★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.189

9/19日(水)から(10/1迄)行動展が始まります。
ご都合のつかれる方、是非観てください。
招待葉書をご希望の方は仰ってください。まだストックが少しありますので。
尚、私は19〜23日の間は美術館(六本木・国立新美術館)のどこかにいると思います。
宜しくお願いします。

「第73回 行動展」
  ・会場 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
  ・会期 2018年9月19日(水)〜10月1日(月)
   10:00〜18:00(入場は17:30まで)
         休館日:9月25日(火)
         毎週金曜日は20時まで、18時以降は入場無料
         最終日は14時まで、入場は13時30分まで
  ・アクセス 東京メトロ千代田線乃木坂駅6出口から徒歩1分
         東京メトロ日比谷線六本木駅4a出口から徒歩5分
         都営地下鉄大江戸線六本木駅7出口から徒歩4分


では《Ryuの目・Ⅱ−no.189》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−過労死を再考−

過労死を定義すると、「長時間の残業をして、精神的、肉体的疲労の結果、
 (1)脳溢血や心臓麻痺などによる突然死
 及び
 (2)鬱病や「燃え尽き」症候群による自殺
となります。
過労死の適切な訳語が英語にはなく、そう言う概念も思いつきません。敢えて言うなら「Death by Overwork」となるでしょうか。過労死と言う日本語には、死亡の責任を本人ではなく、組織の責任に帰したいとする姿勢が伺えます。しかし、芸術家が作品制作のため心身共に燃え尽きて自殺したりする記事が時々ニュースに載りますが、このような「死」を過労死とは云わないようです。芸術家の場合は、自分の「意志」で精力を使い果たしたのであって、その死は、寧ろ「美しく激しく燃え尽きた一芸術家の死」と見なされ、創造力の完全燃焼、などと賛美されたりします。同じ「燃え尽き」た結果の死でも、何故このように異なる解釈がなされるのでしょうか。

私の理解では、「正常時」に機能していた「本人」の「意思と判断力」が「燃え尽き時」にどの程度機能していたかが、解釈の境目になっているようです。例えば芸術家のベートーベンやゴッホヘミングウェイ、更に太宰治黒澤明などは、自殺への誘惑が彼等の作品と何処かで関係していたようで、創作力の源とも理解されたりしています。しかし、これを証明することは不可能に近いと考えます。
もし、上の説をある程度正しいとするなら、「過労死」は本人の「正常時の意志」が機能しなかった「死」であり、強制労働の結果だとして、労働基準法に照らして、責任の大半を組織に押し付け、本人の「意思」に反した無念の死であると結論付けようとしています。私に言わせれば、これは死んだ本人に大変失礼です。しかも多くの場合が、子供や夫など身内の自殺なので、益々「本人の意志」を大切にする必要があると考えますが、如何でしょうか。日本の組織のトップが、絶対君主の如く君臨し、労働者に対して強権を振るって仕事を強要し、労働者は一切問答無用で只服従あるのみ、と言っているようです。
私には納得のいかない解釈です。私も日本人ですので、日本の文化的習慣として或る程度自己の主張を控え、自分の上司や雇い主に対して、「働き過ぎ」であるとか、「身体の調子が悪い」などと簡単には発言し難いのは理解できます。しかし、「死」に至るまで無言で(又は無抵抗で)働くのが、一般の日本人とは思えません。もしそうなら、それは奴隷制度に近いです。

民主主義が多少とも機能している社会では、原則として、個人の意思、権利、義務、責任などにそれ相応の価値を置いている筈です。価値を置くとは、それがよいことである、と上下共に理解を共有し合っていることです。これは、企業でも官庁でも、又は研究組織でも変わらない筈です。日本での訴訟や裁判の際には、この点が問題になっているに違いありません。個人主義の影が薄く、全体主義的傾向のある日本社会にあっても、「個人」の死に至る過程で個人の意思や権利が、それほどまで無視されるとは、想像し難いことです。
アブラハム・リンカーンが、ゲティスバーグで演説した内容を想い起こしてください。即ち民主政治とは「人民の人民による人民のための政治」なのです。
世界の何処にも、このように完璧な形の民主政治や民主主義が存在しているとは思いませんが、少なくともその方向で努力していると考えるのは私だけではないでしょう。日本国民の一人一人が自分の「意志」と「責任」で、働き、楽しみ、生活し、そして他人との協調精神を発揮できるようになる方向で、学校教育や家庭教育に常日ごろ「努力」している筈なのです。もしこの努力が必要とされていないなら、日本は、個人に自由の無い封建国家といわれるべきです。
政治家も教育者も、日本の国会で演じている「責任の擦り合い」を無くして姿勢を正し、個人の自由な意思と責任に、より大きな価値を置くよう「努力」するならば、「過労死」も減少するに違いありません。この「努力」もせずに只単に「働き方改革法」だけを新しく制定しても、日本の文化、文明、民度は上がりません。

アメリカに住んでいる私には「過労死」の問題がこのように映ります。
因みに、日本国憲法の前文には、リンカーンによる演説文中の有名な部分(日本語訳)がそのまま載っています。

そもそも、国政は、国民の厳粛なる信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを使行し、その福利は国民が享受する。
リンカーン演説の日本語訳)
Government is a sacred trust of the people, the authority for which
is derived from the people, the powers of which are exercised by the
representative of the people, and the benefits of which are enjoyed
by the people. (リンカーンの演説の原文)

