★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.182

2月になりました。
寒さが続きます。春はまだかな?

アメリカの核戦略指針に追従とは・・・・。
この政権はどこまで追従するのでしょうか。

行動美術TOKYO展、ご都合つきましたらご覧下さい。
3月1日〜7日、上野の東京都美術館にて。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.182》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

−映画「バートン・フィンク」と脚本家−

現代アメリカの最も優れた映画監督・脚本家であるコーエン兄弟の作品に「バートン・フィンク」(1991)がある。コーエン兄弟は80年代から製作を始めたが、この作品で、カンヌ映画祭パルムドール、監督賞、男優賞の三冠を獲得、一気に檜舞台に躍り出た。彼らの映画はハリウッド好みではない。続く「ファーゴ」(1996)と「ビッグ・リボウスキ」(1998)、これら初期三部作でもたっぷり楽しませてくれるのだが、有名な「ノーカントリー」(2007)になると、それはもう身の毛のよだつ、シュールレアリズムの極致に誘ってくれる。

それはともかく、この映画は、40年代初頭ニューヨークの劇作家バートン・フィンクがロサンゼルスの映画製作会社社長に招かれ、B級映画の脚本を頼まれ悪戦苦闘し、予想もしない展開に巻き込まれる話だ。映画が無声映画時代を終え大衆娯楽の柱になっていく時代、資金を用意し、投資する製作会社・プロデューサーと製作現場、脚本家、監督、俳優、スタディオ運営、カメラ、照明などの技術者たち、これらの間の分業・協業関係が形成され始める時代だった。

アメリカ映画産業草創期には舞台芸術分野の影響と言うより、劇作家(演劇では劇作家または戯曲家と言われる)の協力は不可欠であった。「協力」と言っても綺麗事ばかりではなく、「バートン・フィンク」で描かれているように、ドルを持った製作会社が脚本を買い叩き、一攫千金を狙う、と言うケースは珍しくなかった。ニューヨークに集まった劇作家たちにまずは小遣い稼ぎの機会を提供し、さらに運が良く当たればそれで生計が立てられるまでになることも珍しくはなかったのだ。
製作者が脚本家に提示するものも「イメージ」程度のものでしかないことが多く、それが脚本家のセンスに合わないものであれば最初からまとまりようがない。
低い報酬で集められた複数の脚本家に個々別々に書かせ、撮影開始直前に全員解雇、新たに雇った脚本家にこれらの本をまとめさせ、まったく別物をひねり出してクランクインする、というようなことも行われた。
控えのホテルで書かせながら撮影が同時進行する、ということもあったらしい。

脚本家について書き始めたのは、脚本家の仕事を抜きに映画は語れないし、私が続けようとしている「映画の旅」は、監督が演出し俳優が演技する場を作り上げる脚本家(つまり「作家」である)を軸にして叙述しなければ、と考えたからなのだ。日本では、ある映画作品について語る場合、俳優や監督の名前は知られていても、脚本家を知る人は少ない。
舞台が劇作家がいないと演じられないことは理解されても、意外なことに映画は俳優と監督で作られるもの、と誤解されているようなのだ。映画も大衆娯楽的な要素が強いとは言え、表現芸術の一つである。特に草創期の舞台芸
術との関係を知れば、可能性に満ちた魅力ある分野だから才能のある若者が多く集まった。

歴史的事件として知られているが、1947年から1960年まで、アメリカ映画産業に癒えない傷を残した赤狩りの嵐が吹き荒れた。チャップリンの「国外追放」(彼は英国籍で、国務省が彼の再入国禁止を決定していた)はこの嵐の前夜の事件であった。赤狩りは脚本家を中心に多くの映画人を巻き込んだ。資料を整理していて驚いたが、私が過去楽しんだ殆どの映画がその被害に遭った映画人の作品だった。 当時パージされた多くの優れた脚本家たちは、偽名で作品を発表したり、赤狩りに同調しない製作者・監督たちが脚本家の別名で作品を世に出したこともあった。
「credit」という言葉があるが、もともとは「謝辞」という意味で、映画の最終画面でプロデューサー・ディレクター・俳優・各種技術者の名前が表示されるものだ。2000年以降、赤狩りの時代の多くの作品の本当の作者は誰なのか、全米脚本家ギルド(WGA:WritersGuild ofAmerica)が中心になって、膨大な聞き取りや調査を積み上げている。このような事実に対する執着と執念が歴史について真剣な姿勢を育てていくのだろう。

