★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.158

如月です。
暖冬の予想ですが、例年とあまり変わらぬ日々です。
白州では先日の残雪がまだまだあちらこちに。
1月の40cm積もった時の写真を貼付します。

以前にも書きましたが。、杜市では太陽光発電施設問題が拡がっています。
人手の無くなった農地や樹林を伐採して、業者任せの太陽光発電施設があちこちに拡がり、反射光被害、自然破壊、景観破壊が進み、残すべき環境に重大な影響を及ぼすようになり問題化しています。
自然エネルギーの利用と自然環境保存の問題を如何に共存させることが出来るか。
原子力エネルギーに依存しない社会をいかに構築していくか。

○福島の友人より
福島の原発事故の現在の一部をお知らせします。
平成28年1月30日に「福島原発刑事訴訟支援団」の発足集会が開かれました。これは元東電幹部に対する検察審査会が強制起訴をしたことを受けて裁判を見守り、内容を広く発信するために組織されたのです。
なぜ今組織されなければならないのでしょうか…?
事故の原因究明がされず、誰も責任をとらない、真実は何か、分からないままに賠償や支援策は期限が迫り打ち切りの報道がされてきています。
しかし、県民は日常の生活に追われ、気になるがこの問題にばかりかかわっていられない。
このようなことが続けば国民の意識から薄れ「風化」につながることとなります。
また、事故当初から今日まで事故に対する県民の高い意識の人達が勉強し、問題解決に取り組み県民を引っ張ってきましたが、なかなか進まない、先が見えないことに意識の低下につながっているのではないでしょうか。
全県民、国民は、この事故のことは忘れてはならないのです。忘れれば必ず同じ事故につながるのです。すでに原発の再稼働が始まっているのです。
ですから事故の真実究明を伝える人、組織が必要だと思います。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.158》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は松島浄さんです。前回の続きです。

吉本隆明の書評論−

前回のつづきです。今回は1980年代の小説論である。ところでわたしは吉本隆明の本の中では次の3冊が重要だと思っている。『言語にとって美とはなにか』『マス・イメージ論』『日本語のゆくえ』の3冊である。
今回紹介している講演も『マス・イメージ論』の系統に属する論考であるが1980年代のわが国を代表する作家として村上春樹が取り上げられている。ここでのくくりは「健康な文学と健康でない文学」であるが前者の例として村上春樹の『国境の南 太陽の西』が紹介、分析されている。この作品は簡単に言ってしまうと「一夜の性交渉をして夜が明けてみると相手の女性がいなくなっている」というすストーリーで、ベストセラーになった『ノルウェイの森』によく似た話で村上春樹の得意なテーマである。
吉本の不満はこの作品が物語としても単調であり、性交渉の場面しか見場がないところである。それと「作者が自分のいままでの作品の愛読者についてひとつのイメージを持っていて、そのイメージに作者もすがりついていて、
作品をこしらえている」ところである。それを吉本は「自己模倣」という言葉で批評している。
私の理解では、1980年代の村上春樹はベストセラー作家である故の呪縛に支配されており、マス・イメージに乗りつつ、マス・イメージに復讐されているということである。
この「自己模倣」という概念は一度文壇なり画壇なりに注目され、評価された作家が陥る陥穽であるといえる。自戒すべき事柄である。 (この稿おわり)



◆今月の隆眼−古磯隆生
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−たかが・・−

昨年のことになりますが、ある画家の個展に行った時のことです。絵に関した様々な話をしていた中で、その画家は「“たかが”絵ですが毎日描いています」とさりげなく語りました。その後に続くと思われた「“されど”絵です」を敢えて押し殺した様でしたが目が語っていました。絵に生きる人の思いが込められていました。
この“たかが”という言葉を私は昔からずーっと気に留めていました。40年以上も前のことになりますが、大学を出て丹下健三の事務所に入った時、事務所の先輩から「たかが建築、されど建築」と諭されました。以来、この言葉が妙に頭から離れなくなりました。

私は、日常的にこの“たかが”という言葉を使うことはあまりありませんが、ただ気持ちの中では常に意識するようにはしています。
「たかが」という言葉は使い方によって様々な意味合いをもちます。気張らない、気取らない、自然体で、と肩の力を抜く思いで否定的ではない意味合いで使うこともあれば、一方で、否定を意図した使い方もあります。その場合は往々にしてその後に続くべき“されど・・”が抜け落ちます。
わたしは“たかが・・”の後の“されど・・”にその人の思いをむしろ感じ取りたいと考えています。

我々は往々にして「独りよがり」、つまり「独善」に陥りやすい。特に、建築を含め、クリエイトする分野にはこの「独善」が付きまといます。勿論、この「独善」が無ければ物事は始まらない訳ですが、問題は「独りよがり」になってはいないかということです。
《 個別性から普遍性へ、独善性から一般性へ 》この命題は常に我々に付きまといます。
“たかが・・、されど・・”は“たかが”の否定的な面に重きがあるのではなく、対象を一度相対化して見ることを通して“されど”とその意味、価値を再認識、再構築することだと考えています。このことは“日常”の中で「独善」に落ちいることを避ける一つの視点ではないかと。

