★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.175

豪雨による被害が甚大で心配されます。
一方で猛暑。

さて、共謀罪成立。今更ながら、機能しない二院制。
自民党内も野党も機能不全。
密かに目論む?“戦前回帰”・・・安倍晋三
都民は安倍政権に「NO!」を突きつけました。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.175》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は菅井研治さんです。

初めに、この度の九州地方の大雨の被害にあわれた皆様に心よりお見舞いを申し上げます

☆東京--長崎 EV1300キロ の旅 ☆
関門トンネルを歩いてくぐり  九州まで行けるなんて知らなかったなあ。
もっとも約60年前に作られた古いトンネルが残っていて クルマで九州と下関を行き来できることも今回の旅で初めて知りトライすることになったくらいだから・・

東京長崎 EV1300キロ出張の一コマだ。
ガソリンなどで走るクルマから乗り換え、今回は電気のチカラで走るクルマで長崎の諫早を目指した。

出発の前夜 たっぷりと充電した今回登場のEV(電気自動車)は、一度の充電でおおよそ200kmの走行が可能だ。
私にとってこれほどの長距離を EVに乗って走るというのはまったく初めての体験で、未知の部分が多い大変興味深い挑戦でもあった。
15年ほど前だったかこのコラムで、無駄なCO2排出削減のアイドリングストップをテーマにしたことがあったが、
今回登場のEVにおいては エンジンは無いので排気ガスはゼロ! もう”アイドリング”などは論じる必要はない。
そして、”エンジンをかける”というアクションも、”ガス欠”などという言葉もなくなってしまっている。
しかし新しいコトバが、そして作業が変わって登場する。
エンジンはないのでかけると言わず”電源を入れる”や”メインスイッチをオンにする” そしてガス欠ではなく”電欠”だ。
ガソリンスタンドとはほぼ縁がなくなり、代わりにエネルギーチャージのために充電スタンドに立ち寄ることになる。
注) アイドリングとはエンジン駆動のクルマにおいて、車両が停止しているにも関わらずエンジンの回転を止めずにいることで燃費悪化や無駄なCO2の排出をしている

さて今回の旅はこうだ。

長崎まで1300キロを走るとなると、一回の走行距離を約130キロとすると、10回のエネルギーチャージをする必要になる。
高速道路のサービスエリアには概ねチャージポイントが設置されているので、1〜2時間走行したら約30分の休憩をし その間に充電をする計画を立てた。
今回のドライブでは大変スムーズに各地の充電スタンドでチャージができて 実に快適に九州が近付いていった。
そしてここで登場するのが冒頭に話をした関門トンネルだ。

このドライブを計画したとき、途中で10回も充電??と私は素直に思った。それは難儀なことなのか・・・いやいや そうではない。
充電も楽しもう!少し時間をとって寄り道も出来るぞとポジティブに考えた。高速道路だけではない、街中にも大変多くの充電ポイントがある。
コンビニにもそして各地の観光スポットにもあるではないか。
そこには地図を見始めた自分がいて、そしてその中で気になったところの一つが関門トンネルというわけだ。
前回、ほぼ3年前だったかそのときはハイブリッドのスポーツカーで関門橋をあっという間に九州へと渡ったのだが、今回はゆっくり国道を走って海峡を楽しもうと考えたのだ。
10回の休憩そして充電をするという新しい旅のカタチが関門トンネルを改めて知るきっかけを作ってくれた。

ここでは旅の行程だけではなく新しいスタイルのドライブについても語りたい。
ただクルマで走っただけ、移動しただけと言えばそれまでだが 実は特別な感覚を覚えたことがいくつもあった。
利用するエネルギーが変わるということは想像以上に大きな変化があるものだ。

