうだが、実は最後まで謎だった。マルセイユで車を盗みパリに行く途中、主役のジャン・ポール・ベルモンドが「海も嫌い、山も嫌い、そして街も嫌いなら........勝手にしやがれ」と独白する。この時は意味がわからない。向かったパリで女と金を追うが、そこは嫌いでイタリアに逃れようとし、しかしジーン・セバーグ扮する惚れた女に密告され憤死する、と言う結末で謎が解ける。「ジャンプカット」と言われる大胆な編集、唐突なクローズアップ、という制作手法はこの作品が最初で、この点で映画史に残ると言われている。

「大人は判ってくれない」はパリの下町の物語で教会は風景としても出てこず、もちろん神父も顔を出さない。「勝手にしやがれ」はパリではシャンゼリゼが舞台で、エッフェル塔凱旋門も、そしてノートルダム寺院も出てくる。ゴダールの造った「観光映画」ではないか、と揶揄されたらしいが、宗教の臭いはカケラも無い。
キリスト教化というのは、住民が聖職者の言うことに従わなくなり、神も地獄も存在しないかのような生活態度を取っていることだが、これは大人も子供も含む(200年以上前に始まった)フランス特にパリ地域の傾向になる。 フランスのヌーベル・バーグを調べていて奇異に感じたことが一つある。 トリュフォーゴダール石原慎太郎の同名小説の映画化作品「狂った果実」(1956年=私は観てはいない)に影響を受けたと公言しているらしいのだ。映画史における「ヌーベル・バーグ」とは単なる時代区分のようなもので、今や過去の言葉だからどうでも良いことだが、映画技法の影響と言うことではなさそうだ。若者が大人の社会に楯突く、という風俗的な近似で言っているようだが、作者(監督)の頭の中は似ても似つかない。人生では重大な勘違いをすることがたまにある。トリュフォーゴダールも存命なので、宗教団体霊友会の顔役だった石原慎太郎と会ったらなんと言うだろうか、とても興味がある。(続く)



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 木喰 −

丸く張り出した頬骨。更に突き出た丸い鼻。顎髭をたくわえたその顔は満面笑み。
これは木喰(明満)自身が彫った自身像です。1718年、現在の山梨県身延町で生まれ育った木喰はその93年の生涯の間に1、000体を越える一木造の仏像(木喰仏)を日本の各地に奉納して廻ったと言われています。
我が故郷、山口県宇部市極楽寺にも木喰仏が遺されているとか。

先日、身延町なかとみ現代工芸美術館で開かれている「生誕三百年・木喰展」(10/21まで)に行きました。我が家から車で1時間余り、木喰を求めて雨の身延へ。開館時間(9時30分)から45分ほど過ぎて到着。会場には、大型台風前の雨にもかかわらず既に多くの人が見られました。
展示場に入るやいなや小さな立像の顔に思わず見入ってしまいました。何とも言えない優しい笑顔。気持ちがほっこりとさせられます。張り出した頬に出っ張った鼻。きっと制作者はこんな感じの顔をしていて、人をほっこりとさせる上人なんだろうなと想像させられました(絵の場合もそうですが、人物の顔を描くとどこか制作者本人の顔に似ている)。
少し大きな像に向かいます。その像の顔に数センチのところまで顔を近づけ、彫りを細かく観察。何と!これが84歳時の人間の作とは!!歳を取ると往々にして人はものごとをはしょって表現し勝ちですが、そんな事は微塵も感じさせません。正確な鑿のさばきと勢い。素晴らしい限り。表情は大らかで優しく、穏やかな笑顔に溢れ、本人の人柄を表すようで、観る人を引き込みます。
やがて本人の自身像が現れました。その印象が冒頭の「丸く張り出した頬骨。
更に突き出た丸い鼻。顎髭をたくわえたその顔は満面笑み」です。
まさに想像した通り。(写真貼付)

普通によく見かける仏像は、シンメトリックで何となく崇高な感じで近寄り難い雰囲気を醸し出していますが、この木喰の造像は敢えてシンメトリーを壊すように彫られていて、像全体が動きを感じさせ、それがとても親しみを覚えさせる造像になっている。
この木喰明満の造像はとても造形的に作られており、現代人の私でも思わず引き込まれてしまいます。90歳を越えた人間の作とは思えないほどの刻み、本人の息づかいさえ感じられるような思いです。
木喰の木彫といえばすぐに円空が思い出されますが、円空の禁欲的で鋭い彫り跡(鑿の)を残す彫像とは違った、大らかながらも動きのある造形性を感じさせる彫像になっています。その感じは三百年前とは思えない造形力です。
“笑み”が会場を浮遊しているかのようで、とても気持ちの良い、優しさ溢れる空間でした。



