★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.165

台風が東北・北海道を襲いました。
被災された方々にはお見舞い申し上げます。
予測を超えた台風の動き、台風の時期を迎えて要注意です。

○福島の友人より

?福島第一原子力発電所の汚染水対策で、1〜4号機の周囲に総延長1.5キロ、深さ30メートルの氷の壁を地中に築き、地下水の流れを遮断することにより、放射能の汚染水の海への流入も防ぐため建屋の周囲を囲う「凍土遮水壁」効果がうまくいっていません。一部で未凍結なため地下水の流入が止まっていないのです。
当初から疑問視されており、「破綻している」という声さえ出ています。東電は地下水のくみ上げ効果は徐々に上がっている。と言っていますが識者は疑っています。特に、台風による降水量が多いため根本的な対策をするべきです。
原子力規制委員会は何をしているのでしょうか?

?原発周辺自治体の楢葉町は避難解除一年目となりましたが、帰還したのは一割未満との結果が報道されました。町人口7,300人ほどいましたが、9月2日現在で帰還した住民は681人と、帰還目標5割を大幅に下回り、帰還住民の53%が65才以上と若い人の帰還が少ないことが分かり、今後の大きな課題となっています。若い人達が何故帰りたくないのか知恵をしぼって欲しいですね。

?福島県産米(27年産)の全量全袋検査の結果が分かりました。1,050万袋全てが食品衛生法の基準値(1キロ当たり100ベクレル)を下回りました。
風評被害で安く買いたたかれてきましたが、なんとか落ち着いてほしいものです。

?原子力委員会原発事故賠償制度見直しが議論されています。
東電が自力で賠償責任が出来ないため、国が肩代わりして支払、後で東電が長期にわたって返済することになっていますが難航しています。当初予算を5兆円としていましたが間に合わなくなり9兆円と拡大しています。この金額がどれほどの額であるか想像つきませんが、一旦事故が起きれば莫大な賠償金額が出ることから、事故につながるリスク回避をすべてやってほしいですね。

?鹿児島県の三反園知事は九州電力に、川内原発の一時停止を申し入れました。
知事は、機器の点検、周辺の活断層の調査、住民の避難計画への支援強化などを申し入れましたが、先般、九電は停止をしない旨知事に回答したようです。
福島の事故を見てもわかるとおり、情報もなく、着の身着のままで、放射能が風向きに行く方向に避難したなど、避難はずさんであったと言うほかありません。
また事故後の状況を見ても、三反園知事が言っているようにやるべきことはすべてやっておくことが重要です。

?新潟県の泉田知事は10月の県知事選に出馬を辞退しました。
泉田知事は、福島の事故の検証がなされなければ新潟県に立地されている、東電柏崎刈羽原発の再稼働を認めないと一貫して発言していましたので、今後の動向・再稼働の動きに危惧を持っています。

?熊本県の「水俣病60年極秘メモ」がでました。
水俣病の発生企業・チッソの久我元副社長の手記ですが、チッソも東電もどちらも、公害や事故を引き起こした企業が被害者へ補償することになっていますが、企業をつぶさず公的資金を注入して対応している点は共通しています。
水俣病は60年たってもまだ解決していません。福島の事故もこれから長い年月がかかります。大事故を未然に防ぐ方策、財政負担の在り方を至急検討してほしいものです。
日本は世界で4番目に災害の多い国であるといわれていることからも、もっともっと考えてほしいものです。


毎月10日発信ですが、今月は都合により9日発信です。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.165》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は三吉賢介さんです。
          5年前に提供して頂いた話題の、いわばその続編として
          寄稿されました。このRyuの目用に短く編集されています。
          短く編集されていない本編をお読みになりたい方は、仰って
        下さい。Wordでお送りします。