まずは、ガソリンを使わないでずっと走り続けたという気持ち良さだ。走行による排気ガスやCO2の排出はゼロだ。後から考えても この点は誇らしい。充電の手間などはあったが私には気持ち良さが大幅に上回っている。
エネルギーに対する費用についても大きな違いがあった。
今回は2000円 / 月の充電カードを利用した。30日間充電はどこでも無料で簡単にできるものだ。
メーカーによって金額の設定にに相違があるが月に数千円というのが一般的だ。
ひと月ほどの休みが取れれば、2000円で日本一周の旅ができてしまうわけだ。

もうひとつ大きく感じるのは、音や振動がないということだ。
乗っていて伝わってくるのは、風の音そしてタイヤと路面から発生する走行音のみだ。

エンジンが発生源になる小さな振動や、いわゆるエンジン音もない。
今回のような長距離を走行すると それらは結果として疲労の少なさとしてはっきりとあらわれた。

     
私たちが鉄道に乗る場合には主に乗客として列車の旅を楽しんでいるわけだが、クルマの場合は乗客でもありまた運転手もやっている。
蒸気機関車の運転操作がディーゼルエンジンそして電気に変わったあの頃を想像しながら今回のドライブを考えてみるととてもワクワクする。
リチウムイオン電池の性能が上がり、新しい仕組みのバッテリーの登場も間もないと言われている。
秋口には走行距離が大幅に伸びるフルモデルチェンジがおこなわれるEVがある。欧州、米国中国と既にEVの普及に火が付いた国々もある。
これからは、EVの性能向上や各メーカーの発表から目が離せなくなるかも知れない。

何度も手直しがされたという、このキレイなタイルが張られた片側一車線の歴史ある関門トンネルを走りながら 私はEVの素晴らしさを実感した。
排気ガスも過剰な排熱も そして音もない、新しい移動のスタイルを味わいつつ・・・。
長崎での仕事を無事に終え、帰路は航空機を利用した。
あっという間の東京到着であったことは言うまでもない。

◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

− 一冊の写真集 −

我が家の廊下の書棚にある一冊の写真集が目に留まった。
土門拳全集9−風貌」・・・昭和59年に出版されたこの写真集は私が40歳前後の頃に手に入れた写真集です。“人の顔”というものに興味を抱いていた頃で、本屋で見つけ購入したものです。当時、土門拳という写真家は既に知っていました。大学で建築学科の学生だった頃、彼の撮った女人高野室生寺金堂(鎧坂の石段の下から撮影)の写真に惹きつけられ、奈良県宇陀市に在るこのお寺を何度か見に行ったものでした。その写真家が建築写真だけでなく、人を撮っているのも興味を抱かせました。
先日、絵を描いていた時、たまたま廊下の隅にある本棚の最上段の端に置かれていたこの写真集が目に入り、一瞬懐かしさを感じ、何故か手に取ってみたくなったのです。絵を描いてる時は無心になってることがあり、何かがすーっと入ってくる時があります。この時もそんな感じで、かつて観た写真集が歳月を越えて気持ちの中に入ってきました。この写真集を手に取るのは何十年かぶりでした。ツーンとカビの匂いが鼻につきましたが、あの頃、顔の写真集に感じたものが30年の歳月を経てどの様に感じ方が変わったのか自分の感じ方の変化にいささか興味がありました。

この本を購入した時は、“人の目つき顔つきというものは仕事の違いによってそれぞれどの様な表情の違いを見せるのだろうか”と顔つきのあり様に興味を抱いて見ていましたが、先日この本をめくっていた時は、むしろ“この写真家は対象の顔をどの様に撮ろうと考えていたのだろうか”と、写真家の対象に対するスタンスの方に興味が移っているのに気づきました。
初対面の顔もあるだろう。写真家は撮影の前に対象となる人物に関する予備知識は当然入手するだろうが、その人格、その生きてきた“様”とはその時初めて対面することになるのではないか。そこでは対象の人物と写真家の無言の応答があるだろう。言葉を交わすことで交信もあるだろうし、言葉はなくてもちょっとした仕草の中にその人の“様”を見つけることもあるだろう。自分の存在を殺して、対象が見せる一瞬の“様”逃すまいとそのタイミングを待つことになるのだろう。

