★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.157

新年明けましておめでとうございます。
白州は暖かく晴天に恵まれた元旦を迎えました。
本年もよろしくお願いします。(写真貼付)
2001年から配信を始めました「Ryuの目」も16年目に入りました。
どんな話題でも結構ですので、読者からの話題提供をお待ちしています。

さて、昨年は立憲主義、民主主義に不安を覚える年でした。
沖縄の人々を見ていると、“粘り強く”が求められる一年になるように思われます。
世界は様々に緊張の度合いを高めてるようです。
こういう時は“妙な”ナショナリズムが首をもたげてきます。
要求される冷静さ!


○福島の友人より

福島の原発事故の現在の一部をお知らせします。
11日は月命日です。
遠くにいる人たちは「そうか」くらいしか思わないのかもしれませんが、福島県民、とりわけ双葉郡の市町村民は何も目に見えて進まないことに、いらだちとあきらめを感じているのかもしれません。
今日の地方紙には、津波によって海に流されていた人骨の一部があがり鑑定した結果、遺族のもとに帰った旨報道されました。まだまだ遺族に戻っていない人たちの遺体・人骨があるのです。
またここ何日かは、避難地域に入って除染している作業員が、作業で身に着けていたマスク、作業着、ヘルメット等々を帰り道のコンビニのごみ箱に捨てている報道もされています。東京電力共同企業体に任せて知らんふりです。
避難地域の住民の帰還についてもたびたび報道されていますが、楢葉町は避難が解除されても7500人いた住民が350人しか帰還していません。これが現状です。県民の不安は多岐にわたり、これからも多くでるものと思われます。
東京電力は時の経過とともに事故を忘れることを願っているのでしょう。また、賠償金も少なくすることに知恵を絞っているのかもしれません。
風化させては絶対ダメです。なぜ、政府出資の団体をつくり優先的に問題解決する機関を作らないのでしょうか。国の機関だけでは縦割り行政で絶対ダメです。ワンストップの強い権限を有する機関しかできません。
また状況をお知らせします。


では《Ryuの目・Ⅱ−no.157》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は松島淨さんです。

−印象批評とは−

最近、私が読んだ本に吉本隆明の『芸術言語論』というのがある。これまでの著作集にも未収録の講演を収集したもので、先日全巻12巻が完結したばかりである。わたしのような彼の著作をすべて読みたいと思っている者にはありがたい企画である。
今回はその最終巻に収録されている「新・書物の解体学」という講演を紹介したい。1992年に前橋市の書店でされたもので、どこにも収録されていないので、作者の手が入っていないものである。
サブタイトルは「書評のあり方」である。彼によると、同じ本を百人が繰り返し読むと、さいごには共通の感想になるという。つまり作者がその本で何が言いたいか、作者の潜在的なモチーフに到達するというのである。
しかし普通の書評は「だいたい書物のなかに非常に印象深いいくつかの個所をつなぎ合わせて、この作品はこうだと言っているのが多い。」
だが批評というものは作者のモチーフを読み取るような、潜在的なそれに気づいてしまうような読み方をするのである。
絵の講評会でも同じであって、部分的ないいところを指摘するだけで終わっていることが多いものである。批評というのは難しいものだということである。
またこの続きを書きたいと思っています。
 
松島淨氏の著作
  ・「沖縄の文学を読む/摩文仁朝信・山之口貘そして現在の書き手たち」 
                                        脈発行所
  ・「詩と文学の社会学」  文学社


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−豊饒−

昨年3月、宇都宮市にある大谷石の地下採掘場跡に出かけた折、日光東照宮にも立ち寄りました。杉樹林に囲まれた境内にはかなりの杉花粉が舞っていました(山梨に移住してから花粉症が消えた私でしたが、さすがにくしゃみが出始めました)が、にもかかわらず大勢の観光客が訪れていました。外国からの観光客も結構見られます。日本のバロック建築として名高いこの東照宮は、その豊かな装飾性、色彩で目を惹引きますが、一度は見ておくべきと長年思っていましたので、やっと実現したことになります。

