★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.174

梅雨入りしました。
この前まで雨の少ない日が続き、畑はホッと一息。

危険な「共謀罪」。
日本の政治の劣化。
“世界のアメリカ”はどこへ?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.174》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は佐貫惠吉さんです。

  • 果報者ササル―ある田舎医者の物語 −

覚えておられるかもしれないが、一月初頭トランプの就任式を間近にし全世界が身構えている時、メリル・ストリーブがゴールデン・グローブ賞授賞式で勇気あるスピーチを行った。トランプが選挙戦の最中、障害のある記者のしぐさをまねたことについて「無礼は無礼を招き、暴力は暴力を招く」と批判したのだ。
さらに記憶に残る言葉が続く。「セットの脇で愚痴をこぼしていたことがありました。その時トミー・リー・ジョーンズが言ったの。 ”役者でいられることだけですごい特権じゃない?” その通りです。 私たちには共感を呼ぶ特権と責任があることを、自覚し合わなければなりません。」

この「特権」(privilege)は自分について使うのには馴染まないように見えるが、しかし、「議会の外で弾劾される怖れなしに自分の意見を述べる権利」というあの歴史的な「権利章典」の流れの中に、もっと遡って宮廷芸人、道化役者が国王を面と向かって揶揄しようとも寛容に扱われてきた歴史に位置づけると、すっと腑に落ち、納得できる。

偶然だが、私は時を同じくして、昨年11月に刊行された「果報者ササル―ある田舎医者の物語」(ジョン・バージャー著 みすず書房)を読み終えたばかりだった。良い機会なのでこの「特権」について書くことにする。 この本は、優れた美術評論家であり作家、ブッカー賞受賞者でもある著者が、イギリス南西部ブリストルに近い森林地帯のとある診療所の医師ジョン・ササルに密着し、観察と分析の成果を一つの物語に書き上げたものだ。この物語は、例えば外科医では少し意味があると思えるが、専門技術のレベルを維持しているかどうかによって、あるいはもっと稀なケースとして、何か新しい治療法を発見し医学の進歩に貢献したかどうかで評価されるような医師でもなく、多くのより一般的な医師たちを評価する方法、しかも何人の患者を治療し、苦痛を和らげ、何人の命を救ったのか、を数え上げていくありきたりのものではない評価する方法が、この(イギリス)社会にはまだ備わっていないことをまず読者に気づかせるためのものであり、それに止まらずその視点を提供する試みなのだ。

ササルは何故「果報者」なのか? そのわけはこうだ。「ササルの特権に対する村人たちの態度は複雑である。彼は賢い、と人々は言う。そんなに賢いのになぜ--と言いかけて彼が自分たちの仲間であることを思い出し、こんな辺鄙な田舎で開業するという彼の選択もいわば一種の特権であること、社会的成功を無視するという特権であることを悟るのである。しかし今では、彼の特権はある程度は彼らの特権にもなっている。人々は彼を誇りにしていると同時に彼を守ってやりたいと思っている。彼の選択が、賢いことが弱みになることもあるという事実を示唆しているかのように。人々はしばしば彼を心配そうな目で見る。・・・・・」

ササルの「特権」にはもっと説明が要る。「村人たちが彼を特権的な存在とみなすのは、彼の考え方に感心しているからではなく、彼が物を考えることきのやり方が自分たちとは違うことを即座に悟るからだ。彼らは常識に従うが、ササルはそうしない。」
そうして「常識」とは何か、傍証的だが重要な分析が続く。「常識は実際的であるが、迷信的な要素が付きまとう。常識は自ら学ぶことがなく、それ自体の制限範囲を超えて先には進めない。そして、常識は、探求の精神や哲学的な思考と区別できる限りにおいてしか、カテゴリーとして存在し得ない。」 「ササルは、現実的な(科学的)知識の標準に一度は戻って、その標準に照らしてそれを評価しようとする。それからその評価を出発点にして、また推論を始める。森の住人の中には、理論化する能力や手段をもつ者はいない。彼らは”実際的な”人間なのだ。」 こうして曖昧なものの輪郭を徐々に鮮明にしていく著者の分析は見事と言うほかない。