◆今月の山中事情150回−榎本久・宇ぜん亭主

−お茶−

子供の頃「お茶」を出された時は誇らしかった。両親だけではなく、他の大人も一緒の席であったことから、多分お祭りの席だったと思う。料理屋の二階から山車を見たことを記憶している。祭りだったとはいえ、子供が大人に交じって何かを話し、「お茶」など出されたのがうれしかったのだ。「お茶」の味など全くわからないくせに妙に大人の味のように感じたことを覚えている。
はるか昔「お茶」は薬として日本に伝来した。その後茶の湯などの高尚なものとなり、一般の者が容易に口にすることなど出来ぬ代物だった。と聞いたことがある。
時を経て現代となると、その「お茶」はすべての人の手軽な飲みものになった。
一歩外に出ればあらゆる所に「お茶」がある。人の通らぬ村はずれの自動販売機でも買え、夏は冷たく、冬はあたたかくされている。
一服と言えば「お茶」を飲むことを指す。(薬の名ごりか)その声をかけられたら自動的に「お茶」が出される。その習慣は長い時間をかけて培われて来たことだが、その一服の「お茶」によって安寧を得るのであった。お茶にはそのような力があることにより喫茶店の登場になった。「お茶」のことをもっと深く知りたい人々がその商売を成り立たせている。
かなり大雑把に「お茶」に就いて書いた。歴史をひもとけば「お茶」にまつわる話しは秀吉と利休の関わりのごとく数多くあり、興味をそそるが、その辺りのことは各自で調べていただくことにする。
今「お茶」に携わる各位の努力は目を見張る。敬意をもって喫茶させてもらわなければと思う。
私はぬるめの緑茶が好きだ。のどの奥を馥郁たる味が通って行く時、人間の創造の力を改めて知る。子供の頃知った不思議な味とはこの馥郁というものであり、こうして大人になってそのことを表現することが出来た。
利休と秀吉のことをもう一度読み返してみようかと思う。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は先日の第73回行動展に展示された作品です。
  サイズはP150号(162cm×227.3cm) です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.189

9/19日(水)から(10/1迄)行動展が始まります。
ご都合のつかれる方、是非観てください。
招待葉書をご希望の方は仰ってください。まだストックが少しありますので。
尚、私は19〜23日の間は美術館(六本木・国立新美術館)のどこかにいると思います。
宜しくお願いします。

「第73回 行動展」
  ・会場 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
  ・会期 2018年9月19日(水)〜10月1日(月)
   10:00〜18:00(入場は17:30まで)
         休館日:9月25日(火)
         毎週金曜日は20時まで、18時以降は入場無料
         最終日は14時まで、入場は13時30分まで
  ・アクセス 東京メトロ千代田線乃木坂駅6出口から徒歩1分
         東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩5分
         都営地下鉄大江戸線六本木駅7出口から徒歩4分


では《Ryuの目・Ⅱ−no.189》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−過労死を再考−

過労死を定義すると、「長時間の残業をして、精神的、肉体的疲労の結果、
 (1)脳溢血や心臓麻痺などによる突然死
 及び
 (2)鬱病や「燃え尽き」症候群による自殺
となります。
過労死の適切な訳語が英語にはなく、そう言う概念も思いつきません。敢えて言うなら「Death by Overwork」となるでしょうか。過労死と言う日本語には、死亡の責任を本人ではなく、組織の責任に帰したいとする姿勢が伺えます。しかし、芸術家が作品制作のため心身共に燃え尽きて自殺したりする記事が時々ニュースに載りますが、このような「死」を過労死とは云わないようです。芸術家の場合は、自分の「意志」で精力を使い果たしたのであって、その死は、寧ろ「美しく激しく燃え尽きた一芸術家の死」と見なされ、創造力の完全燃焼、などと賛美されたりします。同じ「燃え尽き」た結果の死でも、何故このように異なる解釈がなされるのでしょうか。

私の理解では、「正常時」に機能していた「本人」の「意思と判断力」が「燃え尽き時」にどの程度機能していたかが、解釈の境目になっているようです。例えば芸術家のベートーベンやゴッホヘミングウェイ、更に太宰治黒澤明などは、自殺への誘惑が彼等の作品と何処かで関係していたようで、創作力の源とも理解されたりしています。しかし、これを証明することは不可能に近いと考えます。
もし、上の説をある程度正しいとするなら、「過労死」は本人の「正常時の意志」が機能しなかった「死」であり、強制労働の結果だとして、労働基準法に照らして、責任の大半を組織に押し付け、本人の「意思」に反した無念の死であると結論付けようとしています。私に言わせれば、これは死んだ本人に大変失礼です。しかも多くの場合が、子供や夫など身内の自殺なので、益々「本人の意志」を大切にする必要があると考えますが、如何でしょうか。日本の組織のトップが、絶対君主の如く君臨し、労働者に対して強権を振るって仕事を強要し、労働者は一切問答無用で只服従あるのみ、と言っているようです。
私には納得のいかない解釈です。私も日本人ですので、日本の文化的習慣として或る程度自己の主張を控え、自分の上司や雇い主に対して、「働き過ぎ」であるとか、「身体の調子が悪い」などと簡単には発言し難いのは理解できます。しかし、「死」に至るまで無言で(又は無抵抗で)働くのが、一般の日本人とは思えません。もしそうなら、それは奴隷制度に近いです。

