★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.176

梅雨明け宣言以降、雨の多い日が続いています。
家の周りや畑の雑草は伸び放題。
なかなか手がまわりません。
台風一過の昨日は猛暑が襲ってきました。
どうぞご自愛下さい。

さて、9月の行動展も近づいてきました。
制作の日々を過ごしています。
いずれ行動展のご案内をお送りさせていただきます。

資質の無い政治家が多すぎる今の日本。
一方アメリカはどうなってるのでしょうか?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.176》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−個人と国際問題と忖度−

良かれと考えて行なうことを善意の行為と言う。自宅の植木の刈り込みをしてみて、さっぱりしたので、ついでに隣家の庭の植木を刈り込んだりすれば、たとえ善意であっても問題を起すに違いない。余計なお節介だからだ。人の気持を考慮しなければ礼を失する。しかし、少し知能犯的になると、刈り込んだ自邸の植木の枝や葉を箒で集めて、隣との境にある垣根の根元に纏めて、垣根の肥料にしたとしたらどうであろう。隣からも見えるが、直ぐに文句は来ない。
しかし、風が吹くと、根元に集めた枯葉が隣の庭に散らばったりするので微妙である。いつの間にか隣とは付き合わなくなっていたるりするかも知れない。同じ枯葉でも、秋になれば道に散らかるので、我が家の前だけでなく、隣近所の前の道に散らばっている枯葉を集めて焚き火をして焼き芋でも作れば、皆集まってきて、向こう三軒両隣の付き合いが蜜になったりする。これは市町村の行政問題ではなく、人間同士の忖度の問題なのだ。
個人の家を一国に置き換えると、毎日のように新聞を賑わす国際問題になってくる。しかし、日本は海に囲まれている島国なので、歴史的にこのような経験に乏しく、国際付き合いが下手である。自国の意思主張が曖昧で、他国の主張に対しても反応が曖昧である。尖閣諸島竹島北方四島などは、正に国際間の近所付き合いの問題で、根本的には、第三国が関与する問題ではない。日本が独立国であることを証明する良い機会であるが、逆に証明できなければ独立国とは言い難い。

北朝鮮ICBM 実験についても同じことが言える。実験弾が日本の領海内に落ちても、日本政府は相変わらず口先だけで同じことを言ってお茶を濁している。周囲を海に囲まれている国日本で「領海内」に落ちたのは、陸地に落ちたのと大して変わらない。では、尖閣諸島竹島の陸地に落ちたとしたら日本はどのように反応するのだろうか。一挙に二つの国際問題を解決するよい機会になると私なら考えるが。もし菅官房長官が現実の事態でないから答えないというならば、漁船に落ちたらどうするかと訊いてみたい。日本の報道機関はこのような国民が知りたい厳しい質問を決してしない。政府が答え易い質問をするのが得意である。これは気弱な忖度の例である。例えば、日本は何故迎撃ミサイルを使って北朝鮮ICBM 実験弾を打ち落とさなかったのだろうか。
説明の要らない素晴らしい機会であった筈だ。何故報道機関はこの質問をしなかったのだろうか。

自宅の前の道を掃除しながら考えた。隣やお向かいの家の前の道でもあるので、掃除をしてあげようと思えば、皆喜んでくれて、反対する人は、私の近所にはいない筈だ。しかし、現在、隣の敷地との境(隣側)に生えている松の大木の根が道路の下に伸びてきて道路の舗装を持ち上げ始めているのが見える。
道路の舗装が割れて剥がれ始めるのは時間の問題だろう。しかし、隣の木を無断で私が切ることは出来ない。法律違反で私が罰せられるだからだ。プロに頼むと$650する。そこで隣のお爺さんに松の根っこと舗装の箇所を見せたら、幸いにもお爺さんが「切る」と言い出したので安心した。微妙な忖度と平和な共存との入り混じった近所付き合いだ。日本の政府にも、せめてこの程度の忖度力と実行力があってくれれば、と切望する者だ。

2017年8月6日 広島平和記念日  岸本雄二 クレムソン大学名誉教授



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 異空間/ぶらっと新宿 −

梅雨明け前の晴れ渡った暑い一日、諸用で久しぶりに新宿にお上りさん気分よろしく出掛けて行きました。相変わらずの人と車の雑踏。山梨へ移住後8年が経過した今の私はこれだけで疲労を覚えてしまう。
新宿区役所近くで用事を済ませ、暑さに耐えて靖国通りを歩いていると、ビルとビルの谷間の狭い空間に鳥居と樹林の緑がふと目に入りました。
おやっ?この新宿のど真ん中で珍しい。(写真添付)

