★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.163

そろそろ梅雨明けになるのでしょうか?
この辺り、今年は雨が多い様で、畑の雑草が半端ではありません。

先日、「今月の山中事情」でお馴染みの「宇ぜん」に寄り、5月発信号で紹介された“鯖唐揚げカレー”をいただいて来ました。
“カツカレー”のサバ版といった趣ですが、鯖とカレーの相性もよく、これがなかなかいける味でした。私個人としてはカツカレーよりもこの鯖唐揚げカレーの方がいいですね。
更に“鯖の榎本”と呼んでもいいと思いますが“鯖の味噌煮”がこれまた素晴らしい!!
優しい深みを感じさせる一品です。
機会がありましたら是非食してみてください。
宇ぜん:秩父市黒谷370-6  Tel.0494-26-6370

さて今日は参議院議員選挙の投票日です。

憲法隠し”に徹した安倍政権。しかし新聞予想では、憲法改正が空言ではなくなる恐れ・・・岐路に立つ。


○福島の友人より
東京電力福島第一原子力発電所爆発事故のその後−

●東電の隠ぺいがまた出てきました。
 6月21日に東電の広瀬直己社長が会見し、東京電力福島第一原発事故時、当時の清水正孝社長が「炉心溶融という言葉を使うな」と幹部に指示したとされる問題で、「口止めに当たるような指示があったことは痛恨の極み。社会から隠ぺいととられるのは当然だ」と隠ぺいを認め、謝罪しました。
 この調査は、東電から依頼を受けた第三者検証委員会が、清水社長指示の背景には官邸の指示があったと推認としています。当時事故対応に当たった菅元首相や枝野元官房長官は関与を否定しました。そして、この問題の「官邸指示は再調査は考えていない」との回答が東電から出されました。東電から第三者検証委員会に検証を委ねて「隠ぺいがあった」 「官邸の指示があった」と言っておきながら、それを最後まで検証して責任の所在を明らかにしない東電のいいかげんさは福島県民や関係者を愚弄しています。
 公的機関の事故調査委員会や内輪の東電事故調査委員会が調査報告をしましたが、東電の事故対応は完全に明らかにされていません。100%対応を明らかにしていればこの問題は出なかったのではないでしょうか。ここに意図的なものを感じざるを得ません。まだまだ隠ぺいされている事項が沢山あることはこれらの対応で明らかです。新潟県技術委員会はこの問題を「疑問に答えておらず、国民を愚弄するものだ」と批判しており、検証できなかった問題については新潟県と東電が新たにつくった合同検証委員会で検証すると言っています。新潟県は一貫して、福島の事故が納得いく報告がされないうちは新潟県原発再稼働はしないと言明しています。
 福島県原発周辺市町村はすべて批判しており真相究明を求めています。6月28日には東電の株主総会があり、東電の社内にある隠ぺい体質に厳しく批判がありました。この時期にこの問題が出ることは、参議院選挙を有利にしようとしている輩がいることは確かですね。

原発事故当時18歳以下を対象にした甲状腺がん検査の再検討
 7月3日に福島県小児科医会は、東電原発事故の健康影響を調べるための県民健康調査のうち、原発事故当時18歳以下を対象にした甲状腺がん検査の再検討することを医会総会で声明を採択しました。
 同医会では、検査によって甲状腺がんやがんの疑いと診断されたのは3月末で172人であることも報告しています。県の検討委員会は「現時点では原発事故の被爆の影響とは考えにくい」としています。しかし、比較の差はありますがチィノブイリ事故後を見ても明らかに甲状腺がんが多くなっています。因果関係が明らかでないというと、過去の公害病と同じ轍を踏むこととなり、解決は長期になりますので、ぜひ今までの知見を結集し今後のことを考えてほしいものです。
 また、原発立地市町村の空間放射線線量は高い地域がまだあり、帰還する若い人達を考えるとぜひ対策を講じていかなければなりません。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.163》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−初夏の夜の夢、科学者と小説家と作曲家のコラボレーション−

この大空には30億個の銀河があり、一つの銀河には30億個の星屑があると言われている。それら全てが138億年前に起きた只一度のビッグバングから出来たものらしい。どんなに少なく見積もって、それぞれの銀河に地球のような惑星が一個あるとして、この宇宙に30億個の地球があることになる。我が地球に住む人口が現在約72億だから、地球らしき惑星の数は地球人口の半分弱であり、人間らしき高等生物は約72億X30億=?
しかし、ビッグバングで出来た宇宙それ自体が一個しかない、という確証はない。ビッグバングが30億回起きて、30億の宇宙が存在するかも分からない。我々は只知らないだけなのか、又は知る由も無いのであろう。質量があるところには重力があり、その重力(又は引力)は波として存在すると最近分かったようだ。勿論音も波であるが、耳で聞くためには振動する空気や物体が必要だ。その物体には質量があるので、そこにも重力が作用している筈だ。重力の波と音の波は影響し合わないのだろうか。光が波であることは、大分前から分かっている。光の波は、微量ではあるが質量のある物体が波状に移動することらしい。そうするとやはり物体が波の形で移動するのだろう。質量のある物体、重力、音、光、等は、全て波を共通項として存在している。まるで総合芸術のオペラが音符を媒体とし視聴覚的に結ばれているのに似ている。
「波」と「音符」を近付ければ宇宙とオペラが近くなり、科学と創造の世界が親しくなって協力し合えるかも知れない。

