★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.177

残暑もなく、あっという間に秋の到来です。
我が家の2階から見える桜の木の紅葉が、早、始まっています。
8月末に白菜の苗作りにとりかかりましたが、成長が遅いようです。
これでは秋野菜がうまく育たないかも・・・。

北朝鮮に振り回される世界。
不安定なアメリカ。追従する日本。

★「第72回 行動展」
  ・会場 国立新美術館(東京都港区六本木7-22-2)
  ・会期 2017年9月20日(水)〜10月2日(月)
   10:00〜18:00(入場は17:30まで)
         休館日:9月26日(火)
         毎週金曜日は20時まで、18時以降は入場無料
         最終日は14時まで、入場は13時30分まで
 都合のつかれる方には是非ご覧いただければと思います。
 招待葉書(1枚で2名まで)がありますのでご希望の方は仰って下さい。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.177》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−広島と平和と宮沢賢治

広島と原爆は、終戦以来「平和」の象徴として扱われてきた。原爆投下の候補地であったとされる4都市、長崎、小倉、広島、新潟の中で捕虜収容所がない唯一の都市が広島だった。世界最初の原爆実験のための場所は、実験の効果や結果が収集し易い広島が選ばれた、と言うが、アメリカの捕虜を巻き込まない、というのが本音であったようだ。その結果24万人が死んだ。しかし以上の惨劇の何処にも「平和」に関する事項がないと、普通の人なら気が付く筈である。そうだ、一つ単語が抜けていた。「戦争」である。「戦争」が無かったなら、広島も原爆も「平和」とは無関係であったに違いない。そこでこの「戦争」の原因を追究して、建設的な何かを引き出せば平和へ貢献出来るかも知れないと考えた。

日本の軍事政権とアメリカ政府が太平洋戦争の直接的原因と考えれば、公平を期するために両者を同じ俎板の上に乗せて検討する必要がある。そうすると、日本海軍による真珠湾奇襲攻撃と広島への原爆投下とが大きな要素として俎板の上に見えてくる。真珠湾奇襲作戦という表現は山本五十六元帥の手記に明記されている。そこには、奇襲作戦で攻撃して初めて目的を達せられる、と書いてある。奇襲攻撃は、アメリカ人が最も嫌う「卑怯=unfair」な作戦であった。これがアメリカをして一致団結させて参戦に踏み切らせたのであり、後に原爆投下の決断や、特に東京裁判には大きく影響した。戦争を裁いたと言うよりも真珠湾奇襲攻撃と日本軍の過酷な捕虜の扱い方、この二つの卑劣さ(アメリカ側の言い分)を裁いたのが東京裁判であった、と言っても過言ではない。

武器を使った国家間の衝突を「戦争」と定義する。領土拡張、市場拡大、資源確保などが太平洋戦争の主な原因であったことは明らかだ。東京裁判では、日本の東南アジアへの侵略活動が大きく取り上げられたが、ヨーロッパ諸国のアジア侵攻や植民地主義と比較して、そんなに違ったのだろうか。アメリカも東南アジアに大いに興味があったようだ。日本と同じような理由から東南アジアに興味を持っていたようなので、日米間の市場をめぐる衝突も何時かは起こるに違いないと言う前提条件が真珠湾開戦以前に、既に存在したと言える。
当時既にイギリス海軍日本海軍によって痛めつけられていたので、それを助けるという逼迫した目的がアメリカにはあった。更に真珠湾奇襲攻撃直後に日本とアメリカはフィリピンで衝突した。日本軍はフィリッピンのバターン島からコレヒドール島まで150日(45日の予定であった)かけてアメリカ軍を逐追した。当時フィリピン総督であったダグラス・マッカーサーは逃避先のオーストラリアで、あの有名な言葉「I shall return.」を残して本国へ帰った。

