★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.181

新年明けましておめでとうございます。
本年も「Ryuの目」を宜しくお願いします。

白州の新年はお天気に恵まれました。(写真添付)

さて、世界は、日本はどんな一年になるのでしょうか。
いずれにしても安寧な一年とはなりそうにありません。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.181》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は空閑重則さんです。

−大人読み−

学生の頃、試験が近づくと無性に小説を読みたくなって困ったものである。
たぶん眼前の義務から逃れるための現実逃避の衝動だったのだろう。ところが古典の名作は読むべきだと思っていても、試験が終わるとほかの遊び(麻雀、山登り…)に忙しくなり、題名は知っていても読んでいない名作は山のようにある。
という訳で時間のできた今、積年の課題を片づけてやろうと思い始めた。図書館に行って 棚をあさるのだが、なぜか読みたくなるのが昔読んだ本なのだ。公共図書館は何しろ只なので<*1>好き放題に借り出せるのがありがたい。
学生の頃に感銘を受けた書を読み直すと、記憶とかなり違っていたり、昔は分からなかった含意に気づくことがあったりして興味が尽きない。

最近読み直した本:
罪と罰:最近「≪罪と罰≫を読まない」という変な本が出ている。 抱腹絶倒。
赤と黒:本と別に、中国語独習用の教材として吹替え付きのフランス映画DVD
 を北京で買ってきて使用中。ジェラール・フィリップダニエル・ダリュー主演(1954)。
 ジュリアン・ソレルが中国語で喋るというのもオツなものだ。
 ただしこのジュリアンはやや老けた感じで違和感がある。適役は若い頃のアラン・
 ドロンかなあ、いや彼ではヤクザっぽくなるなあ、などと考えていたら、フランス
 のテレビドラマ版(2013)DVDが出ていて、なかなか出来が良い。
 唯一の難はジュリアンが長身過ぎること。
・「エロ事師たち」など野坂昭如作品: あらためて凄い作品、凄い時代だったなあ
 と感銘。
朝永振一郎の解説・随筆集 刺激されて「量子力学」を読み直す予定。
・(以下は映画) 1984年:本は昔2回読んだ。古い映画のDVDがあったので鑑賞。
 隣国の現実はこの内容を凌駕すると戦慄。
カズオ・イシグロ日の名残り」:軽薄にもノーベル賞記念に映画を鑑賞。
 前から本を読もうと思っていたが、映画の出来が良いので「もういいか」となった。
 映画化されていないものを読む予定。

という訳で肝心の未読名作になかなかたどり着かないが、まあ焦ることもないでしょう。
今後の予定:(新規)三島由紀夫島崎藤村トマス・ピンチョン、フィールディング(再読)ドストエフスキーカラマーゾフ、悪霊)、 漱石

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.180

師走です。
また一年が過ぎようとしています。
世界は不安定要素を増しています。
国内も閉塞感が感じられます。
来年はどんな一年になるのでしょうか。
どうぞ良い年の瀬・新しい年をお迎え下さい。
来年も宜しくお願いします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.180》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

一年はあっという間に過ぎる。ちょうど一年前の12月7日、米誌「タイム」は恒例の「Person of the Year」にトランプ次期(当時)大統領を選んだ。表紙に彼の写真を掲載し、「President of the Divided States of America」と記した。一年後の今、大方の懸念を上回る速度で悪い方向に走っている。
就任早々イスラム圏からの入国を禁止する大統領令を公布、だが全国的な州レベルの反撥を招き手直しした第二の大統領令を出す。夏に「白人至上主義者」を曖昧な態度で擁護し、全米で人種差別主義的な憎悪と対立を煽ったのも記憶されねばならない。すでに4月に保守派の判事を任命(補充)し、連邦最高裁で保守派が数的に上回っていたお陰で、12月4日、9月の大統領令を連邦最高裁から容認された。矢継ぎ早に12月7日にはエルサレムイスラエルの首都と見なす「公約」を実行すると宣言した。「テロリズムに反対する」と言いながら、実は「テロリスト」を大量に産み出す環境作りに余念がない。 トランプは「差別はあるが、差別は克服すべき、という理念で結ばれた共同体、つまり合衆国という政治的なシステムそのもの」をバラバラにしようとしているのだ。
 さて、「Divided」が「United」を切り裂き脅かしている今、私が「unite」という英語を知るようになったのはいつだったのだろう、と記憶をたどってみた。
合衆国を「The United States」と称するのを、中学生の時に知っていたかもしれないし知らなかったかもしれない。だが、はっきりしているのは中学の時に観たチャップリンの映画「独裁者」の中で彼が「...........unite!」と叫んでいた記憶だ。

当時その言葉を十分に理解することはできなかった。だから意味としてではなく音として耳に残っている。
トメニア国の独裁者ヒンケルユダヤ人絶滅と世界征服を企んでいるとき(風船でできた地球儀と戯れている有名なシーンがある)、そのユダヤ人ゲットーにはヒンケルとうり二つの床屋が住んでいた。彼は突撃隊に抗い収容所に送られるが脱走する。その時総統と間違われ、壇上から世界に向かって演説する羽目に陥った。
最初はおずおずと語り出す。「申し訳ないが、私は皇帝にはなりたくない。支配もしたくない。できれば皆を援助したい、ユダヤ人もキリスト教徒も、黒人も白人も。人類は互いに助け合うべきだ。他人の幸せを願い、互いに憎しみ合ってはいけない。」 だんだん熱を帯びてくる。「世界には全人類を養える富がある。人生は自由で楽しいはずなのに、貪欲が人類を毒し憎悪をもたらし、悲劇と流血を招いた。機械は貧富の差を作り、知識を得て人類は懐疑的になっている。
思想だけがあって感情がなく人間性が失われている。知識より思いやりが必要だ。思いやりがないと暴力だけが残ることになる。」 と説き来たり、最後に「Soldiers, in the name of democracy, let us all unite! 」と叫ぶのだった。

映画「独裁者」は1940年公開(米国。日本は1960年)だが、38年頃から構想が練られたと言われている。1938年と言えばオーストリア併合と反ユダヤ主義暴動「水晶の夜」で、ナチスの世界征服とユダヤ人迫害絶滅計画が転換を画した年だ。 こうしてナチズムを非難するとき、彼はしかし、決して離れた異国のことを憂えているのではなかった。
米国内での黒人系市民に対するリンチ殺人は年ごとに増え、リンチに対して抗議し、黒人を自由な人間として誠実に威厳を持って扱うべきとする映画作品も出てきた。反ユダヤ主義、宗教的不寛容を曝露し批判する映画も増えてくる。
アメリカにおける少数派、メキシコ系市民を誇り高く描いた映画も登場した。ドイツ経済の復興を通じて自身の利益を計るだけでなく、進んで「第三帝国」を金融面、産業面で支えることになった企業は数知れない。ナチズムとの親和性を隠そうともしない企業家は多くいた。ヘンリー・フォード反ユダヤ主義の記事を集めた「国際ユダヤ人」を刊行し、のちのナチス党指導者に広く読まれた。
チェースマンハッタン、モルガン、ユニオン銀行、スタンダードオイル、GM、デュポン、IT&T、コダックコカ・コーラ、フォード、などなど。 ドイツ・フォードはユダヤ人皆殺しに使われた悪名高いチクロンBを供給した。GMが系列下に入れたオペルはドイツの中距離爆撃機用のエンジンを供給、世界初のジェット戦闘機メッサーシュミットME-262の開発にも協力した。IBMの傘下企業の提供したパンチカード機のおかげで、ドイツ政府は1930年の国勢調査を集計し、その結果としてユダヤ人を特定できたと言われている。この企業の計数機はデータ統合の飛躍的進歩をなしとげ、企業がナチス支配下に入ったときアウシュビッツへの列車を時間通り運行させるのに役立ったこともわかっている。数え上げればきりがない。まったく胸苦しくなってくる。IBMのワトソンはナチス政府からドイツ鷲大十字勲章を受章している。1938年オーストリア併合の直後、ヘンリー・フォードも同じ勲章を授与されている。
 「モダンタイムス」(1936年)で機械制工場制度を、「独裁者」(1940年)で戦争そのものを、「殺人狂時代」(1942年)では体制を告発したチャップリンは、「ライムライト」(1952年)では一転して内省的になっていくが、その時すでに合衆国を追われていた。
 私は中学時代に「映画の旅」を始めた。好奇心の塊だった少年は大人の目を気にすることなく映画館に通った。(殆ど洋画) 軍国主義日本では上映が許されなかった名作の数々、ハリウッドを席巻したレッドパージがほぼ終息に向かっていたが、それまで偽名や代筆で糊口をしのいでいた名脚本家の珠玉の作品群、、これらが一斉に私が当時住んでいた地方小都市にも届けられたのだった。
 中学から高校時代、さらに大学・成人にかけて観た映画は数百本にのぼる。これらの記録はない。だが記憶はある。記憶は日々薄れていくし、この数年速度を増している。そこで少し整理して残そうと思った。特に注釈をつけた映画以外は全部観ている。記憶を確かめるためにDVDを手に入れたものも一部ある。
 しばらくお付き合いください。    (続く)



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 紅葉/ぶらっとICU −

11月の半ば過ぎ、用事でしばらく東京に滞在することになり、その合間を縫って三鷹市にあるICU(国際基督教大学)の紅葉を求めてキャンパス内散策をしました。今回が何回目になるのかは忘れましたが、このキャンパスにはいろいろ思い出があります。
初めてこのキャンパスに行ったのは、大学受験で浪人していた頃です。今から50年以上前のことです。緑が多くて素晴らしいキャンパスだと聞いていましたので、一度行ってみたいと考えてました。三鷹駅からバスで大学構内まで行き、下車後しばし散策したのち散策路から離れて樹林に入り、そこに寝転がって春の陽を浴びてたのを覚えています。青春の揺れ動く心にあてがった束の間の“癒しの時間”です。
その次は、構内の礼拝堂での結婚の立会人として行きました。20代後半だったでしょうか。結婚する知り合いは歳下ではありましたが、そんなに離れてるわけではありませんでしたから、友達感覚で引き受けたのだと思います。特に何かをした記憶はありませんが、キャンパスの素晴らしさは記憶にあります。
その後暫くは行くことはありませんでしたが、今から18年程前、三鷹市での「三鷹市民プラン21会議」という三鷹市の基本構想策定に市民からの視点で提言する活動に2年間参加し、その活動の延長で「まちの風」というグループを作って、三鷹市にある景観での“いいとこ”探しをした時にICUを訪れました。そこで、このキャンパスの紅葉に初めて出会ったわけです。東京でこんな素晴らしい紅葉を観ることが出来るのだと知り、以降、機会のあるごとに紅葉シーズンには訪れることにしました。

