★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.173

5月になり、田圃に水が張られるようになりました。
カエルの鳴き声が一斉に響き渡り、透明感に満ちた光景が再び繰り広げられています。(写真添付)
この繰り返される日常に今年も安堵します。

「今月の風」に度々話題提供して下さった岸本雄二さんが平成29年春の叙勲で「瑞宝中授章」を受章されました。
サウスカロライナ日米協会創設会長」というお立場が受章理由。
岸本雄二さんは、早稲田大学理工学部建築学科卒業後、1980年より米国サウスカロライナ州公立大学、 クレムソン大学建築学科教授に着任。
日米関係担当学長補佐を兼任されてきました。現在、同大学名誉教授。

日本の政治に閉塞感。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.173》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          以前にいただいていた原稿からご紹介します。

−華・花−

そこには美しい野生の草花が生い茂り、背丈のある樹木らしいものはない原野である。朝日に輝く花の周りには、蜜を吸いに集まる虫が飛び交っている。
草花や虫から目を遠くへ移していくといつの間にか森の中へと吸い込まれていっている。花の蜜を貪りながら実を結実させる虫の中でも、花と見間違えるほど美しい蝶は、舞う花といえる。花には派手なものとむしろ地味を得意とするものなど色々あるが、舞う花のごとき蝶たちにも華(はな)がある。私は蝶のような華のある花がすきだ。必ずしも派手でなくてもよい。だから蝶は好きなのだ。
花の蜜を採集して大家族を養う蜜蜂はどこか蟻に似ている。怖そうな顔もよく観ると愛嬌があり、親しみが沸いて来る。特に蜜蜂が花弁の中にいるときには花の一部になったようで華麗でさえある。しかし私には、蜂アレルギーがあり、「次の蜜蜂の一撃で命が危ない」と医者にいわれている。エピピンなる注射器の親玉のようなものを常に身に付けているように命じられた。余り華のある話ではないが、自然の摂理と命を共有しているような気持ちにさせられ、まんざらでもない。特に山の中などを走っているときに蜂に遭遇すると、直感的に避けるようになっているが、最近になって蜂はチャレンジしない限り安全である、と分かってきた。蜂も一度刺すと自分の命を賭ける事になるらしい。お互いに命がけである。
無駄なチャレンジはしないに限る。
さて、動く花の蝶に話を戻すと、蝶にも多くの天敵がいるらしいが、花の蜜を貪っている時が一番安全らしい。あの美しさが同色背後的自己防衛の効果をもたらしているのだろう。道理で飛ぶ時の上下前後左右に揺れ方は、ただ事とは思えないあわただしさがある。天敵から身を守っているのだろう。しかもあの動きは、花びらが落ちるときの揺れ方とよく似ている。よく観察すると、いつも同じように揺れているのではない。空気中を滑降したり直角に曲がったり上下と左右の揺さぶりを同時に行ったり、それそれ目的に合った飛び方をしているのようだ。
花は蕾の時から満開になって散り終わるまで、全てに趣がある。
蝶も毛虫から繭になり、孵化して突然蝶が誕生するその変遷は、どこか花の変遷と似ていて、私の目には自然の奇跡と映ってしまう。この不思議はアリストテレスにも理解できなかったらしい。
美しいと言う価値感は、人間だけの価値感と思いがちだが、蝶も持っている気がしてならない。あの煌びやかで繊細なデザイン感覚は、蝶の生存、特に価値ある生存と無関係ではないと信じたい。自然の摂理にはそれぞれ目的があると解釈している。美人で派手好きは女性は、そのような人生を送るだろうし、蝶のように派手な模様を纏っている生き物は、派手な一生を送ると決められているに違いない。どうだろう。メキシコから花の蜜を吸い上げながらカナダまで旅して、恋に落ちて子を成し、また南部へ帰郷する。何と壮大で派手な一生ではないか。
蝶は普通2年ぐらい生きるそうだ。80歳まで生きる人間に、この壮大さと派手さは望めるだろうか。「青年よ、大志を抱け」とはクラーク博士の名言を名訳したものだが、蝶の一生は、この名言をそのまま実行しているような気がしてならない。
「若者よ恋をしろ、そうすりゃ希望も湧いてくる」。これも似たような内容の若者を鼓舞する文句であるが、蝶の一生を表現しているようにも思えてくる。

