★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.156

早、師走。
いつものことながら、一年が早い!!
今年は絵の発表の機会が、お陰様で増えました。
多くの方に観に来ていただきました。感謝申し上げます。
来年もますます意欲的に、制作に挑みたいと思います。

さて、世界は殺伐として来ました・・・負の連鎖。
様々に、“想像力”を発揮することが求められる時のようです。

この「Ryuの目」では、あまり政治的なことに関わる発言は控えようとの当初からの思いがありましたが、昨今の安倍政権の強権振りには、さすがに黙っていてはまずいと思うようになりました。
原発、安保法制・・・民意を、民主主義を忖度しない強権政権。
今度は沖縄の人々の想いを力づくで踏み潰そうとする・・・権力の横暴。
代執行訴訟に対する翁長知事の陳述書全文を添付します。
長文ですが一読すべき内容が盛り込まれています・・・是非一読を。
沖縄の人ばかりに負担を強いる、今の日本の安保政策。
アメリカ一辺倒でいいのか。
この国の安保政策のあり方を問い直すべき時期が来ているのではないか。
一人一人の“想像力”がキーワード。

この一年お付き合い下さいまして有難うございます。
来年もよろしくお願いします。
どうぞよい年をお迎え下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.156》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−銀渦−

大宇宙に流れるように広がる「天の川」、確かに砂粒のような星屑を川に例えて眺めればそう見えてくる。部分的には波を打っているようにさえ見える。しかし銀河そのものが何千億もあるといわれている宇宙を天体望遠鏡で写した写真で観る限り、それぞれの形は寧ろ「渦」に似ている。まるで台風か瀬戸の渦のようである。銀河(が)ではなく銀渦(か)だ。
宇宙には銀渦系が約3000億個あり、各銀渦には3000億個の星があるそうだ。地球のような惑星が各銀渦に一個あるとすると、宇宙には少なく見積もっても3000億個の地球のような惑星があることになる。そこに住んでいる人間に相当する生物が、特に銀渦についてどのようなイメージを抱いているのだろうか、大いに興味がある。
例えば、地球をA銀渦のa惑星として、もしB銀渦のb惑星(地球によく似た惑星)の高等生物(人間のような)は人口増加や資源の枯渇化、所有欲、平和や戦争、生と死、宗教等々多くの課題と如何に対処しているのだろうか。a惑星(地球)では共産主義、民主主義、自由思想、統制経済、統制思想その他多くの試行錯誤の試みを重ねてきたが、どれも一長一短があり、未だに「これぞ」というものに巡り合っていない。なかでも一番民が主になっているといわれる民主主義にも一長一短があり、必ずしもそれに満足していない生物を人間と言うのかもしれない、等と私は考えてみた。逆に満足しないからこそ発明発見を繰りして進歩という変化をもたらしている、と考えることも出来なくもない。