民主主義が多少とも機能している社会では、原則として、個人の意思、権利、義務、責任などにそれ相応の価値を置いている筈です。価値を置くとは、それがよいことである、と上下共に理解を共有し合っていることです。これは、企業でも官庁でも、又は研究組織でも変わらない筈です。日本での訴訟や裁判の際には、この点が問題になっているに違いありません。個人主義の影が薄く、全体主義的傾向のある日本社会にあっても、「個人」の死に至る過程で個人の意思や権利が、それほどまで無視されるとは、想像し難いことです。
アブラハム・リンカーンが、ゲティスバーグで演説した内容を想い起こしてください。即ち民主政治とは「人民の人民による人民のための政治」なのです。
世界の何処にも、このように完璧な形の民主政治や民主主義が存在しているとは思いませんが、少なくともその方向で努力していると考えるのは私だけではないでしょう。日本国民の一人一人が自分の「意志」と「責任」で、働き、楽しみ、生活し、そして他人との協調精神を発揮できるようになる方向で、学校教育や家庭教育に常日ごろ「努力」している筈なのです。もしこの努力が必要とされていないなら、日本は、個人に自由の無い封建国家といわれるべきです。
政治家も教育者も、日本の国会で演じている「責任の擦り合い」を無くして姿勢を正し、個人の自由な意思と責任に、より大きな価値を置くよう「努力」するならば、「過労死」も減少するに違いありません。この「努力」もせずに只単に「働き方改革法」だけを新しく制定しても、日本の文化、文明、民度は上がりません。

アメリカに住んでいる私には「過労死」の問題がこのように映ります。
因みに、日本国憲法の前文には、リンカーンによる演説文中の有名な部分(日本語訳)がそのまま載っています。

そもそも、国政は、国民の厳粛なる信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを使行し、その福利は国民が享受する。
リンカーン演説の日本語訳)
Government is a sacred trust of the people, the authority for which
is derived from the people, the powers of which are exercised by the
representative of the people, and the benefits of which are enjoyed
by the people. (リンカーンの演説の原文)

2018年6月30日 岸本雄二 クレムソン大学名誉教授、アメリカ在住 54年


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その36/四方山話1 −

我が家は1階の居間・食堂・台所が吹き抜けのワンルームになっており、最近はもっぱらここで絵の制作を行っています。そこからは南アルプスを望むことが出来ます。
これまでは2階で制作していましたが、制作するサイズが大きくなってきたので広いスペースが必要になり、止むを得ず1階に下り、居間スペースのストーブの脇で制作しています。

今年始めの冬の時期、行動TOKYO展出品作を制作してる頃だったと記憶してますが、制作の合間に気分転換を兼ねてギターでも爪弾こうと思い、2階に置いてあったギターを1階に降ろしました。しばらくはそこに置きっぱなしだったのですが、6月半ば頃、9月の行動展に向けて制作に取りかかり始めた折、久し振りにギターを爪弾こう思いギターケースから取り出して爪弾いたところ、何か音が変だなーと感じ、ギターを調べてみると・・・何と、表面の板が割れているではありませんかっ! 愕然!!!
ギターケースに入れて置いたとは言え、寒さが残る内はずーっとストーブを使っているので部屋が乾燥状態だった為でした。

このギターは思い出深いクラシックギターです。高校生の頃に安いギターを買って自己流でギターを始めましたが、いずれはギター制作者による手工品のギターを手に入れたいと思っていました。何しろ音色がまったく違いますから。2年間の浪人生活も終わり、大学入学と共にアルバイトをして購入資金を貯めました。いまから50年以上前のことですが、確か5万円ほど貯めたのではないでしょうか。それを持って御茶ノ水の楽器店に意気揚々と向かい、幾つか試し弾きの後、中出六太郎という人の制作したギターが気に入り、手に入れたのです。
嬉しくてしょうがなかった。家に居る時はしょっちゅう弾いていたように記憶しています。青春の一時期です。それ以来このギターは私と共にあり、時々思い出したように爪弾いていました。

