★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.166

台風、台風、また台風。
秋晴れが恋しくなります。

今月の風に度々話題提供いただく岸本雄二さんのグループ展「第11回稲美会展」が11月9日ー14日に銀座の画廊で開かれます。
・開催場所 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル4階
      銀座アートースペース・ジャンセン美術館
      電話03-3573-1271


さて、9月の国立新美術館での行動展及び銀座画廊でのグループ展に多くの方が足をお運び下さいました。
感謝申し上げます。
今回の第71回行動展で、来年2月に東京都美術館で開かれる行動の「新人選抜展」への出品者(10名)に推薦されました。
2点出品予定です。いずれまたご案内いたします。

今月はいよいよ生まれ故郷の宇部での第2回目の個展です。
3号の小品から130号まで、パステル画45点ほど準備しました。
ご都合のつかれる方は是非ご覧いただければと思います。
私(古磯)は会期中は毎日画廊に居ます。
 場所:ギャルリー小川
     山口県宇部市西宇部北7−7−38
     tel.0836−41−0005
     最寄り駅はJR山陽本線宇部駅
 会期:10月14日(金)〜20日(木)…会期中無休
 時間:10:00〜17:00
     最終日は16:00迄。


今月の風では岸本雄二さんが日本の戦争放棄日本国憲法スタンスに疑問を投げかけられてます。
確かに「世界の中の日本」という意識は指摘の通り重要と考えますが、それと「戦争をしない」スタンスは相反するものとは考えません。
世界が荒くれてきている状況では、如何に戦争をしないで済むのかをやはり追求すべきと考えます。

では《Ryuの目・?−no.166》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−“自由”文明の贅沢品かそれとも必需品か、平和への責任と義務について−

ニューヨークのマンハッタン島を見つめるよに、自由の象徴として立ち続けている女神像、「自由の女神」(Statue of Liberty)を知らない人はいないであろう。アメリカ合衆国が1776年にイギリスの支配から独立して100年目、1886年7月4日の独立記念日のためにフランス国民から贈られたものである。
アメリカが独立してから18年後の1794年に、「自由・平等・博愛」を掲げて革命を起こしたフランスは、世界史に多大な影響を与えた。それから100年後の1894年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、パリで近代オリンピックが組織され、国際オリンピック委員会(IOEC)が設立された。二年後の1896年にアテネで第一回オリンピックが開催された。
私は、平和を目標に掲げたフランス革命の精神、「自由・平等・博愛」がそのままクーベルタンによって国際オリンピック競技の精神に結びついた、と考えている。自国民の「平和」のために「自由」獲得を第一目標として血を流し、その精神をオリンピックを通して世界規模に広げたスランス、その国民からの贈り物が「自由の女神」なのである。贈る側も贈られる側も「自由」の大切さを知っていたのだ。自由の女神像が右手にトーチを掲げているのは有名でだが、よく見ると左手に本を持っているのに気が付く。法律の本である。即ち自由とは法律の下で初めて正しく機能する、と主張しているのだ。この法律とは、自由を保護する法律である。真の自由を獲得するためには法律が必要なのである。
ここまで思考をめぐらせてくると、自由とは個人の「責任と義務」の必要性を謳っているのに気が付く。即ち自由を謳歌するためには、自分で責任を持って義務を遂行しなければならないのだ。即ち「自己」の確立への努力を前提としているのだ。社会の秩序を保つために個人の責任と義務を規定する姿勢が、自由の姿を浮き彫りにしている。完全な自由はカオスである、などという的外れの批判が出てくる余地はないのである。
実は、今日9月11日は、マンハッタン島に聳えていた世界貿易センター同時多発テロによって倒壊してから15年目に当る記念すべき日である。アメリカの各地で記念式典が行われている。忌まわしき事件ではあったが、この事件が持たらした意味は大きく、我々一人ひとりが責任と義務と自由について肝に銘じて考え、平和のあり方を自分のこととして想起するように促している。決して風化させてはならない、といっているようだ。今日は又、テニスのUSオープン最終日でもあり、ニューヨークのフラッシングメドー・テニス会場では、男子シングルスの優勝決定戦が行われている最中だ。テニスコート上に9・11・01と大きく書いてある。決して風化しないだろう。私は、15年前の9月11日は早朝から、サウスカロライナ州のグリーンビル市にあるヒルトン・ホテルの会議場にいた。私の主宰していたUJAC(US JapanAlliance with Clemson)という日米経済を中心課題とした実務家と研究者との定期集会の第八回会議が丁度始まったところであった。出席者は約80人で、クレムソン大学の研究者が10人弱と、日米の優良企業の指導者が70人強であった。クレムソン大学の学長による会議冒頭の歓迎と開会の辞が終り、企業による発表が始まったところであった。丁度その時、司会進行役であった私に、係りの者からメモ用紙を手渡された。それには走り書きで、ニューヨークの世界貿易センターでテロ事件が発生したので、全員ホテルロビーまで来て貰いたい、と記されてあった。ここはアメリカ南部のど真ん中で、東海岸からも約300キロの内陸部である。大都会の雑音とは関係ない、と言思っていた。数年まえにもトラックに爆弾を積んで、世界貿易センターの地下に突っ込む事件があったのを記憶していたので、私は慌てずに一人目の発表が終わってから全員で行く、と伝えておいた。20分ほどして最初の発表が終わったので、私は会議出席者に、ニューヨークで又テロ事件が起きたらしいので、ロビーに行って見ましょう、と言って、全員でロビーヘ行ってみて、驚愕した。言葉も出なかった、と言うよりも、咄嗟のことなので、テレビの画面からだけでは、現実感が無く、即座には何が起きているのかさえ分からなかった。30分以上前から放映していたらしく、空港へ行き、一切の旅客便がキャンセルになったのを知って、ホテルヘ帰ってきた人たちも大勢いた。しかし、目の前の三台のテレビ・スクリーンと上ずったアナウンサーの声を聞いている限りでは、まるでハリウッド映画のようなテレビ中継を事実として受け取るしかなかった。テロリストにハイジャックされてペンシルバニアを飛行中の第二機目の旅客機をF16戦闘機が打ち落とすかどうか、を考慮中であると言っていた。直ぐには信じられない話であった、いや、信じたくない話であった、と言うべきか。しかし私は考えた。テロリストの意図は、我々一般市民の行動を規制し、「自由」を奪い、我々をコントロールすることにある、と。一般市民がこれに抵抗して出来ることは、今までの生活、行動、思考をそのまま続けることではないのか。
ロビーは、真っ青な顔をして、未だに信じられない気持の人々で一杯であった。私は会議出席者全員を会議場に連れ戻して、会議を続行すべきである、と決めた。私は、皆に会場に戻るように説得に努めた。殆どの人は、会議どころではないし、何かをしなければならない、といってロビーの留まろうとした。ある人は、自分の本社が焼け落ちていると叫んで、おろおろしていた。飛行機も、電話も、タクシーも全てが使用不可能な状態で、何も出来ないではないか。
せめても我々が出来ることは、普段の状態に戻って、それを遂行することだ、と言って説得しながら、力ずくで一人ひとりの背中を押して会場に戻ってもらった。普段は、人に指図している人たちなので、指図されるのを喜ばなかった。しかし、15分後には全員が会場に戻った。先ず、死者のために一分間の黙祷を捧げた。次に私のテロに対する姿勢、即ち、如何にして我々の「自由」を守り、市民としての「義務」を果たして「責任」を遂行するか、に賛同していただきたい、と訴えた。15分ほどの話し合いの末、会議続行と決まった。我々は、第八回UJAC会議の二日間の全日程を完了し、再会を約して別れた。自動車で来た人達がいたので、自動車相乗りで、行ける所まで行き、ニューヨークやボストン、シカゴの本社や自宅まで、三日掛けてたどり着いた人たちもいたようだ。一ヶ月位して多くの会議参加者から、大惨事にも関わらず会議を続行してもらって有難う、と言う感謝のメールを頂いて、私は嬉しかった。
私には、もう一つの続編がある。実は9月15日にも東京で講演を約束していたのである。桐朋女子高校の後援団体「薄暮会」(親父会)の薄暮講座での話しを頼まれていたのだ。幹事の佐藤晃一校長先生から、航空便が全て欠航なので当然中止ですね、との連絡があった。私は、16日に飛行便が再開されることが分かった時点で、18日に決行しましょう、と言って16日の最初の便で東京へ飛んだ。私にとって、この会議続行と、薄暮講座決行は、生涯忘れられない思い出になった。それ以上に、いざと言う際に自分の信念に沿って自分の行動判断の基準を忘れずに、しかも実行に移せた、と言う経験が私の自信になった。この上ない賜物であった。普段考えている「問題は、解答を出すための機会を与えてくれる」を実践出来たので嬉しかった。
文明の進歩の過程では、異なる思想や宗教が、又は、経済や文化など、様々な要素に関して、誤解や、反対や、競争や、利害などが原因で起る争いが絶えない。例え自分が原因ではないと考えていても、他人はそうは考えず、争いを起こすに十分な原因である、と理解されてしまう場合が多々ある。争いは平和の敵であると言えるが、争いが無ければ平和か、とは必ずしも言えない。特に日本の場合には、常に「世界の中の日本」を念頭に置かないと、とんでもない誤解や、判断ミスを犯してしまう。日本は「世界が日本をどう見ているか」に異常な興味を示すが、「世界の中の日本」に関しては、興味薄である。複雑な国だ。日本は、常に世界の中の日本なのだ、と自覚しなければならない。日本だけの平和はあり得ないのだ。勿論日本だけでしか通用しない習慣や考え方はある。しかし経済や政治、科学や平和などに関しては、常に国際的視野に立たなければならない。
鎌倉時代から豊臣政権の終りまでの武士の時代、戦国時代は、下克上の一見混乱したように見えた時代ではあったが、実は厳しい武士の秩序はあったのだ。命を掛けた時代であったからこそ命の尊さを知っていた。同じ武士の時代でも徳川幕府の江戸時代270年は、別の秩序が支配していた。実戦がなかったので、その代わりに武士の「誇り」が武士の間の共通の物差しになっていた。例えば、貧乏で竹光を差していた恥さらしの武士がいる場合には、その複雑な気持は理解されたし、主君の名誉回復のために家来が切腹をすれば、美談になったりした。しかし、いずれも日本だけで通用する文化であり価値基準であった。
忠臣蔵も世界では通用しないのである。幕末に、何か幕府の役に立ちたい、と考えた人達が新撰組となって殺し屋集団の如き行動をし、京都を震撼させた。非日本的な価値観から出発していたようだが、これが戦国時代の価値観と似ていて、ある意味では西洋的な価値観でもあった。黒澤明の「七人の侍」も契約社会的価値観で、非日本的である。やくざの倫理は、日本の国内外で理解されている。高倉健が外国でも人気の高い俳優である所以だ。
人間の命の大切さを色々な角度から眺めると、国際的な倫理観と日本的倫理観との違いが見えてくる。「花咲ける騎士道」の中世ヨーロッパにおける騎士の倫理観と、江戸時代の「剣豪」の倫理観を比べてみるのも面白いかも知れない。この二つは案外近いかも知れない。
命の尊さの倫理観(日本と西洋との差異)を平和への願いと重ね合わせると、平和は何を要求し、何を保護しようとしているのかが分かってくる筈だ。自己の確立とは反対向きの日本の文化;命を掛けて命を守ることをしない現代の日本(国際的には、日本は命を金で買っていると言われている);自由を心から欲したことのない日本で何故自民(自由民主)党なのか;自由という思想が政治論争にならない日本;言論統制を受け入れて外国人記者団を排除している日本記者クラブアメリカ大統領の日本記者クラブでの記者会見にアメリカ人記者を排除);日米協会の新年宴会に日本企業は社員の個人の資格での出席を許さない(個人参加して会社を辞めさせられた例)、等々、日本の非国際的慣習は数え上げればきりがない。私は必ずしもこれ等を非難しているのではない。
日本でしか通用しない異なる価値基準で価値判断をしている、と言っているのだ。しかも日本人はこの違いを余り理解していない。これでは、国際的に通用する筈がない。
日本の国際化が叫ばれてから何十年経つだろうか。ヘボン式ローマ字を使って英語教育を始めてから何十年経つのだろうか。ヘボンを英語式に発音するとヘップバーンである。A.B.C--- はエイ・ビー・シーと発音するのが英語の原則だ。アメリカの私が住んでいる地区にある飛行場はSpartanburgと言う地名の場所にある。英語式に発音すればスパータンバーグ(カタカナで書くならこれが現地発音に近い)であるが、日本人はヘボン式の専門家なので、スパルタンブルグと発音する。結果として、現地の人は誰も理解できない。私は、このように教育されてきた日本人を責めることが出来ない。寧ろ、このような過ちを百年近くも変えようとしない日本の英語教育、そしてそれを許している日本文化を責めているのである。簡単な質問をするなら、何故ローマの字を英語教育に使うのか、である。何故自民党なのか。更に、何故日本国憲法「改善」が困難なのか、である。アメリカの若手法律家たちが短期間に書き下ろした日本国憲法を、何故、後生大事に70年もの長きに渉って堅持してきたのか。アメリカが日本のためにではなく、アメリカのために、世界にとって有利になるようにと考えて創ったものである。その中の二つの重要な点は、戦争放棄と女子の地位向上である。戦争放棄平和憲法と言い、命を金で買う国にしてしまった。
何故このような呪縛から自由になりたいと思わないのであろうか。但し、女子の地位向上については、あらゆる意味で大成功であった。ちなみに、アメリカの国会図書館には、日本国憲法作成の経過についての資料が全て整っている。
結論として、平和促進のために「自由」を最前列に並べて、「責任」「義務」「自己の確立」を保護奨励してもらいたい、と心より望むものである。これ等全てを保護するために最も有効なルールが平和のための憲法であると確信する。
この講では、一言も触れなかったが、「自由」「責任」「義務」「平和のための憲法」の規定が民主主義そのものを保護促進するものである、と言える。