この広大なキャンパスは広さが62万平方メートルあるそうで、校舎や研究施設の周辺に学生寮や教職員住宅が樹間に点在しています。何しろ自然豊かな素晴らしいキャンパスです。
緑豊かなこのキャンパスには様々な種類の樹木があります。樹木は私の絵の大切なモチーフですが、ここに来れば様々な樹木の形を目にすることが出来、とてもありがたい場所です。ヒントを得たくなった時は紅葉に限らず訪れることにしています。自然は思いも寄らないような形を作り出します。

今回は訪れたのが11月の半ば過ぎということもあり、紅葉シーズンとしてはピークを過ぎていましたが、それでも目を楽しませてくれるには充分でした。
(写真添付)
いつもは散策コースが大体決まっているのですが、今回はいままで歩いたことのなかったコースを歩きました。特別な発見はありませんでしたが、心を充分に癒してくれる空間です。人影も少なく、静寂が支配していました。ベンチに座って、持参したおにぎりを頬張り、しばし紅葉に見とれていました。


◆今月の山中事情140回−榎本久・宇ぜん亭主

−競合−

今から五十年前、私は西武鉄道系列の静岡県三島市に本社のある伊豆箱根鉄道に、金のたまごとして入社した。入社日から一週間、われわれは会社の事業内容を知るため各事業所に引率され、社会人(社員)になるが為の研修が行われた。それまで定時制の学生だったゆえ半社会人でもあったが、東北でのんびりとしていたそれとは違い、これが社会の最前線で働くというものを目の当たりにした。会社の人事担当の方は他社との比較をよくした。本業の鉄道部門のほか、観光部門、運送部門があり、それがことごとくライバル会社と競合するため、その仕事は熾烈を極めていた。特に箱根の観光事業に於いては東急とのシェア争いで、俗に「箱根戦争」とも言われるほどだった。
何ひとつそのような社会の仕組みなど知らぬ少年、少女の我々は初めて世の中の厳しい断面を見せつけられた。新人の我々以外この会社の社員は日々その状況の中で仕事をしている。だが、我々はまるで観光客のようであった。
人事の担当者は、ことあるごとに『箱根戦争』を口にし、会社の優位性を伝えるのだが、その理解は即座に出来るものではなく、その後各事業所に配属後、上司、先輩を通して徐々に知ることとなった。
西武、東急のの競争はその後も競合する事業展開が全国で繰り広げられているのは多くの方がご存知と思うが、昔のそれはかなり露骨に張り合っていたが、今は紳士然としているであろうかは知らない。
今西武は、私の住む秩父を盛り立てている。テレビコマーシャルも盛んに流し、アピールをしてくれているが、ここでは対抗相手となる東急はない。昔を知っている私としては東急が何かこの町に仕掛けてくれないものかと思っているが、その姿はない。西武自体も別に新しい事業を興しているわけでもなく、既存の神社仏閣と自然をアピールしてるのみだ。
かつては、野外音楽堂やプール、ショートコースのゴルフ場(閉鎖)、ゴーカート場などを直営していたミューズパークがあったが、そのすべてを市に譲渡し、今は電車を増発してお客を運んでいる。
何かのデータで知ったのだが、秩父には年間九百万人の観光客が訪れていると言う。私の方にはその恩恵はほとんどないのでそのデータをにわかには信じられない。滞在型の箱根と違い、日帰り型なのが秩父での観光なのかも知れない。
それなら合点がゆく。
伊豆箱根鉄道は図らずも入社数ヶ月で辞めてしまいました。

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「戯」シリーズです。
  サイズはA4(29.7cm×21cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.179

秋真っ盛り。
先日、我が家の近くの日向山(標高1,660m)に登ってきました。
通常は、我が家から車で15分ほどの矢立石登山口まで林道を行き、そこから上り始めるのですが、この日はその林道が土砂崩れで通行不可。
やむなく尾白川渓谷沿の竹宇駒ヶ岳神社の登山口から入りました。
標高差900m、結構ハードな登山になりました。往復6時間!!膝ガタガタ。
頂上近辺は秋、秋、秋でした。
頂上からの眺めを添付します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.179》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          以前いただいていた話題です。

−エネルギーと産業と人口、文化と文明と幸福、競争とエゴと民主主義−

理論や思考の展開に費やされるエネルギーとその内容をリスクを伴う投資として考えると、当然見返りを期待したくなる。日曜日の午後をこの展開に使うにはもってこいだ。
現在から未来へ向けての人類の平和を考える時、人は上記タイトルが示唆する相互関係について何らかの思考を巡らさざるを得ないだろう。この中でたとえどの言葉の定義や関係に手を入れるにしても他の言葉の協力が必要になってくる。要するにそれぞれ相関関係にあることが分かってくる。数学の函数に似ている。その中に横たわるかもしれない政治の問題、宗教の問題、経済の問題、教育の問題、質の問題など、どれ一つを取ってみても表題が抱えている問題の複雑さや不明瞭さに突き当たる。一つだけ解決しても問題の本質に迫れないので総合的なアプローチが必要になってくる、ということだ。
例えば、産業界では殆どの場合、世界規模の競争をしていてそれをサポートするエネルギーと資源は人口の増加を許しているというよりは奨励しているかのようだ。しかし地球が十分なエネルギー資源を供給できなくなって悲鳴を上げているのというのに、人は聞こえない振りをしている。何故だろうか。人類の文明はその程度のなのかと気付き、情けなくなってくる。いや、頭脳明晰なる民間人は多くいるのだが、その優秀なる人達の示唆に溢れる文明評論に耳と傾けようとするほどの優秀な政治家がいない、ということなのだろう。有能な人材が政治的指導者にならないのだ。いや、なりたがらないのだ。あたかも自嘲したかのように尻をまくって、私はドジョウだといってその言葉の後ろに隠れてはみたが、所詮ドジョウはドジョウでしかなかった、と自他共に気が付いたようだ。

あらゆる簡便さへの貪欲なる追求が創造性に支えられた技術の急速な発達を促し、その結果として発展して来た現代文明を、人類はいま制御できなくなってきている。しかし皮肉なことに、この制御技術こそが電子技術の最先端部門であり現在正に経済の中心的存在になっている。この状態を通して将来を透かしてみるとき、恐怖心に襲われることがある。
一方では、歴史の中に置き忘れてきたかのような宗教が、すなわち、論理の届かない信仰の世界が紛争の原因となり、大規模な殺戮が繰り返されているのが現実だ。幸福への道が平和の追求と考えられているうちはまだ良かったが、幸福と平和が同義語のように近ずき、いつの間にか平和なら幸福だ、と言うような単細胞的で幼稚な論理がまかり通る段階へきてしまったようだ。恐らくはこの幼稚さが故に、幸福という一番大切な概念や具体的な目票が教育の実践に反映されていない、というが甚だ困った状態を導きだしてきているのが現在の教育界である。教育者が質の低い政治家とおなじような間違えを繰り返しているような気がしてならない。しかもその教育者や政治家が後生大事に推進してきた民主主義の、その第一義でるはずの「機会均等」が、競争とエゴ問題の狭間で公正である筈の競争が必ずしも公正になり得ない状態を露呈している。
アメリカ式民主主義はこの弱点に気が付いているようだが、次の来るべき主義や方法を打ち出せずにいる。まだ新(民主)主義を生みだすための必要性を十分痛感していないのだろう。幸か不幸か日本にはアメリカ式民主主義はまだ根付いていないので、日本に適した新しい主義を構築したらどうであろうか。

歴史上一番長続きしたといわれるローマ文明でも、論理と同居できない宗教によって崩壊してしまった。現代のEUでは、歴史、文化、宗教には手を触れず、主に経済でヨーロッパを結びつけようとしている。これに軍隊が加わればローマ帝国と似てくる。ローマ帝国の敵は初めはアラブとゲルマンであった。現在のEUでは、USA、中国、インドなどの人口大国が経済競争相手として控えていて、そのどれをとってもEUよりも大きいのである。よってEUは地球規模の資源の枯渇に対する余裕があまり無く、競争という挑戦に勝つためには何でもする状態にいる。今アメリカの大統領選挙間近かで、立候補者の演説がさかんであるが、その焦点は経済問題である。選挙民は地球資源や人口過多を問題に聞く耳をもたないので、失業率や経済開発がその議論の中心になり、如何に資源を有効に利用して生産を増やし製品を売りまくって雇用を増やし、と言う議論である。嗚呼!
他の惑星を探し、生命の起源を考えたりするのはよい。しかし地球がもうパンク寸前となり、駄目になってきたので逃げ出し、他の資源豊かな惑星へ行って、そこをほじくり返して汚染して、又どこかを探そう、と言うようなとんでもなく無責任な考えが、見え隠れしているので、これが逆に人類の地球に対する浅はかな考えを露呈している形になっている。全く末恐ろしい。文明が作り出している大量の廃棄物を、地球上では埋めるところが無くなったり、遂には宇宙に捨てたらどうかと言うような無法な意見まで出るにいたっては、上の私の危惧は、現実性をおびてくるいっぽうである。嗚呼!