そんな思い出深いギターでしたのでこの割れにはショックでした。動揺しました。ネットで修理してくれそうなところを探しましたが、東京あたりは結構あるのですが山梨ではなかなか適当なところが見当たりません。それでもしつこく探していると、白州町にクラシックギター制作者が移住していて修理もしてくれるとの情報を見つけました。調べてみると、17歳の時分からギター製作を始め、スペインの工房で技術を磨き、帰国後東京で楽器制作を開始していたが、1990年から白州に自分で工房を建て始め、1995年からそこで制作を開始したとありまし
た。これは素晴らしい情報を見つけたと思いました。こんな山里の田舎でギター制作者が近くに居住してるとは。これはある“出会い”だなと思いました。
後日、我が家の近くにある温泉で顔見知りとなった画家にこの制作者の話をしたところ、自分の家のすぐ近くで知り合いだと教えてくれました。

それ以来、早く修理したいなと思っていましたが、行動展の制作に入っていたので一区切りつくまで我慢をし、先日やっと行動展の搬入(9/7)を終えた次の日、早速その工房に電話を入れ、アポイントを取ってから午後その工房にギターを持って訪ねました。我が家から車で10分足らずのところでした。
50代後半と思しき、まだ若さを感じる(いささか頭は薄くなっていたが)制作者で、ギターをじーっと見ていましたが、やがて修理の方法を説明してくれた後、快く修理を引受けてくれました。ホッとひと安心。
いつ修理が終わるのかは聞きませんでしたが、なんだかワクワクした気分で家に帰りました。楽しみです。


◆今月の山中事情149回−榎本久・宇ぜん亭主

−現代人ホモサピエンス(知恵ある人)−

私は現代のホモサピエンスと言うことになっている。それでは古代のホモサピエンスの方々とどういう差異があるだろうか。熟考してみた。まず「生きる」という大前提で壁にぶち当たった。おこがましくも彼等より何が勝っているかと考えてみたが、何一つ勝るものがなかった。「生きる」が為の能力を有していないことが判明したのだ。
まず火を熾すことが出来ない。刃物を作れない。木を切り倒せない。狩りも出来ない。家など建てられない。丸木舟も造れない。土器も作れなければ、まが玉の穴さえあけられない。航海などとんでもないし、農作物とてままならない。
しかし、それを今から五千年も一万年も前から彼等はやり遂げていたのである。それも、付随する諸々も作ってである。

現代人の私は、そのことごとくを、他者が作ったものを“買う”という行為で得たものばかりである。そのことは多くの現代人の暮らし方であり、ざっくりと言えば、地球で生きる七十億人の現代人は、数パーセントのとある者達によって操られ、あらゆる分野の長(おさ)の分け前によってこうして現代人として生かされている。要するに古代人のように自力で生きることが出来ない現代人が七十億人もいるということである。ITによるいろいろの分野に屯(たむろ)する現代人は、もしそれが機能しなくなったらどうなるのかと、オンチな私はおせっかいをやきたくなる。現代人が未来永劫進化し続けて行くとしたら、それが人である必要もなくなるのではとも考えてしまう。そしてその逆もある。

生きるため、ほとんどを他者にゆだねている現代人は、この世が再び古代のごとくになったら「右向け右」」で生きてきた七十億人はどうするか。舵だか帆だかは知らねど、かろうじて正常を保たれているそれがある時大きくずれたらどういうことになるであろう。古代人の末裔だから、叡智は発揮されるかも知れないが、もしかしたらホモサピエンス(知恵ある人)の終焉があるかも知れない。

核の保有が世界中に一万四千発以上ある。アメリカとロシアが半数ずつ持っている。持っている国の誰かが正気を失ってそのボタンを押せばもっと早く古代になってしまうかも知れない。知恵ある人(ホモサピエンス)によって、月のように人の居ぬ星にしてはならない。
寝苦しい真夏の夜の夢でした

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズからです。
  サイズはB2(72.8cm×51.5cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.188

夏真っ盛り、まだまだ続きそうです。
ご自愛下さい。

沖縄の翁長知事が亡くなりました。これからだったのに・・・。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.188》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は空閑重則さんです。

−貿易戦争の不思議−

米中貿易戦争が勃発した。しかしこれを「戦争」と呼ぶことが筆者にはどうも腑に落ちないのだ。相手からの輸入品に高い関税をかけるということは、どうしても買いたい消費者は差額を負担して買う訳で、これは自国民に対する単なる増税である。西欧列強が植民地を持っていた時代、列強は植民地の資源や労働を自国内よりも安価に手に入れることで繁栄を享受した。ならば植民地でなくとも資源や労働を安く売ってくれる国があるのならありがたい話ではないか。
安くて良いものを売るのがケシカラン、というのは自分が買うのを我慢できないから困る、つまり「饅頭怖い」の論理である。
結局貿易摩擦と言うものは、変化する世界に自国の社会をどのように適応させるか、と言う問題から発している。米国の自動車産業(一例)が世界のリーダーではなくなった現在、該産業に変化と適応を求める代わりに関税で輸入を制限するというのは選挙目当てのポピュリズムというべきだろう。