「1960年映画の旅」は、企てた当初とは趣を変えて行った。黄昏に入った私の人生を彩り豊かなものにしてくれている、と言っても良い。 ちょっとしたエピソードも知ることができた。エリア・カザンから「エデンの東」(1955)の主役のオファーを受けたマーロン・ブランドは、カザンが赤狩りで密告者となったことに腹を立て当然にも蹴飛ばした。マーロン・ブランドのような反骨者ではなく線の細いジェームス・ディーンだったからあれだけのヒットになったのだから、カザンも諦めが付こうというものだが、それほど単純ではなかったようだ。 
もう一つ、「ローマの休日」(1953)はオードリー・ヘップバーングレゴリー・ペックで歴史的な名画となったが、エリザベス・テーラーケーリー・グラントで撮るプランが併行して練られていた、とか。 もう言葉が出ない。


◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 異次元生活体験談 −

“異次元”などとたいそうな表題でいささか恥じ入る思いではありますが、話は孫の世話体験談です。
ことの経緯を簡単に説明しますと、昨年の11月のことですが、1月出産予定の娘(次女)が仕事での動き過ぎにより絶対安静を医者に申し渡され、急遽入院することになりました。そこで問題となったのが保育園に通う3歳の孫(男子)の世話をどうするかということでした。我が家族では妻、三女、私の三人の交代で対応することにしましたが、諸般の事情からまずは身軽に動ける私が娘家族のいる東京にということになり、これには本人(私)もさることながら周りの不安も察せられるところではあります。

私の若き頃は“マイホーム主義”なる言葉が流布し定着し始めた頃でした。私生活を優先させるという生活意識ですが、今でこそ共働きの増えた時代環境では当然のこととなっていますが、当時の意識環境としてはやはりまだまだ“仕事第一”。そんな状況でしたから毎晩遅くになって帰宅する生活パターンで、子育ては妻に任せっぱなし。そんな訳で、自分の子供達の成長期に共に過ごした経験が少ない私は、今回のような緊急事態に於いては全く役に立たない存在です。が、致し方ありません、やるしかない!!
わたしはこの難関をはたしてどう突破出来るのか?本人が一番不安。

11月半ば、まずは三人で東京に乗り込み、風邪気味で保育園を休み、ママの緊急入院で気持ちが不安定になっている孫に相対することになりました。パパに我々三人が加わって賑やかとなり孫も気が紛れているようでした。二日間の“実習”(?)を終えて家内と娘は山梨に帰り、さあそれからの一週間、私一人での実践が始まりました。私の一日の仕事は、まず孫を起こすことから始まり、朝食を食べさせ、保育園に連れて行き、帰ってから掃除、洗濯、買い出し、夕食作り(夕方の保育園のお迎えは原則パパがやります)という、私には超ハードな任務。このうちの難関は「朝」と「夕」です。「朝」は目覚めから保育園に連れて行くまで、「夕」は食事の支度です。日頃は東京と山梨に離れて生活しており、たまに孫達に逢う程度でしたから、生活を共にするなどとは想定外。
未知の世界に突入。

さて、孫は風邪も治り日常生活の始まりです。全てが初めてで不慣れな私はまずは初日が大変でした。父親が早朝出勤なので私が朝7時過ぎに起こします。これがまずはひと難関。ママ、パパのいない寝起きは当然のごとくご機嫌斜め。近づくと来るなと泣き出します。しばらくは放っておくしかなく、本人が近づいてくるのをじーっと待ちます。“忍耐忍耐”
やっと近づいてきたらまずはトイレに連れて行って自分でオシッコをさせ、それから慣れない手つきで着替えさせ、テレビの子供番組を見せながらの朝食開始。本人の自主性を重んじ?手を出さないで、一時間かけてのゆっくり朝食。“忍耐忍耐”
朝食が終わると、歯磨きをさせてから8時45分頃には家を出ます。出来るだけ手を出さない方針で沓はきも本人にさせます。何とか沓はきが終わり、ママチャリに乗せて保育園には9時に入ります。初めての日、保育園の場所は近くだったなーと勝手に想定していた私は、想定外の距離にルートを間違え、窮余の一策でダメもとながら孫に聞いてみると「そこをひだりだよっ」、「むこうはみぎだよっ」との指示。本当かな?と思いつつも行ってみるしかない。しばらく行くとなんとか無事保育園にたどり着くことが出来、ホッ!
いやいや、これも“忍耐忍耐”

午前中には掃除・洗濯・買い出しをこなし、午後はやっと自分の時間、一息つきます。ホッ!
1月末までに制作予定の作品の構想練りをと行く前は思っていましたが、なかなか気持ちが集中出来ず、諦め、せいぜい読書くらいです。