ヨーロッパ勢力がアジア諸国を植民地化し経済的搾取をしていたときに、有色人種の日本軍がイギリス、オランダ、フランス、アメリカ、オーストラリアの白人勢を続けさまに薙ぎ倒してくれたので、アジア解放の救い主のように思われた、と書いた記事もあったが、結局は、日本もヨーロッパ勢と同じであった、という記事もあった。要するに目的が自国のための領土拡張、市場拡大、資源確保などであれば、誰が行なっても同じような結果になるようだ。アメリカ主導の連合軍が日本軍を東南アジアから追い出しにかかったときに、アジア諸国は、一国たりとも、アジア解放の救世主であったはずの日本軍を応援しなかった。日本も植民地主義のヨーロッパ勢と同じであったからだろう。

私は、太平洋戦争を、日本の伝統的考え方でもある喧嘩両成敗であると考える。現在進行中の中近東での争いでは、ジハードという自爆を繰り返しているが、終戦間際の日本の特攻隊もこれと同じであったと考える。有名な零戦特攻機に使われて無意味に消耗されていった。もっともその時点で、零戦を駆使できるパイロットは殆ど残っていなかったし、飛行のための燃料も既に使い果たしていた。勝てないと分かっていた戦争末期に、人間魚雷や特攻隊、さらには竹槍を担いで最後の1人まで戦うとするのも作戦であり、原爆投下を決定するのも作戦である。果たしてどちらがより非人道的であったか。これは厳しく難しい質問だが、一度は良く考えて自らの答を出さなくてはならない。読者の皆さん、自分の問題として、よーく考えて頂きたい。

「原爆投下は二度と繰り返してはならない」が平和の象徴になるなら、「人間魚雷や特攻隊は二度と繰り返してはならない」と祈ることも平和の象徴になる筈だ。要するに原爆や特攻隊を必要とする状況を作り出してははならない、と言っているのである。真摯に平和を考えるならば、特攻隊に激突されて沈没したアメリカの被爆戦艦も平和の象徴になれるかも知れない。しかし何かが変である。死亡者数がまるで違うのである。しかし果たして数の問題なのだろうか。1954年にアメリカが東南アジア海域のビキニ環礁で水爆実験をして、丁度操業していた日本漁船第五福竜丸の乗組員や地域の島に住んでいる人々が被爆した。この事件は平和とどの様に関係してくるのだろうか。

どの社会でも教育施設や医療施設を充実すれば、人々の受ける恩恵は計り知れない。更に衣食住を充実すれば、平和を実感出来るだろう。しかし政府によって教育方針や内容が統制され、教育当事者が信じる「世界平和へ貢献出来る教育」を実施出来なければ、衣食住が十分でも平和といえるかどうか疑わしい。即ち言論の自由が圧迫された状態では、平和ではないと言える。報道や言論の自由が束縛されている国は、程度の差こそあれ、民主主義が希薄で、独裁者的指導者がいて強圧的強権を振るって、報道や言論の自由を抑圧している。ロシアや中国や北朝鮮など共産主義的傾向の強い国がそうである。ついでに、運動会の100メートル競争で、皆で手をつないでゴールインしたと聞いたが、これを言論や行動の自由が束縛されている、と感じてしまうのは私だけであろうか。これを指導した教育者達の意見を是非聞きたい。

さて、「自由」と向き合うとは、どういうことなのだろうか。「自由」は、例えればビタミン剤であったり強精剤のような働きをしたり、使い方によっては、劇薬に早代わりしたりする。「自由」を自分のものとしてよく消化し、目的達成に役立てる努力がなされるなら、「自由」は正しく機能し始めるが、「自由」に翻弄されて秩序が乱れると、後戻りが難しくなることさえある。「自由」を正しく理解し、平和な社会の建設に役立てるよう努めることは、国家の一大使命である。当然だが、「自由」のために血を流すことすらある。一般に「自由」のために流す血は正義なのである。従って、他国が「自由」獲得と擁護のために血を流している時に、その努力を援助することもまた正義であると言える。それは平和のための血だからだろう。

もし、東に「自由と平和」を求めて必死に戦っているいる国があれば、行って助けてあげ、西に衣食住の不足を嘆いている国があれば行って出来る限り衣食住を与えてやれる国に日本はなりたい。今の日本は、憲法9条2項の「交戦不可」が理由で、不本意ながら、宮沢賢治に近付けないでいる。しかし、日本を雨にも負けない国にするのも広島平和運動の趣旨に沿っていると考える。広島平和運動を他人事としてではなく、自分の事として考えると、雨にも負けず風にも負けない日本が次第に見えてくる。