技術の進歩は多くの人の職を奪う。明治になって製紙工業が西欧から入ってきた時、和紙製造業は一夜にして終焉した。それまで紙は大変な貴重品であったが、洋紙の出現によって新聞・雑誌の出版業が成立した。手すき和紙は1平方メートル足らずの紙一枚を職人が数十秒かけて抄き、それを多数重ねて重しをのせて水を搾り、それから一枚一枚板に貼りつけて乾かすという方法で作られる。洋紙の機械抄きと比べれば、生産性においておそらく数千倍か数万倍の差があるだろう。(事情は欧米でも大差なく、連続抄紙機が発明されたのは1808年である)
重要な産業だった手漉き紙産業に日本全体では数万から数十万の人が関わっていたと思われる。しかし上記の生産性の差は圧倒的で、製紙産業での打ち壊し(Luddite)の話など聞いたことがない。手漉き和紙は今も細々と存続しているが、用途は工芸品・美術品である。(和紙の質感は洋紙には出せない。しかしコウゾやミツマタを原料にすれば機械抄きでもほぼ同じものはできる。)
そして現在、隆盛を誇った製紙業が下り坂である。コンピュータ・スマホによって紙の消費は着実に減り、製紙会社は皆業態転換を必死で模索している。
好況なのはアマゾン向けの段ボール紙のみ!世界的に見ると日本は保守的で、まだ紙幣を大事に使っているが、いずれは中国のように電子決済が主流になるだろう。

似たような話で、米国でも中国でも現在音楽CD・DVDの専門店・レンタル店はほぼ存在しない。その需要は皆ネット経由に置き換えられたのだ(正確に言うと、中国の場合はできる前に消えた)。こうして見ると、日本は技術的イノベーションは早く取り入れるが、社会的イノベーションに対しては反応が鈍い感じがする。
まあ筆者などにはこれぐらいがちょうど良いが。



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その35/敵もサルもの −

ここ白州に移住した時、我が家には大きな栗の木がありました。過去形で語らなければならないのは、昨年突然枯れてしまったからです。樹齢五十年は過ぎていたと思われます。この栗でお正月の栗きんとんを作っていましたのでとても残念です。
この栗の木は毎年大きな実を沢山つけていました。秋の恵みです。その恵みは我が家にもたらすだけではありません、サルもその恵みを享受するメンバーです。サルにとっては多少人間の目が気にはなるものの、自然の恵みは全て生きる為の対象です。里山が崩壊し、群れを成して人里に出没するようになりました。
そのサルは毎年その時期になると虎視眈々と狙っています。我々も狙っています。我々は木に登って栗取りをするわけではないので、落ちてる栗を拾い集めます。サルは木に登り、木を揺すり、栗を落として、良さそうな栗を食べます。
食べ終わると食い散らかして他に移ります。我々は実はサルが落とし残した栗や自然に落下した栗を拾い集めていました。サルと競争になるのは、自然落下した良さそうな栗の奪い合いです。可能な限り、群れが来る前を狙って栗拾いをします。我々の目の届く時間帯に群れが来ると追い払いますが、サルは木に登ってこちらを見ています。木に登ってこないのを知っているからで、高みの見物を決め込みます。どっちが先に諦めるか、にらめっこと言ったところです。
こんな事が毎年秋に繰りひろげられていました。

もう一つ、サルとの競争はブルーベリーの収穫です。我が家には道路に沿って十数本のブルーベリーの木を植えています。植樹してから5年位経過してそこそこの収穫ができるようになりました。が、毎年7月の時期になると目が離せなくなります。サルとの実の取り合いです。ブルーベリーの木は高さ1〜2m程ですが、サルは実を食べるのに枝を折ります。これが始末が悪い。折角張った枝が無惨に折られ、翌年の木の成長に影響します。それは収穫量にも影響します。幹から折られていたこともありました。
先日、車で帰宅すると、サルがブルーベリーの木に群がっていました。車が近づくと、サッと道路の反対側に逃げましたが、そこで様子見をしています。車を止めて、窓を開け、様子見してるサルを睨むと、向こうも睨み返してきます。
“何か文句ある?”と言った風情で、逃げる様子はありません。車に乗ってるからすぐには攻めて来れない事を知っているからです。車を駐車場まで移動させる間にはブルーベリーの木に戻っていました。車を降りて、ダッシュでブルーベリーの木に向かうとさすがに今度は急いで逃げ去りました。こんなことの繰り返しをしながら、それぞれが恵みを享受しています。(写真貼付)
尤も、農家の方はそんなこと言ってられないようです。
収穫したブルーべーリーはジャムにして、朝食のヨーグルトに加えて食べます。
自然の恵みに感謝!感謝!の生活です。