花と華は、若者を叱咤激励して「大志」と「希望」を抱かせてくれ言葉として私には映る。司馬遼太郎の小説の題のつけ方も、末広がりの明るい未来を呼び寄せてくれる。「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などは、明治維新前後の日本の全体を若者思考で眺めて、「大志」と「希望」を抱かせるように書いた小説である。
史実に忠実か、と言う疑問は愚な考え方であろう。しかし一度NHKなどで大河ドラマとして取り上げられると、視聴者は歴史的事実と混同してしまうようだ。
NHK自身の誇りと威信を賭けて、作家の姿勢を解説すべきだ、と私なら考える。
そうすればNHKの社会的立場を鮮明にすることになり、「大志」と「希望」、「花」と「華」をドラマの筋と重ね合わせる機会をも与えてくれるはずだ。
私は以上のような前向きの考え方を「蝶的思考」と名付ける。華もあり同時に不安定でしかも儚さを内包している日本の文化を表現しているようにさえ思えてならない。私は何時頃からか、蝶に興味を持ち始め、これを主題に多くの絵を描いてきた。自分の気持を蝶の気持に重ね合わせながら絵にしてきたが、物悲しい「秋」に寄せる日本人の気持は、特に菊や椿の「華」と枯れ際の「物悲しさ」は、新春の梅や桜に劣らず、日本的でさえあると思えてくる。
華ー蝶ー悲ー秋ー枯 と漢字を並べていくと、直ぐにシューベルトショパンを連想してしまう。文化の国際性であろうか。これは次回に考えてみたい。

2014年11月9日 午前中に20キロ走って、午後はうつらうつらしながら本稿を書いた
76歳になって3日目、岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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−移住生活・その29−

5月になり、東京から山梨への移住生活も9年目に入りました。今年は初めて3月中に次の冬に備えての薪の準備をほぼ終えることが出来、春を待ちました。
さて、5月は野菜作りの始まる時期です。例年通り、この時期になると田植えも始まり、野菜作りも始まる・・この繰り返されるありがたい“日常”。
野菜作りを始めてから今年で5年目に入りますが、何かが上達したわけではありません。特にこの2年ほどは天候不順(異変?)に対応出来ず、成果はイマイチ。

と言うことで今年は始動を例年より10日ほど早くしてみました。4月半ばから畝作りに入り、畑の脇にある水路に水(甲斐駒ヶ岳を源とする尾白川から引いたもの)が流れ始めるのを待って植え付け開始です。畝は18畝ありますので、老体にとってはなかなかの重労働です。一日でせいぜい2畝作るので精一杯。
今年の試みは、昨年収穫した野菜から採った種からの栽培を試みることでした。3月にトマト、4月に入ってからピーマン、キュウリ、シマオクラ、ゴーヤの種を水に浸し、ポリポットに植え、部屋の中に入れて待ちました・・・・が、なかなか芽が出てきません。おかしいな、温度管理が上手く出来ていなかったせいかな?農家の方にその話をしたところ、最近の販売されてる種はほとんどがF1種ということで、その野菜から採った種では芽が出ないとのこと。種の袋にF1種との記載が無いので在来種とばかり思っていました。※1
在来種の場合は「固定種」と記載されてるとのこと。いままで気付きませんでした。そんな中、どうしたことかキュウリの芽が一本出ました。少し成長してから植えるつもりですが、さてどんな実をつけるのか・・・実験気分になります。