2017年8月6日  広島平和記念行事のテレビニュース観ながら。 岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− ちょっとひと息/夢の話 −

これは先日みた夢の話です。
その前に、先日NHKテレビの“ブラタモリ”と言う番組を偶然見ました。「十和田湖奥入瀬」編で、その中で何と岩を抱きかかえる木が登場したのです。苔に覆われた岩に木が生えています。苔の中に木の種が落ち、風に飛ばされにくいということだけでなく、水分供給のみならず苔の持つ抗菌性が作用して大きく成長していったものとのこと。まさにこれから話そうとする夢の光景と同じように、大きな木の根っこが大きな岩を抱きかかえるように生えているではありませんか。とっさに夢を思い出しました。

では夢に戻ります。
対象は、このRyuの目の「今月の山中事情」でお馴染みの榎本久氏の宇ぜん亭です。と言っても夢ですから、季節を含め様々に脚色されていました。
実在の宇ぜん亭は秩父・黒谷駅に近い線路沿いにある新築の建物で、対話を重視したカウンター形式のお店です。私も何度かお邪魔していますが、SL列車も時折通っています。しかし、夢の中では場所が定かではありません。
季節は春。まず、宇ぜん亭の建物ですが、これが古い書院造り風な建物です。建て込まれた障子の間から和風な庭が拡がっているのが見えます。障子を通して入り込んでくる陽が何ともやわらかい。厨房も今風なキッチンではなく、昔の厨房が再現されています。かまどや流しがありますが、この厨房をどんな風に使うのかな?との多少の疑問はありました。夢の中では、亭主好みの店作りだと感心している。その厨房の先に、桂離宮の月見台に似せた広い露台が設けられています。この露台での花見が今回の目的です。出演者は榎本氏と私の他に顔馴染みの客仲間が数名。残念ながら榎本氏以外は誰が居たか定かに覚えていません。その露台の脇に、何と、台車に載せられた移動式の大きな桜の木が据えられるという仕掛けになっています。このあたりが何とも今風な世相を表しているのかも知れません。桜の枝が露台を覆うように設えられ、満開の桜が場を包み込みます。桜を愛でながらの酒盛りです。

この夢のポイントは何と言ってもこの“移動式桜”です。夢の中では移動式桜の発想に感心させられています。その桜は根っこのところに大きな石を抱え込んでいて、その重みで木が倒れないという仕掛けになっています。必要に応じて石ごと桜を移動させ、必要な場所に設置。夢の中ではそれ程不思議には感じていません。むしろ、おもしろい仕掛けと絶賛しています。夢から覚めると、そんなことあり得ないじゃんと思いますが・・・ここが夢のいいところ。根っこは大きな石の周りで適度に切断されていて、その石ごと大きな台車に載せ、移動しやすく?なっています。宴会に合わせて露台脇に台車ごと数時間ほどセットされますが、台車は見えないようにセッティングされます。日頃は台車ごと池に浸されていて、水を供給し維持されるという具合です。この舞台装置のような仕掛けで設営された場は、満開の桜に覆われて、榎本氏の手になる様々な料理と酒に囲まれるという贅沢で優雅な宴を提供してくれました。
楽しい時間だった!!
昔、空を飛ぶ夢を見たことがありました。空を飛ぶにあたっては、何と、荷車で加速して空に舞い上がります。空を飛んでモーツアルトに会いに行くのでした。
この“移動式桜”の夢はその夢をも想い出させてくれました。
お陰様で何とも軽やかな目覚めになりました。