10年程前から絵を描くようになり、最近は美術関係の方々と接する機会が増えてきました。その中で漠然と感じることは、建築界よりも美術界の方が「独善」に陥りやすいのかな?ということです。建築の場合は、確かに、独善的な設計をする建築家はいます。しかし、建築の場合、一定の法律があり、一定の計画基準があり、具体的な様々な他者が相手になりますから、様々に歯止めがかかる事になります。
その点美術には歯止めは無いように思います。その分「独善」に陥りやすい環境なのかなと感じています。が、クリエイトする分野では特に「独創性」が求められるだけに「独善」と「独創」の見極めが難しい。
「独善」に陥っていないかどうかの判断は自分ではなかなかつきにくいのが現実です。その為に時々“たかが・・、されど・・”の視点で己に問いかけることは必要かなと考えています。

“たかが政治家”の‘クセ’に威張りおって・・と言いたくなるような政治家が昨今登場しますが、“されど政治家”の矜持を持って励んでいただきたいものです。



◆今月の山中事情118回−榎本久・宇ぜん亭主

−キテレツ老人−

寒さは暑さと同じで、健康の不安を煽る。そう思ってはいなくとも、「老人」のカテゴリーに入れられている私も、いつの間にやらなんとなく「老人」であることを認識し、その寒さに耐えている。元気な「老人」を見かけはするが、それとて、精一杯己を鼓舞しているだけで、内実は一様だ。多くの「老人」はそれ相応の過ごし方しか出来ないのが、現実であろう。その中にあって、同級生や友人の死に直面する機会が増え、次は自分の番かという自覚がどこかにあり、私のように健康に不安を持つものはただ戦くのみだ。
「老人」とは人生のすべてに達観している者の総称のように思うのだが、いたずらに馬齢を重ね、人生の訓練をおこたって来た私ゆえ「老人」になりきれず、今、そのツケが廻って来た。そういう精神構造の中にあっても「老人」なりの気持ちの高まりを求めたりしてはいる。しかし、瞬時はあってもそれを持続させることは至難だ。多少なりとも生きる楽しみを企てるのだが、未だ暗中にいる。
さて人生のピリオッドなるものは喜ばしいことなのか悲しいことなのか総括など出来ないが、その両方なのだと思えばそう憂うことでは無いが、どうしても悲しいことに比重が置かれてしまう。
古来より、このことは哲人も権力者も悩ましい問題ととらえ、私ごとき者が論じるのはおこがましく思うが、誰が論じても平等に与えられている問題ゆえ、大哲学者や権力者と同列に居ることにする。
権力者は不老不死となるものを探させたり、造らせたりしたが、それは未達だった。それゆえ今日まで権力者の欲求は満たされないでいる。むしろ権力者であろうとも、この世を去らねばならない現実は、過去の彼らより明白に感じている筈だ。
しかし、医学界では目を見張る勢いで研究が進化している。命を救う研究によって、不老不死が限りなく近づいて来ている。死は悲しいという定義になっているが、命が百年でなく、二百年、三百年と可能になるなら、その悲しさに対する考え方も変化し、尊厳を含めた価値観も変わるのかも知れない。このことが早速明日から可能だったら人生はもう少し明るく楽しいものだろうけれど、現実はこれまでと変わらず、不安と厳しい社会の情勢の中で暮らさねばならない。

「老い」についてタイムリーな記事があった。
能、狂言から「老い」を学ぶ。詩人の高橋睦郎氏は、「実は、老いと向かい合いながら、うまく生きることを編み出してきた民族が日本人だった」と話す。狂言「枕物狂(まくらものぐるい)」の百歳超の男性が抱く情欲、性欲、愛欲は「人間の根元的な欲望で、年老いても失うことがない」と解説する。能や狂言はいち早くこの一番大事なテーマを物語にしているという。しかし現代の日本社会では「いつの間にか日本人の精神が〈 敬老 〉から〈 嫌老 〉になってしまった。誰でもいつかは老いて死ぬということを今の人達は忘れがちだ」と指摘。その上で「老人」の知恵を学び、大切にした方がいいと提唱する。「枕物狂」や能の「鸚鵡小町(おうむこまち)」の演目は「老い」を表現しているが、その極限には真実がある。それに照らして個々が自分の老いを見つめてもらえる機会になればと期待している・・・東京新聞より。

将に私にあてはまる記事である。能、狂言には造詣がなく、今後何かの機会でそのさわりでも会得したく思う。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は若かりし頃の鉛筆デッサンです。
 高校生の時、美術の時間に描いたものです。
  お楽しみ下さい(写真貼付)。