膨大な負債を抱えた日本やアメリカでよく聞く言葉が「我々のツケを次世代に負わせたくない」というものだ。現在の負債は現在の我々が始末する、ことから目を背けてはならない。当たり前である。負債を支払うのは、将来の世代に迷惑をかけたくないから。ではない!こんな屁理屈を平気で話す政治家や学者には、その場でその無責任さを謝罪して即刻辞任してもらいたい。正直いって、このようなことを平然と公衆の面前で表明させている公衆(市民)にも問題がある。「自分のツケを自分で支払わなくてもよい」と示唆するようなどんな表現も許されるべきではない。選挙民はそのような出鱈目な思考と道徳を許してはならない。当たり前である。

今朝走っていると上空100メートルぐらいのところで鷹が旋回しているのがみえた。そして100メートルぐらいその上にもう一羽が輪を描いていた。走るのを止めて上空を更によく見ると、何ともう一羽が更にその上空100メートルぐらいのところをゆっくりと浮かぶように回っているではないか。三羽の鷹が重なるようにまるでシンクロナイズッド空中遊泳しているように優雅に秋の空を楽しんでいた。これが偶然とは思えない。彼らは家族か友達か、とにかく親しいなかなのだろうと想像してみた。目に見えない階段があり、それをゆっくりと上昇しているかのようであった。または、一羽が300メートルにわたる巨大な蚊柱を発見して親友を集めてきて、昼食会でもしていたのだろうか。
鷹は猛禽類なので蚊は食べないかもしれない。でも私を優雅な思考に導いてくれた。鷹君たちよ、ありがとう。
考えてみると、鷹は飛べなくなると一生の終わりである。他の動物も大体そのようである。しかし人間は動けなくなってから10年も生きている場合も珍しくは無い。人間は種としての動物ではなくなったのだろうか。どうりで人間は、自然のサイクルを狂わせて、自身も自然のサイクルから離れて、廃棄物を山のように吐き出し、自分の汚物の処理もできなくなりつつある筈だ。動物のようにもう一度自然循環の輪の中に入り、謙虚になって来し方行く方を大きなスケールで省みて、本来の人間としてあるべき姿とは何なのか、を考えてみる必要がありそうだ。文明もよい、民主主義もよい、自由競争もよい、エゴもよい、え!そうだろうか。動物には文明も民主主義も自由競争もないはずだ。では、エゴはどうであろうか。恐らくはエゴをエゴと意識することなく考えて行動に移し、自然のサイクルを満足させているのだと想像する。
人間はみなエゴの塊であるが、道徳や常識や法律を打ち立てて、エゴによる摩擦を解消しようとしてきた。時々我慢ができなくなり喧嘩や大量殺戮を起こしてはいるが。今も中近東では大変きな臭い雰囲気が漂っている。エゴのぶつかりあいだ。Life of Pyeという小説が映画化されたらしいが、動物の中で一番恐ろしく、野蛮で、醜い人間と動物園にいたトラとの話である。全く面白い内容だ。
ここにエネルギーと文明とエゴが相互に関係している様を少し観察してみたが、私の常識では、人類の将来は、地球上に生息する幾多の生物のなかで、人間としての本来の役目は何なのであろうか、を追求するところからしか救いは無いように思える。私は毎日ランニングするたびに、これが他人の役に立たないものだろうか、と、つい考えてしまう。こんなに楽しいものが、楽しみだけで終わってしまっては申し訳ないような気がするのである。

2012年11月18日、日曜日 自然と一対となる瞬間を楽しむ元気な老人
                                      岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 美術館/ぶらっと村山 −

この10月は二度ほど山形県に行きました。今回の“ぶらっと”も山形の内陸で、天童より少し北にある村山市。超大型台風が日本を縦断するという予報のもと、夜11時過ぎに我が家を出発。雨の中を車で山形に向かいました。
我が家から北東方向に向かうルートで、秩父、熊谷を抜けて羽生ICまで一般道を行きます。秩父雁坂トンネルを抜け、暗闇の山中をくねくねとひたすら走り羽生ICを目指します。羽生からは東北自動車道で福島飯坂ICまで行き、福島飯坂からまた一般道で米沢を通って昼前には村山市に入りました。途中、東北自動車道のPAでの仮眠を含めておよそ12時間のドライブ。

村山市では3時間ほどの時間があったのでネットでみつけた美術館に行くことにしました。台風の影響でそれなりに雨が降っていましたので、天童の時のように自転車でぶらぶらと言う訳には行きません。車のナビに導かれて中
心街から離れること15分ほど、田畑を抜け、曲がりくねった道を進んで小高い丘に。
十数年前に出来たという最上川美術館に行きました。こぢんまりとした美術館です。台風予報下の雨の日曜日でしたのでさぞかしガランとしてるだろうと思いきや、駐車場には多くの車。聞けば、この日は室内コンサートが開かれることになっているとか。場所と展示作品の情報だけ見て来てしまったことに我ながら苦笑い。

この建物は「最上川美術館・真下慶治記念館」が正式名称のようで、真下慶治常設展示室のある棟と多目的・企画展示室のある棟がラウンジを挟んでV字型に設けられています。地元出身画家の作品展示と、様々な展示やイベントなどが行えるようにと計画された施設です。地方における美術館の一つのあり方と思いました。
コンクリート造と木造のシンプルでしゃれた作りの建物は最上川を見下ろす高台にあり、辺りの風景に溶け込むかのような佇まい。自己主張を抑えた好感の持てる建物です。さりげないエントランスから廊下伝いに受付があり、その前を通り抜けると左側に、そこからの眺めを存分に取り込もうとする設計者の意図が明確に伝わってくるラウンジが設けてあり、最上川への素晴らしい眺望が飛び込んできます。(写真添付)

誰が設計したのだろうかと思い、受付に戻って資料をもらうと・・・・設計者は個人的によく知ってる地元出身の建築家でした。丹下健三事務所時代の先輩で、当時は頻繁に飲みながらさまざまに建築の話をよくしたものでした。
当時は深夜まで仕事をし、それから飲みに出かけるという日々でした。懐かしさが蘇り、ラウンジからの最上川を眺めながら、時の経過を忘れてしばし、当時の様々な出来事に想いを馳せ、時を過ごしました。
その後展示品の鑑賞を終えてからは否応なく建物の細部に目が行き、設計者の思いを追想しながら、こういう意図でこうしたんだろうとかここはこうしたかったんではないかなーなどと勝手に想像し、予期しなかった楽しい時を過ごしました。
ラウンジで飲み物を提供してくれる係りの人に、この施設の設計者とは知り合いであることを伝えると、市の中心街にも最近出来た村山市総合文化施設(甑葉プラザ)があるとのことで、是非ご覧になると良いですよと勧められ、そこにも足を延ばすことにしました。
3時間は思わぬ建築探訪の“ぶらっと”になりました。


◆今月の山中事情139回−榎本久・宇ぜん亭主

−天災と人災−

七〇年の人生に於いて幸い戦争というものに命をさらされることはなかったが、交通事故が大小四、五回と病気が二、三度、命に関わることがあった。
が、絶命しなくて済んだ。だが自然災害の恐怖はこちらの問題ではなく、突如として起こり、そこからの脱出はよほどの運がなければまず助からない。
これまで私は直接的な天災の洗礼を受けてはいないが、近年の自然災害の狂暴さを見るにつけ、只恐れるだけだ。地震、噴火、台風、竜巻、雷、水害、と地球が暴れ狂っている。そして世界中で特大の被害を起こし、近代科学を
もってしてもそれを阻止することなど到底出来ないでいる。そして被害の甚大さの影には人間の諸行がある。
果たして必要であったかの開発は山野を痛め、修復をさまたげる大きな傷を生み、その結果、人命を奪いむごたらしい惨状を呈するのだ。そうなる以前、皆はそこでの暮らしを享受していたとなれば、百年に一度しか起きないことと言い訳するより人災を疑う方が正しいのではないか。毎年この国では天災を蒙る。
そして必ず犠牲者を生んでいる。それでもそこで逡巡しながら人は生きなければならない。自然の摂理にはかなわず、これからもその犠牲はつきまとう。
一方、人間が造ったものでその恐怖を与えつづけているものがある。原発だ。
原発が「爆発したらおそろしいことになる」という認識はあったが、政府の「安心神話」が優先していたのか、その危険性の認知は少なかった。ところが東日本大震災が起き、おそれていたことが起きた。広島・長崎の市民に続いて福島の方々もその体現者にさせられてしまった。自然災害とは違う、人間が造った恐怖の産物で。
こうなると、これまで各原発に於いて過去果たしてなにもなかったのであろうかと疑ってしまう。政府も東電もおそらくありえないことが起きたことに為すすべもなくおののいた筈だ。
安全神話」は崩れ、国民は原発の恐怖を知った。あの地震がなければ、皮肉であるが、原発の恐怖を我々は知らずに生きることになっていた。そんな原発をそれ以前我々は享受していたのである。原子力発電のそのやっかいさを何一つ知らず、暮らしの電力として恩恵をストレートに受け入れていた。
やっかいなものは停止する以外その方途はないと分かっていても、一方の民意はその反対にある。
コンセンサスはあるのであろうか。

宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.178

すっかり秋です。
白州では稲刈りもほぼおわり、新米が出回ります。
我が畑の秋野菜も順調のようです。
これからは紅葉が楽しめる時期になりました。


さて、行動展も無事終わりました。
60名を越える知り合いの方々に観に来ていただきました。
感謝申し上げます。

何だか訳の分からない解散そして総選挙。
日本は何処へ向かうのやら。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.178》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