2018年6月30日 岸本雄二 クレムソン大学名誉教授、アメリカ在住 54年


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その36/四方山話1 −

我が家は1階の居間・食堂・台所が吹き抜けのワンルームになっており、最近はもっぱらここで絵の制作を行っています。そこからは南アルプスを望むことが出来ます。
これまでは2階で制作していましたが、制作するサイズが大きくなってきたので広いスペースが必要になり、止むを得ず1階に下り、居間スペースのストーブの脇で制作しています。

今年始めの冬の時期、行動TOKYO展出品作を制作してる頃だったと記憶してますが、制作の合間に気分転換を兼ねてギターでも爪弾こうと思い、2階に置いてあったギターを1階に降ろしました。しばらくはそこに置きっぱなしだったのですが、6月半ば頃、9月の行動展に向けて制作に取りかかり始めた折、久し振りにギターを爪弾こう思いギターケースから取り出して爪弾いたところ、何か音が変だなーと感じ、ギターを調べてみると・・・何と、表面の板が割れているではありませんかっ! 愕然!!!
ギターケースに入れて置いたとは言え、寒さが残る内はずーっとストーブを使っているので部屋が乾燥状態だった為でした。

このギターは思い出深いクラシックギターです。高校生の頃に安いギターを買って自己流でギターを始めましたが、いずれはギター制作者による手工品のギターを手に入れたいと思っていました。何しろ音色がまったく違いますから。2年間の浪人生活も終わり、大学入学と共にアルバイトをして購入資金を貯めました。いまから50年以上前のことですが、確か5万円ほど貯めたのではないでしょうか。それを持って御茶ノ水の楽器店に意気揚々と向かい、幾つか試し弾きの後、中出六太郎という人の制作したギターが気に入り、手に入れたのです。
嬉しくてしょうがなかった。家に居る時はしょっちゅう弾いていたように記憶しています。青春の一時期です。それ以来このギターは私と共にあり、時々思い出したように爪弾いていました。

そんな思い出深いギターでしたのでこの割れにはショックでした。動揺しました。ネットで修理してくれそうなところを探しましたが、東京あたりは結構あるのですが山梨ではなかなか適当なところが見当たりません。それでもしつこく探していると、白州町にクラシックギター制作者が移住していて修理もしてくれるとの情報を見つけました。調べてみると、17歳の時分からギター製作を始め、スペインの工房で技術を磨き、帰国後東京で楽器制作を開始していたが、1990年から白州に自分で工房を建て始め、1995年からそこで制作を開始したとありまし
た。これは素晴らしい情報を見つけたと思いました。こんな山里の田舎でギター制作者が近くに居住してるとは。これはある“出会い”だなと思いました。
後日、我が家の近くにある温泉で顔見知りとなった画家にこの制作者の話をしたところ、自分の家のすぐ近くで知り合いだと教えてくれました。

それ以来、早く修理したいなと思っていましたが、行動展の制作に入っていたので一区切りつくまで我慢をし、先日やっと行動展の搬入(9/7)を終えた次の日、早速その工房に電話を入れ、アポイントを取ってから午後その工房にギターを持って訪ねました。我が家から車で10分足らずのところでした。
50代後半と思しき、まだ若さを感じる(いささか頭は薄くなっていたが)制作者で、ギターをじーっと見ていましたが、やがて修理の方法を説明してくれた後、快く修理を引受けてくれました。ホッとひと安心。
いつ修理が終わるのかは聞きませんでしたが、なんだかワクワクした気分で家に帰りました。楽しみです。


◆今月の山中事情149回−榎本久・宇ぜん亭主

−現代人ホモサピエンス(知恵ある人)−

私は現代のホモサピエンスと言うことになっている。それでは古代のホモサピエンスの方々とどういう差異があるだろうか。熟考してみた。まず「生きる」という大前提で壁にぶち当たった。おこがましくも彼等より何が勝っているかと考えてみたが、何一つ勝るものがなかった。「生きる」が為の能力を有していないことが判明したのだ。
まず火を熾すことが出来ない。刃物を作れない。木を切り倒せない。狩りも出来ない。家など建てられない。丸木舟も造れない。土器も作れなければ、まが玉の穴さえあけられない。航海などとんでもないし、農作物とてままならない。
しかし、それを今から五千年も一万年も前から彼等はやり遂げていたのである。それも、付随する諸々も作ってである。

現代人の私は、そのことごとくを、他者が作ったものを“買う”という行為で得たものばかりである。そのことは多くの現代人の暮らし方であり、ざっくりと言えば、地球で生きる七十億人の現代人は、数パーセントのとある者達によって操られ、あらゆる分野の長(おさ)の分け前によってこうして現代人として生かされている。要するに古代人のように自力で生きることが出来ない現代人が七十億人もいるということである。ITによるいろいろの分野に屯(たむろ)する現代人は、もしそれが機能しなくなったらどうなるのかと、オンチな私はおせっかいをやきたくなる。現代人が未来永劫進化し続けて行くとしたら、それが人である必要もなくなるのではとも考えてしまう。そしてその逆もある。

生きるため、ほとんどを他者にゆだねている現代人は、この世が再び古代のごとくになったら「右向け右」」で生きてきた七十億人はどうするか。舵だか帆だかは知らねど、かろうじて正常を保たれているそれがある時大きくずれたらどういうことになるであろう。古代人の末裔だから、叡智は発揮されるかも知れないが、もしかしたらホモサピエンス(知恵ある人)の終焉があるかも知れない。

核の保有が世界中に一万四千発以上ある。アメリカとロシアが半数ずつ持っている。持っている国の誰かが正気を失ってそのボタンを押せばもっと早く古代になってしまうかも知れない。知恵ある人(ホモサピエンス)によって、月のように人の居ぬ星にしてはならない。
寝苦しい真夏の夜の夢でした

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズからです。
  サイズはB2(72.8cm×51.5cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。