大宇宙の中には小宇宙が沢山あり、我々のいる宇宙は、小宇宙の一つに過ぎないと言う。小宇宙には限界があるが、大宇宙には限界は無いのだろうか。更に、大宇宙が沢山集まっている超宇宙があってもよさそうだ、と想像したりもするが、そうなると限(きり)が無いから、適当にこの辺で終止符を打っておこう、と言うことなのか。これらから大宇宙を定義すると、「限界の無い宇宙」になるような気がするが如何か。しかし、どうも納得がゆかない。何処かで誤魔化されれいる様な気がする。
子供の問題が、家族の問題となり、国家の問題となり、地球の問題。。。。明らかに無理がある。宇宙もこれと同じことなのかも知れない。差し当って現在の我々の生活に影響してこなければ、一応ここらで止めておこう、と言うことか。もし、そうなら何と非科学的な態度だろう。これでは高等教育を受けた意味が無いではないか。ご都合主義のミーハーもいいとこである。我々の文明は、実はそもそもそれ程高等な文明ではなく人類を買いかぶっているのかも知れない。しかし、私は、我々人類が築いてきた文明が、ご都合主義文明であるとは、どうしても考えたくない。

分からないことは分からないとはっきりと表明して、出来得る限り、何が分からないのかもはっきりさせたいが、当然何が分からないのか分からない場合もあるだろうから、その時はそう言って貰いたい。科学者は一般に証拠がない想像の世界の事は余り話したがらない。しかし偉大なる発見が、往々にして想像(創造)の世界を証明しようとする努力の積み重ねで報いられることをよく知っている。アインシュタインの創造力と彼の物理学的提案を証明するために多くの素晴らしい科学者が誕生した。このような傾向は進化論を含めた歴史・人類・考古学でも同様である。学者の中には、猿と人類の間のミッシング・リンクに就いて強い信念のある想像的回答を持っている人もいるに違いないが、学問の世界は、想像(創造)の世界と一線を画していて想像で物を言ってはいけない、と教えられているようだ。その点、作家や画家などは、芸術家の創造的特権を相当自由に使って、想像の世界を逞しく描いている。

事実と不十分な証拠と未解決問題(事件)があれば、探偵小説が書ける。しからば、コナン・ドイルアガサ・クリスティが、宇宙についての事実と不十分な証拠と未解決問題を与えられて、どのような反応をするだろうか。興味深々である。これが可能であったなら、科学の世界に大いに貢献できたのではないかと想像する。少なくとも多くの科学者が刺激を受けるような発言が聞かれたことであろう。今からでも遅くない。東野圭吾塩野七生、等々の想像力旺盛で研究者的思考能力がある作家達に挑戦してみたい気がする。
物理や化学の世界の迷宮入りしたような課題を掘り起こして、そこから小説家たちが必要とする情報を与え、想像力と創造力を大いに発揮してもらい、謎解きをやってもらうのだ。作家達にやる気を起こしてもらえれば、科学の未知の分野への貢献は計り知れないと考える。作家と科学者とのコラボレーションを提案しているのである。このような学際的コラボレーションによる想像・創造性を発揮する活動を後援する財団はないものか。先ずは提案してみなけれなければ分からない。
地球の深海の海底で恒常的に湧き出ている硫黄の色や、酸素なしの環境で、硫黄の中でしか生きれない微生物を研究している微生物学者と、宇宙の恒星で硫黄が燃焼している色との関係から推測して、地球と同じ微生物がその星にいるかも知れない、と考えて、深海の海洋微生物学者と天体物理学者とがコラボレーションしている、と言う話しを聞いたことがある。夢のある現実の話である。

以上を纏めると、天体物理学者と微生物学者や作曲家と小説家が共同で、新しい分野の研究や創造を始めて、科学愛好家も、音楽愛好家も、小説愛読者をも巻き込んで、即ち殆ど全ての人を巻き込んで、作曲、小説創作、創作科学などの総合夢物語を、テレビのイベントとして拝聴視してみたい。この大風呂敷は、無視できない文化の風呂敷である。これが私の初夏の夜の夢である。真夏になったら、もっと大きな夢をみたいものだ。
2016年5月8日 夜空の星屑を見上げて クレムソン大学名誉教授 岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/


−さざえ堂−

先週、機会あって会津若松にある通称“さざえ堂(円通三匝堂…さんそうどう)”と呼ばれている仏堂を見てきました。非常に特異な仏堂建築ですので紹介したいと思います。(写真貼付…見下ろし外観写真の出典はfarm4.staticflickr.com)