−装置はまわる−

5年前に「月出づ」という小文を寄稿し、その末尾を「舞台転換をスムーズに行える舞台装置作りという課題は大学1年のときに早くも解決することができました。それは同時に、劇というものを根本から見直す過程でもありました」と締めくくって以来ずっと、いつか続編を書こうと思っていました。そして、思わぬ資料の出現が、「いつか」を「今」に駆り立ててくれました。僕が大学1年の12月に大学の演劇部はジャン・ポール・サルトルの「墓場なき死者」という作品を上演し、僕は舞台装置を受け持ったのですが、資料は、舞台装置の平面図が1枚と各タッパーの立面図が5枚、それに「舞台装置図」という表紙までつけて綴じてありました。
 その中でも重要な意味を持つのが平面図です(添付資料:舞台装置図面002)。「墓場なき死者」は、レジスタンスの連中が閉じ込められた納屋の場面と対独協力派の連中がレジスタンスの連中に拷問を加えたりする教室の場面という2つの場面が、2度ずつ繰り返されます。まさに舞台転換をスムーズに行うことが求められる劇でした。
 夏休みが始まったばかりのころ、脚本の選定がなされ、脚本が決まるとスタッフやキャストが決まりました。前期の試験が終わると同時に劇づくりが本格化しましたが、演出が急遽変更になるといったゴタゴタを経て、3年生の二人が共同演出をするという、強力な布陣になりました。独立公演の会場は東中洲の明治生命ホールだったので、何度か足を運んで、そんなに広くはない舞台をじっくり調べ、10月22日に舞台装置のプランとして、先ほど述べた資料を演出に提示しました。これには3通りのプランとその予算も書き込んでありました。
いちばん安いプランで8000円台でしたが、6畳の部屋代が4000円、学食の昼食と夕食は80円といった金銭感覚の時代でした。

 高校時代がそうであったように、舞台装置(含む大道具)の製作は、一人二人の助手を得て一人でやるつもりでしたが、演劇部の恒例として、全員で製作の日が設けられるとのことでした。ちょうどそのころ、高熱に襲われて何日か床に臥すということがあったため、一人で作るということは断念したのですが、何と製作の日は徹夜作業になるのでした。自分で作ってこそ、装置に命が吹き込めるという職人気質が蔑ろにされたという感じはありましたが、裏表のタッパーもたくさんある大掛かりな舞台装置だったので、結局、何もかもうまくいく出来にはなりませんでした。特に、腰板とかドアといったものの着色が難しく、色の道の険しさを実感したのでした。

 公演は12月の18日でした。先ほどの図面にあるように、教室の左半分と納屋の右半分は舞台に固定してありました。明治生命ホールのようなきれいな板張りのステージでは「かすがい」とか「すじかい」といった装置を立てるために必要とされている金具が使えないので、どういうふうにして固定したかは忘れてしまいましたが、おそらく根元は板の目に釘穴が来るように長い釘を打ち付けたのだと思います。図面を見たらわかるように、かなり凸凹が多い装置になっているのは、装置を立てやすくする工夫でもあったのです。これだけしておけば、あとは木で作った三角定規のような「すじかい」を使ったのだろうと想像されます。
 1幕目の1場が終わって幕が下り、休憩に入りました。休憩の間に数人が装置前方の可動なタッパーを、舞台にテープで付けた印に合わせて、あっという間に移動しました。やがておそらく10分の休憩が終わって幕が開くと、舞台は納屋の場面から教室の場面に音もなく変わっていたので、観客は、驚いたようです(添付資料:墓場なき死者006、墓場なき死者015)。何度か驚くうちに、装置のからくりに気が付いたようですが、観客が驚くことは、予定外のことでした。
舞台装置というのは、役者の演技を助けて状況をつくりだすものではあるけれども、あまり目立たないことも大事なことです。目立たないけれども、役者にも観客にも確かに在る、有ると意識しなくても確かに在る、そういう幽玄性をもった装置を目指していたのです。だから、舞台転換は申し分なくスムーズに行ったけれど、驚きの感情を観客に与えてしまったことは望ましいことではありませんでした。
 とはいえ、今にして思えば、装置をまわしたというのはすごい発想だと思います。大きな舞台にはまわり舞台やせりが設備としてあります。「修禅寺物語」のような劇は、まわり舞台のある劇場でするべきなのでしょう。高校のときは、そういうことに思いが至らずに、それぞれの場面を作ることに必死でした。だから、いざ舞台転換をしようとして、とてつもない時間がかかることになってしまったのですが、そういう体験があったからこそ、舞台をまわすかわりに装置をまわすことに思いが至ったのでしょう。
 気にかかっていたことにケリをつけたことで、より総体的に劇を見渡す演出に一歩近づいたのかもしれません。翌年、2年生になってからの学園祭で木下順二の「暗い火花」という劇の演出をしました。それは、舞台装置からの卒業でもありました。もっとも、2年生の秋から4年半、劇場でアルバイトしたので、それ以後の装置はプロ並みのものになったし、照明も人手を借りずにできるようになっていました。言ってみれば、「墓場なき死者」の舞台装置は、アマチュアとして精一杯頭をふりしぼって作った最後のものでした。カラーの写真が少しだけ残っていました(添付資料:墓場なき死者014)。着色ではいろいろ苦労したけれども、きれいな色の装置の写真が残っていました。舞台転換の時の観客の驚きの空気には、教室の場面の装置がきれいだったことも含まれていたように思われます。しかし、51年の歳月は、当時の空気を消し去り、人も装置もセピア色に染めてしまいました。


