★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.178

すっかり秋です。
白州では稲刈りもほぼおわり、新米が出回ります。
我が畑の秋野菜も順調のようです。
これからは紅葉が楽しめる時期になりました。


さて、行動展も無事終わりました。
60名を越える知り合いの方々に観に来ていただきました。
感謝申し上げます。

何だか訳の分からない解散そして総選挙。
日本は何処へ向かうのやら。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.178》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

−いつの日か 輝く未来を・・・・・・−

10年以上前になるが、東京は江東区、深川あたりでバスに乗っていて、「本格洋食ありますーーカレーライス、エビフライ」 という看板を見かけた。時計が一気に何十年か戻された感じがした。一帯は下町でバブル以前の旧い店舗が少し残っている。旧いモルタルづくりの食堂で、店の表、2階の窓にあたる所にトタンか何かが貼ってあってそこに大きく字が描かれている。こういうのを「看板建築」と言うらしい。当時の感覚でもあまり装飾的ではなく、その古さが逆に目立って浮き上がってくる感じなのだ。半世紀前までは都内の表通りに面した店には普通だった。小さな本屋や床屋はみんなそうだった。ネオンや電飾などは贅沢だったのだ。
調べたらカレー粉をS&Bが市販したのは1920年代とある。しかし家庭で手軽に作るには固形のカレールウの商品化まで待たねばならない。それは60年代。それまでは食卓では珍しかった。戦前に「洋食」と言われたのは、カレーの材料の主役になる人参、タマネギ、ジャガイモが日本古来の野菜ではなかったかららしい。
「なつう(夏)のあいさつ贈り物、日・清・サラダ(あ)油セッ・ト」
というコマーシャルが耳に残っているが、植物油が贈答品になるぐらいだったからまだまだ普及途上だったのだろう。 キューピーがソフトチューブのマヨネーズを普及させたのも60年代。フライを揚げてタルタルソースをつける、など当時ではずいぶんと「お手間入り」だったはず。こうして二つとも60年代になるまでは「本格洋食」と書いて客寄せしてもおかしくはなかったのだ。

ところで、好奇心と想像力は一応別物だ。しかし親戚筋にあたる。好奇心にその兄貴分の探求心を加えると博物学的な収集に行き着く。その成果の上に、収集した当人だけでなく、「観客」の我々も想像の世界で遊ぶことができる。店主は真剣そのものだ。生活がかかっている。買ったり食べたりする気のない収集人はもちろん、私たち観客が、広告主の意図とはずれたところで遊ぶことになる。とても無責任だけど無害な遊び、だから楽しい。
路上観察学入門」(赤瀬川原平藤森照信南伸坊編 ちくま文庫)という本がある。「好事家」とは「普通の人には何の興味もないような物事に関心を寄せる人」のことを言うが、そのような人が集まってコレクションを見せ合ったり、お喋りしている面白い本だ。今や古典になっていて初版から四半世紀を経た今も版を重ねている。そこに看板コレクションの写真が出ている。縦に「(小さい字で)釣具・(大きく太字で)エサ」と「(小さく)喫茶・(大きな太字)お食事」 が並んでいる。
クロスさせると魚くんの「お食事」は人間様の「エサ」と等価になる。もひとつ。二階建ての軒に下げられた「民宿 したか」という、いかにも民宿と言った雰囲気の看板写真。「志鷹」という地名(または人名)が読みにくいのでひらがなにしたと解するのが「穏当」だけど、「したか?」と語尾を上げると「不穏当」。

文題の「いつの日か 輝く未来を」の後に何が続くか? これも10年以上前の晩秋、京都駅から市バスに乗って紅葉の名所高雄に行く途中、烏丸通りに併行した一本鴨川寄りの通りを北上していた。銀杏並木がことごとく強剪定され丸裸にされている。「なんと無粋な」 と嘆いていた。ぎんなんの臭いを嫌がる人がいてそうさせているのだろうが、東京でもそこまではしない、と幻滅していたら、大きな白地に横書きの看板が目に飛び込んできた。驚いてはいけない。
「いつの日か 輝く未来を 税金で 京都税務署」 思わず大声を上げそうになった。さすが「千年の古都」! これほど直接かつ単純な「お上意識」の発露は見たことがない! 「五万日の日延べ」の精神なのか? 10数年前に社会保険庁に関わる不祥事が多発した。戦後直後、この役所が作られた頃「保険料集めても給付が始まるのは2-30年先だからね」と内部で囁かれていたと聞く。
「甘い言葉」はお上の普段着にちがいない。(おわり)



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− ある絵との出会い/ぶらっと天童 −

10月始め、用事で山形に行き、空いた時間に天童の街をぶらぶらしました。山梨出発時の天気予報では山形は雷雨とのこと。困ったなと思いつつ車で山形へ。到着日は曇り模様でしたが翌日の日曜日は予報とは打って変わっ
た秋晴れの一日となりました。天童駅でレンタサイクルを300円で借り、のんびりと街にくり出しました。
天童と言えば何と言っても“将棋”の街として有名です。観光客もお目当ては温泉と将棋。将棋の駒を作ってるところや将棋公園(舞鶴山)には以前に覗いたこともありましたので今回はパス。3,4時間の時間が空きましたので、駅の観光案内所で天童観光ガイドマップを手に入れ“ぶらっと先”を検討。広重美術館には以前行ったことがありましたので今回は他の美術館を訪れることにし、李朝の陶磁器を展示しているという造り酒屋の出羽桜美術館と、我々建築関係者にとってはよく名前を耳にする「天童木工」のショウルームに行ってみることにしました。
両施設とも山形新幹線に平行な通りに沿っています。それぞれの距離はありますが、自転車でのんびり行くには丁度良い距離。この通りは街並み作りが行われてるようで、和風をモチーフにした白壁で景観を揃えようとしています。