私は建築家なので、建築を設計するときには、施主の意向を徹底的に聞き尽くし、敷地の環境に合わせながら私の思想を絡ませて形にしていく、というプロセスを経るわけだ。だから施主のいない建築設計は本当に難しい。完全な自由を与えられた建築家は、逆に施主がくれる筈の制限を、自分の建築思想と敷地環境などを相互に絡み合わせて設計方針を模索しながら構築していくことになるだろう。では、まっさらなC銀渦のc惑星に、国や、町や、住居環境を創ってもらいたい、と頼まれたら、どうすればよいのだろうか。人は、そんな夢物語のような空想は無意味である、と言うかも知れない。そうだろうか。今、平和や戦争反対を唱えている人達の言っているような平和はこの地球に存在したことがあるのだろうか。もっと厳しく言うと、戦争がなければ平和であると単純に考えているのだろうか。もしそうなら、それは、子供のたわ言である、と言わざるを得ない。この世の中には、戦争もなく、仕事もなく、食料も不足して、教育も十分に受けれない、そういう国が沢山あるのを知っているのだろうか。もう少し厳しく本質をつくなら、世界の資源が枯渇したら、日本の経済はたちどころに破綻するし、更に世界市場から締め出されれば、日本経済は立ち行かなくなる。その時点になっても同じことを叫んでいられるのだろうか。日本の平和は、世界にオンブにダッコをさせてもらえることが絶対条件なのである。資源や市場の安定は絶対必要な条件なのだ。この世の中は、まっさらな地球ではないのだ。まっさらな地球を与えられること無しに、自国の軍隊も無しに、世界的視野も持たないで、米軍の過保護の下に、ただ平和平和と叫んでも、世界では誰も振り向きもしないし、真剣に聞いてもくれない。
日本の素晴らしい歴史、伝統文化、芸術、技術、組織力、健全な精神、努力を惜しまない姿勢、等々は日本の誇れる世界の宝である。努力を惜しまない健全な精神には、命の尊さを知っているが故に、命を賭けるその時も知っている筈である。どうして、子供のようなオンブにダッコの平和コールを続けているのだろうか。世界の中の日本という観点から、大人の平和を探して、大人の提案をしてみてはどうであろうか。安倍首相ではないが、世界に目を向けた積極的平和思考が大切である。
他の3000億個の地球に似た惑星には、日本のような国があるかどうか興味がある。私の住んでいるクレムソンの真夜中は真っ暗で、夜空に星がよく見え、天の川の向こう側に3000億個の銀渦が見えているような気がする。宇宙の生成流転の歴史で、何億光年の宇宙の広がりは、未だに膨張しているそうである。地球も町も人間の皮膚も、そして時間さえも、全てが膨張しているのだ。資源も膨張しているのかもしれない。宇宙が膨張している限り資源は枯渇しないのかもしれない。但し宇宙時間の状態においてのみそうである。兎に角まだ3000億個の地球があるのだ。そうだ、人間の思想や人生の目的等は、まだまだ地方色が強い、ど田舎のような初期発展段階の未開的状態なのかもしれない。ああ、私はあと3000億年ぐらい生きたい。そうすれば、出来立てのまっさらな銀渦をデザインできるかも知れない。

2015年10月8日 ハリケーンで州の東半分が水浸しになった。しかし空を見上げている内に、ハリケーンが一気に渇水状態を解決してくれた利点に気がついた。でも水害地の支援には参加しよう。
銀渦県アメリカ市サウスカロライナ村の出来事なのだから。    岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
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−京都いち日−

10月の終わり、久し振りに京都に寄りました。目的は京都国立博物館での「琳派展」です。琳派のデザイン性に富んだ大胆な構図が惹きつけます。
前日の昼、大阪で用事を済ませ、夕食の後、夜京都に入り、“カプセルホテル”へ!30代の頃にカプセルホテルに泊まったことがあり、それ以来です。

デザイン賞を受賞したというふれ込みの最近のカプセルホテルはどんな具合だろうと興味津々で向かいました・・が・・いやー驚きました。人間の寝る空間とは思えない…多少期待した私が間違っていたのか・・・。効率性のみ重視の無機質宿泊空間。蜂の巣状に設けられたカプセルは2段10列ほどで、各カプセルの出入口は布製の手動ロールブラインド一枚。無防備な上に、イビキ、寝言、人の動き、すべて耳に入ります。お風呂無し。シャワーブース、荷物ロッカーは別の階です(狭いカプセルには荷物を持ち込めない…不便、不便!!)。
狭いコックピットで横になる感じです。昔のはもう少し人間的空間のイメージだったのですが・・。
こんな具合で、慣れない私は熟睡どころか度々目を覚ますことに・・完全睡眠不足・・これも経験かー??

翌朝、早めにホテルを出て、人々の行き交う朝の小路へ。仕事に向かう人、商売の準備にせわしい人、掛け合う言葉、雰囲気が何となく、如何にも京都らしい。
国立博物館では9時半開門・開館と言うことなので少し早めに着いておこうと思い、9時20分頃には正門に向かいました、が、何と平日にもかかわらず、すでに長蛇の列を成しているではありませんか。これには驚き、唖然としました。
これが東京でなら、予定を変え、午前中は他で時間を潰し、午後に再度行くとか、選択肢があるのですが、その日の午後の帰りの列車も決めてあったので、京都ではそうも行かず、我慢して並ぶことにしました。待つこと40分、やっと敷地内に入り、そこでまた20分待ち。1時間経ってやっと展示されてる会場に。