◆今月の山中事情148回−榎本久・宇ぜん亭主


−雑感三題−

●あらためて言うことではないが、人間は夥しいゴミを作り出し、その処理に悩んでいる。
それもたかだか百年 このかたのうちに起こしたことである。(宇宙 ゴミも含む)
人間以外の生物は排出したものはきっちりと循環をしているが、人間のそれは循環出来ぬものを作り出してしまった。このままの状況が続けば、人間は地球を壊すことになろうと、専門家は口々に警告を発している。本来なら各国の為政者がその危険性を察知しなければならない筈なのだが「フンコロガシ」という虫の知恵にも及ばぬ判断で今日に至っている。
プラスチック、ビニール、原子力発電の廃棄物等々、豊かさの代償によって造り出された処理出来ないゴミのことを七つだか八つだかの国が集まって話をしているようだが大国の横暴ばかりが目立ち、他国の無力さを知る。

●憎悪が私にもあった。悲しく思う。
相手は私とは一切関わりがないにもかかわらず、言動や書物などを見て、その人を勝手に忌み嫌い、批判をし、あげくに罵声を浴びせた。その人に会い、直接とった行動ではないが、こうなると「人間愛」などと口走ってはならない。
相手との乖離があることが解ったことにより、歩みよったり、理解しようという心より、嫌う心が勝り、それが知らず知らず、憎悪になっていた。私にもそ の心がもたげていたのである。しかしこのことは決して許されるものではなく、心を広く持たねば争いとなってしまう。

●人を助けるということは医師の専売特許ではない。助けるという意味は命のことばかりではなく、そこに生じた喫緊の課題に対し手を貸すことである。それはどんな人でもその任にあり、無駄な存在の人はいないのである。それ故使えない奴と葬ってはいけない。
我が仕事であるめし屋は食事を作ることによってその糧を得てもらう。大工さんは家を造ることにより、家族の場を確保してくれる。電気屋さんも宅急便屋さんも美容師さんも役者さんも、とにかくありとあらゆる方々のお陰で助け助けられている。それは決して大ごとではなく、そういう方々の複合によって世の中が形成されている。
ただし、政治家と公務員はそのことが「義務」であり、自分を助けてはいけない。


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◆Ryu ギャラリー

 今月の一枚は二十歳前に描いた素描画です。
  ベートーベンのライフマスク。
  当時はベートーベンの曲を毎日のように聴いていました
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.187

例年よりはるかに早い梅雨明けを迎えたかと思いきや、
降り続いた豪雨は甚大な被害をもたらしました。
多くの方が亡くなられた。ご冥福を祈ります。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.187》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫 惠吉さんです。

先日東京京橋に新しく開設された「国立映画アーカイブ」の開館記念展示、「没後20年 旅する黒澤明」と題したポスターコレクションを観てきた。世界30カ国にわたる黒澤映画のポスター84点を中心にその他の資料も含め
て展示されている。(開催期間は9月23日まで) 館内の常設展示場には映写機などの機材、写真資料多数が並べられ近代日本の映画史が綴られていてこれも面白い。

私は黒澤の没後1周年を記念して1999年12月にNHK-BSが主要作品14本を連続上映した際、それを全部ビデオ録画して残しておいた。たまに観直すが、黒澤作品は1943年の「姿三四郎」に始まり1993年の「まあだだよ」で終わる。
羅生門」で1951年のベネチア映画祭グランプリ、アカデミー賞最優秀外国映画賞、1952年の「生きる」でベルリン映画祭銀熊賞、1954年「七人の侍」でベネチア映画祭銀獅子賞、58年「隠し砦の三悪人」ベルリン映画祭銀熊賞、と続いて、私が「映画の旅」を始める前にすでに「世界のクロサワ」の評価は確立していた。
この後も日本と各国の映画祭での受賞が続くが、全30作品のうち受賞作は16本に上っている。数え上げればきりがない。 しかし、興味深いのは円熟期の作品としては珍しく無冠の「用心棒」(1961年)が、実は数多ある世界の映画の中で特別の作品だったことだ。1964年、これを「無断拝借」したセルジオ・レオーネ(監督)が、クリント・イーストウッドを主役に抜擢し、エンニオ・モリコーネの音楽(映画音楽のスタンダードとなった「さすらいの口笛」)を背景に造り上げたのが「荒野の用心棒」だった。 そう、新たなジャンル、一世を風靡した「マカロニ・ウエスタン」の第1作にして最高傑作と言われたあの映画なのだ。