天童木工ショウルームは日曜日の朝のせいか人影も無く、ゆっくり家具を見て回りました。天然木による成形合板を開発・使用した家具の造形は“天童木工”の名を広く知らしめました。工業デザイナーや建築家などによる様々なデザインの椅子が楽しませてくれます。自由に座れますので座り心地を試すことも出来ます。

さて、出羽桜美術館は伝統的な日本家屋を展示室としたものでした。かつての土間部分が入り口、休憩コーナーとして利用され、座敷や蔵座敷が展示空間に充てられています。古い焼き物を展示する空間としては雰囲気が出てい
ます。李朝の陶磁器はその色合いや柄が好きで、以前から興味を抱いていました。(写真添付)

ところで、出羽桜美術館には通りの向かい側に分館が在り、斎藤真一という画家の展示館だったのですが今は閉館されていました。本館が主に陶磁器で分館が斎藤真一の絵画展示に割り当てられていたようです。李朝の陶磁器の展示に惹かれていましたので分館のことには意を注がなかったのですが、本館の休憩コーナーに斎藤真一の絵が数点展示されており、思わず目が惹きつけられました。
何とも言えない独特の雰囲気を醸し出しています。私が描こうとしている絵とは対極的で、情念が迸る世界が観る者を否応なく引き込みます。特に、強烈な赤が支配する画面には小作品ながら迫力があります。(写真添付)

これには強く刺激を受けました。日頃、作家の私小説的な内面発露の絵にはちょっと距離を置く私ですが、この作家の絵には拒否したい気持ちが湧きません。
否、引き込まれます。
この経験は大事にしたい。思わぬ出会いが待ち受けていました。




◆今月の山中事情138回−榎本久・宇ぜん亭主

−坂道−

若かったころ世界を旅し、見聞を広めていたら私はどういう者になっていただろう。今日では、若い人が海外に出かけることなど隣の友人を訪ねるごとく、たやすく行っているが、私の青年期は外国に出かけるなど、普段の生活の中に選択肢はなかった。特段にその国の文化や宗教あるいは政治に興味がなければ、留学とて頭の中になく、物見遊山だとしても経済面がそれを許さず、多少湧き上がったかも知れない気分もいつの間にか他のことに代わっていた。
しかしもし、ニューヨーク、ロンドン、パリ、リオ、バルセロナコペンハーゲン、ウィーン、オスロメルボルン、キャンベラ、シドニー、ベルリン、チューリッヒ、ローマ、北京、イスタンブールオスロウェリントン、シカゴ、サンチャゴ、ブエノスアイレスマナウス、ボゴダ、シアトル、アテネブリュッセルブダペストヘルシンキ、オタワ、ストックホルム、カイロ、リスボンマドリード、モスクワ、リヤド、キンシャサメキシコシティーハバナ、ナイロビ、ケープタウンレニングラードワルシャワなどに行っていたとしたら、世界観がずい分違ったろうと思うが、列記したところにはことごとく行ったことがなく、よって述懐することは出来ない。わずか ソウル、プサン、香港に数回行ったのみだが、我が国との関わりの強さがあるので、それなりになつかしさはある。

ところが今現在はなかなか商売も芳しくなく、どこか旅とは行かない。そこへもって、週刊誌の大見出しに「下流老人」だの「老後破産」だのの文字が躍り、旅をすることの気力を失わせる。「老人」の範疇に自分はいるが、活字のそれは自分ではなく、対象者は他者だと知らぬふりを決めこむが、つまり俺は「下流老人」ではないと言いたいのだが実体は五十歩百歩だ。そこへ曽野綾子の活字も飛びこんで来る「高齢者は死ぬ義務がある」と言う。いつの発売だったかは忘れたが、週刊ポストの「大直言」に書いている。「下流老人」よ読めと言うことだが、たしかに国家が一から十まで見てはくれない。生まれて来たからには「自己責任」を果たさなければならないこともある。
今取り沙汰されているのは社会保障費の増大が国家財政を圧迫していると政府は何かにつけて言う。とりわけ、団塊世代は金がかかると言いたいのだが、過去になかった国家運営をしなければならないから、老人は死ななければならないと曽野綾子は言ったのだ。彼女がそう言わずとも老人はいずれ居なくなるのだが。

戦後生まれが「金のたまご」ともてはやされ、高度経済成長の担い手として牽引してきたが、ごく一部をのぞいて「下流老人」と化してしまうシミュレーション。人生五十年と教わったあのころ、もっと生きる意味や価値を学べなかったかとも思う。それなのに二十年も多く無為に生き、今、このような世に居る。我々が造った「先進国」のその結末はおそろしい額の借金だらけの国にされてしまった。
《人生が等しく五十年と決まっていれば、国民も為政者も明日の処方箋を一人一人描き、覚悟を持って生きるのかも知れないが》、人間の傲慢は与えられたら先のばしにするところにある。
週刊誌のそれは当たらずとも遠からずであり、全ての者が警鐘としてとらえるべきだ。そんな矢先、日本人の平均寿命が又伸びたと報じられた。


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の写真は、先日の行動展応募作品と入選作品です。
  サイズはF130号(162cm×194cm)「大地の目覚め/重奏・煌」と
  P150号(162cm×227.3cm)「大地の目覚め/位相」です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。