2016年9月11日 9・11・01の15周年記念日に、平和なUSオープンテニス 決勝戦 を観ながら、平和と自由について考えてみた。
クレムソン大学名誉教授  岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−移住生活・その28−

天候状態の不安定さは素人の野菜作りにはとても悩ましい限りです。冒頭からボヤキましたが、今年の天候はプロの方々でも悩ましいでしょう。
移住して暫く経ってから始めた野菜作り。当初は妻の野菜作りの手伝いのつもりで始め、ただ苗や種を買って植えていましたが、ビギナーズラックみたいなもので、訳もわからないままにそれなりの収穫はありました。これが契機になり次第にのめり込み始め、微生物による土の具合や虫の変化など自然界の凄さに惹きつけられていきました。自然環境の豊かなところでの移住生活の面白さの一端です。
ところが昨年あたりから天候不順が続くようになり、期待した収穫が得られなくなってきました。こうなるとノウハウのない者にとっては厄介です。
今年の夏は不思議なことがありました。例年、夏の早い時期にキュウリやナスが収穫出来るのですが、今年は夏の後半、秋に近づいてからようやく収穫出来るようになりました。それも昨年以上の収穫でした。種・苗植えなどは例年通りの時期だったのに・・・。
秋野菜作りをいつも通りに9月から始めましたが、9月に入り雨の多いこと、気温の低いことが続き、野菜が育ちません。種植えのダイコンは何とか葉を出してきましたが、種植えの白菜はやっと本葉が出始めたくらいで、早生(50日)タイプとは言え成長が遅すぎ、このままでは収穫に至らないのではといささか不安です。何しろ秋晴れが少ない。例年この時期は畑の水遣りに手が抜けないのですが、今年はその必要が殆どありません。
9月始めに、来年5月収穫用にタマネギの種を植え、苗作りにとりかかりましたが、一向に育ちません。雨が多くて根腐れや成長が不良で・・・後一月もすれば苗植えの時期になるのですが、今年は苗を買わねばダメかな?タマネギはむ・つ・か・し・い。
毎年、同じ時期に、同じように野菜作りをするのですが、毎年、結果が違います。簡単そうに見える種類の野菜でもそうです。自然を相手にするということはこういう事なのですね。大きな自然。ちっちゃな人間。


◆今月の山中事情126回−榎本久・宇ぜん亭主

−田舎人−

東京を去って早十年余となった。壮年から老人になってしまった。東京を去るということに当初はそれなりに落胆をしていたものだが、一方では闘志もあって、いつの間にやらいろいろの人と交わりを持つ出会いがあり、落胆を忘れてしまっていた。しかしその十年の間に心をへし折られたことが我が身に起き、エネルギッシュに生きることはもはや出来なくなり、余生という表現を使うごとくに日々を送っている。
先般、古磯氏の招待により国立新美術館での「行動展」に、久し振りに上京した。馴れ親しんでいた東京だった筈だが、もう池袋駅で気圧され、身体が拒否反応を示すかのようになり、完全に田舎人間を呈してしまった。騒音、におい、スピード、閉塞感に敏感すぎる程反応するのである。それは病身ゆえからかも知れないが、やたら落ち着かなくなっていたのである。そういう東京に四十年も住んでいたのかと改めて思った。
東京が無くなるのは困るが、果たしてあの混沌とした日常が必要であるのかという疑問が湧いた。ダイナミックな首都ではあるが、それがいいとは思わなくなったのだ。四十年も住んでいたのに・・・。もとより山形の田舎から出てきた者ゆえ単に田舎人間に戻っただけと思えばことは足りるのだが・・・。
さて絵展の帰路原宿駅で外回りの山手線に乗った。混んでいる。東京だからと思っていたら、今度は動かない。ホームでは何のアナウンスもなかったのに、車内では駒込駅ホームの屋根が崩れている云々と言い続け、動かない。五分、十分と待ちつづけ、二十分位になったので内回りに乗り換え、渋谷で地下鉄銀座線に乗り換え、赤坂見附で丸の内線乗り換え、ようやく池袋に着く。上京するのはいいが、こういうトラブルが起こるとパニック障害が突如起こるので系統だって物ごとを判断出来なくなってしまう。
そうは言えど、古磯氏のお陰で、仲々足を踏み入れることの出来ないところに行くことが出来、氏の絵「大地の目覚め」を拝見させていただいた。すっかりシリーズ化され、回を重ねるごとに絵に重みを感じた。画家としての地歩を確実なものにされている。今回は、私の好きな黒と金の配色で、これまでとは違う力強さを感じた。内なるものを秘めた何かがあると見た。
今東京は痛々しい状況にさらされている。なにをどうしたいのかが混在しすぎ、それぞれの主張のみ浮いている。ひとつの言葉にすると「欲」の取り合いとしか見えない。美名を口にしながら決して美しくない輩がひしめいている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は、先日、銀座の画廊「」ギャラリー風」で開かれましたグループ展
「夏のあとさき」に出品した作品です。
  サイズはS100号(162cm×162cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。