◆今月の隆眼−古磯隆生
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http://www.architect-w.com/data/15365/
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−移住生活・その27… 遊 in green−

残暑のこの時期は5月、6月の浅い新緑とは違った深い趣のある緑が目を惹きつけます。3ヶ月ほど前に井の頭公園一帯をぶらぶらと散歩していて、一面に拡がる雑草の緑が目に留まりました。井の頭恩賜公園競技場とは玉川上水を挟んで隣り合わせるこのエリアは池の辺りとは違って人影もまばらでゆっくりと散策出来る、私のお気に入りの場所です。伸び伸びと枝を張る様々な種類の樹木、特異な形の枝張りを見せる樹木、幹の根本に差し枝されたように無数の小枝をつけてる不思議な樹木、等々、様々な樹木の様態をこのエリアでは見つけることが出来ます。そしてその足元に拡がる雑草。
“大地の目覚め”として樹木を絵のモチーフのひとつとしてる私には格好のネタ探しの場所でもあります。そんなエリアを散策してる時に青々と拡がる雑草が目に入ってきました。木洩れ日と木陰の混ざり合う様は光景に抑揚を与え、見入る内にまるで緑の中を浮遊してるような錯覚に陥ります。この浮遊感を感じる間はとても楽しい時間で飽きません。これを絵にしてみようと思って描いたのが「Ryuの目」の7月発信号に添付した“遊 in green”です。
対象の中に遊ぶ。

そんな浮遊残像がまだ余韻を残していた9月初旬のある日、たまたま我が家の近辺をドライブしてる時でした。南アルプスを背に、辺り一帯に拡がりを見せる田圃の稲穂また稲穂。今年もまた豊饒を予感させるに充分な景色です。その稲穂に覆い尽くされた一帯は緑がたゆたい、吸い込まれるように又あの浮遊する感覚に見舞われました。すぐさま車を止めてシャッターを切りました。(写真貼付)
この一面緑の世界は次第に黄色へと変化して行き、やがて豊饒の色が輝く世界を現出させます。毎年繰り返されるこの光景。安堵の念が呼び起こされます。
豊かな自然環境があればこそ、その中では、季節それぞれの地域の色が辺り一帯に充満し、否応なく感覚を刺激してくれます。
移住生活のプレゼントです。


◆今月の山中事情125回−榎本久・宇ぜん亭主

一休さんに習う −

“問答に、もし「起倒(きとう)」を識らずんば、修羅の勝負、無明を長ぜん” 一休

頓知にあふれる一休さんは、江戸時代につくられた偶像。波乱の室町期を生きた禅僧一休は憂国の思想家だった。「狂雲集」にこの一文が見える。問答には何を取り上げ、どのような過程を踏むか。あらかじめ双方が道筋を確
認し合った上で議論に入るのを「起倒」というらしい。この基本が曖昧では論戦は噛み合わないまま決着がつかず、迷妄が長びくことになる。
今回の国政選挙、与野党ともに喫緊の課題で「起倒」をかえりみなかったため、国民は空疎な雑言ばかり見せつけられた。来る国会では、社会保障の財源をどのように構築するか、安全保障関連法をいかに運用するかなどなど、「起倒」を固めるところから議論を始め直してもらいたい。選挙がおわり、またも無明の闇の中に置き去られるのは懲りごり。与野党いずれを支持したにかかわらず、有権者の大半は思っているだろう。
・・・平成28年7月30日 随筆家松本章男氏 東京新聞「今週のことば」より


国会は言論の府と議員ならば誰しも言っていながら、与党側は議論を尽くしたと言って封ずることがよくあった。国民はその手順を知る由もなく、果たしてそう成されたのかと疑念を持つ。
一休さんの時代とはあらゆる面で多様化し、複雑化している世の中であるけれど、それゆえに「起倒」なることは大事だ。
一方的に議論をふっかけ、論戦を挑んでも、論戦にならなかったことを先の国会は見せつけていた。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め/香具夜」です。
 今年の第71回行動展の入選作です。
  サイズは162cm×194cm(F130号)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。