今年は畝作りが早めに準備出来たので、水路に水が流れる前ではありましたが、連休に入る直前にジャガイモ(インカのめざめとキタアカリ)を4畝ほどに植えました。サトイモ、ショウガの種芋、シマオクラは植える前に芽出しをしてみることにし、それぞれポリポットに入れて土を被せ芽が出るのを待ち、それから畑への植え付け予定です。
5月2日に水路に待望の水が流れて来ました。さあ、今年も始まりました。
早速、花オクラ、枝豆、インゲン、ラディッシュ、九条ネギの種、そして松本一本ネギの苗を植え、連休明けに近くの苗屋さんでピーマン、ゴーヤ、キュウリ、トマト、ナスの苗を購入し植え終わりました。今後は日々の水遣りが日課となります。
昨年は収穫が芳しくなかったので、今年は気合いを入れて土作り、畝作りをしました。土作りに関しては、庭にある大きな栗の木の落葉を貯めておいて腐葉土とし、それを畑の土と混ぜてみました。さあどんな結果になるか楽しみです。
今年も植物、虫、微生物との対話の始まりー始まり!!。

※1 『F1種(雑種一代)』:雑種一代とは、交配によって作られた新品種の
   一代目ということ。今日品種改良されてできた新品種のほとんどが、
   F1であるとのこと。流通している野菜や花の種の多くがF1です。
   F1種は、一代限りです。その個体から二代目以降が生まれることは
   想定されていません。F1種の個体から二代目はできにくいといわれ
   ます。すなはち一代限りで終わるのです。
   これに対して在来種は、品種としての特性が親から子、子から孫へと
   代々保たれています。ゆえに、世代を超えて種として存続していくこ
   とができます。このことは逆に、在来種が長い年月をかけて環境に適
   応しながら生き延びてきた証でもあります。


◆今月の山中事情133回−榎本久・宇ぜん亭主

−韓ドラ−

我が国では韓国ドラマが喧しい。私もはまったドラマがあった。BSジャパンの「ラスト・チャンス」だ。
韓国政界のフィクションドラマだが、どの国も同じような問題を孕んでいる。議員特権、賄賂、強者の横行等々、枚挙にいとまはない。勧善懲悪型のドラマだったが、くすぶっているのも見えた。
溶接工あがりの新人議員ジン・サンピルは底辺に生きる人々の意見を掬い取り奮闘するが、老獪な議員によって難局にぶつかる。しかし持ち前の正義感で国民の支持を得る。幹部は彼の行動を苦々しく思い、罠を試みるが、補佐官との連携でかいくぐる。彼の一貫する信条は国民との約束を果たすことである。
新人議員であるがゆえ、政界そのものを熟知していなかったことが幸いし、彼の目に映る政界を目をつむって見逃す訳には行かないとばかりに、見たことを記者会見でつぶさに暴露し国民の拍手を浴びる。彼の比喩も辛辣で、派閥を行き来する信念のない議員に対し、渡り鳥と称し、その心境を本人でなく鳥類学者から聞きたいものだという台詞がおもしろい。
この手のドラマはどの国でも放映されていると思うが、ジン・サンピルの型破りなキャラクターが心躍った。
だが「実」の世界はそういう訳には行かないことは見る者は知っている。
国柄は違えど政治の世界は共通のようだ。俳優は収録が終われば「虚」の世界から「実」の世界に戻らなければならない。ドラマで知った政界を再び見ることになる。その時、演じた彼は果たしてどんな心境になるだろう。労働者の権利を守る為、法案成立を勝ちとったあのエネルギーは消えてない。しばらくは錯覚の中に居たか、意外にも現実として割きっているかは知らない。
政治(家)は国民とどうしても乖離がある。
我が国でも根深い国民との摩擦が至るところで発生している。そしてその解決が絶望的なものから長期に及ぶ争いになっているものまである。多数の意見を無視して、政治判断として処理されていることがらがあまりに多い。
いつの世もこのようなドラマが成り立つのはなさけないことだが、それだけ政治の世界が国民の側に寄り沿っていないことに起因するゆえ、こういうドラマは作り続けられるのかも知れない。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー

 今月の一枚は「遊 in green」シリーズです。
 5月になり新緑の季節になりました。緑の世界を彷徨。
  サイズはB4サイズ25.7cm×36.4cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。