−いつの日か 輝く未来を・・・・・・−

10年以上前になるが、東京は江東区、深川あたりでバスに乗っていて、「本格洋食ありますーーカレーライス、エビフライ」 という看板を見かけた。時計が一気に何十年か戻された感じがした。一帯は下町でバブル以前の旧い店舗が少し残っている。旧いモルタルづくりの食堂で、店の表、2階の窓にあたる所にトタンか何かが貼ってあってそこに大きく字が描かれている。こういうのを「看板建築」と言うらしい。当時の感覚でもあまり装飾的ではなく、その古さが逆に目立って浮き上がってくる感じなのだ。半世紀前までは都内の表通りに面した店には普通だった。小さな本屋や床屋はみんなそうだった。ネオンや電飾などは贅沢だったのだ。
調べたらカレー粉をS&Bが市販したのは1920年代とある。しかし家庭で手軽に作るには固形のカレールウの商品化まで待たねばならない。それは60年代。それまでは食卓では珍しかった。戦前に「洋食」と言われたのは、カレーの材料の主役になる人参、タマネギ、ジャガイモが日本古来の野菜ではなかったかららしい。
「なつう(夏)のあいさつ贈り物、日・清・サラダ(あ)油セッ・ト」
というコマーシャルが耳に残っているが、植物油が贈答品になるぐらいだったからまだまだ普及途上だったのだろう。 キューピーがソフトチューブのマヨネーズを普及させたのも60年代。フライを揚げてタルタルソースをつける、など当時ではずいぶんと「お手間入り」だったはず。こうして二つとも60年代になるまでは「本格洋食」と書いて客寄せしてもおかしくはなかったのだ。

ところで、好奇心と想像力は一応別物だ。しかし親戚筋にあたる。好奇心にその兄貴分の探求心を加えると博物学的な収集に行き着く。その成果の上に、収集した当人だけでなく、「観客」の我々も想像の世界で遊ぶことができる。店主は真剣そのものだ。生活がかかっている。買ったり食べたりする気のない収集人はもちろん、私たち観客が、広告主の意図とはずれたところで遊ぶことになる。とても無責任だけど無害な遊び、だから楽しい。
路上観察学入門」(赤瀬川原平藤森照信南伸坊編 ちくま文庫)という本がある。「好事家」とは「普通の人には何の興味もないような物事に関心を寄せる人」のことを言うが、そのような人が集まってコレクションを見せ合ったり、お喋りしている面白い本だ。今や古典になっていて初版から四半世紀を経た今も版を重ねている。そこに看板コレクションの写真が出ている。縦に「(小さい字で)釣具・(大きく太字で)エサ」と「(小さく)喫茶・(大きな太字)お食事」 が並んでいる。
クロスさせると魚くんの「お食事」は人間様の「エサ」と等価になる。もひとつ。二階建ての軒に下げられた「民宿 したか」という、いかにも民宿と言った雰囲気の看板写真。「志鷹」という地名(または人名)が読みにくいのでひらがなにしたと解するのが「穏当」だけど、「したか?」と語尾を上げると「不穏当」。

文題の「いつの日か 輝く未来を」の後に何が続くか? これも10年以上前の晩秋、京都駅から市バスに乗って紅葉の名所高雄に行く途中、烏丸通りに併行した一本鴨川寄りの通りを北上していた。銀杏並木がことごとく強剪定され丸裸にされている。「なんと無粋な」 と嘆いていた。ぎんなんの臭いを嫌がる人がいてそうさせているのだろうが、東京でもそこまではしない、と幻滅していたら、大きな白地に横書きの看板が目に飛び込んできた。驚いてはいけない。
「いつの日か 輝く未来を 税金で 京都税務署」 思わず大声を上げそうになった。さすが「千年の古都」! これほど直接かつ単純な「お上意識」の発露は見たことがない! 「五万日の日延べ」の精神なのか? 10数年前に社会保険庁に関わる不祥事が多発した。戦後直後、この役所が作られた頃「保険料集めても給付が始まるのは2-30年先だからね」と内部で囁かれていたと聞く。
「甘い言葉」はお上の普段着にちがいない。(おわり)



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− ある絵との出会い/ぶらっと天童 −

10月始め、用事で山形に行き、空いた時間に天童の街をぶらぶらしました。山梨出発時の天気予報では山形は雷雨とのこと。困ったなと思いつつ車で山形へ。到着日は曇り模様でしたが翌日の日曜日は予報とは打って変わっ
た秋晴れの一日となりました。天童駅でレンタサイクルを300円で借り、のんびりと街にくり出しました。
天童と言えば何と言っても“将棋”の街として有名です。観光客もお目当ては温泉と将棋。将棋の駒を作ってるところや将棋公園(舞鶴山)には以前に覗いたこともありましたので今回はパス。3,4時間の時間が空きましたので、駅の観光案内所で天童観光ガイドマップを手に入れ“ぶらっと先”を検討。広重美術館には以前行ったことがありましたので今回は他の美術館を訪れることにし、李朝の陶磁器を展示しているという造り酒屋の出羽桜美術館と、我々建築関係者にとってはよく名前を耳にする「天童木工」のショウルームに行ってみることにしました。
両施設とも山形新幹線に平行な通りに沿っています。それぞれの距離はありますが、自転車でのんびり行くには丁度良い距離。この通りは街並み作りが行われてるようで、和風をモチーフにした白壁で景観を揃えようとしています。

天童木工ショウルームは日曜日の朝のせいか人影も無く、ゆっくり家具を見て回りました。天然木による成形合板を開発・使用した家具の造形は“天童木工”の名を広く知らしめました。工業デザイナーや建築家などによる様々なデザインの椅子が楽しませてくれます。自由に座れますので座り心地を試すことも出来ます。

さて、出羽桜美術館は伝統的な日本家屋を展示室としたものでした。かつての土間部分が入り口、休憩コーナーとして利用され、座敷や蔵座敷が展示空間に充てられています。古い焼き物を展示する空間としては雰囲気が出てい
ます。李朝の陶磁器はその色合いや柄が好きで、以前から興味を抱いていました。(写真添付)

ところで、出羽桜美術館には通りの向かい側に分館が在り、斎藤真一という画家の展示館だったのですが今は閉館されていました。本館が主に陶磁器で分館が斎藤真一の絵画展示に割り当てられていたようです。李朝の陶磁器の展示に惹かれていましたので分館のことには意を注がなかったのですが、本館の休憩コーナーに斎藤真一の絵が数点展示されており、思わず目が惹きつけられました。
何とも言えない独特の雰囲気を醸し出しています。私が描こうとしている絵とは対極的で、情念が迸る世界が観る者を否応なく引き込みます。特に、強烈な赤が支配する画面には小作品ながら迫力があります。(写真添付)

これには強く刺激を受けました。日頃、作家の私小説的な内面発露の絵にはちょっと距離を置く私ですが、この作家の絵には拒否したい気持ちが湧きません。
否、引き込まれます。
この経験は大事にしたい。思わぬ出会いが待ち受けていました。




◆今月の山中事情138回−榎本久・宇ぜん亭主

−坂道−

若かったころ世界を旅し、見聞を広めていたら私はどういう者になっていただろう。今日では、若い人が海外に出かけることなど隣の友人を訪ねるごとく、たやすく行っているが、私の青年期は外国に出かけるなど、普段の生活の中に選択肢はなかった。特段にその国の文化や宗教あるいは政治に興味がなければ、留学とて頭の中になく、物見遊山だとしても経済面がそれを許さず、多少湧き上がったかも知れない気分もいつの間にか他のことに代わっていた。
しかしもし、ニューヨーク、ロンドン、パリ、リオ、バルセロナコペンハーゲン、ウィーン、オスロメルボルン、キャンベラ、シドニー、ベルリン、チューリッヒ、ローマ、北京、イスタンブールオスロウェリントン、シカゴ、サンチャゴ、ブエノスアイレスマナウス、ボゴダ、シアトル、アテネブリュッセルブダペストヘルシンキ、オタワ、ストックホルム、カイロ、リスボンマドリード、モスクワ、リヤド、キンシャサメキシコシティーハバナ、ナイロビ、ケープタウンレニングラードワルシャワなどに行っていたとしたら、世界観がずい分違ったろうと思うが、列記したところにはことごとく行ったことがなく、よって述懐することは出来ない。わずか ソウル、プサン、香港に数回行ったのみだが、我が国との関わりの強さがあるので、それなりになつかしさはある。

ところが今現在はなかなか商売も芳しくなく、どこか旅とは行かない。そこへもって、週刊誌の大見出しに「下流老人」だの「老後破産」だのの文字が躍り、旅をすることの気力を失わせる。「老人」の範疇に自分はいるが、活字のそれは自分ではなく、対象者は他者だと知らぬふりを決めこむが、つまり俺は「下流老人」ではないと言いたいのだが実体は五十歩百歩だ。そこへ曽野綾子の活字も飛びこんで来る「高齢者は死ぬ義務がある」と言う。いつの発売だったかは忘れたが、週刊ポストの「大直言」に書いている。「下流老人」よ読めと言うことだが、たしかに国家が一から十まで見てはくれない。生まれて来たからには「自己責任」を果たさなければならないこともある。
今取り沙汰されているのは社会保障費の増大が国家財政を圧迫していると政府は何かにつけて言う。とりわけ、団塊世代は金がかかると言いたいのだが、過去になかった国家運営をしなければならないから、老人は死ななければならないと曽野綾子は言ったのだ。彼女がそう言わずとも老人はいずれ居なくなるのだが。

戦後生まれが「金のたまご」ともてはやされ、高度経済成長の担い手として牽引してきたが、ごく一部をのぞいて「下流老人」と化してしまうシミュレーション。人生五十年と教わったあのころ、もっと生きる意味や価値を学べなかったかとも思う。それなのに二十年も多く無為に生き、今、このような世に居る。我々が造った「先進国」のその結末はおそろしい額の借金だらけの国にされてしまった。
《人生が等しく五十年と決まっていれば、国民も為政者も明日の処方箋を一人一人描き、覚悟を持って生きるのかも知れないが》、人間の傲慢は与えられたら先のばしにするところにある。
週刊誌のそれは当たらずとも遠からずであり、全ての者が警鐘としてとらえるべきだ。そんな矢先、日本人の平均寿命が又伸びたと報じられた。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の写真は、先日の行動展応募作品と入選作品です。
  サイズはF130号(162cm×194cm)「大地の目覚め/重奏・煌」と
  P150号(162cm×227.3cm)「大地の目覚め/位相」です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.177

残暑もなく、あっという間に秋の到来です。
我が家の2階から見える桜の木の紅葉が、早、始まっています。
8月末に白菜の苗作りにとりかかりましたが、成長が遅いようです。
これでは秋野菜がうまく育たないかも・・・。