台風、台風、また台風。
秋晴れが恋しくなります。

今月の風に度々話題提供いただく岸本雄二さんのグループ展「第11回稲美会展」が11月9日ー14日に銀座の画廊で開かれます。
・開催場所 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル4階
      銀座アートースペース・ジャンセン美術館
      電話03-3573-1271


さて、9月の国立新美術館での行動展及び銀座画廊でのグループ展に多くの方が足をお運び下さいました。
感謝申し上げます。
今回の第71回行動展で、来年2月に東京都美術館で開かれる行動の「新人選抜展」への出品者(10名)に推薦されました。
2点出品予定です。いずれまたご案内いたします。

今月はいよいよ生まれ故郷の宇部での第2回目の個展です。
3号の小品から130号まで、パステル画45点ほど準備しました。
ご都合のつかれる方は是非ご覧いただければと思います。
私(古磯)は会期中は毎日画廊に居ます。
 場所:ギャルリー小川
     山口県宇部市西宇部北7−7−38
     tel.0836−41−0005
     最寄り駅はJR山陽本線宇部駅
 会期:10月14日(金)〜20日(木)…会期中無休
 時間:10:00〜17:00
     最終日は16:00迄。


今月の風では岸本雄二さんが日本の戦争放棄日本国憲法スタンスに疑問を投げかけられてます。
確かに「世界の中の日本」という意識は指摘の通り重要と考えますが、それと「戦争をしない」スタンスは相反するものとは考えません。
世界が荒くれてきている状況では、如何に戦争をしないで済むのかをやはり追求すべきと考えます。

では《Ryuの目・?−no.166》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−“自由”文明の贅沢品かそれとも必需品か、平和への責任と義務について−

ニューヨークのマンハッタン島を見つめるよに、自由の象徴として立ち続けている女神像、「自由の女神」(Statue of Liberty)を知らない人はいないであろう。アメリカ合衆国が1776年にイギリスの支配から独立して100年目、1886年7月4日の独立記念日のためにフランス国民から贈られたものである。
アメリカが独立してから18年後の1794年に、「自由・平等・博愛」を掲げて革命を起こしたフランスは、世界史に多大な影響を与えた。それから100年後の1894年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、パリで近代オリンピックが組織され、国際オリンピック委員会(IOEC)が設立された。二年後の1896年にアテネで第一回オリンピックが開催された。
私は、平和を目標に掲げたフランス革命の精神、「自由・平等・博愛」がそのままクーベルタンによって国際オリンピック競技の精神に結びついた、と考えている。自国民の「平和」のために「自由」獲得を第一目標として血を流し、その精神をオリンピックを通して世界規模に広げたスランス、その国民からの贈り物が「自由の女神」なのである。贈る側も贈られる側も「自由」の大切さを知っていたのだ。自由の女神像が右手にトーチを掲げているのは有名でだが、よく見ると左手に本を持っているのに気が付く。法律の本である。即ち自由とは法律の下で初めて正しく機能する、と主張しているのだ。この法律とは、自由を保護する法律である。真の自由を獲得するためには法律が必要なのである。
ここまで思考をめぐらせてくると、自由とは個人の「責任と義務」の必要性を謳っているのに気が付く。即ち自由を謳歌するためには、自分で責任を持って義務を遂行しなければならないのだ。即ち「自己」の確立への努力を前提としているのだ。社会の秩序を保つために個人の責任と義務を規定する姿勢が、自由の姿を浮き彫りにしている。完全な自由はカオスである、などという的外れの批判が出てくる余地はないのである。
実は、今日9月11日は、マンハッタン島に聳えていた世界貿易センター同時多発テロによって倒壊してから15年目に当る記念すべき日である。アメリカの各地で記念式典が行われている。忌まわしき事件ではあったが、この事件が持たらした意味は大きく、我々一人ひとりが責任と義務と自由について肝に銘じて考え、平和のあり方を自分のこととして想起するように促している。決して風化させてはならない、といっているようだ。今日は又、テニスのUSオープン最終日でもあり、ニューヨークのフラッシングメドー・テニス会場では、男子シングルスの優勝決定戦が行われている最中だ。テニスコート上に9・11・01と大きく書いてある。決して風化しないだろう。私は、15年前の9月11日は早朝から、サウスカロライナ州のグリーンビル市にあるヒルトン・ホテルの会議場にいた。私の主宰していたUJAC(US JapanAlliance with Clemson)という日米経済を中心課題とした実務家と研究者との定期集会の第八回会議が丁度始まったところであった。出席者は約80人で、クレムソン大学の研究者が10人弱と、日米の優良企業の指導者が70人強であった。クレムソン大学の学長による会議冒頭の歓迎と開会の辞が終り、企業による発表が始まったところであった。丁度その時、司会進行役であった私に、係りの者からメモ用紙を手渡された。それには走り書きで、ニューヨークの世界貿易センターでテロ事件が発生したので、全員ホテルロビーまで来て貰いたい、と記されてあった。ここはアメリカ南部のど真ん中で、東海岸からも約300キロの内陸部である。大都会の雑音とは関係ない、と言思っていた。数年まえにもトラックに爆弾を積んで、世界貿易センターの地下に突っ込む事件があったのを記憶していたので、私は慌てずに一人目の発表が終わってから全員で行く、と伝えておいた。20分ほどして最初の発表が終わったので、私は会議出席者に、ニューヨークで又テロ事件が起きたらしいので、ロビーに行って見ましょう、と言って、全員でロビーヘ行ってみて、驚愕した。言葉も出なかった、と言うよりも、咄嗟のことなので、テレビの画面からだけでは、現実感が無く、即座には何が起きているのかさえ分からなかった。30分以上前から放映していたらしく、空港へ行き、一切の旅客便がキャンセルになったのを知って、ホテルヘ帰ってきた人たちも大勢いた。しかし、目の前の三台のテレビ・スクリーンと上ずったアナウンサーの声を聞いている限りでは、まるでハリウッド映画のようなテレビ中継を事実として受け取るしかなかった。テロリストにハイジャックされてペンシルバニアを飛行中の第二機目の旅客機をF16戦闘機が打ち落とすかどうか、を考慮中であると言っていた。直ぐには信じられない話であった、いや、信じたくない話であった、と言うべきか。しかし私は考えた。テロリストの意図は、我々一般市民の行動を規制し、「自由」を奪い、我々をコントロールすることにある、と。一般市民がこれに抵抗して出来ることは、今までの生活、行動、思考をそのまま続けることではないのか。
ロビーは、真っ青な顔をして、未だに信じられない気持の人々で一杯であった。私は会議出席者全員を会議場に連れ戻して、会議を続行すべきである、と決めた。私は、皆に会場に戻るように説得に努めた。殆どの人は、会議どころではないし、何かをしなければならない、といってロビーの留まろうとした。ある人は、自分の本社が焼け落ちていると叫んで、おろおろしていた。飛行機も、電話も、タクシーも全てが使用不可能な状態で、何も出来ないではないか。
せめても我々が出来ることは、普段の状態に戻って、それを遂行することだ、と言って説得しながら、力ずくで一人ひとりの背中を押して会場に戻ってもらった。普段は、人に指図している人たちなので、指図されるのを喜ばなかった。しかし、15分後には全員が会場に戻った。先ず、死者のために一分間の黙祷を捧げた。次に私のテロに対する姿勢、即ち、如何にして我々の「自由」を守り、市民としての「義務」を果たして「責任」を遂行するか、に賛同していただきたい、と訴えた。15分ほどの話し合いの末、会議続行と決まった。我々は、第八回UJAC会議の二日間の全日程を完了し、再会を約して別れた。自動車で来た人達がいたので、自動車相乗りで、行ける所まで行き、ニューヨークやボストン、シカゴの本社や自宅まで、三日掛けてたどり着いた人たちもいたようだ。一ヶ月位して多くの会議参加者から、大惨事にも関わらず会議を続行してもらって有難う、と言う感謝のメールを頂いて、私は嬉しかった。
私には、もう一つの続編がある。実は9月15日にも東京で講演を約束していたのである。桐朋女子高校の後援団体「薄暮会」(親父会)の薄暮講座での話しを頼まれていたのだ。幹事の佐藤晃一校長先生から、航空便が全て欠航なので当然中止ですね、との連絡があった。私は、16日に飛行便が再開されることが分かった時点で、18日に決行しましょう、と言って16日の最初の便で東京へ飛んだ。私にとって、この会議続行と、薄暮講座決行は、生涯忘れられない思い出になった。それ以上に、いざと言う際に自分の信念に沿って自分の行動判断の基準を忘れずに、しかも実行に移せた、と言う経験が私の自信になった。この上ない賜物であった。普段考えている「問題は、解答を出すための機会を与えてくれる」を実践出来たので嬉しかった。
文明の進歩の過程では、異なる思想や宗教が、又は、経済や文化など、様々な要素に関して、誤解や、反対や、競争や、利害などが原因で起る争いが絶えない。例え自分が原因ではないと考えていても、他人はそうは考えず、争いを起こすに十分な原因である、と理解されてしまう場合が多々ある。争いは平和の敵であると言えるが、争いが無ければ平和か、とは必ずしも言えない。特に日本の場合には、常に「世界の中の日本」を念頭に置かないと、とんでもない誤解や、判断ミスを犯してしまう。日本は「世界が日本をどう見ているか」に異常な興味を示すが、「世界の中の日本」に関しては、興味薄である。複雑な国だ。日本は、常に世界の中の日本なのだ、と自覚しなければならない。日本だけの平和はあり得ないのだ。勿論日本だけでしか通用しない習慣や考え方はある。しかし経済や政治、科学や平和などに関しては、常に国際的視野に立たなければならない。
鎌倉時代から豊臣政権の終りまでの武士の時代、戦国時代は、下克上の一見混乱したように見えた時代ではあったが、実は厳しい武士の秩序はあったのだ。命を掛けた時代であったからこそ命の尊さを知っていた。同じ武士の時代でも徳川幕府の江戸時代270年は、別の秩序が支配していた。実戦がなかったので、その代わりに武士の「誇り」が武士の間の共通の物差しになっていた。例えば、貧乏で竹光を差していた恥さらしの武士がいる場合には、その複雑な気持は理解されたし、主君の名誉回復のために家来が切腹をすれば、美談になったりした。しかし、いずれも日本だけで通用する文化であり価値基準であった。
忠臣蔵も世界では通用しないのである。幕末に、何か幕府の役に立ちたい、と考えた人達が新撰組となって殺し屋集団の如き行動をし、京都を震撼させた。非日本的な価値観から出発していたようだが、これが戦国時代の価値観と似ていて、ある意味では西洋的な価値観でもあった。黒澤明の「七人の侍」も契約社会的価値観で、非日本的である。やくざの倫理は、日本の国内外で理解されている。高倉健が外国でも人気の高い俳優である所以だ。
人間の命の大切さを色々な角度から眺めると、国際的な倫理観と日本的倫理観との違いが見えてくる。「花咲ける騎士道」の中世ヨーロッパにおける騎士の倫理観と、江戸時代の「剣豪」の倫理観を比べてみるのも面白いかも知れない。この二つは案外近いかも知れない。
命の尊さの倫理観(日本と西洋との差異)を平和への願いと重ね合わせると、平和は何を要求し、何を保護しようとしているのかが分かってくる筈だ。自己の確立とは反対向きの日本の文化;命を掛けて命を守ることをしない現代の日本(国際的には、日本は命を金で買っていると言われている);自由を心から欲したことのない日本で何故自民(自由民主)党なのか;自由という思想が政治論争にならない日本;言論統制を受け入れて外国人記者団を排除している日本記者クラブアメリカ大統領の日本記者クラブでの記者会見にアメリカ人記者を排除);日米協会の新年宴会に日本企業は社員の個人の資格での出席を許さない(個人参加して会社を辞めさせられた例)、等々、日本の非国際的慣習は数え上げればきりがない。私は必ずしもこれ等を非難しているのではない。
日本でしか通用しない異なる価値基準で価値判断をしている、と言っているのだ。しかも日本人はこの違いを余り理解していない。これでは、国際的に通用する筈がない。
日本の国際化が叫ばれてから何十年経つだろうか。ヘボン式ローマ字を使って英語教育を始めてから何十年経つのだろうか。ヘボンを英語式に発音するとヘップバーンである。A.B.C--- はエイ・ビー・シーと発音するのが英語の原則だ。アメリカの私が住んでいる地区にある飛行場はSpartanburgと言う地名の場所にある。英語式に発音すればスパータンバーグ(カタカナで書くならこれが現地発音に近い)であるが、日本人はヘボン式の専門家なので、スパルタンブルグと発音する。結果として、現地の人は誰も理解できない。私は、このように教育されてきた日本人を責めることが出来ない。寧ろ、このような過ちを百年近くも変えようとしない日本の英語教育、そしてそれを許している日本文化を責めているのである。簡単な質問をするなら、何故ローマの字を英語教育に使うのか、である。何故自民党なのか。更に、何故日本国憲法「改善」が困難なのか、である。アメリカの若手法律家たちが短期間に書き下ろした日本国憲法を、何故、後生大事に70年もの長きに渉って堅持してきたのか。アメリカが日本のためにではなく、アメリカのために、世界にとって有利になるようにと考えて創ったものである。その中の二つの重要な点は、戦争放棄と女子の地位向上である。戦争放棄平和憲法と言い、命を金で買う国にしてしまった。
何故このような呪縛から自由になりたいと思わないのであろうか。但し、女子の地位向上については、あらゆる意味で大成功であった。ちなみに、アメリカの国会図書館には、日本国憲法作成の経過についての資料が全て整っている。
結論として、平和促進のために「自由」を最前列に並べて、「責任」「義務」「自己の確立」を保護奨励してもらいたい、と心より望むものである。これ等全てを保護するために最も有効なルールが平和のための憲法であると確信する。
この講では、一言も触れなかったが、「自由」「責任」「義務」「平和のための憲法」の規定が民主主義そのものを保護促進するものである、と言える。