ササルの特権について誤解してはいけない。「彼が特権的なのは収入や車や家とは関係がない。それらは単に彼が自分の仕事をするために必要なものにすぎないからだ。たとえそういうものを通して、彼が平均より少し余分な快適さを享受しているとしても、それだけでは特権と言うにはあたらない。なぜなら、そういう快適さへの権利を彼は自分で稼いでいるのだから。 彼が特権的なのは、その考え方や話し方においてなのである。彼の特権を厳密に論理的に評価するとすれば、それは彼が受けた教育や医学的訓練を含めなければならないだろう。
しかし、それはかなりむかしのことであり、それに対して、彼の考え方--単に医学的な考え方だけではなく全般的な考え方--は彼がそこにいるかぎりいつでも目の前にある証拠である。だからこそ村人たちは彼に話しに来るのだし、彼に地元のニュースを報告したり、彼の言うことに耳を傾けたり................」

これくらいで十分だろう。それにしても共有できる「特権」とはなんと素晴らしいことか。競争の「戦果」にすぎない排他的な権威とは天と地の差がある。権威と服従の堂々巡りからは何も生み出せない。
「(自分の人生を)平均的な人生をはるかに超えた高尚かつ高貴なレベルに押し上げるもの、それが奉仕するという理想である。」「奉仕することはその難問に挑んだ少数の特権的な人々が尊重する--自分たちの技能をうまく駆使するために必要な条件として尊重するーー諸々の伝統的価値を尊重しなければならないことを意味する。と同時に、奉仕するということはその少数者が彼らに依存する多数の人々-に対して背負わなければならない責務を引き受けることを意味する。」

こう紹介すると、イギリスには「nobles oblige」(責任を不可欠とする特権)と言う言葉があるではないか、要するにそういうことなんだ、と合点する人がいるかもしれない。そうではない。「nobles oblige」は王室男子に兵役が義務づけられるように貴族階級(階級としての貴族)につきまとう、半ば強制されるものだ。
著者の論点は、ササルのように「中産階級の生活の退屈さと自己満足」から抜けだし、「自分の立身出世しか考えないつまらない平均的人生をはるかに超え」自ら奉仕という「難問に挑む」という構造にあるのだ。 
中産階級は動揺する階級である。上昇志向と没落するかもしれない恐怖が交錯している不安定な階級だ。著者は、この中産階級から産み出される「特権的な人」に光を当てているのだ。

私は、半世紀前のイギリスでこの試みがスタートし、この本が医師・医学生の間で読み継がれて来た事実に、そして同時に日本の医師や翻訳家が、つまり日本の社会がこの営みに気づかず、半世紀の時を費やしてきた事実に愕然としている。
端的には医師・医学生の教育を、そして社会がどういう医師を育てようとしているのか、そんなことは考えてもいないのではないか。「怒濤の時代 」に医師人生を始め、28年間の開業医生活に区切りを付け、最後の臨床医生活に踏み出した今の私にとって、これほど貴重な書はない。(終わり)

(メリル・ストリーブのスピーチの5日前、著者は惜しまれつつ90歳の人生の幕を閉じた。)



◆今月の隆眼−古磯隆生
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− 移住生活・その30/遊 in green −

毎年4〜5月になると周辺は新緑に囲まれ、“新緑の中を彷徨したい”衝動に駆られます。樹林は様々な“緑”で包み込んでくれます。ということで、新緑に覆われた山の中を浮遊したくなり、5月末、テニス仲間と近くの日向山に登りました。この山は標高1,660m程の山梨県百名山の一つで、割と人気があり、先日登った時も平日であるにもかかわらず近県からの来訪者を含め、高齢者から若者までなかなかの数の人が来ていました。登山としては初級コースといったところでしょうか。