北朝鮮に振り回される世界。
不安定なアメリカ。追従する日本。

★「第72回 行動展」
  ・会場 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
  ・会期 2017年9月20日(水)〜10月2日(月)
   10:00〜18:00(入場は17:30まで)
         休館日:9月26日(火)
         毎週金曜日は20時まで、18時以降は入場無料
         最終日は14時まで、入場は13時30分まで
 都合のつかれる方には是非ご覧いただければと思います。
 招待葉書(1枚で2名まで)がありますのでご希望の方は仰って下さい。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.177》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−広島と平和と宮沢賢治

広島と原爆は、終戦以来「平和」の象徴として扱われてきた。原爆投下の候補地であったとされる4都市、長崎、小倉、広島、新潟の中で捕虜収容所がない唯一の都市が広島だった。世界最初の原爆実験のための場所は、実験の効果や結果が収集し易い広島が選ばれた、と言うが、アメリカの捕虜を巻き込まない、というのが本音であったようだ。その結果24万人が死んだ。しかし以上の惨劇の何処にも「平和」に関する事項がないと、普通の人なら気が付く筈である。そうだ、一つ単語が抜けていた。「戦争」である。「戦争」が無かったなら、広島も原爆も「平和」とは無関係であったに違いない。そこでこの「戦争」の原因を追究して、建設的な何かを引き出せば平和へ貢献出来るかも知れないと考えた。

日本の軍事政権とアメリカ政府が太平洋戦争の直接的原因と考えれば、公平を期するために両者を同じ俎板の上に乗せて検討する必要がある。そうすると、日本海軍による真珠湾奇襲攻撃と広島への原爆投下とが大きな要素として俎板の上に見えてくる。真珠湾奇襲作戦という表現は山本五十六元帥の手記に明記されている。そこには、奇襲作戦で攻撃して初めて目的を達せられる、と書いてある。奇襲攻撃は、アメリカ人が最も嫌う「卑怯=unfair」な作戦であった。これがアメリカをして一致団結させて参戦に踏み切らせたのであり、後に原爆投下の決断や、特に東京裁判には大きく影響した。戦争を裁いたと言うよりも真珠湾奇襲攻撃と日本軍の過酷な捕虜の扱い方、この二つの卑劣さ(アメリカ側の言い分)を裁いたのが東京裁判であった、と言っても過言ではない。

武器を使った国家間の衝突を「戦争」と定義する。領土拡張、市場拡大、資源確保などが太平洋戦争の主な原因であったことは明らかだ。東京裁判では、日本の東南アジアへの侵略活動が大きく取り上げられたが、ヨーロッパ諸国のアジア侵攻や植民地主義と比較して、そんなに違ったのだろうか。アメリカも東南アジアに大いに興味があったようだ。日本と同じような理由から東南アジアに興味を持っていたようなので、日米間の市場をめぐる衝突も何時かは起こるに違いないと言う前提条件が真珠湾開戦以前に、既に存在したと言える。
当時既にイギリス海軍日本海軍によって痛めつけられていたので、それを助けるという逼迫した目的がアメリカにはあった。更に真珠湾奇襲攻撃直後に日本とアメリカはフィリピンで衝突した。日本軍はフィリッピンのバターン島からコレヒドール島まで150日(45日の予定であった)かけてアメリカ軍を逐追した。当時フィリピン総督であったダグラス・マッカーサーは逃避先のオーストラリアで、あの有名な言葉「I shall return.」を残して本国へ帰った。

ヨーロッパ勢力がアジア諸国を植民地化し経済的搾取をしていたときに、有色人種の日本軍がイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、オーストラリアの白人勢を続けさまに薙ぎ倒してくれたので、アジア解放の救い主のように思われた、と書いた記事もあったが、結局は、日本もヨーロッパ勢と同じであった、という記事もあった。要するに目的が自国のための領土拡張、市場拡大、資源確保などであれば、誰が行なっても同じような結果になるようだ。アメリカ主導の連合軍が日本軍を東南アジアから追い出しにかかったときに、アジア諸国は、一国たりとも、アジア解放の救世主であったはずの日本軍を応援しなかった。日本も植民地主義のヨーロッパ勢と同じであったからだろう。

私は、太平洋戦争を、日本の伝統的考え方でもある喧嘩両成敗であると考える。現在進行中の中近東での争いでは、ジハードという自爆を繰り返しているが、終戦間際の日本の特攻隊もこれと同じであったと考える。有名な零戦特攻機に使われて無意味に消耗されていった。もっともその時点で、零戦を駆使できるパイロットは殆ど残っていなかったし、飛行のための燃料も既に使い果たしていた。勝てないと分かっていた戦争末期に、人間魚雷や特攻隊、さらには竹槍を担いで最後の1人まで戦うとするのも作戦であり、原爆投下を決定するのも作戦である。果たしてどちらがより非人道的であったか。これは厳しく難しい質問だが、一度は良く考えて自らの答を出さなくてはならない。読者の皆さん、自分の問題として、よーく考えて頂きたい。

「原爆投下は二度と繰り返してはならない」が平和の象徴になるなら、「人間魚雷や特攻隊は二度と繰り返してはならない」と祈ることも平和の象徴になる筈だ。要するに原爆や特攻隊を必要とする状況を作り出してははならない、と言っているのである。真摯に平和を考えるならば、特攻隊に激突されて沈没したアメリカの被爆戦艦も平和の象徴になれるかも知れない。しかし何かが変である。死亡者数がまるで違うのである。しかし果たして数の問題なのだろうか。1954年にアメリカが東南アジア海域のビキニ環礁で水爆実験をして、丁度操業していた日本漁船第五福竜丸の乗組員や地域の島に住んでいる人々が被爆した。この事件は平和とどの様に関係してくるのだろうか。

どの社会でも教育施設や医療施設を充実すれば、人々の受ける恩恵は計り知れない。更に衣食住を充実すれば、平和を実感出来るだろう。しかし政府によって教育方針や内容が統制され、教育当事者が信じる「世界平和へ貢献出来る教育」を実施出来なければ、衣食住が十分でも平和といえるかどうか疑わしい。即ち言論の自由が圧迫された状態では、平和ではないと言える。報道や言論の自由が束縛されている国は、程度の差こそあれ、民主主義が希薄で、独裁者的指導者がいて強圧的強権を振るって、報道や言論の自由を抑圧している。ロシアや中国や北朝鮮など共産主義的傾向の強い国がそうである。ついでに、運動会の100メートル競争で、皆で手をつないでゴールインしたと聞いたが、これを言論や行動の自由が束縛されている、と感じてしまうのは私だけであろうか。これを指導した教育者達の意見を是非聞きたい。

さて、「自由」と向き合うとは、どういうことなのだろうか。「自由」は、例えればビタミン剤であったり強精剤のような働きをしたり、使い方によっては、劇薬に早代わりしたりする。「自由」を自分のものとしてよく消化し、目的達成に役立てる努力がなされるなら、「自由」は正しく機能し始めるが、「自由」に翻弄されて秩序が乱れると、後戻りが難しくなることさえある。「自由」を正しく理解し、平和な社会の建設に役立てるよう努めることは、国家の一大使命である。当然だが、「自由」のために血を流すことすらある。一般に「自由」のために流す血は正義なのである。従って、他国が「自由」獲得と擁護のために血を流している時に、その努力を援助することもまた正義であると言える。それは平和のための血だからだろう。

もし、東に「自由と平和」を求めて必死に戦っているいる国があれば、行って助けてあげ、西に衣食住の不足を嘆いている国があれば行って出来る限り衣食住を与えてやれる国に日本はなりたい。今の日本は、憲法9条2項の「交戦不可」が理由で、不本意ながら、宮沢賢治に近付けないでいる。しかし、日本を雨にも負けない国にするのも広島平和運動の趣旨に沿っていると考える。広島平和運動を他人事としてではなく、自分の事として考えると、雨にも負けず風にも負けない日本が次第に見えてくる。

2017年8月6日  広島平和記念行事のテレビニュース観ながら。 岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− ちょっとひと息/夢の話 −

これは先日みた夢の話です。
その前に、先日NHKテレビの“ブラタモリ”と言う番組を偶然見ました。「十和田湖奥入瀬」編で、その中で何と岩を抱きかかえる木が登場したのです。苔に覆われた岩に木が生えています。苔の中に木の種が落ち、風に飛ばされにくいということだけでなく、水分供給のみならず苔の持つ抗菌性が作用して大きく成長していったものとのこと。まさにこれから話そうとする夢の光景と同じように、大きな木の根っこが大きな岩を抱きかかえるように生えているではありませんか。とっさに夢を思い出しました。

では夢に戻ります。
対象は、このRyuの目の「今月の山中事情」でお馴染みの榎本久氏の宇ぜん亭です。と言っても夢ですから、季節を含め様々に脚色されていました。
実在の宇ぜん亭は秩父・黒谷駅に近い線路沿いにある新築の建物で、対話を重視したカウンター形式のお店です。私も何度かお邪魔していますが、SL列車も時折通っています。しかし、夢の中では場所が定かではありません。
季節は春。まず、宇ぜん亭の建物ですが、これが古い書院造り風な建物です。建て込まれた障子の間から和風な庭が拡がっているのが見えます。障子を通して入り込んでくる陽が何ともやわらかい。厨房も今風なキッチンではなく、昔の厨房が再現されています。かまどや流しがありますが、この厨房をどんな風に使うのかな?との多少の疑問はありました。夢の中では、亭主好みの店作りだと感心している。その厨房の先に、桂離宮の月見台に似せた広い露台が設けられています。この露台での花見が今回の目的です。出演者は榎本氏と私の他に顔馴染みの客仲間が数名。残念ながら榎本氏以外は誰が居たか定かに覚えていません。その露台の脇に、何と、台車に載せられた移動式の大きな桜の木が据えられるという仕掛けになっています。このあたりが何とも今風な世相を表しているのかも知れません。桜の枝が露台を覆うように設えられ、満開の桜が場を包み込みます。桜を愛でながらの酒盛りです。