2016年9月11日 9・11・01の15周年記念日に、平和なUSオープンテニス 決勝戦 を観ながら、平和と自由について考えてみた。
クレムソン大学名誉教授  岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−移住生活・その28−

天候状態の不安定さは素人の野菜作りにはとても悩ましい限りです。冒頭からボヤキましたが、今年の天候はプロの方々でも悩ましいでしょう。
移住して暫く経ってから始めた野菜作り。当初は妻の野菜作りの手伝いのつもりで始め、ただ苗や種を買って植えていましたが、ビギナーズラックみたいなもので、訳もわからないままにそれなりの収穫はありました。これが契機になり次第にのめり込み始め、微生物による土の具合や虫の変化など自然界の凄さに惹きつけられていきました。自然環境の豊かなところでの移住生活の面白さの一端です。
ところが昨年あたりから天候不順が続くようになり、期待した収穫が得られなくなってきました。こうなるとノウハウのない者にとっては厄介です。
今年の夏は不思議なことがありました。例年、夏の早い時期にキュウリやナスが収穫出来るのですが、今年は夏の後半、秋に近づいてからようやく収穫出来るようになりました。それも昨年以上の収穫でした。種・苗植えなどは例年通りの時期だったのに・・・。
秋野菜作りをいつも通りに9月から始めましたが、9月に入り雨の多いこと、気温の低いことが続き、野菜が育ちません。種植えのダイコンは何とか葉を出してきましたが、種植えの白菜はやっと本葉が出始めたくらいで、早生(50日)タイプとは言え成長が遅すぎ、このままでは収穫に至らないのではといささか不安です。何しろ秋晴れが少ない。例年この時期は畑の水遣りに手が抜けないのですが、今年はその必要が殆どありません。
9月始めに、来年5月収穫用にタマネギの種を植え、苗作りにとりかかりましたが、一向に育ちません。雨が多くて根腐れや成長が不良で・・・後一月もすれば苗植えの時期になるのですが、今年は苗を買わねばダメかな?タマネギはむ・つ・か・し・い。
毎年、同じ時期に、同じように野菜作りをするのですが、毎年、結果が違います。簡単そうに見える種類の野菜でもそうです。自然を相手にするということはこういう事なのですね。大きな自然。ちっちゃな人間。


◆今月の山中事情126回−榎本久・宇ぜん亭主

−田舎人−

東京を去って早十年余となった。壮年から老人になってしまった。東京を去るということに当初はそれなりに落胆をしていたものだが、一方では闘志もあって、いつの間にやらいろいろの人と交わりを持つ出会いがあり、落胆を忘れてしまっていた。しかしその十年の間に心をへし折られたことが我が身に起き、エネルギッシュに生きることはもはや出来なくなり、余生という表現を使うごとくに日々を送っている。
先般、古磯氏の招待により国立新美術館での「行動展」に、久し振りに上京した。馴れ親しんでいた東京だった筈だが、もう池袋駅で気圧され、身体が拒否反応を示すかのようになり、完全に田舎人間を呈してしまった。騒音、におい、スピード、閉塞感に敏感すぎる程反応するのである。それは病身ゆえからかも知れないが、やたら落ち着かなくなっていたのである。そういう東京に四十年も住んでいたのかと改めて思った。
東京が無くなるのは困るが、果たしてあの混沌とした日常が必要であるのかという疑問が湧いた。ダイナミックな首都ではあるが、それがいいとは思わなくなったのだ。四十年も住んでいたのに・・・。もとより山形の田舎から出てきた者ゆえ単に田舎人間に戻っただけと思えばことは足りるのだが・・・。
さて絵展の帰路原宿駅で外回りの山手線に乗った。混んでいる。東京だからと思っていたら、今度は動かない。ホームでは何のアナウンスもなかったのに、車内では駒込駅ホームの屋根が崩れている云々と言い続け、動かない。五分、十分と待ちつづけ、二十分位になったので内回りに乗り換え、渋谷で地下鉄銀座線に乗り換え、赤坂見附で丸の内線乗り換え、ようやく池袋に着く。上京するのはいいが、こういうトラブルが起こるとパニック障害が突如起こるので系統だって物ごとを判断出来なくなってしまう。
そうは言えど、古磯氏のお陰で、仲々足を踏み入れることの出来ないところに行くことが出来、氏の絵「大地の目覚め」を拝見させていただいた。すっかりシリーズ化され、回を重ねるごとに絵に重みを感じた。画家としての地歩を確実なものにされている。今回は、私の好きな黒と金の配色で、これまでとは違う力強さを感じた。内なるものを秘めた何かがあると見た。
今東京は痛々しい状況にさらされている。なにをどうしたいのかが混在しすぎ、それぞれの主張のみ浮いている。ひとつの言葉にすると「欲」の取り合いとしか見えない。美名を口にしながら決して美しくない輩がひしめいている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は、先日、銀座の画廊「」ギャラリー風」で開かれましたグループ展
「夏のあとさき」に出品した作品です。
  サイズはS100号(162cm×162cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。