「建築」を始めた若い頃は、実はこの東照宮にはあまり興味を抱いてはいませんでした。写真で見る限り、むしろその過美な装飾・色彩に“えげつなさ”さえ感じて敬遠していました(時代はシンプルなモダニズムを求めていました)。ですから、古建築を見る場合は京都、奈良を中心に“枯れた”雰囲気の寺院建築、庭園を見て回ることに集中していました。今もこの京都・奈良の古建築を見て回ると心の落ち着きを感じます。が、この10年、絵を描く様になってから多少変ってきました。豊かな色彩に興味を抱くようになっていました。もともと琳派の絵(特に宗達光琳)や浮世絵には興味を抱いていたのですが、この数年とみに江戸の文化に興味を持つようになり、最近は専ら田中優子氏(現、法政大学総長)の江戸文化に関する様々な著書でその文化の雰囲気を感じ取っている次第です。そんなことで、この日光東照宮には以前とは違って、その装飾性、色彩を実際に見てみたいと思うようになっていました。
実際に目の当たりにした東照宮(写真貼付)は、写真で感じていた“えげつなさ”は感じさせず、むしろその装飾性、煌びやかな色彩の中に独得の品格を備えており、違和感なくその“豊饒性”に魅き込まれていました。岩絵の具の極彩色である朱、緑青、群青、黒、白、黄土や金(金箔、金粉、金泥)を使った装飾はなかなかのもので、江戸文化の“豊かさ”を物語っていました。残念ながらその代表である陽明門は平成の大修理で姿を見ることは出来ませんでしたが、その煌びやかさは想像されます。
そう言う訳で、豊かで煌びやかな色彩に取り囲まれた空間にしばし身を置き、他の寺院建築の空間では味わえない“豊饒”を感じることが出来ました。水墨画や禅のストイックな世界観とは異なった、ある種の“禁欲性”からは解放された“豊饒”は、江戸の伸び伸びとした感性が感じられ、商人・職人が切り開いていった文化の多様性を意識させます。

◆今月の山中事情117回−榎本久・宇ぜん亭主

−お正月様−
「お正月様いかがしますか?」
正月に様を付けて「お正月様」。その札を売りに来た人から初めて聞いた時、少年の頃に抱いていた「正月」に対するうきうきしたものがよみがえった。
ここら辺りでは親しみを込め正月をそう呼び、神社の札を売り歩くのだ。正月!と紋切り調でなく、まるでお正月様という人がいるようなほっこりした語調が少年の頃抱いていたそれを思い出させたのであろう。札を売り歩く方は村の人であり、順番で皆その役をやらねばならない。その時は「正月」という行事に敬意を込め、その役を果たさなければならない。いずれ私にもその役目が廻ってくる。

−夢−
予期せぬ青年より来た便りは希望に満ちあふれていた。若い人の特権であるその便りの内容に、私は数倍の期待を持った。しかし彼は果たして、私の前に又現れてくれるのであろうか。過剰な期待を持ったのだが、それが叶わなかったらどうしよう。なにしろアフリカに居るのだから・・・。結論が出た。予期しなかった時に戻ればいいと。

−疎通−
家族の風景をあまり持ち合わせていない。写真も撮らなければ、絵も描かない。手紙も、電話もほとんどしない。と言って仲が悪いわけではない。確たる理由もなく漫然とそうなっていた。あえて言えば男ばかりだからか。ところが私も含めて、皆思い思いのところに住みついて、被写体を得ることが出来にくくなった。ならばそうしておけば良かったと、後悔のようなものがあったが、しょっちゅうまとまっているより、このままでもいいやとなったり、すこし寂しいかなと思ったりして心がゆらいでいる。

−ヘタン調−
めったに音楽に興味をしめさないのだが、心をひびかせたり、ふるわせたりする曲を聴くと、なぜ悲しく、淋しくなるのだろう。なのに一旦聴き始めたら、何度も、何度でも聴きたくなる。その曲は一体何で知ったのかを辿ると、映画だったりドラマだったりして、そのすべてがよみがえる。しかし元来ミーハーゆえ高尚なものにはとんと心をふるわすことが出来ないのは困ったものだ。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は“大地の目覚め”シリーズです。
  サイズは21cm×29.7cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。