隠し砦の三悪人」(1958年)以来娯楽路線をばく進中の黒澤プロ=東宝コンビにとって、決して台所は豊かではなかったので、黙って見過ごすわけにも行かなかった。レオーネを告訴し勝訴、かなりの金が転がり込んで、息を継いだと言われている。東宝としてはしてやったりだったかもしれないが、黒澤は複雑な気持ちだったようだ。と言うのは、そもそも「用心棒」自体がダシール・ハメットハンフリー・ボガートを世に送り出した1941年作品「マルタの鷹」の原作者)の「血の報酬」の翻案で、しかも限りなく無断借用に近く、これは黒澤も認めていた、と言うから面白い。 
二つの勢力を対立させて手玉に取る、痛快この上ない筋立て、「”勧善懲悪”時代劇」や「”フロンティアスピリット”正統派ウエスタン」にはお引き取り願って、派手な殺陣(残酷描写とアクション)で魅了する。結局大衆娯楽作品は面白いかどうか、楽しめるかどうかであって、観客は著作権など気にしない。

黒澤映画の撮影技法として、「七人の侍」で確立した複数のカメラと望遠の多用、有名な(モノクロフィルムに映りやすいように墨を混ぜた)「黒い雨」、そして背景に自然や天候を効果的に使って観衆を飽きさせない工夫(雨や砂嵐)などなど............があると言われる。 処女作「姿三四郎」は戦後の映画撮影技術からみれば稚拙でつまらない、と言う人も多い。烈風吹きすさぶ荒野、なびく草、雲の動きがあればこそ二人の柔道家の(ゴソゴソした)動きを「決闘」らしく見せてくれる。彼が確立し世界の映画人に一般化した技法は他にも多数ある。(「黒澤明の映画術」1999年樋口尚文著)

ポスターの話に戻そう。決して演技力に秀でていると言えない三船敏郎を「世界のミフネ」に押し上げたのが「誇張」「派手な動き」である。「羅生門」では画面の中を猿のように飛び跳ね、目をひんむいて見せる。これが今度の映画ポスター展で楽しめる黒澤の技法なのだ。イギリス版「SEVEN SAMURAI」、アメリカ版「Yojimbo」、西ドイツ版「Rashomon」、などなど。展示を観れば、「現代における映像のシェークスピア」とまで言われた黒澤が、世界中の人たちにどのように娯楽を提供し、何億という人たちに愛されたかがよくわかる。



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 非日常三題 −

東京に居る時は自然と接触する時間は非日常的な出来事でしたが、移住生活も10年目に入ると自然との接触は日常的で、逆に東京生活ではそれ程特別ではなかったイベントが非日常的な出来事と感じる事があります。
目下の日常は、絵の制作、畑仕事、にわか大工ですが、前回の“Ryuの目”発信からひと月の間に非日常的な出来事が三度ありました。

・その一
渋谷の東急シアターオーブで“ビートルズもどき”を楽しんできました。これは、ビートルズのデビュー50周年を記念して作成されたトリビュートライブショーで「レット・イット・ビーPART?」と名付けられたライブツアーです。“父の日”にとティケットをもらいました。
会場は2、000人近くを収容する劇場で、開演時にはほぼ満席。見渡すと白髪やテカリ頭が圧倒的に目立ちます。ビートルズ世代を対象にしてるようですからやむを得ません。
メンバー4人が舞台に登場。 ジョン・レノンもどき、ポール・マッカートニーもどき、ジョージ・ハリスンもどき、リンゴ・スターもどきの4人です。デビュー時から時間を追って曲を歌いこなしていきます。当然、衣装や髪のスタイル(カツラ)も当時に合わせています。デビュー当時は黒のスーツ、「サージャントペッパーズ」ではカラフルな海賊衣装に、「アビイロード」ではポール・マッカートニーもどきは裸足、ジョン・レノンもどき白のスーツです。
舞台の両袖からは、昔のテレビを模した巨大な画面から映像が同時並行で流されます。サイケデリックでカラフルな画像や時代時代のエポック画像が紹介されます。その中にベトナム戦争に反対する映像も流され、当時が彷彿されます。
何だかんだ言っても、現代の神経症的社会状況に比べてまだまだ大らかさがあった。人間味があった。

・その二
5月19日から7月16日まで山梨県立考古博物館で「古代アンデス文明展」が開かれています。つい先日このことを知り、急遽出向きました。東京からも小、中学生の団体がバスで来ていました。
ナスカの地上絵、インカ帝国のマチュ・ピチュ遺跡、などなど断片的にしか知らなかったアンデス文明。15,000年にも及び多種多様な文化が繰り広げられていました。
文字を持たないこの特異な文明で私が特に目を惹かれたのが、土器などに見られる豊かな造形力、細かい細工の施された装飾品やマスクに見られる象形の素晴らしさ、そして刺繍などの豊かな色彩でした。土器の意匠が意志疎通のツールとなっていたそうですが、その表現力は、隣の部屋で展示されていた縄文、弥生土器などとの違いは歴然としてました。
その中で、いささか衝撃的に印象づけられたのは前1,200〜前800年の頃の土器に「自身の首を切る人物の象形鐙型土器」というのがあり、宗教観の問題とは言えこれには次元を越えた驚きがありました。(写真貼付)