台風、台風、また台風。
秋晴れが恋しくなります。

今月の風に度々話題提供いただく岸本雄二さんのグループ展「第11回稲美会展」が11月9日ー14日に銀座の画廊で開かれます。
・開催場所 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル4階
      銀座アートースペース・ジャンセン美術館
      電話03-3573-1271


さて、9月の国立新美術館での行動展及び銀座画廊でのグループ展に多くの方が足をお運び下さいました。
感謝申し上げます。
今回の第71回行動展で、来年2月に東京都美術館で開かれる行動の「新人選抜展」への出品者(10名)に推薦されました。
2点出品予定です。いずれまたご案内いたします。

今月はいよいよ生まれ故郷の宇部での第2回目の個展です。
3号の小品から130号まで、パステル画45点ほど準備しました。
ご都合のつかれる方は是非ご覧いただければと思います。
私(古磯)は会期中は毎日画廊に居ます。
 場所:ギャルリー小川
     山口県宇部市西宇部北7−7−38
     tel.0836−41−0005
     最寄り駅はJR山陽本線宇部駅
 会期:10月14日(金)〜20日(木)…会期中無休
 時間:10:00〜17:00
     最終日は16:00迄。


今月の風では岸本雄二さんが日本の戦争放棄日本国憲法スタンスに疑問を投げかけられてます。
確かに「世界の中の日本」という意識は指摘の通り重要と考えますが、それと「戦争をしない」スタンスは相反するものとは考えません。
世界が荒くれてきている状況では、如何に戦争をしないで済むのかをやはり追求すべきと考えます。

では《Ryuの目・?−no.166》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−“自由”文明の贅沢品かそれとも必需品か、平和への責任と義務について−

ニューヨークのマンハッタン島を見つめるよに、自由の象徴として立ち続けている女神像、「自由の女神」(Statue of Liberty)を知らない人はいないであろう。アメリカ合衆国が1776年にイギリスの支配から独立して100年目、1886年7月4日の独立記念日のためにフランス国民から贈られたものである。
アメリカが独立してから18年後の1794年に、「自由・平等・博愛」を掲げて革命を起こしたフランスは、世界史に多大な影響を与えた。それから100年後の1894年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、パリで近代オリンピックが組織され、国際オリンピック委員会(IOEC)が設立された。二年後の1896年にアテネで第一回オリンピックが開催された。
私は、平和を目標に掲げたフランス革命の精神、「自由・平等・博愛」がそのままクーベルタンによって国際オリンピック競技の精神に結びついた、と考えている。自国民の「平和」のために「自由」獲得を第一目標として血を流し、その精神をオリンピックを通して世界規模に広げたスランス、その国民からの贈り物が「自由の女神」なのである。贈る側も贈られる側も「自由」の大切さを知っていたのだ。自由の女神像が右手にトーチを掲げているのは有名でだが、よく見ると左手に本を持っているのに気が付く。法律の本である。即ち自由とは法律の下で初めて正しく機能する、と主張しているのだ。この法律とは、自由を保護する法律である。真の自由を獲得するためには法律が必要なのである。
ここまで思考をめぐらせてくると、自由とは個人の「責任と義務」の必要性を謳っているのに気が付く。即ち自由を謳歌するためには、自分で責任を持って義務を遂行しなければならないのだ。即ち「自己」の確立への努力を前提としているのだ。社会の秩序を保つために個人の責任と義務を規定する姿勢が、自由の姿を浮き彫りにしている。完全な自由はカオスである、などという的外れの批判が出てくる余地はないのである。
実は、今日9月11日は、マンハッタン島に聳えていた世界貿易センター同時多発テロによって倒壊してから15年目に当る記念すべき日である。アメリカの各地で記念式典が行われている。忌まわしき事件ではあったが、この事件が持たらした意味は大きく、我々一人ひとりが責任と義務と自由について肝に銘じて考え、平和のあり方を自分のこととして想起するように促している。決して風化させてはならない、といっているようだ。今日は又、テニスのUSオープン最終日でもあり、ニューヨークのフラッシングメドー・テニス会場では、男子シングルスの優勝決定戦が行われている最中だ。テニスコート上に9・11・01と大きく書いてある。決して風化しないだろう。私は、15年前の9月11日は早朝から、サウスカロライナ州のグリーンビル市にあるヒルトン・ホテルの会議場にいた。私の主宰していたUJAC(US JapanAlliance with Clemson)という日米経済を中心課題とした実務家と研究者との定期集会の第八回会議が丁度始まったところであった。出席者は約80人で、クレムソン大学の研究者が10人弱と、日米の優良企業の指導者が70人強であった。クレムソン大学の学長による会議冒頭の歓迎と開会の辞が終り、企業による発表が始まったところであった。丁度その時、司会進行役であった私に、係りの者からメモ用紙を手渡された。それには走り書きで、ニューヨークの世界貿易センターでテロ事件が発生したので、全員ホテルロビーまで来て貰いたい、と記されてあった。ここはアメリカ南部のど真ん中で、東海岸からも約300キロの内陸部である。大都会の雑音とは関係ない、と言思っていた。数年まえにもトラックに爆弾を積んで、世界貿易センターの地下に突っ込む事件があったのを記憶していたので、私は慌てずに一人目の発表が終わってから全員で行く、と伝えておいた。20分ほどして最初の発表が終わったので、私は会議出席者に、ニューヨークで又テロ事件が起きたらしいので、ロビーに行って見ましょう、と言って、全員でロビーヘ行ってみて、驚愕した。言葉も出なかった、と言うよりも、咄嗟のことなので、テレビの画面からだけでは、現実感が無く、即座には何が起きているのかさえ分からなかった。30分以上前から放映していたらしく、空港へ行き、一切の旅客便がキャンセルになったのを知って、ホテルヘ帰ってきた人たちも大勢いた。しかし、目の前の三台のテレビ・スクリーンと上ずったアナウンサーの声を聞いている限りでは、まるでハリウッド映画のようなテレビ中継を事実として受け取るしかなかった。テロリストにハイジャックされてペンシルバニアを飛行中の第二機目の旅客機をF16戦闘機が打ち落とすかどうか、を考慮中であると言っていた。直ぐには信じられない話であった、いや、信じたくない話であった、と言うべきか。しかし私は考えた。テロリストの意図は、我々一般市民の行動を規制し、「自由」を奪い、我々をコントロールすることにある、と。一般市民がこれに抵抗して出来ることは、今までの生活、行動、思考をそのまま続けることではないのか。
ロビーは、真っ青な顔をして、未だに信じられない気持の人々で一杯であった。私は会議出席者全員を会議場に連れ戻して、会議を続行すべきである、と決めた。私は、皆に会場に戻るように説得に努めた。殆どの人は、会議どころではないし、何かをしなければならない、といってロビーの留まろうとした。ある人は、自分の本社が焼け落ちていると叫んで、おろおろしていた。飛行機も、電話も、タクシーも全てが使用不可能な状態で、何も出来ないではないか。
せめても我々が出来ることは、普段の状態に戻って、それを遂行することだ、と言って説得しながら、力ずくで一人ひとりの背中を押して会場に戻ってもらった。普段は、人に指図している人たちなので、指図されるのを喜ばなかった。しかし、15分後には全員が会場に戻った。先ず、死者のために一分間の黙祷を捧げた。次に私のテロに対する姿勢、即ち、如何にして我々の「自由」を守り、市民としての「義務」を果たして「責任」を遂行するか、に賛同していただきたい、と訴えた。15分ほどの話し合いの末、会議続行と決まった。我々は、第八回UJAC会議の二日間の全日程を完了し、再会を約して別れた。自動車で来た人達がいたので、自動車相乗りで、行ける所まで行き、ニューヨークやボストン、シカゴの本社や自宅まで、三日掛けてたどり着いた人たちもいたようだ。一ヶ月位して多くの会議参加者から、大惨事にも関わらず会議を続行してもらって有難う、と言う感謝のメールを頂いて、私は嬉しかった。
私には、もう一つの続編がある。実は9月15日にも東京で講演を約束していたのである。桐朋女子高校の後援団体「薄暮会」(親父会)の薄暮講座での話しを頼まれていたのだ。幹事の佐藤晃一校長先生から、航空便が全て欠航なので当然中止ですね、との連絡があった。私は、16日に飛行便が再開されることが分かった時点で、18日に決行しましょう、と言って16日の最初の便で東京へ飛んだ。私にとって、この会議続行と、薄暮講座決行は、生涯忘れられない思い出になった。それ以上に、いざと言う際に自分の信念に沿って自分の行動判断の基準を忘れずに、しかも実行に移せた、と言う経験が私の自信になった。この上ない賜物であった。普段考えている「問題は、解答を出すための機会を与えてくれる」を実践出来たので嬉しかった。
文明の進歩の過程では、異なる思想や宗教が、又は、経済や文化など、様々な要素に関して、誤解や、反対や、競争や、利害などが原因で起る争いが絶えない。例え自分が原因ではないと考えていても、他人はそうは考えず、争いを起こすに十分な原因である、と理解されてしまう場合が多々ある。争いは平和の敵であると言えるが、争いが無ければ平和か、とは必ずしも言えない。特に日本の場合には、常に「世界の中の日本」を念頭に置かないと、とんでもない誤解や、判断ミスを犯してしまう。日本は「世界が日本をどう見ているか」に異常な興味を示すが、「世界の中の日本」に関しては、興味薄である。複雑な国だ。日本は、常に世界の中の日本なのだ、と自覚しなければならない。日本だけの平和はあり得ないのだ。勿論日本だけでしか通用しない習慣や考え方はある。しかし経済や政治、科学や平和などに関しては、常に国際的視野に立たなければならない。
鎌倉時代から豊臣政権の終りまでの武士の時代、戦国時代は、下克上の一見混乱したように見えた時代ではあったが、実は厳しい武士の秩序はあったのだ。命を掛けた時代であったからこそ命の尊さを知っていた。同じ武士の時代でも徳川幕府の江戸時代270年は、別の秩序が支配していた。実戦がなかったので、その代わりに武士の「誇り」が武士の間の共通の物差しになっていた。例えば、貧乏で竹光を差していた恥さらしの武士がいる場合には、その複雑な気持は理解されたし、主君の名誉回復のために家来が切腹をすれば、美談になったりした。しかし、いずれも日本だけで通用する文化であり価値基準であった。
忠臣蔵も世界では通用しないのである。幕末に、何か幕府の役に立ちたい、と考えた人達が新撰組となって殺し屋集団の如き行動をし、京都を震撼させた。非日本的な価値観から出発していたようだが、これが戦国時代の価値観と似ていて、ある意味では西洋的な価値観でもあった。黒澤明の「七人の侍」も契約社会的価値観で、非日本的である。やくざの倫理は、日本の国内外で理解されている。高倉健が外国でも人気の高い俳優である所以だ。
人間の命の大切さを色々な角度から眺めると、国際的な倫理観と日本的倫理観との違いが見えてくる。「花咲ける騎士道」の中世ヨーロッパにおける騎士の倫理観と、江戸時代の「剣豪」の倫理観を比べてみるのも面白いかも知れない。この二つは案外近いかも知れない。
命の尊さの倫理観(日本と西洋との差異)を平和への願いと重ね合わせると、平和は何を要求し、何を保護しようとしているのかが分かってくる筈だ。自己の確立とは反対向きの日本の文化;命を掛けて命を守ることをしない現代の日本(国際的には、日本は命を金で買っていると言われている);自由を心から欲したことのない日本で何故自民(自由民主)党なのか;自由という思想が政治論争にならない日本;言論統制を受け入れて外国人記者団を排除している日本記者クラブアメリカ大統領の日本記者クラブでの記者会見にアメリカ人記者を排除);日米協会の新年宴会に日本企業は社員の個人の資格での出席を許さない(個人参加して会社を辞めさせられた例)、等々、日本の非国際的慣習は数え上げればきりがない。私は必ずしもこれ等を非難しているのではない。
日本でしか通用しない異なる価値基準で価値判断をしている、と言っているのだ。しかも日本人はこの違いを余り理解していない。これでは、国際的に通用する筈がない。
日本の国際化が叫ばれてから何十年経つだろうか。ヘボン式ローマ字を使って英語教育を始めてから何十年経つのだろうか。ヘボンを英語式に発音するとヘップバーンである。A.B.C--- はエイ・ビー・シーと発音するのが英語の原則だ。アメリカの私が住んでいる地区にある飛行場はSpartanburgと言う地名の場所にある。英語式に発音すればスパータンバーグ(カタカナで書くならこれが現地発音に近い)であるが、日本人はヘボン式の専門家なので、スパルタンブルグと発音する。結果として、現地の人は誰も理解できない。私は、このように教育されてきた日本人を責めることが出来ない。寧ろ、このような過ちを百年近くも変えようとしない日本の英語教育、そしてそれを許している日本文化を責めているのである。簡単な質問をするなら、何故ローマの字を英語教育に使うのか、である。何故自民党なのか。更に、何故日本国憲法「改善」が困難なのか、である。アメリカの若手法律家たちが短期間に書き下ろした日本国憲法を、何故、後生大事に70年もの長きに渉って堅持してきたのか。アメリカが日本のためにではなく、アメリカのために、世界にとって有利になるようにと考えて創ったものである。その中の二つの重要な点は、戦争放棄と女子の地位向上である。戦争放棄平和憲法と言い、命を金で買う国にしてしまった。
何故このような呪縛から自由になりたいと思わないのであろうか。但し、女子の地位向上については、あらゆる意味で大成功であった。ちなみに、アメリカの国会図書館には、日本国憲法作成の経過についての資料が全て整っている。
結論として、平和促進のために「自由」を最前列に並べて、「責任」「義務」「自己の確立」を保護奨励してもらいたい、と心より望むものである。これ等全てを保護するために最も有効なルールが平和のための憲法であると確信する。
この講では、一言も触れなかったが、「自由」「責任」「義務」「平和のための憲法」の規定が民主主義そのものを保護促進するものである、と言える。