会津白虎隊の墓所のある飯盛山にありますが、かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、江戸後期の1796年に当時の住職であった郁堂が建立したとのことです。当時は阿弥陀如来を本尊とし、斜路に沿って西国三十三観音像が安置されていたという巡礼用の建物です。今風に言えば、江戸時代の庶民の為の“簡易巡礼装置”とでも言っていいでしょうか。

六角三層構造(高さ16m)のこの建物の建築的特異性は、平面形状が六角形で、六本の円柱の心柱(通し柱)と同数の六角柱の隅柱(通し柱)に梁を渡して作られた“二重螺旋”状の斜路にあります。
唐破風屋根の付いた正面から入ると、右回りの螺旋状の斜路があり、それを上っていきます。頂上部分には3メートル程の太鼓橋が架けてあり、それを越えると今度は下りの左回りの斜路になって背面の出口へと導かれる仕掛けです。斜路に沿って内側に西国三十三観音像が祀られ、一巡りすると巡礼を終えたことになるとのこと。斜路が二重螺旋になっているので上っていく人と下りる人が出会うことはありません。つまり、上ってきた斜路を折り返して下るのではなく、そのまま進むことで下りの斜路に導かれます。テレビで見て知ってはいましたが、不思議な空間を体験させられました。

それにしても、この難しい構築物をよくも木造で作り上げたものだと感心させられます。世界で唯一無二の木造二重螺旋建築ですが、どの様に設計図を作り、相当の技術の宮大工が関わって作られたと思われますが、内側と外側の微妙な寸法の違いやねじれを考慮に入れ、どの様に作っていたのか・・・よくぞ作り上げたものだと驚かされました。
重要文化財に指定されてはいるようですがいささか保存状態に不安が残りました。400円払えばいつでも誰でも入ることが出来ますが、近年の調査で「螺旋構造建築による構造的歪みによる“抜け出し”という現象(柱と梁が外れた状態)が多く見受けられた」との報告がネットで見られ、これまでの拝観管理のあり方を見直す必要があるのではと思われました。江戸時代の貴重な木造建築ゆえ、大事にしたいものです。

◆今月の山中事情123回−榎本久・宇ぜん亭主

−上っつら宗教論−

日本人の宗教観というものはどうかと考えると雲を掴むような感じがする。無宗教と答える人がかなり多いのだ。と言いながら人生のセレモニーを行う場合は平然と宗教施設を利用して執り行う。まず、教会という洋式の場で俄(にわか)信者となって、恭しく結婚式を行う。招待客も賛美歌の歌詞カードを渡されうたわなければならない。子供が生まれれば戌の日に神社に出向き、幸多きことを願い、不幸にも亡くなれば仏式にて儀式が執り行われる。
この違和感を不思議に思わず人生の行事をこのように捉えている人がたくさん居るのであります。そこには「確」たる宗教心のもとで行われたと言うより、「形」を重視した「業者」の意向に添ったもののように見受けられてしまう。年に一度たりとも行ったことのない神社が、パワースポットだと聞いただけで、そのことの意味も理解せず、三々五々大挙して押しかけ、突然信仰心の芽ばえる者になる。
宗教とはそんな単純なものではなく、学べば学ぶほどその奥の深さに心身強固なる者以外踏み込む世界ではないのだが、その場所で付和雷同的にその気になってはいまいか?

昨今のそれは宗教とはかけ離れた異質部分が突出し、それがもてはやされているとしか見えない。加工された木片をご神木と言って結構な値段で売られたり、ガラス玉や石の玉がご利益があると売られていたり、宗教の教えがその物を得ることにあるのかと思ったりしている。もっともこの国は神の国とのこと故、すべてのものに神が宿るとのことによれば、そのことを理解出来るが・・・。
ひるがえって、私を見れば、おおかたの人が持つ宗教・観だと思う。これ迄前述のごとく、業者の意図のままに行って来た。それが宗教であると教わったような気にもなったが、果たしてそうだったのかと怪訝な気持ちでいる。儀式と宗教は別のようでもあり、多宗教が混在しているこの国ではやはり私の気持ちもあやふやだ。
その環境にある者以外、その他の者は恒常的に宗教と対峙することは少なく、対峙しているとすれば「お祭り」が最も分かりやすい。それが、この国の宗教を思う実情ではないだろうか。宗教の本質は結局能動的に学ばない限り知ることは困難だ。西洋に於いては、一神教であるが故国民に宗教は日常のこととし、キリストをあがめ、その威光を信じていることによって、あやふやではない、宗教観が成立しているのではないだろうか。
多宗教国家日本は、西洋の宗教行事であるクリスマスが、我が国に於いて、正月と肩を並べる国民的イベントの一つになってしまった。一方、とりあえず、仏教国であるにもかかわらず、お釈迦様のお祝いを国民がこぞってやっているかと言えば、そこに携わる人のみのようである。
しかし、それゆえ、どんな宗教も受け容れる大きな心、深い心を持つ国のようであり、その意味で言えば、日本は宗教で世界のリーダーになってもおかしくないのだが・・・。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「遊 in Green」です。
  サイズは 21cm×29.7cm です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。