・その三
北杜市姉妹都市になっているアメリカ・ケンタッキー州マディソン郡のベリア市からアメリカ人家族5人が4泊5日で我が家に逗留しました。これは我が三女が5月に姉妹都市交流でベリア市に行った際にお宅に招かれて知り合ったようで、たまたま休暇で日本旅行を計画していて北杜市にも寄るとのことで、ならば我が家に来ればとのことで来訪。外国人が我が家を訪れることは何度かありましたが、家族での逗留は初めてのこと。
我が家は移住に際して基本的に夫婦用に住まいを計画しました。1階の寝室や浴室・トイレを除けば部屋の間仕切り壁は無く、居間・食堂・厨房スペースは吹き抜けで、2階の16畳のスペース(半分は私の仕事スペース)と一体となっていています。2階も間仕切りは無く、吹き抜け部に面してる部分は透かし状の手すり(階段も手すり壁無し)あるのみ。こんな空間ですので、それぞれの家族の仕草は全くのオープン状態。
夫婦は40歳台、13歳(男)、11歳(女)、9歳(女)の5人です。当初、多少緊張したもののやがて打ち解け、5日間の内3日間は雨で家に居ることが殆どでしたが、違和感なく共同生活的な時間を過ごすことになりました。極端な表現をすれば、今のトランプ的人間とは対極にあるような人達で、優しく静かで、思い遣りのある穏やかな素敵な家族でした。
リラックスして楽しんでくれたようで、お互いにいいメモリーになりました。



◆今月の山中事情147回−榎本久・宇ぜん亭主

ネイティヴ・アメリカン

アメリカの先住民に言い伝えられていることを知った。かつて動物、植物、鉱物にいたるまで、そのすべては人間であったという。その後創造主が現れ、現在の動植鉱の姿に分けられたのだそうだ。元来が人間であったゆえ、人間の言葉を解するのは当然であった。それが自然に対して畏敬の念を持ついわれだったのである。自然に対し、何かを始める時、呪い(まじない)や赦しを唱えるのはその為である。
この国で育った私は自然に対してそういう考えを知ることもなく生きて来た。しかし、自然の洗礼は途方もなく絶対的である。そのおそろしさに対し、捉え方は違っても畏敬の念のようなものは持っていた。自然の持つオアワーには人智では抗えない事を私はとっくに見せつけられていた。にもかかわらず、長じなければ畏敬というものを理解出来ずにいたのだった。
アメリカの先住民の暮らしは高度に発達した世界最大、最強の国の中にあって、かつて人間であった石や木、動物や魚などすべての命に敬意をはらいながら、生活の基盤を形成していることに興味をもって聞いた。
見返りを求めぬ分け与える精神は気の遠くなるはるか以前から行われていて、彼等の精神的支柱である海、山、川、森にはあらゆる可能性が秘められていて、心の拠り所として今日まである。
アメリカの近代映画に見る彼等は賊徒としてのインディアンで登場し、迫害を受けるシーンばかり強調されているが、自然の摂理の中で暮らす彼等に人類の本質を見せられた。二〇世紀から二十一世紀にかけて人類は急速に進歩した。
あらゆる分野に於いて一新したかもしれないが、それが果たしてこれからの人類の暮らしに担保出来るのであろうかは胸を張って「イエス」とは言い切れない側面もあって気になる。
先住民の暮らし方を学ぶことはたとえばアマゾンに住む人々の暮らしだ。たしかに近代文明の波は押しよせているようだが、大樹林の中で環境を保ちながら緑の富を得て羨ましい暮らしをしている。

人類は富める者と富まざる者に二極化し、国も又同様になってしまった。文明の壮大な夢は決して素晴らしいことばかりではなく、悪用されれば全世界的なことになる。人間は日々進化しなければならないと言う定義はない。先住民の生き方も確かに変わって来たことは否定できないが、精神的構造は貫かれている。百年前に彼等の言葉は取り上げられ、イングリッシュになった。だが今も歌の中には彼等の言葉が秘められ、今にうたい継がれている。それは争いのない平和の為の祈りの歌であった。アメリカの都市での暮らしを考えれば、何もかも足らないと思われるようだが、生きる為に足らないものは何もないと言い切る。文化の継承も若い人が率先して受けていることに感銘をした。
我が国に於いては明治政府がアイヌ民族に対し同化政策を施したことにより、アイヌ語はじめあらゆる文化が衰退した。
これを由と判定を下すことはさて・・・・

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 目下、秋の行動展に向けて制作中ですので、
 今月の一枚は二十歳の頃描いた素描画です。
 人体のクロッキーですが、何処で描いたかが思い出せません。
 お楽しみ下さい(写真貼付)。