この夢のポイントは何と言ってもこの“移動式桜”です。夢の中では移動式桜の発想に感心させられています。その桜は根っこのところに大きな石を抱え込んでいて、その重みで木が倒れないという仕掛けになっています。必要に応じて石ごと桜を移動させ、必要な場所に設置。夢の中ではそれ程不思議には感じていません。むしろ、おもしろい仕掛けと絶賛しています。夢から覚めると、そんなことあり得ないじゃんと思いますが・・・ここが夢のいいところ。根っこは大きな石の周りで適度に切断されていて、その石ごと大きな台車に載せ、移動しやすく?なっています。宴会に合わせて露台脇に台車ごと数時間ほどセットされますが、台車は見えないようにセッティングされます。日頃は台車ごと池に浸されていて、水を供給し維持されるという具合です。この舞台装置のような仕掛けで設営された場は、満開の桜に覆われて、榎本氏の手になる様々な料理と酒に囲まれるという贅沢で優雅な宴を提供してくれました。
楽しい時間だった!!
昔、空を飛ぶ夢を見たことがありました。空を飛ぶにあたっては、何と、荷車で加速して空に舞い上がります。空を飛んでモーツアルトに会いに行くのでした。
この“移動式桜”の夢はその夢をも想い出させてくれました。
お陰様で何とも軽やかな目覚めになりました。




◆今月の山中事情137回−榎本久・宇ぜん亭主

−映画監督−

三十数年前の富ヶ谷時代、TBSで「醤油のルーツ」を訪ねる番組があった。
そのプロデューサーが以前より当店を利用していただいていた縁で、そのスタッフが集まって会議をしたいので場所を貸してくれとなった。醤油のルーツは主に東南アジアとなっているようで、彼等は「台湾ルートの肉醤(にくびしお)」、「ベトナムルートの魚醤」、「韓国ルートの豆醤」、「中国雲南省ルートの米麦醤」の四ルートを番組とした。各ルートに役者が配置されリポートすると言うことで、当店にお見えになったのは「台湾ルート」を受け持つあの映画監督鈴木正順氏だった。
台湾に渡った氏は、職業柄も手伝ってリポートの仕方が専門的で、見ている私は将に我が国の食の分野に影響を与えたであろうそのリポートを食い入るように見たのであった。
初めて耳にする「肉醤」なるものは一体どのようなものか?我々が日常「醤油」として使用しているものと言えば、即座に植物の発酵食品となるが、台湾ではこの「肉醤」だった。それは豚の三枚肉を十?幅に切って塩漬けにし、たくあんを漬ける容量で重ね、やはり重しをして入れ物の下にある水道栓のようなものから汁を取り出して使用するのである。もちろん古い順に使用するのだが、年数や味のことは忘れた。日本でそれがポピュラーになっていないのは受け入れられなかったと言うことだろうか。

この番組が縁で監督はよく当店に顔を出して下さるようになった。昼食の仕事を終え、私が買い物に出かける頃現れ、店番よろしくお連れさんと一杯やりながら映画のことを話し込んでいて、私が帰ってくる頃はあの物腰の静かな方がすっかりごきげんだった。ある夕方私はチビた筆で献立を書いていた。そこへ監督がぶらりと来られた。「何してるの?」「献立書き終えたばかりです。
ちょっとチビた筆で書きにくいのですが何か書いてくれませんか?」と無礼にもお願いした。監督は意に介さず、「うーん」と言ったあと、そのチビた筆が一気呵成に動いた。「一期は夢よ只狂え 鈴木正順」としたためて下さったのだ。
当時監督は六十ちょっと、こちらは四十の若造で無学の極み。何かを書いてと頼みながら、書かれていることが解らない。すぐにその意味を伺った。「一生は夢のごとく過ぎて行きます。だから好きなように生きなさい」と説明していただいた。ここでのポイントは「只狂え」だった。「好きなことを追求し、努力せよ」という意味を曲解すると全くの的はずれになることに気づくまでずい分時間を要した。今その書は額装されて当店に飾ってあるが、今日までどなたも気づいて貰えないでいる。

飄然としたその姿を目にした時、高名な映画監督とは思わないだろう。かつてNHKの名物アナウンサーだった鈴木健二氏のお兄様でもあるが、全くすべてが似ていないので兄弟とは思われない。私も初対面の時はそう思ったものだ。
しかし事前に伺っていたので驚きは最小限で済んだ。知らされていなかったら、誠に失礼ながら、近所のおじさんが間違って入ってきたのかと思う程だった。
我々素人は勝手に監督像を作り、映画監督はこういうものだろうと思っていたからだ。それでは「監督然とはどういうもの」と問われれば、答えられない。
正順監督は姿、形ではなかった。
誠に残念ながら本年監督は九十三歳にて逝去された。
青土社刊「ユリイカ」で追悼詩集が組まれた。ご冥福の祈りを込めてユリイカを購入させていただいた。やはりマジックで書かれた「一期は夢よ・・・」が二十七ページに印刷されてあった。

人生とは何かとずっと模索し続け、作品を投げかけていたものと思うと、私はもう少し富ヶ谷で仕事を続け、そのことを監督に問いかけたかったと思ったりした。考えてみたら、私は監督のことは結局何も知らずに居た。映画一本見るでなく、来店時にそんな話を一度たりとも聞かず、聞かされたこともなかった。
社会派の映画を撮っている監督であることは後年知ったが、そういうことに気づくのがあまりにも遅く、鈍感な私でありました。
私に出来ることは監督の書いて下さった「一期は夢よ只狂え」の言葉を書くことだ。半紙を短冊に切り、以来数百枚ばかり書きしるしている。その日の気分で仕上がりが違うのは心がまだ汚れているからだろうか。合掌


*「宇ぜん」は以前。「羽前」という名前で渋谷区富ヶ谷駒場東大裏)に店が
ありました。その頃私(古磯)は知り合い、頻繁に通いました。


宇ぜんホームページ
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◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は大地の目覚めシリーズ作品です。
 行動展出品作品と並行して描いてたものです。
  サイズはB2(72.8cm×51.5cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.176

梅雨明け宣言以降、雨の多い日が続いています。
家の周りや畑の雑草は伸び放題。
なかなか手がまわりません。
台風一過の昨日は猛暑が襲ってきました。
どうぞご自愛下さい。

さて、9月の行動展も近づいてきました。
制作の日々を過ごしています。
いずれ行動展のご案内をお送りさせていただきます。

資質の無い政治家が多すぎる今の日本。
一方アメリカはどうなってるのでしょうか?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.176》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−個人と国際問題と忖度−

良かれと考えて行なうことを善意の行為と言う。自宅の植木の刈り込みをしてみて、さっぱりしたので、ついでに隣家の庭の植木を刈り込んだりすれば、たとえ善意であっても問題を起すに違いない。余計なお節介だからだ。人の気持を考慮しなければ礼を失する。しかし、少し知能犯的になると、刈り込んだ自邸の植木の枝や葉を箒で集めて、隣との境にある垣根の根元に纏めて、垣根の肥料にしたとしたらどうであろう。隣からも見えるが、直ぐに文句は来ない。
しかし、風が吹くと、根元に集めた枯葉が隣の庭に散らばったりするので微妙である。いつの間にか隣とは付き合わなくなっていたるりするかも知れない。同じ枯葉でも、秋になれば道に散らかるので、我が家の前だけでなく、隣近所の前の道に散らばっている枯葉を集めて焚き火をして焼き芋でも作れば、皆集まってきて、向こう三軒両隣の付き合いが蜜になったりする。これは市町村の行政問題ではなく、人間同士の忖度の問題なのだ。
個人の家を一国に置き換えると、毎日のように新聞を賑わす国際問題になってくる。しかし、日本は海に囲まれている島国なので、歴史的にこのような経験に乏しく、国際付き合いが下手である。自国の意思主張が曖昧で、他国の主張に対しても反応が曖昧である。尖閣諸島竹島北方四島などは、正に国際間の近所付き合いの問題で、根本的には、第三国が関与する問題ではない。日本が独立国であることを証明する良い機会であるが、逆に証明できなければ独立国とは言い難い。

北朝鮮ICBM 実験についても同じことが言える。実験弾が日本の領海内に落ちても、日本政府は相変わらず口先だけで同じことを言ってお茶を濁している。周囲を海に囲まれている国日本で「領海内」に落ちたのは、陸地に落ちたのと大して変わらない。では、尖閣諸島竹島の陸地に落ちたとしたら日本はどのように反応するのだろうか。一挙に二つの国際問題を解決するよい機会になると私なら考えるが。もし菅官房長官が現実の事態でないから答えないというならば、漁船に落ちたらどうするかと訊いてみたい。日本の報道機関はこのような国民が知りたい厳しい質問を決してしない。政府が答え易い質問をするのが得意である。これは気弱な忖度の例である。例えば、日本は何故迎撃ミサイルを使って北朝鮮ICBM 実験弾を打ち落とさなかったのだろうか。
説明の要らない素晴らしい機会であった筈だ。何故報道機関はこの質問をしなかったのだろうか。

自宅の前の道を掃除しながら考えた。隣やお向かいの家の前の道でもあるので、掃除をしてあげようと思えば、皆喜んでくれて、反対する人は、私の近所にはいない筈だ。しかし、現在、隣の敷地との境(隣側)に生えている松の大木の根が道路の下に伸びてきて道路の舗装を持ち上げ始めているのが見える。
道路の舗装が割れて剥がれ始めるのは時間の問題だろう。しかし、隣の木を無断で私が切ることは出来ない。法律違反で私が罰せられるだからだ。プロに頼むと$650する。そこで隣のお爺さんに松の根っこと舗装の箇所を見せたら、幸いにもお爺さんが「切る」と言い出したので安心した。微妙な忖度と平和な共存との入り混じった近所付き合いだ。日本の政府にも、せめてこの程度の忖度力と実行力があってくれれば、と切望する者だ。