朝8時半に我が家(標高700m位)に集合し、4〜5km先にある矢立石登山口(標高1,120m)の駐車場まで車で行き、そこから登り始めます。仲間は何度かこの山には登っていますが、私は初めてです。「山頂付近には白砂が拡がっている」くらいの情報しか持ち合わせていませんでした。
8時45分に登山開始。雑木林の中をひたすら上がっていきます。途中に炭焼釜の跡も見えます。広葉樹が多く様々な緑が包み込んでくれます。紅葉はまたとても美しいとのこと。秋にもう一度来なくっちゃー。
登山道沿いに小さな花を見つけては立ち止まって、これは何だかんだと話がはずみながら進んでいきます。一面緑の中に山ツツジの朱が冴えてます(写真添付)。仲間が白銀の珍しい植物を見つけました。ギンリョウソウ(銀竜草)とのこと(写真添付)。
花、植物に疎い私にとってはありがたい仲間で、いつも教わることばかり。
やがてカラ松林に変わり、木々の向こうに鳳凰三山南アルプス)が見え隠れしている。あたりは一面クマザサが覆っています。休憩をとりながら2時間ほど緑の中を“浮遊”して山頂へ。ここで驚きの光景が待っていました。
そこまでの樹林に覆われた空間から突如視界が開け、あたり一帯は白砂で覆われていました。そこに至るまでの樹林コースが様々な緑が織りなす緑に覆われた空間であっただけに、突如拡がる白砂の世界とのコントラストは強烈な印象を脳裏に刻み込みました。
スバラシイ!!その視界のはるか先には八ヶ岳連峰が悠々と拡がっています(写真添付)。白い巨岩群と山を覆う樹林の緑の対比の鮮やかさに思わず引き込まれてしまいます(写真添付)。
山頂では想像をはるかに越えたパノラマが展開していました。これはいい!!
一休みして軽食を摂り、眺めを満喫。
下山道はほぼ下り一辺倒で、やはり膝への負担が大きく、不安だった膝の痛みが襲ってくる。こうなっては最早浮遊状態ではありません。如何に痛みを和らげるかに神経が集中してしまってました。無事下山。
毎年この時期になると様々な新緑が感覚、感性を限りなく刺激してくれます。
その様々な新緑が織りなす空間を浮遊したくなるのです。



◆今月の山中事情134回−榎本久・宇ぜん亭主

すいとん

千代田区永田町(赤坂見附駅近く)のホテルで修行中の頃、私は天麩羅コーナーを任された。先輩と交替で「揚げ場」に立てることに喜びを感じていたが、二十代前半の若僧は世の中も、その土地柄のことも何ひとつ把握していなかった。
ホテルの毎度のお客と言えば、隣のオジサン、オバサンではない。政、財、芸能関係の人が出入りしているところだ。だが、こちらとすれば、そういう方々とは一切関わらず生きてきたゆえ、その対処など知る由もなかった。しかし、その天麩羅コーナーもそういうところであった。先輩は仕事に集中しろと言うだけだったが、意外に緊張はなかった。
その中に、当時のA首相の甥というEさんが週に二、三回お見えになり、カウンターの一番隅に陣取り、昼からウイスキーの水割りをなめていた。EさんはA首相のロビーストであった。あれこれ相手をするのは仲居さんで、私のすることはなかったが、それでも、たまには、よもやま話の相手はしていた。
天麩羅コーナーは前述のごとくEさんが内外のお客様との待ち合わせをする場所である。首相がB氏に替わったが、その時もEさんはB氏のロビーストを務められていた。当時の私は、そのロビーストなるものを全く理解していなかった。そのことを理解するようになったのはずい分時間が経ってからのことである。それにしても、天麩羅屋に来て、天麩羅を食べず、昼からウイスキーをなめて生活が成り立つことに、若僧の私は東京の不思議を見た。上京三、四年目の頃だったと思う。
Eさんが全く一人の時があった。今日は誰とも会わないが、暇だったので寄ったと言う。相変わらずウイスキーを所望し、なめている。だが、その量が進むので「酒ばかり飲んでいると身体にさわりますよ!何か揚げましょうか?」とへらず口をたたいてしまった。すっかりそんな仲になっていたのだ。Eさんはその問いに応えず、ニヤニヤして昔話をし出した。戦後の食糧難に就いてだった。私は不思議だった。ある町の素封家の出と聞いていたので、食糧難など経験していなかったのではと思ったからだ。その中で「すいとん」のことを話された。たった二人しかいない、午後二時頃の天麩羅コーナーでEさんは突如「すいとん」が食べたいと言い出した。
戦後何もない頃、せめて家族が箸を使って食べられるものと言えば、醤油汁に小麦粉を練ってつみ入れたものが「すいとん」だった。私も幼い頃食べさせられた記憶がある。
天麩羅屋には「すいとん」を作る材料が揃っている。私は急いで作って差し上げた。Eさんは例のごとくニヤニヤしながら、「榎本君」!すいとんというのはなあ、こんなに旨く作っては駄目なんだよ」とおっしゃったのです。そうだったのです。天つゆ、海老、肉など戦後にはない素材で作った「すいとん」はどんなにおいしくともまがい物でしかなかったのです。旨いと言われて注意されたのは生涯この一件のみでした。
それが縁だったかは解らないが、四十六年前の私の結婚式にも出席していただいたことを思い出す。
「一杯のすいとん」の物語でした。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「煌」です。
  サイズは21cm×29.7cm(A4サイズ)です。
  (アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。