2016年9月11日 9・11・01の15周年記念日に、平和なUSオープンテニス 決勝戦 を観ながら、平和と自由について考えてみた。
クレムソン大学名誉教授  岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−移住生活・その28−

天候状態の不安定さは素人の野菜作りにはとても悩ましい限りです。冒頭からボヤキましたが、今年の天候はプロの方々でも悩ましいでしょう。
移住して暫く経ってから始めた野菜作り。当初は妻の野菜作りの手伝いのつもりで始め、ただ苗や種を買って植えていましたが、ビギナーズラックみたいなもので、訳もわからないままにそれなりの収穫はありました。これが契機になり次第にのめり込み始め、微生物による土の具合や虫の変化など自然界の凄さに惹きつけられていきました。自然環境の豊かなところでの移住生活の面白さの一端です。
ところが昨年あたりから天候不順が続くようになり、期待した収穫が得られなくなってきました。こうなるとノウハウのない者にとっては厄介です。
今年の夏は不思議なことがありました。例年、夏の早い時期にキュウリやナスが収穫出来るのですが、今年は夏の後半、秋に近づいてからようやく収穫出来るようになりました。それも昨年以上の収穫でした。種・苗植えなどは例年通りの時期だったのに・・・。
秋野菜作りをいつも通りに9月から始めましたが、9月に入り雨の多いこと、気温の低いことが続き、野菜が育ちません。種植えのダイコンは何とか葉を出してきましたが、種植えの白菜はやっと本葉が出始めたくらいで、早生(50日)タイプとは言え成長が遅すぎ、このままでは収穫に至らないのではといささか不安です。何しろ秋晴れが少ない。例年この時期は畑の水遣りに手が抜けないのですが、今年はその必要が殆どありません。
9月始めに、来年5月収穫用にタマネギの種を植え、苗作りにとりかかりましたが、一向に育ちません。雨が多くて根腐れや成長が不良で・・・後一月もすれば苗植えの時期になるのですが、今年は苗を買わねばダメかな?タマネギはむ・つ・か・し・い。
毎年、同じ時期に、同じように野菜作りをするのですが、毎年、結果が違います。簡単そうに見える種類の野菜でもそうです。自然を相手にするということはこういう事なのですね。大きな自然。ちっちゃな人間。


◆今月の山中事情126回−榎本久・宇ぜん亭主

−田舎人−

東京を去って早十年余となった。壮年から老人になってしまった。東京を去るということに当初はそれなりに落胆をしていたものだが、一方では闘志もあって、いつの間にやらいろいろの人と交わりを持つ出会いがあり、落胆を忘れてしまっていた。しかしその十年の間に心をへし折られたことが我が身に起き、エネルギッシュに生きることはもはや出来なくなり、余生という表現を使うごとくに日々を送っている。
先般、古磯氏の招待により国立新美術館での「行動展」に、久し振りに上京した。馴れ親しんでいた東京だった筈だが、もう池袋駅で気圧され、身体が拒否反応を示すかのようになり、完全に田舎人間を呈してしまった。騒音、におい、スピード、閉塞感に敏感すぎる程反応するのである。それは病身ゆえからかも知れないが、やたら落ち着かなくなっていたのである。そういう東京に四十年も住んでいたのかと改めて思った。
東京が無くなるのは困るが、果たしてあの混沌とした日常が必要であるのかという疑問が湧いた。ダイナミックな首都ではあるが、それがいいとは思わなくなったのだ。四十年も住んでいたのに・・・。もとより山形の田舎から出てきた者ゆえ単に田舎人間に戻っただけと思えばことは足りるのだが・・・。
さて絵展の帰路原宿駅で外回りの山手線に乗った。混んでいる。東京だからと思っていたら、今度は動かない。ホームでは何のアナウンスもなかったのに、車内では駒込駅ホームの屋根が崩れている云々と言い続け、動かない。五分、十分と待ちつづけ、二十分位になったので内回りに乗り換え、渋谷で地下鉄銀座線に乗り換え、赤坂見附で丸の内線乗り換え、ようやく池袋に着く。上京するのはいいが、こういうトラブルが起こるとパニック障害が突如起こるので系統だって物ごとを判断出来なくなってしまう。
そうは言えど、古磯氏のお陰で、仲々足を踏み入れることの出来ないところに行くことが出来、氏の絵「大地の目覚め」を拝見させていただいた。すっかりシリーズ化され、回を重ねるごとに絵に重みを感じた。画家としての地歩を確実なものにされている。今回は、私の好きな黒と金の配色で、これまでとは違う力強さを感じた。内なるものを秘めた何かがあると見た。
今東京は痛々しい状況にさらされている。なにをどうしたいのかが混在しすぎ、それぞれの主張のみ浮いている。ひとつの言葉にすると「欲」の取り合いとしか見えない。美名を口にしながら決して美しくない輩がひしめいている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は、先日、銀座の画廊「」ギャラリー風」で開かれましたグループ展
「夏のあとさき」に出品した作品です。
  サイズはS100号(162cm×162cm)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。