夕食作りは4時位から取りかかります。孫の好きそうなメニューを予め9種類ほど教えてもらい、そのうちの6種類に挑戦してみることにしました。豚汁、カレー、肉野菜炒め、煮込みうどん、肉豆腐、豚の生姜焼き、です。東京に住んでる頃は殆ど料理をすることが無く(せいぜい一年に一、二度スパイスからカレーを作ってはいましたが)、山梨に移住してからやっと少し妻の家事を手伝う程度にはなっていましたが、それでも単独での食事作りはあまりしていませんでした。ですからどんな調味料を組み合わせて味作りをするか分かりません。
ということで、ネット検索と妻からのメールによる遠隔操作で対応することにし、いざ本番。カレーや肉野菜炒め以外は初作りばかりの料理でしたが、思いの外失敗もなく、「なかなか行けるじゃん」と少々自信も。孫もパパも旨いと驚くほどの量を食べてくれました。やったねっ!
こんな生活が1週間続いた後、3日間妻と交代し再び今度は2週間の挑戦となりました。最初の一週間の経験がものをいい、対応の仕方は分かってきましたが、疲労の蓄積は限界状況なるも何とか乗り越え三女と交代。

これまでに経験したことの無い“異次元”の時間は、様々なことに気づかされました。家事を一人でこなす生活の経験があまりないばかりか、今回はこれに“孫の世話”という想像しなかった役目も加わり、いきなりハードルの高いトライヤルでしたが、やれば何とか出来た!!そんな自分を発見。
“生活すること”を実感し、畑での野菜作りに感じるような思わぬ感動を覚えた次第であります。疲れはしましたが、感性が「違う次元」で刺激されました。
3歳の子でもそれなりにこちらに気を遣うことも発見。休みの日曜日には長女家族が来て孫を連れ出してくれ、孫も大いにストレス発散!
とにかく予想をはるかに越えて何とかやりこなせ、我ながらよくやったと少々自信が芽生えた次第でした。
異次元生活顛末記。

申し添えますと、娘は1月7日に無事女の子を出産致しました。


◆今月の山中事情142回−榎本久・宇ぜん亭主

−正月考−

大寒波にて正月の余韻にひたれる間もなく二月になってしまったその寒波だけでなく、このところ「正月だ」と言う気持ちがやたらなくなった。
「正月」ということにその意識が失せて行っているのは年齢のせいなのだろうかと思ったり、いやそうではなくそれを感じさせることが身の廻りから消えたからではないかとも思う。たしかにテレビはせっせと三日間はそれなりに「正月」を醸し出す大さわぎを演出してくれてはいたが情緒はない。スーパーもデパートも然り、「正月」を煽りたて「正月」になりますよとは誘うも、その前はクリスマス、ハローウィンと煽ったあとで、只々物売りをしているだけだ。
大きな会社の前には立派な門松は見られるが、各家々の松飾りはかなりの確率で飾られていない。洋風のリースのようなものをたまに見かけるが、「正月」を祝う儀礼が消えてしまった。トランプ、すごろく、はねつき、たこあげは我が家に於いては絶滅した。孫が来ても当然のごとくゲーム機だ。こちとらはそのようなものは持ち合わせていないから一緒に遊ぶ方法もなく立ちすくむ。
「正月」をわずかに意識させられるのは、我が職業のおせち料理作りである。そしてそれに欠かせないものが「もち」だ。我々子供の頃は「もち」こそ「正月」しか食べられないものだった。
それゆえ、本当に「正月」が待ち遠しく暮れになるとあちこちで「もち」をつく音を聞き、何日かすると「もち」が食べられると楽しみにしていたものだ。が、今は「正月」を待たずともいつでも「もち」は食べられる。
ありがたみがない。それ故テレビ、ラジオから聞こえる♪もういくつ寝るとお正月♪のメロディーは空しい。
おせち料理もしかり。本来の意味を逸脱し商業本位と化し豪華さを競っている。
このことが果たして是であるのかと私は眉をひそめている。
本年も一月三日に中野にある菩提寺に行き墓参してきた。行き帰りずい分多くの車とすれ違ったが、すべての車に正月飾りはついていなかった。あの昭和の象徴のようなボンネットにこれ見よがしに飾っていた「正月飾り」は今の人には「ださい」ものとなっていた。
「正月」はこうしてそれを感じさせることが身の廻りから知らぬ間に消えていて、それによって「正月」の雰囲気がなくなったのだ。しかし誤解してほしくないのは、このことを言うのは私だけのことで、若い方々はそれぞれの思いで「正月」を迎え、充分満喫されている筈だ。又、おのおのの地方では、そこにある伝統的行事を「正月」の儀式として脈々と伝えている方々がいることも知っている。

「正月」に事件がありました。
元旦に神棚にとある盃でお神酒を捧げた。四日にそれを下げた時、お神酒が無くなっていた。なんと神が飲み干してくれていた。まさにイタリア映画「マルセリーノ、バンビーノ」(邦題:汚れなき悪戯)の日本版かと思った。盃の裏を見た。
うっすらと漏れていた。釉薬のかかっていないところがマッチ棒位あり、その辺りが浸みていた。それが三日かけて盃を空にしたもよう。
だが、大事なのは、一瞬でも神が降臨してお神酒を干してくれたのだと考えたことは、それはそれで素直によろこんでもよいのではなかろうか。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め/位相2018」 です。
  サイズはP50号(80.3cm×116.7cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。