◆今月の山中事情137回−榎本久・宇ぜん亭主

−映画監督−

三十数年前の富ヶ谷時代、TBSで「醤油のルーツ」を訪ねる番組があった。
そのプロデューサーが以前より当店を利用していただいていた縁で、そのスタッフが集まって会議をしたいので場所を貸してくれとなった。醤油のルーツは主に東南アジアとなっているようで、彼等は「台湾ルートの肉醤(にくびしお)」、「ベトナムルートの魚醤」、「韓国ルートの豆醤」、「中国雲南省ルートの米麦醤」の四ルートを番組とした。各ルートに役者が配置されリポートすると言うことで、当店にお見えになったのは「台湾ルート」を受け持つあの映画監督鈴木正順氏だった。
台湾に渡った氏は、職業柄も手伝ってリポートの仕方が専門的で、見ている私は将に我が国の食の分野に影響を与えたであろうそのリポートを食い入るように見たのであった。
初めて耳にする「肉醤」なるものは一体どのようなものか?我々が日常「醤油」として使用しているものと言えば、即座に植物の発酵食品となるが、台湾ではこの「肉醤」だった。それは豚の三枚肉を十?幅に切って塩漬けにし、たくあんを漬ける容量で重ね、やはり重しをして入れ物の下にある水道栓のようなものから汁を取り出して使用するのである。もちろん古い順に使用するのだが、年数や味のことは忘れた。日本でそれがポピュラーになっていないのは受け入れられなかったと言うことだろうか。

この番組が縁で監督はよく当店に顔を出して下さるようになった。昼食の仕事を終え、私が買い物に出かける頃現れ、店番よろしくお連れさんと一杯やりながら映画のことを話し込んでいて、私が帰ってくる頃はあの物腰の静かな方がすっかりごきげんだった。ある夕方私はチビた筆で献立を書いていた。そこへ監督がぶらりと来られた。「何してるの?」「献立書き終えたばかりです。
ちょっとチビた筆で書きにくいのですが何か書いてくれませんか?」と無礼にもお願いした。監督は意に介さず、「うーん」と言ったあと、そのチビた筆が一気呵成に動いた。「一期は夢よ只狂え 鈴木正順」としたためて下さったのだ。
当時監督は六十ちょっと、こちらは四十の若造で無学の極み。何かを書いてと頼みながら、書かれていることが解らない。すぐにその意味を伺った。「一生は夢のごとく過ぎて行きます。だから好きなように生きなさい」と説明していただいた。ここでのポイントは「只狂え」だった。「好きなことを追求し、努力せよ」という意味を曲解すると全くの的はずれになることに気づくまでずい分時間を要した。今その書は額装されて当店に飾ってあるが、今日までどなたも気づいて貰えないでいる。

飄然としたその姿を目にした時、高名な映画監督とは思わないだろう。かつてNHKの名物アナウンサーだった鈴木健二氏のお兄様でもあるが、全くすべてが似ていないので兄弟とは思われない。私も初対面の時はそう思ったものだ。
しかし事前に伺っていたので驚きは最小限で済んだ。知らされていなかったら、誠に失礼ながら、近所のおじさんが間違って入ってきたのかと思う程だった。
我々素人は勝手に監督像を作り、映画監督はこういうものだろうと思っていたからだ。それでは「監督然とはどういうもの」と問われれば、答えられない。
正順監督は姿、形ではなかった。
誠に残念ながら本年監督は九十三歳にて逝去された。
青土社刊「ユリイカ」で追悼詩集が組まれた。ご冥福の祈りを込めてユリイカを購入させていただいた。やはりマジックで書かれた「一期は夢よ・・・」が二十七ページに印刷されてあった。

人生とは何かとずっと模索し続け、作品を投げかけていたものと思うと、私はもう少し富ヶ谷で仕事を続け、そのことを監督に問いかけたかったと思ったりした。考えてみたら、私は監督のことは結局何も知らずに居た。映画一本見るでなく、来店時にそんな話を一度たりとも聞かず、聞かされたこともなかった。
社会派の映画を撮っている監督であることは後年知ったが、そういうことに気づくのがあまりにも遅く、鈍感な私でありました。
私に出来ることは監督の書いて下さった「一期は夢よ只狂え」の言葉を書くことだ。半紙を短冊に切り、以来数百枚ばかり書きしるしている。その日の気分で仕上がりが違うのは心がまだ汚れているからだろうか。合掌


*「宇ぜん」は以前。「羽前」という名前で渋谷区富ヶ谷駒場東大裏)に店が
ありました。その頃私(古磯)は知り合い、頻繁に通いました。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は大地の目覚めシリーズ作品です。
 行動展出品作品と並行して描いてたものです。
  サイズはB2(72.8cm×51.5cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。