台風、台風、また台風。
秋晴れが恋しくなります。

今月の風に度々話題提供いただく岸本雄二さんのグループ展「第11回稲美会展」が11月9日ー14日に銀座の画廊で開かれます。
・開催場所 東京都中央区銀座6-3-2 ギャラリーセンタービル4階
      銀座アートースペース・ジャンセン美術館
      電話03-3573-1271


さて、9月の国立新美術館での行動展及び銀座画廊でのグループ展に多くの方が足をお運び下さいました。
感謝申し上げます。
今回の第71回行動展で、来年2月に東京都美術館で開かれる行動の「新人選抜展」への出品者(10名)に推薦されました。
2点出品予定です。いずれまたご案内いたします。

今月はいよいよ生まれ故郷の宇部での第2回目の個展です。
3号の小品から130号まで、パステル画45点ほど準備しました。
ご都合のつかれる方は是非ご覧いただければと思います。
私(古磯)は会期中は毎日画廊に居ます。
 場所:ギャルリー小川
     山口県宇部市西宇部北7−7−38
     tel.0836−41−0005
     最寄り駅はJR山陽本線宇部駅
 会期:10月14日(金)〜20日(木)…会期中無休
 時間:10:00〜17:00
     最終日は16:00迄。


今月の風では岸本雄二さんが日本の戦争放棄日本国憲法スタンスに疑問を投げかけられてます。
確かに「世界の中の日本」という意識は指摘の通り重要と考えますが、それと「戦争をしない」スタンスは相反するものとは考えません。
世界が荒くれてきている状況では、如何に戦争をしないで済むのかをやはり追求すべきと考えます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.166》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−“自由”文明の贅沢品かそれとも必需品か、平和への責任と義務について−

ニューヨークのマンハッタン島を見つめるよに、自由の象徴として立ち続けている女神像、「自由の女神」(Statue of Liberty)を知らない人はいないであろう。アメリカ合衆国が1776年にイギリスの支配から独立して100年目、1886年7月4日の独立記念日のためにフランス国民から贈られたものである。
アメリカが独立してから18年後の1794年に、「自由・平等・博愛」を掲げて革命を起こしたフランスは、世界史に多大な影響を与えた。それから100年後の1894年に、ピエール・ド・クーベルタン男爵の提唱によって、パリで近代オリンピックが組織され、国際オリンピック委員会(IOEC)が設立された。二年後の1896年にアテネで第一回オリンピックが開催された。
私は、平和を目標に掲げたフランス革命の精神、「自由・平等・博愛」がそのままクーベルタンによって国際オリンピック競技の精神に結びついた、と考えている。自国民の「平和」のために「自由」獲得を第一目標として血を流し、その精神をオリンピックを通して世界規模に広げたスランス、その国民からの贈り物が「自由の女神」なのである。贈る側も贈られる側も「自由」の大切さを知っていたのだ。自由の女神像が右手にトーチを掲げているのは有名でだが、よく見ると左手に本を持っているのに気が付く。法律の本である。即ち自由とは法律の下で初めて正しく機能する、と主張しているのだ。この法律とは、自由を保護する法律である。真の自由を獲得するためには法律が必要なのである。
ここまで思考をめぐらせてくると、自由とは個人の「責任と義務」の必要性を謳っているのに気が付く。即ち自由を謳歌するためには、自分で責任を持って義務を遂行しなければならないのだ。即ち「自己」の確立への努力を前提としているのだ。社会の秩序を保つために個人の責任と義務を規定する姿勢が、自由の姿を浮き彫りにしている。完全な自由はカオスである、などという的外れの批判が出てくる余地はないのである。
実は、今日9月11日は、マンハッタン島に聳えていた世界貿易センター同時多発テロによって倒壊してから15年目に当る記念すべき日である。アメリカの各地で記念式典が行われている。忌まわしき事件ではあったが、この事件が持たらした意味は大きく、我々一人ひとりが責任と義務と自由について肝に銘じて考え、平和のあり方を自分のこととして想起するように促している。決して風化させてはならない、といっているようだ。今日は又、テニスのUSオープン最終日でもあり、ニューヨークのフラッシングメドー・テニス会場では、男子シングルスの優勝決定戦が行われている最中だ。テニスコート上に9・11・01と大きく書いてある。決して風化しないだろう。私は、15年前の9月11日は早朝から、サウスカロライナ州のグリーンビル市にあるヒルトン・ホテルの会議場にいた。私の主宰していたUJAC(US JapanAlliance with Clemson)という日米経済を中心課題とした実務家と研究者との定期集会の第八回会議が丁度始まったところであった。出席者は約80人で、クレムソン大学の研究者が10人弱と、日米の優良企業の指導者が70人強であった。クレムソン大学の学長による会議冒頭の歓迎と開会の辞が終り、企業による発表が始まったところであった。丁度その時、司会進行役であった私に、係りの者からメモ用紙を手渡された。それには走り書きで、ニューヨークの世界貿易センターでテロ事件が発生したので、全員ホテルロビーまで来て貰いたい、と記されてあった。ここはアメリカ南部のど真ん中で、東海岸からも約300キロの内陸部である。大都会の雑音とは関係ない、と言思っていた。数年まえにもトラックに爆弾を積んで、世界貿易センターの地下に突っ込む事件があったのを記憶していたので、私は慌てずに一人目の発表が終わってから全員で行く、と伝えておいた。20分ほどして最初の発表が終わったので、私は会議出席者に、ニューヨークで又テロ事件が起きたらしいので、ロビーに行って見ましょう、と言って、全員でロビーヘ行ってみて、驚愕した。言葉も出なかった、と言うよりも、咄嗟のことなので、テレビの画面からだけでは、現実感が無く、即座には何が起きているのかさえ分からなかった。30分以上前から放映していたらしく、空港へ行き、一切の旅客便がキャンセルになったのを知って、ホテルヘ帰ってきた人たちも大勢いた。しかし、目の前の三台のテレビ・スクリーンと上ずったアナウンサーの声を聞いている限りでは、まるでハリウッド映画のようなテレビ中継を事実として受け取るしかなかった。テロリストにハイジャックされてペンシルバニアを飛行中の第二機目の旅客機をF16戦闘機が打ち落とすかどうか、を考慮中であると言っていた。直ぐには信じられない話であった、いや、信じたくない話であった、と言うべきか。しかし私は考えた。テロリストの意図は、我々一般市民の行動を規制し、「自由」を奪い、我々をコントロールすることにある、と。一般市民がこれに抵抗して出来ることは、今までの生活、行動、思考をそのまま続けることではないのか。
ロビーは、真っ青な顔をして、未だに信じられない気持の人々で一杯であった。私は会議出席者全員を会議場に連れ戻して、会議を続行すべきである、と決めた。私は、皆に会場に戻るように説得に努めた。殆どの人は、会議どころではないし、何かをしなければならない、といってロビーの留まろうとした。ある人は、自分の本社が焼け落ちていると叫んで、おろおろしていた。飛行機も、電話も、タクシーも全てが使用不可能な状態で、何も出来ないではないか。
せめても我々が出来ることは、普段の状態に戻って、それを遂行することだ、と言って説得しながら、力ずくで一人ひとりの背中を押して会場に戻ってもらった。普段は、人に指図している人たちなので、指図されるのを喜ばなかった。しかし、15分後には全員が会場に戻った。先ず、死者のために一分間の黙祷を捧げた。次に私のテロに対する姿勢、即ち、如何にして我々の「自由」を守り、市民としての「義務」を果たして「責任」を遂行するか、に賛同していただきたい、と訴えた。15分ほどの話し合いの末、会議続行と決まった。我々は、第八回UJAC会議の二日間の全日程を完了し、再会を約して別れた。自動車で来た人達がいたので、自動車相乗りで、行ける所まで行き、ニューヨークやボストン、シカゴの本社や自宅まで、三日掛けてたどり着いた人たちもいたようだ。一ヶ月位して多くの会議参加者から、大惨事にも関わらず会議を続行してもらって有難う、と言う感謝のメールを頂いて、私は嬉しかった。
私には、もう一つの続編がある。実は9月15日にも東京で講演を約束していたのである。桐朋女子高校の後援団体「薄暮会」(親父会)の薄暮講座での話しを頼まれていたのだ。幹事の佐藤晃一校長先生から、航空便が全て欠航なので当然中止ですね、との連絡があった。私は、16日に飛行便が再開されることが分かった時点で、18日に決行しましょう、と言って16日の最初の便で東京へ飛んだ。私にとって、この会議続行と、薄暮講座決行は、生涯忘れられない思い出になった。それ以上に、いざと言う際に自分の信念に沿って自分の行動判断の基準を忘れずに、しかも実行に移せた、と言う経験が私の自信になった。この上ない賜物であった。普段考えている「問題は、解答を出すための機会を与えてくれる」を実践出来たので嬉しかった。
文明の進歩の過程では、異なる思想や宗教が、又は、経済や文化など、様々な要素に関して、誤解や、反対や、競争や、利害などが原因で起る争いが絶えない。例え自分が原因ではないと考えていても、他人はそうは考えず、争いを起こすに十分な原因である、と理解されてしまう場合が多々ある。争いは平和の敵であると言えるが、争いが無ければ平和か、とは必ずしも言えない。特に日本の場合には、常に「世界の中の日本」を念頭に置かないと、とんでもない誤解や、判断ミスを犯してしまう。日本は「世界が日本をどう見ているか」に異常な興味を示すが、「世界の中の日本」に関しては、興味薄である。複雑な国だ。日本は、常に世界の中の日本なのだ、と自覚しなければならない。日本だけの平和はあり得ないのだ。勿論日本だけでしか通用しない習慣や考え方はある。しかし経済や政治、科学や平和などに関しては、常に国際的視野に立たなければならない。
鎌倉時代から豊臣政権の終りまでの武士の時代、戦国時代は、下克上の一見混乱したように見えた時代ではあったが、実は厳しい武士の秩序はあったのだ。命を掛けた時代であったからこそ命の尊さを知っていた。同じ武士の時代でも徳川幕府の江戸時代270年は、別の秩序が支配していた。実戦がなかったので、その代わりに武士の「誇り」が武士の間の共通の物差しになっていた。例えば、貧乏で竹光を差していた恥さらしの武士がいる場合には、その複雑な気持は理解されたし、主君の名誉回復のために家来が切腹をすれば、美談になったりした。しかし、いずれも日本だけで通用する文化であり価値基準であった。
忠臣蔵も世界では通用しないのである。幕末に、何か幕府の役に立ちたい、と考えた人達が新撰組となって殺し屋集団の如き行動をし、京都を震撼させた。非日本的な価値観から出発していたようだが、これが戦国時代の価値観と似ていて、ある意味では西洋的な価値観でもあった。黒澤明の「七人の侍」も契約社会的価値観で、非日本的である。やくざの倫理は、日本の国内外で理解されている。高倉健が外国でも人気の高い俳優である所以だ。
人間の命の大切さを色々な角度から眺めると、国際的な倫理観と日本的倫理観との違いが見えてくる。「花咲ける騎士道」の中世ヨーロッパにおける騎士の倫理観と、江戸時代の「剣豪」の倫理観を比べてみるのも面白いかも知れない。この二つは案外近いかも知れない。
命の尊さの倫理観(日本と西洋との差異)を平和への願いと重ね合わせると、平和は何を要求し、何を保護しようとしているのかが分かってくる筈だ。自己の確立とは反対向きの日本の文化;命を掛けて命を守ることをしない現代の日本(国際的には、日本は命を金で買っていると言われている);自由を心から欲したことのない日本で何故自民(自由民主)党なのか;自由という思想が政治論争にならない日本;言論統制を受け入れて外国人記者団を排除している日本記者クラブアメリカ大統領の日本記者クラブでの記者会見にアメリカ人記者を排除);日米協会の新年宴会に日本企業は社員の個人の資格での出席を許さない(個人参加して会社を辞めさせられた例)、等々、日本の非国際的慣習は数え上げればきりがない。私は必ずしもこれ等を非難しているのではない。
日本でしか通用しない異なる価値基準で価値判断をしている、と言っているのだ。しかも日本人はこの違いを余り理解していない。これでは、国際的に通用する筈がない。
日本の国際化が叫ばれてから何十年経つだろうか。ヘボン式ローマ字を使って英語教育を始めてから何十年経つのだろうか。ヘボンを英語式に発音するとヘップバーンである。A.B.C--- はエイ・ビー・シーと発音するのが英語の原則だ。アメリカの私が住んでいる地区にある飛行場はSpartanburgと言う地名の場所にある。英語式に発音すればスパータンバーグ(カタカナで書くならこれが現地発音に近い)であるが、日本人はヘボン式の専門家なので、スパルタンブルグと発音する。結果として、現地の人は誰も理解できない。私は、このように教育されてきた日本人を責めることが出来ない。寧ろ、このような過ちを百年近くも変えようとしない日本の英語教育、そしてそれを許している日本文化を責めているのである。簡単な質問をするなら、何故ローマの字を英語教育に使うのか、である。何故自民党なのか。更に、何故日本国憲法「改善」が困難なのか、である。アメリカの若手法律家たちが短期間に書き下ろした日本国憲法を、何故、後生大事に70年もの長きに渉って堅持してきたのか。アメリカが日本のためにではなく、アメリカのために、世界にとって有利になるようにと考えて創ったものである。その中の二つの重要な点は、戦争放棄と女子の地位向上である。戦争放棄平和憲法と言い、命を金で買う国にしてしまった。
何故このような呪縛から自由になりたいと思わないのであろうか。但し、女子の地位向上については、あらゆる意味で大成功であった。ちなみに、アメリカの国会図書館には、日本国憲法作成の経過についての資料が全て整っている。
結論として、平和促進のために「自由」を最前列に並べて、「責任」「義務」「自己の確立」を保護奨励してもらいたい、と心より望むものである。これ等全てを保護するために最も有効なルールが平和のための憲法であると確信する。
この講では、一言も触れなかったが、「自由」「責任」「義務」「平和のための憲法」の規定が民主主義そのものを保護促進するものである、と言える。