会場内も動きの悪い列が続いています。例によって列に並ぶことなく、全体をざっと見て廻り、どこにどんな作品があるかを確認してから、興味ある作品に近づきました。
俵屋宗達尾形光琳がやはり素晴らしい。今回は宗達の「槇檜図屏風」に魅入りました。写真では知っていましたが実物は初めて観ました。サイズが小さいのが意外でしたが、やはり素晴らしい。垂直性と水平性の単純で大胆な構図、全体のほぼ3分の2を占める大きな金箔の余白空間。シンプルな構成と余白が、観る者の想像をかき立て、無限の拡がりを感じさせます。
目玉のコーナーには俵屋宗達尾形光琳酒井抱一三者の「風神雷神図屏風」が並べられていました。個人的には俵屋宗達のがいいですねー。
久し振りに本阿弥光悦の楽茶碗を観ましたが、どっしりと座っていて、やはりいい。
江戸の、琳派や浮世絵ののびのびとして色彩豊かな表現は、水墨画とは別の位相にあり、時代の伸びやかさを感じさせます。

多くの人でいささか喧噪の場と化したこの京都国立博物館を早めに切り上げて、久し振りに大徳寺高桐院へ。わずかに色づき始めた、直截なアプローチはやはり絶妙(写真貼付)。人の殆ど居ない深閑とした空間を彷徨うことしばし。
すっかり気分も落ち着き、高桐院空間を満喫。賑わう京都の中で、別世界の様でした。

☆高桐院につきましては2004年10月発信の「高桐院」及び2007年10月発信の「晩夏の高桐院」で書いていますので、興味のある方は私のホームページの「koiso’s room」よりご覧下さい。
またはRyuの目ライブラリー: http://d.hatena.ne.jp/vivant/


◆今月の山中事情116回−榎本久・宇ぜん亭主

−終了−

間もなく平成27年も終わる。考えてみれば、このことを70回近く見て来たことになる。長いのか短いのかは解らないが・・・。
モノには始まりがあれば終わりがありて不思議ではないが、「終わる」ということはどこか淋しい。永遠に続くことはつまらなく、辛いと考える人もいて、ひとつの事象に見解が違うのは仕方ないことだが。JRや私鉄の電車の「ラストラン」に鉄道ファンが大挙駅に詰めかけ、その「終わり」を確認したり、名建築物の取り壊しにこれ又その筋のファンが押し寄せ、調度品等を手に入れ、その「終焉」を確認したり、テレビ、ラジオの番組「終了」に思いをはせたりする。そしてあれほど活躍したスポーツ選手も体力の限界を悟り、引退という「終わり」を宣言する。
惜しまれて終わることは、次への期待も与えているが、人間はともかく、機械類や構造物はその劣化に伴う危惧があるゆえ、「終わる」という選択は妥当だ。もちろん、それぞれの人の身近にもいろいろの「終わり」が日々散見され、悲喜こもごもだ。

ところが早く終わって欲しいのがある。イスラム国によるテロ行為だ。あの残虐非道な行為が、アメーバーのようにヨーロッパまで拡大した。どういう理由があろうとそれを認めるわけには行かないが、残念ながらあの恐怖に無手の者がさらされているのが現状だ。彼らがそうしなければならなかった理由はあるが、それに応えている場合ではなく、その挙に出ることを止めることが先決だ。
この泥沼からの脱却はあるのかは誠におぼつかない。憎悪対憎悪では終わりが見えないからだ。イスラム諸国の多くの町は瓦礫の町と化した。この惨状を「イスラム国」やその同調者は喜ぶべき姿と思っているのであろうか。彼らがもし、人間は崇高なものと思っているのならば、虫けらにも劣るこの争いを即刻終わらせねばならない。あまりにも無体だ。

さて本年一年の「山中事情」をお読みいただきましてありがとうございました。
拙文をつづり失礼いたしました。にもかかわらず、古磯氏は投稿を差し止めすることもなく続けさせて下さっています。おそらくはリハビリの慈悲を与えてくれていると思っています。
皆様佳き年をお迎え下さい。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
今月の一枚は11月21日から26日まで銀座のギャラリー風での「飄飄譚」展に出品した作品です。
「大地の目覚め/重奏」シリーズです。
明るい光を得た昼の世界、わずかな光しかない暗い夜の世界、一枚の絵がそれぞれで見せる趣の違を味わって下さい。
サイズは116.7cm×116.7cm(S50号)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。