100人近い人物が撮られている。科学者、役者、画家、陶芸家、作家、音楽家、哲学者、宗教家、等々、様々な分野でひと仕事してきてる人物ばかりである。
その中で特に印象に残った写真は、将棋の升田幸三が自宅と思しき縁側であぐらをかいて煙草をふかしながら庭を眺めている一枚でした。何処を見る訳ではなく、空(くう)を見つめてるような、空気と一体化したような光景が撮られていました。写真家は対象に同化してシャッターを切ったのだろう。

土門拳のこんな一言がありまた。
「本人が欠点と思っているところが、実は案外、唯一の魅力だったりする。少なくとも欠点を魅力に転化するのが、写真家の親切というものである」
「その人らしいということと、その人ということは、必ずしも一致しない」

そこには“写真家の眼が切り取った対象”が写し出されることになり、その写真家の世界が暗に表われ出ている。
この写真集をみながら様々なことに想いを巡らしていましたが、何とも楽しい時の経過で、自分の描いてる絵を別の角度から眺めてみる時間でもありました。


◆今月の山中事情135回−榎本久・宇ぜん亭主

−ウイークポイント−

病後私は高所恐怖症になってしまった。それだけではない。速度恐怖症、工具恐怖症(包丁以外の刃のついたもの)等危険を伴ういちいちのことに恐怖を感じるようになった。危険を察知し瞬間的に反応し、そこから即逃避する脚力等を失ったからである。
俳優火野正平氏も高所恐怖症の持ち主だった。図らずも高所にある橋を渡るシーンをNHKBS「こころ旅」で露呈した。そのシーンは、清里から韮崎方面に下る道を映していたが、その番組を初めて見たゆえ彼のへっぴり腰はおふざけかと思ったのだがそうではなかった。その道は、私も数度通ったことがある。確かにその橋の上から見る景色は、健常の時でも感嘆の声はあげられなかった。

火野氏のそれを書くとすれば、その橋にかかるまでは、軽口をたたいてペダルを踏んでいたが、橋を見たとたん形相が変わった。自転車を降りる。腰がひける。
自転車を押す歩間は極端にせばまり、スタッフもそのペースに続く。その橋を自転車で渡るなら一分も要さないが、彼はちょこまかと自転車を押し、その何倍もかけて恐怖と闘いながら渡り終えたのだった。その後恐怖の表情は消え、コーヒー店に入ってソフトクリームをほおばる段となるころは又、軽口をたたいていた。

この番組は、火野氏と橋の対決だ。一見、渡れそうな橋に出会い「何のこれしき」の気概で挑むも、結局引き返してくるシーンが何度もあり、なさけなくおかしいのである。決して川の方は見ず、車道側を歩く。反対側から自転車が来れば、方向転換して戻ってくる。無理だとなれば、軽トラックの通るのを待ち、手を上げて自転車ごと乗せてもらい、人の情にすがる。そして見事に橋を通過すれば、すべてこの番組の為の演技であるとのたまう。
私は彼の不幸を見て笑っていた。しかしそのことをよくよく理解出来るのも私である。我が方にも散歩に出ればそれなりの橋がある。清里のそれとはスケールは違うが、川の水が濃い色になっている渕が上から見える。なんとなくそこへ引き込まれそうな感覚になるのである。それを見たくなくて車道を意識すると今度はダンプなどの大型車輌にあおられる。わずか二、三分の橋を渡るのに、今度はこの橋が落ちないだろうかと余計なことを考え、なるべく早く歩こうとする。

私にとっても、事件とは違う恐怖を日常の中でこのように体現せざるを得ない。
なるべく近づかないようにするか、慣れるようにするかに集約しなければならないが、以前よりは恐怖心は減退しているように思える。
それにしても以前古磯氏に連れられて、彼の家近くの吊り橋を渡れと言われた時はおそろしかった。そして「こころ旅」を知ったのも古磯氏の投稿が採用され放映されたからのことでした。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。