2016年9月11日 9・11・01の15周年記念日に、平和なUSオープンテニス 決勝戦 を観ながら、平和と自由について考えてみた。
クレムソン大学名誉教授  岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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−移住生活・その28−

天候状態の不安定さは素人の野菜作りにはとても悩ましい限りです。冒頭からボヤキましたが、今年の天候はプロの方々でも悩ましいでしょう。
移住して暫く経ってから始めた野菜作り。当初は妻の野菜作りの手伝いのつもりで始め、ただ苗や種を買って植えていましたが、ビギナーズラックみたいなもので、訳もわからないままにそれなりの収穫はありました。これが契機になり次第にのめり込み始め、微生物による土の具合や虫の変化など自然界の凄さに惹きつけられていきました。自然環境の豊かなところでの移住生活の面白さの一端です。
ところが昨年あたりから天候不順が続くようになり、期待した収穫が得られなくなってきました。こうなるとノウハウのない者にとっては厄介です。
今年の夏は不思議なことがありました。例年、夏の早い時期にキュウリやナスが収穫出来るのですが、今年は夏の後半、秋に近づいてからようやく収穫出来るようになりました。それも昨年以上の収穫でした。種・苗植えなどは例年通りの時期だったのに・・・。
秋野菜作りをいつも通りに9月から始めましたが、9月に入り雨の多いこと、気温の低いことが続き、野菜が育ちません。種植えのダイコンは何とか葉を出してきましたが、種植えの白菜はやっと本葉が出始めたくらいで、早生(50日)タイプとは言え成長が遅すぎ、このままでは収穫に至らないのではといささか不安です。何しろ秋晴れが少ない。例年この時期は畑の水遣りに手が抜けないのですが、今年はその必要が殆どありません。
9月始めに、来年5月収穫用にタマネギの種を植え、苗作りにとりかかりましたが、一向に育ちません。雨が多くて根腐れや成長が不良で・・・後一月もすれば苗植えの時期になるのですが、今年は苗を買わねばダメかな?タマネギはむ・つ・か・し・い。
毎年、同じ時期に、同じように野菜作りをするのですが、毎年、結果が違います。簡単そうに見える種類の野菜でもそうです。自然を相手にするということはこういう事なのですね。大きな自然。ちっちゃな人間。


◆今月の山中事情126回−榎本久・宇ぜん亭主

−田舎人−

東京を去って早十年余となった。壮年から老人になってしまった。東京を去るということに当初はそれなりに落胆をしていたものだが、一方では闘志もあって、いつの間にやらいろいろの人と交わりを持つ出会いがあり、落胆を忘れてしまっていた。しかしその十年の間に心をへし折られたことが我が身に起き、エネルギッシュに生きることはもはや出来なくなり、余生という表現を使うごとくに日々を送っている。
先般、古磯氏の招待により国立新美術館での「行動展」に、久し振りに上京した。馴れ親しんでいた東京だった筈だが、もう池袋駅で気圧され、身体が拒否反応を示すかのようになり、完全に田舎人間を呈してしまった。騒音、におい、スピード、閉塞感に敏感すぎる程反応するのである。それは病身ゆえからかも知れないが、やたら落ち着かなくなっていたのである。そういう東京に四十年も住んでいたのかと改めて思