そこは“花園神社”でした。私にとっては懐かしい名前。学生時代に唐十郎の「状況劇場(赤テント)」で覚えた名前だ。当時は刺激の多い時代だった。辺りは昔とはすっかり雰囲気が変わってビル街。しかし、これまでこの神社の境内には入ったことがない私はどんな境内か覗いてみたくなり、幹はか細いが背の高い樹木で覆われた参道に導かれるように入って行きました。暗く細長い空間の先にはぱっと眩く明るい開けた空間が見えています。(写真添付)

暗さにも目が慣れて周りをみると、参道には隣のビルの外壁や空調機の排気口がそのまま露わに面していて、参道としてはあまり“質”が良いとは言えない。
参道は、街の喧噪に晒された気分を鎮め、気持ちを切り換えるに必要な時空を提供してくれる。そこは言わば“気持ちを切り換える装置”としてのアプローチ空間なので、その持つ機能の必要性は社寺の空間のみならず、様々な施設への導入路に応用される。
さて、開けた空間に出ると朱塗りの立派な拝殿等が目に入る。建物がしっかり維持管理されてることを印象付けるに充分。(写真添付)

境内には日蔭で休んでる人もいます。お参りにきたサラリーマンらしき人もいます。観光で来た外国人もいます。一角には見世物興行の空間が今も確保されている。
喧騒に満ち満ちた現代都市空間に、"非日常"を想わせる静寂につつまれた別次元の“異空間”が存在していました。

かつては、この喧騒に惹かれてよく新宿に来たものでした。学生時代、新宿は文化的にも、政治的にも、遊びにも最も刺激的なところでしたから。そんな想いもあって、何となく久しぶりに新宿をぶらぶらしてみたくなり、何回か行ったことのある風月堂の在った辺りに行ってみました。周りの建物も雰囲気もすっかり変わっています。勿論、風月堂もありません。風月堂は芸術関係の人々の溜まり場でした。タバコの煙が濛々と漂い、一見してそれらしい風情の人々がたむろっていました。さて、風月堂の面する通りから分かれて細い路地風なところにはレトロな雰囲気を醸し出している一角もありました。

新宿はすっかり変わってしまい、当時の面影をたどれるところが殆ど無い。唯一残っているのは、前川國男の設計した紀伊國屋書店伊勢丹の建物くらいか。久しぶりに紀伊國屋書店に入ってみました。当然のことながら内部はすっかり変わっています。紀伊國屋ホール(劇場)も紀伊國屋画廊も最早ありません。名物創業者の田辺茂一氏は面白い方だった。若干のノスタルジーを求めた私でしたが、建物の外観以外は取り付く島もない状態で退散。

東京の都市空間の変化は凄まじい。思い出はどんどん消滅し、新しい都市空間が現れる。そこには継続性というものは見られない。都市というブラックボックスの中で、人は“変わらない継続”をどの様に求めるのだろうか。
更に、今日の都市空間は昔に比べて確かに綺麗にはなっているが、人を包み込む様々な素材はすべて“硬い”。気持ちをホッと受け入れ、安らぎを覚えさせてくれるそんな空間が無くなった。多様な現代において、都市空間は多様性が失われて行ってるように思われます。これでは都市人間のストレスは溜まるばかり。
時の推移を感じながら、それでも久し振りに新宿をブラブラしてみたのでした。


◆今月の山中事情136回−榎本久・宇ぜん亭主

−再訪−

「金峰に登ろう!」とクラスの誰かが言って、それは決まった。
定時制高校に通っていた私は、ある夏の夜のことを想い出し、目が潤んだ。
山形県鶴岡市郊外にある金峰山(きんぼうざん)という標高四〇〇米足らずの山にクラスの有志で登ろうとなった。しかも夜である。
三年の夏のある土曜日の夜でした。二十一時三〇分授業が終わると男子は自転車の荷台に女生徒を乗せ、学校を出た。その山までは一時間はかかる。
自転車の二人乗りは、とやかく言われることのなかったいい時代だった。昭和四十年代初頭の道路は砂利道が多く、二人乗りは仲々思うように進まない。
周りは田んぼばかりで漆黒の闇だ。息せき切って登山口に全員無事たどり着いたが、顔の判別は出来ない。声で確認していたのであろうか。
十六、七歳の少年少女十数名が「女人禁制」の神の山に夜の登山をすることになった。