2017年8月6日 広島平和記念日  岸本雄二 クレムソン大学名誉教授



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 異空間/ぶらっと新宿 −

梅雨明け前の晴れ渡った暑い一日、諸用で久しぶりに新宿にお上りさん気分よろしく出掛けて行きました。相変わらずの人と車の雑踏。山梨へ移住後8年が経過した今の私はこれだけで疲労を覚えてしまう。
新宿区役所近くで用事を済ませ、暑さに耐えて靖国通りを歩いていると、ビルとビルの谷間の狭い空間に鳥居と樹林の緑がふと目に入りました。
おやっ?この新宿のど真ん中で珍しい。(写真添付)

そこは“花園神社”でした。私にとっては懐かしい名前。学生時代に唐十郎の「状況劇場(赤テント)」で覚えた名前だ。当時は刺激の多い時代だった。辺りは昔とはすっかり雰囲気が変わってビル街。しかし、これまでこの神社の境内には入ったことがない私はどんな境内か覗いてみたくなり、幹はか細いが背の高い樹木で覆われた参道に導かれるように入って行きました。暗く細長い空間の先にはぱっと眩く明るい開けた空間が見えています。(写真添付)

暗さにも目が慣れて周りをみると、参道には隣のビルの外壁や空調機の排気口がそのまま露わに面していて、参道としてはあまり“質”が良いとは言えない。
参道は、街の喧噪に晒された気分を鎮め、気持ちを切り換えるに必要な時空を提供してくれる。そこは言わば“気持ちを切り換える装置”としてのアプローチ空間なので、その持つ機能の必要性は社寺の空間のみならず、様々な施設への導入路に応用される。
さて、開けた空間に出ると朱塗りの立派な拝殿等が目に入る。建物がしっかり維持管理されてることを印象付けるに充分。(写真添付)

境内には日蔭で休んでる人もいます。お参りにきたサラリーマンらしき人もいます。観光で来た外国人もいます。一角には見世物興行の空間が今も確保されている。
喧騒に満ち満ちた現代都市空間に、"非日常"を想わせる静寂につつまれた別次元の“異空間”が存在していました。

かつては、この喧騒に惹かれてよく新宿に来たものでした。学生時代、新宿は文化的にも、政治的にも、遊びにも最も刺激的なところでしたから。そんな想いもあって、何となく久しぶりに新宿をぶらぶらしてみたくなり、何回か行ったことのある風月堂の在った辺りに行ってみました。周りの建物も雰囲気もすっかり変わっています。勿論、風月堂もありません。風月堂は芸術関係の人々の溜まり場でした。タバコの煙が濛々と漂い、一見してそれらしい風情の人々がたむろっていました。さて、風月堂の面する通りから分かれて細い路地風なところにはレトロな雰囲気を醸し出している一角もありました。

新宿はすっかり変わってしまい、当時の面影をたどれるところが殆ど無い。唯一残っているのは、前川國男の設計した紀伊國屋書店伊勢丹の建物くらいか。久しぶりに紀伊國屋書店に入ってみました。当然のことながら内部はすっかり変わっています。紀伊國屋ホール(劇場)も紀伊國屋画廊も最早ありません。名物創業者の田辺茂一氏は面白い方だった。若干のノスタルジーを求めた私でしたが、建物の外観以外は取り付く島もない状態で退散。

東京の都市空間の変化は凄まじい。思い出はどんどん消滅し、新しい都市空間が現れる。そこには継続性というものは見られない。都市というブラックボックスの中で、人は“変わらない継続”をどの様に求めるのだろうか。
更に、今日の都市空間は昔に比べて確かに綺麗にはなっているが、人を包み込む様々な素材はすべて“硬い”。気持ちをホッと受け入れ、安らぎを覚えさせてくれるそんな空間が無くなった。多様な現代において、都市空間は多様性が失われて行ってるように思われます。これでは都市人間のストレスは溜まるばかり。
時の推移を感じながら、それでも久し振りに新宿をブラブラしてみたのでした。


◆今月の山中事情136回−榎本久・宇ぜん亭主

−再訪−

「金峰に登ろう!」とクラスの誰かが言って、それは決まった。
定時制高校に通っていた私は、ある夏の夜のことを想い出し、目が潤んだ。
山形県鶴岡市郊外にある金峰山(きんぼうざん)という標高四〇〇米足らずの山にクラスの有志で登ろうとなった。しかも夜である。
三年の夏のある土曜日の夜でした。二十一時三〇分授業が終わると男子は自転車の荷台に女生徒を乗せ、学校を出た。その山までは一時間はかかる。
自転車の二人乗りは、とやかく言われることのなかったいい時代だった。昭和四十年代初頭の道路は砂利道が多く、二人乗りは仲々思うように進まない。
周りは田んぼばかりで漆黒の闇だ。息せき切って登山口に全員無事たどり着いたが、顔の判別は出来ない。声で確認していたのであろうか。
十六、七歳の少年少女十数名が「女人禁制」の神の山に夜の登山をすることになった。

登山道は眼を凝らさないと解らない。横切る木の根や、飛び出ている石にぶつかりながら登らなければならない。木々は闇を更に覆い、行く手を悩ます。
だが若者達の眼はしっかり機能していた。昼は労働していたにもかかわらず、足どりは軽かったのか。ヘッドランプもペンライトも普及していない時代ゆえ、目のみが頼りだった。夜空は澄んでいたのであろうか?月はあったのであろうか?
低い山だが、若者でもそれはきつかった。
一時間位かかっただろうか、先頭が「着いた」と言った。皆無事「中の宮」の広場に集まった。こことて外灯などはないので、やはり闇の中だ。着く間もなく「闇なべ」の準備だ。とっくに真夜中である。身体を休めることもなく、各自その役割を分担したはずだが、私はこのパーティーの一連のことを全く記憶になく、費用、材料、運搬を一体誰がどのようにしたのかぽっかり記憶の中から抜けているのだ。当然全員手分けをしたであろうし、費用も均等割になっていると容易に理解出来るのだが、とにかくその記憶は全くないのだ。

私達のクラスは(唯一の商業科)学年を経るごとに仲の良いクラスになって行った。養護院の子供達に野球道具を贈りに行ったり、磯釣り(庄内浜は世界有数の磯釣りのメッカ)に出かけたり、神社仏閣を訪ねたり、新年会を料理屋を借り切りジュースパーティーをやったりしていた。
おもしろいのは、陽のある一時間目は貴重なので、体育の授業でもないのに別の授業の先生におねだりして全員参加のソフトボールをさせてもらったりして、機会は少ないが、舟木一夫の「学園もの」の真似ごとのようなことをしていた。
皆、昼は仕事をしていても、“あふれる若さあればこそ”だった。
それにしてもこの登山の主目的は一体何だったのであろう。
真暗な山の上で、夜を徹して語り合ったのは何か?
将来に対する己のことだったのか?
現在のやるせない心境か?
大いなる将来しかなかった筈の若者が直面する青春の苦悩を吐露し合ったのであろうか。
私は又してもその辺のことはぽっかりと抜けていて、世のむずかしいことが理解出来ないただのお子ちゃまだったようだ。
空が明るさを見せ始め、誰かが「朝だ」と言った。それを皮切りに火を消したり、道具類を片づけた。少年、少女の一団が山を下りる頃は前夜見えなかった道が分かり、あっという間に登山口に集まった。一睡もしていないのにさわやかな顔が若者達にあった。砂利道の両側の草むらには朝露が降りていた。それぞれの自転車には、前夜乗せてきた女生徒を乗せ、再びペダルを漕ぎ、自宅へ、仕事場へ戻っていった。それはまるで何かの映画で見たワンシーンのようであった。

このことによってではないが、五月に帰郷した。私はそこを五十数年振りに訪ねた。同級生のS君の計らいでもあった。あの時苦労して登ったその山の広場まで車なら数分だった。ところが、周囲を見渡すと夫婦杉があったり、中の宮神社の社殿があったりして、記憶の不確かさを痛感した。
考えてみれば、真夜中のことゆえ記憶にあるのはその広場のみで、私はしばし立ちすくんで当時を想い返していた。確かに「闇なべ」の火が照らすその広場しか私の脳裏にはなかった。

青春でなければ味わえないあの日のことをずい分長い間忘れてしまっていた。
こんな素晴らしい想い出があったところへ再度訪ねることが出来、友人には感謝している。
現在、あんなに仲の良かった級友のほとんどと今は交流はなく、淋しく思っている。大変切ないことだが、それが人生だと言われるとただ嗚咽のみだ。
それにしても、そのようなクラスであったのに、その時を機に誰かと誰かがロマンスに発展し、結婚へとなったケースが一組もなかったのが不思議と言えば不思議だ。
皆の健康を祈っている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.175

豪雨による被害が甚大で心配されます。
一方で猛暑。

さて、共謀罪成立。今更ながら、機能しない二院制。
自民党内も野党も機能不全。
密かに目論む?“戦前回帰”・・・安倍晋三
都民は安倍政権に「NO!」を突きつけました。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.175》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は菅井研治さんです。

初めに、この度の九州地方の大雨の被害にあわれた皆様に心よりお見舞いを申し上げます

☆東京--長崎 EV1300キロ の旅 ☆
関門トンネルを歩いてくぐり  九州まで行けるなんて知らなかったなあ。
もっとも約60年前に作られた古いトンネルが残っていて クルマで九州と下関を行き来できることも今回の旅で初めて知りトライすることになったくらいだから・・

東京長崎 EV1300キロ出張の一コマだ。
ガソリンなどで走るクルマから乗り換え、今回は電気のチカラで走るクルマで長崎の諫早を目指した。

出発の前夜 たっぷりと充電した今回登場のEV(電気自動車)は、一度の充電でおおよそ200kmの走行が可能だ。
私にとってこれほどの長距離を EVに乗って走るというのはまったく初めての体験で、未知の部分が多い大変興味深い挑戦でもあった。
15年ほど前だったかこのコラムで、無駄なCO2排出削減のアイドリングストップをテーマにしたことがあったが、
今回登場のEVにおいては エンジンは無いので排気ガスはゼロ! もう”アイドリング”などは論じる必要はない。
そして、”エンジンをかける”というアクションも、”ガス欠”などという言葉もなくなってしまっている。
しかし新しいコトバが、そして作業が変わって登場する。
エンジンはないのでかけると言わず”電源を入れる”や”メインスイッチをオンにする” そしてガス欠ではなく”電欠”だ。
ガソリンスタンドとはほぼ縁がなくなり、代わりにエネルギーチャージのために充電スタンドに立ち寄ることになる。
注) アイドリングとはエンジン駆動のクルマにおいて、車両が停止しているにも関わらずエンジンの回転を止めずにいることで燃費悪化や無駄なCO2の排出をしている