登山道は眼を凝らさないと解らない。横切る木の根や、飛び出ている石にぶつかりながら登らなければならない。木々は闇を更に覆い、行く手を悩ます。
だが若者達の眼はしっかり機能していた。昼は労働していたにもかかわらず、足どりは軽かったのか。ヘッドランプもペンライトも普及していない時代ゆえ、目のみが頼りだった。夜空は澄んでいたのであろうか?月はあったのであろうか?
低い山だが、若者でもそれはきつかった。
一時間位かかっただろうか、先頭が「着いた」と言った。皆無事「中の宮」の広場に集まった。こことて外灯などはないので、やはり闇の中だ。着く間もなく「闇なべ」の準備だ。とっくに真夜中である。身体を休めることもなく、各自その役割を分担したはずだが、私はこのパーティーの一連のことを全く記憶になく、費用、材料、運搬を一体誰がどのようにしたのかぽっかり記憶の中から抜けているのだ。当然全員手分けをしたであろうし、費用も均等割になっていると容易に理解出来るのだが、とにかくその記憶は全くないのだ。

私達のクラスは(唯一の商業科)学年を経るごとに仲の良いクラスになって行った。養護院の子供達に野球道具を贈りに行ったり、磯釣り(庄内浜は世界有数の磯釣りのメッカ)に出かけたり、神社仏閣を訪ねたり、新年会を料理屋を借り切りジュースパーティーをやったりしていた。
おもしろいのは、陽のある一時間目は貴重なので、体育の授業でもないのに別の授業の先生におねだりして全員参加のソフトボールをさせてもらったりして、機会は少ないが、舟木一夫の「学園もの」の真似ごとのようなことをしていた。
皆、昼は仕事をしていても、“あふれる若さあればこそ”だった。
それにしてもこの登山の主目的は一体何だったのであろう。
真暗な山の上で、夜を徹して語り合ったのは何か?
将来に対する己のことだったのか?
現在のやるせない心境か?
大いなる将来しかなかった筈の若者が直面する青春の苦悩を吐露し合ったのであろうか。
私は又してもその辺のことはぽっかりと抜けていて、世のむずかしいことが理解出来ないただのお子ちゃまだったようだ。
空が明るさを見せ始め、誰かが「朝だ」と言った。それを皮切りに火を消したり、道具類を片づけた。少年、少女の一団が山を下りる頃は前夜見えなかった道が分かり、あっという間に登山口に集まった。一睡もしていないのにさわやかな顔が若者達にあった。砂利道の両側の草むらには朝露が降りていた。それぞれの自転車には、前夜乗せてきた女生徒を乗せ、再びペダルを漕ぎ、自宅へ、仕事場へ戻っていった。それはまるで何かの映画で見たワンシーンのようであった。

このことによってではないが、五月に帰郷した。私はそこを五十数年振りに訪ねた。同級生のS君の計らいでもあった。あの時苦労して登ったその山の広場まで車なら数分だった。ところが、周囲を見渡すと夫婦杉があったり、中の宮神社の社殿があったりして、記憶の不確かさを痛感した。
考えてみれば、真夜中のことゆえ記憶にあるのはその広場のみで、私はしばし立ちすくんで当時を想い返していた。確かに「闇なべ」の火が照らすその広場しか私の脳裏にはなかった。

青春でなければ味わえないあの日のことをずい分長い間忘れてしまっていた。
こんな素晴らしい想い出があったところへ再度訪ねることが出来、友人には感謝している。
現在、あんなに仲の良かった級友のほとんどと今は交流はなく、淋しく思っている。大変切ないことだが、それが人生だと言われるとただ嗚咽のみだ。
それにしても、そのようなクラスであったのに、その時を機に誰かと誰かがロマンスに発展し、結婚へとなったケースが一組もなかったのが不思議と言えば不思議だ。
皆の健康を祈っている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズの一枚です。
  サイズはB3サイズ(51.5cm×36.4cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。