さて今回の旅はこうだ。

長崎まで1300キロを走るとなると、一回の走行距離を約130キロとすると、10回のエネルギーチャージをする必要になる。
高速道路のサービスエリアには概ねチャージポイントが設置されているので、1〜2時間走行したら約30分の休憩をし その間に充電をする計画を立てた。
今回のドライブでは大変スムーズに各地の充電スタンドでチャージができて 実に快適に九州が近付いていった。
そしてここで登場するのが冒頭に話をした関門トンネルだ。

このドライブを計画したとき、途中で10回も充電??と私は素直に思った。それは難儀なことなのか・・・いやいや そうではない。
充電も楽しもう!少し時間をとって寄り道も出来るぞとポジティブに考えた。高速道路だけではない、街中にも大変多くの充電ポイントがある。
コンビニにもそして各地の観光スポットにもあるではないか。
そこには地図を見始めた自分がいて、そしてその中で気になったところの一つが関門トンネルというわけだ。
前回、ほぼ3年前だったかそのときはハイブリッドのスポーツカーで関門橋をあっという間に九州へと渡ったのだが、今回はゆっくり国道を走って海峡を楽しもうと考えたのだ。
10回の休憩そして充電をするという新しい旅のカタチが関門トンネルを改めて知るきっかけを作ってくれた。

ここでは旅の行程だけではなく新しいスタイルのドライブについても語りたい。
ただクルマで走っただけ、移動しただけと言えばそれまでだが 実は特別な感覚を覚えたことがいくつもあった。
利用するエネルギーが変わるということは想像以上に大きな変化があるものだ。

まずは、ガソリンを使わないでずっと走り続けたという気持ち良さだ。走行による排気ガスやCO2の排出はゼロだ。後から考えても この点は誇らしい。充電の手間などはあったが私には気持ち良さが大幅に上回っている。
エネルギーに対する費用についても大きな違いがあった。
今回は2000円 / 月の充電カードを利用した。30日間充電はどこでも無料で簡単にできるものだ。
メーカーによって金額の設定にに相違があるが月に数千円というのが一般的だ。
ひと月ほどの休みが取れれば、2000円で日本一周の旅ができてしまうわけだ。

もうひとつ大きく感じるのは、音や振動がないということだ。
乗っていて伝わってくるのは、風の音そしてタイヤと路面から発生する走行音のみだ。

エンジンが発生源になる小さな振動や、いわゆるエンジン音もない。
今回のような長距離を走行すると それらは結果として疲労の少なさとしてはっきりとあらわれた。

     
私たちが鉄道に乗る場合には主に乗客として列車の旅を楽しんでいるわけだが、クルマの場合は乗客でもありまた運転手もやっている。
蒸気機関車の運転操作がディーゼルエンジンそして電気に変わったあの頃を想像しながら今回のドライブを考えてみるととてもワクワクする。
リチウムイオン電池の性能が上がり、新しい仕組みのバッテリーの登場も間もないと言われている。
秋口には走行距離が大幅に伸びるフルモデルチェンジがおこなわれるEVがある。欧州、米国中国と既にEVの普及に火が付いた国々もある。
これからは、EVの性能向上や各メーカーの発表から目が離せなくなるかも知れない。

何度も手直しがされたという、このキレイなタイルが張られた片側一車線の歴史ある関門トンネルを走りながら 私はEVの素晴らしさを実感した。
排気ガスも過剰な排熱も そして音もない、新しい移動のスタイルを味わいつつ・・・。
長崎での仕事を無事に終え、帰路は航空機を利用した。
あっという間の東京到着であったことは言うまでもない。

◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
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   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 一冊の写真集 −

我が家の廊下の書棚にある一冊の写真集が目に留まった。
土門拳全集9−風貌」・・・昭和59年に出版されたこの写真集は私が40歳前後の頃に手に入れた写真集です。“人の顔”というものに興味を抱いていた頃で、本屋で見つけ購入したものです。当時、土門拳という写真家は既に知っていました。大学で建築学科の学生だった頃、彼の撮った女人高野室生寺金堂(鎧坂の石段の下から撮影)の写真に惹きつけられ、奈良県宇陀市に在るこのお寺を何度か見に行ったものでした。その写真家が建築写真だけでなく、人を撮っているのも興味を抱かせました。
先日、絵を描いていた時、たまたま廊下の隅にある本棚の最上段の端に置かれていたこの写真集が目に入り、一瞬懐かしさを感じ、何故か手に取ってみたくなったのです。絵を描いてる時は無心になってることがあり、何かがすーっと入ってくる時があります。この時もそんな感じで、かつて観た写真集が歳月を越えて気持ちの中に入ってきました。この写真集を手に取るのは何十年かぶりでした。ツーンとカビの匂いが鼻につきましたが、あの頃、顔の写真集に感じたものが30年の歳月を経てどの様に感じ方が変わったのか自分の感じ方の変化にいささか興味がありました。

この本を購入した時は、“人の目つき顔つきというものは仕事の違いによってそれぞれどの様な表情の違いを見せるのだろうか”と顔つきのあり様に興味を抱いて見ていましたが、先日この本をめくっていた時は、むしろ“この写真家は対象の顔をどの様に撮ろうと考えていたのだろうか”と、写真家の対象に対するスタンスの方に興味が移っているのに気づきました。
初対面の顔もあるだろう。写真家は撮影の前に対象となる人物に関する予備知識は当然入手するだろうが、その人格、その生きてきた“様”とはその時初めて対面することになるのではないか。そこでは対象の人物と写真家の無言の応答があるだろう。言葉を交わすことで交信もあるだろうし、言葉はなくてもちょっとした仕草の中にその人の“様”を見つけることもあるだろう。自分の存在を殺して、対象が見せる一瞬の“様”逃すまいとそのタイミングを待つことになるのだろう。

100人近い人物が撮られている。科学者、役者、画家、陶芸家、作家、音楽家、哲学者、宗教家、等々、様々な分野でひと仕事してきてる人物ばかりである。
その中で特に印象に残った写真は、将棋の升田幸三が自宅と思しき縁側であぐらをかいて煙草をふかしながら庭を眺めている一枚でした。何処を見る訳ではなく、空(くう)を見つめてるような、空気と一体化したような光景が撮られていました。写真家は対象に同化してシャッターを切ったのだろう。

土門拳のこんな一言がありまた。
「本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする。少なくとも欠点を魅力に転化するのが、写真家の親切というものである」
「その人らしいということと、その人ということは、必ずしも一致しない」

そこには“写真家の眼が切り取った対象”が写し出されることになり、その写真家の世界が暗に表われ出ている。
この写真集をみながら様々なことに想いを巡らしていましたが、何とも楽しい時の経過で、自分の描いてる絵を別の角度から眺めてみる時間でもありました。


◆今月の山中事情135回−榎本久・宇ぜん亭主

−ウイークポイント−

病後私は高所恐怖症になってしまった。それだけではない。速度恐怖症、工具恐怖症(包丁以外の刃のついたもの)等危険を伴ういちいちのことに恐怖を感じるようになった。危険を察知し瞬間的に反応し、そこから即逃避する脚力等を失ったからである。
俳優火野正平氏も高所恐怖症の持ち主だった。図らずも高所にある橋を渡るシーンをNHKBS「こころ旅」で露呈した。そのシーンは、清里から韮崎方面に下る道を映していたが、その番組を初めて見たゆえ彼のへっぴり腰はおふざけかと思ったのだがそうではなかった。その道は、私も数度通ったことがある。確かにその橋の上から見る景色は、健常の時でも感嘆の声はあげられなかった。

火野氏のそれを書くとすれば、その橋にかかるまでは、軽口をたたいてペダルを踏んでいたが、橋を見たとたん形相が変わった。自転車を降りる。腰がひける。
自転車を押す歩間は極端にせばまり、スタッフもそのペースに続く。その橋を自転車で渡るなら一分も要さないが、彼はちょこまかと自転車を押し、その何倍もかけて恐怖と闘いながら渡り終えたのだった。その後恐怖の表情は消え、コーヒー店に入ってソフトクリームをほおばる段となるころは又、軽口をたたいていた。

この番組は、火野氏と橋の対決だ。一見、渡れそうな橋に出会い「何のこれしき」の気概で挑むも、結局引き返してくるシーンが何度もあり、なさけなくおかしいのである。決して川の方は見ず、車道側を歩く。反対側から自転車が来れば、方向転換して戻ってくる。無理だとなれば、軽トラックの通るのを待ち、手を上げて自転車ごと乗せてもらい、人の情にすがる。そして見事に橋を通過すれば、すべてこの番組の為の演技であるとのたまう。
私は彼の不幸を見て笑っていた。しかしそのことをよくよく理解出来るのも私である。我が方にも散歩に出ればそれなりの橋がある。清里のそれとはスケールは違うが、川の水が濃い色になっている渕が上から見える。なんとなくそこへ引き込まれそうな感覚になるのである。それを見たくなくて車道を意識すると今度はダンプなどの大型車輌にあおられる。わずか二、三分の橋を渡るのに、今度はこの橋が落ちないだろうかと余計なことを考え、なるべく早く歩こうとする。

私にとっても、事件とは違う恐怖を日常の中でこのように体現せざるを得ない。
なるべく近づかないようにするか、慣れるようにするかに集約しなければならないが、以前よりは恐怖心は減退しているように思える。
それにしても以前古磯氏に連れられて、彼の家近くの吊り橋を渡れと言われた時はおそろしかった。そして「こころ旅」を知ったのも古磯氏の投稿が採用され放映されたからのことでした。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。