★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.154

秋真っ只中。
私の周りの木々の色も変わり始めました。

「第70回記念行動展」及び「碧き空の音−15の旋律−展」は無事終了しました。
沢山の方に観ていただきました。有難うございました。
尚、第70回記念行動展の受賞作品は巡回展で観ることが出来ます。
私の作品も展示されるはず、です。
●関西大阪展
  大阪市立美術館(地下展覧会)…2015年10月14日(水)〜18日(日)
●京都展
  京都市美術館…2015年11月10日(火)〜11月15日(日)
●九州展
  福岡市美術館…2015年12月8日(火)〜12月13日(日)
●山陰展
  米子市美術館…2016年4月16日(土)〜4月24日(日)

ご都合のつかれる方、是非観て下さい。
受賞作の絵葉書をご希望の方はメール下さい。



民主主義、立憲主義、世論、を無視した法案が可決しました。
沖縄に於いてもしかり。
政治、政治家への不信感は根強いものとなった感がします。
自立した日本の外交・防衛を一人一人が考えなければならない時が来たようです。


○福島の友人より
東京電力福島第一原子力発電所事故について
先日9月5日、東電の事故による全村避難指示となっていた「楢葉町」が四年半ぶりで避難指示解除となり帰還になりました。全地域避難している7町村では初めてで、対象人数も最大規模となりました。しかし帰還したのはある程度の年配者がほとんどで、若い家族の帰還はごく少数であったと言われていました。
なぜ帰還する人が少ないのでしょうか・・・?。避難があまりにも長すぎた。避難しているところに仕事を見つけた。避難しているところに家を建てた。学校も避難地。
都市部の生活に慣れた。治安に対する不安。何よりもインフラ整備が遅い。山や山林の放射能の除染はまだしていない。等々たくさんの帰還を阻む不安があるからです。
東電の原発建屋周辺の井戸「サブドレン」から汚染水をくみあげ、浄化後に海に放出する計画が決まりました。一回目の放出が今月中旬と言いますからまもなくですが、本当にだいじょうぶなのでしょうか・・・? 
計画の要綱・要領を厳守するのでしょうか・・・? 
いままで、東電が過去の失敗を教訓にして出した方針が守られず、何かあれば隠してきた東電の体質があるのでサブドレン計画も心配です。魚に消費者の風評による悪影響は死活問題で、サブドレン計画を厳しく監視していくほかありません。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.154》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−奇跡−
人は、常に変化や驚きを求め、それに近い物事に出会うと、想像力を逞しくして、実際以上の出来事として説明したり記憶したりする傾向がある。司馬遼太郎歴史小説家は、実際に見てきたような嘘を書く、と述べている。読者が自分の想像力を掻き立ててくれるような創作を小説家に求めるからであろう。同様なことは、奇跡を行う神の存在を求める人々がいる限り、神物語の創作活動は続けられるであろう。超自然、超人間、超時間、超特急などの「超」を求めててやまないのである。天覧試合でホームランを打った長島茂は、これに近い興奮を観客に巻き起こしたのを記憶している方も多いと思う。
超現実派の画家サルバドール・ダリは、時間を止めて四次元世界を芸術的に超越しようと試みた。最近の若者は「超面白い」などと言って、物事を強調する際に「超」を頻繁に使っているが、これは明らかに語彙不足である。同様な日本語に「若さをもらう」とか「自分の試合をする」などというのも語彙不足であろう。科学用語の「超伝導」は「超面白い」と似ている。もしそれ以上の伝導物質が発明されたら何と言う積もりだろうか。大地震や火山の噴火は、人間を超越している神の怒りであり、オーロラや劇的な夕焼けは人間誰にでも感動をもたらす神がかりとも想える自然現象である。

さて、前置きはこの位にして、本題に入ろう。私には、そもそも、自分が奇跡の一部になりたいと言う願望があるみたいなのである。それは、逆に少しぐらいのことでは形式的な興奮はしない方なのだが、興奮すると大きいのである。
三日前の月曜日のことである。前日に買ったミカンの網袋の中の1個が腐りかけていたので、月曜の早朝、スーパーへ取り替えにいった。持って行ったレシートも見ずに直ぐに新しいミカンと替えてくれた。そのまま40分ほど運転して、隣町の自動車販売店の修理部門へ行った。ダッシュボードの画面に「チェックエンジン」と出たので調べてもらうためである。予約してあったので、直ぐに何処が悪いのか調べてくれた。医者のように色々な電子器具を繋げて調べていたが、排気ガスがフィルターを通ってテールパイプへ流れるそのコネクションのシールが古くなって痛んでいた、と言うことであった。部材はたったの$9.50だが修理費は$200ということであった。相変わらず人件費が「超」高いなと思いながら、修理完了までもう一時間待った。出来上がったので、何時ものようにサービス(無料)の洗車をしてもらっている間に$209.50 + tax を支払った。
修理部門は常時20台ぐらいの自動車が修理されていて、マネージャーだけでも5人いるが、その大ボスがやって来て、「岸本さんの自動者の記録を調べていたら、今日換えた部品(シール)は六ヶ月前に直したことがあるので、今回は無料です!!」。うわー、そういうこともあるのだ。「超」嬉しい。結局洗車も無料でしてもらったことになった。初めての経験なので、非常に嬉しいけれどもあまり実感がないまま次の目的地、洋品店へ向かった。
四年ほど前に買ったシルク製のズボンが、その日の朝、コンピュータの前から立ち上がった際に、何の前触れもなしに30センチぐらいの長さに渉ってギザギザに裂けたのであった。釘に引っかかったのでもなく、ボタンが椅子に挟まったのでもないのに起きたのであった。そのズボンを買った店へ持っていって、事情を説明した。係りの店員(私の知っている店員)はボスと話してくる、といってから、その前に同じシルクのズボンを探して着せてくれた。店員が戻っへてきたので、ボスと話した結果はどうでしたか、と聞いてみた。彼は、私がボスだ、と言ってから、今このズボンの裾を直してあげるからそれを着てお帰りください、と言った。
え?? 無料という意味だ。朝から、三軒続けて無料とは、話が良過ぎる。こんなにラッキーな日があっていいのかなあ、と自問自答しながらクレムソンへ帰ってきて、昼飯にピザを食べることにした。その店は、私が週に一度は来る店で、店員皆と顔なじみである。何時も食べるものが決まっているので、何時ものをお願いします、と言って席に着いた。しばらくして持ってきた請求書を見て驚いた、何時もの三分の一なのである。さすがに気味が悪くなってきた。行く先々の店が連絡し合っているかのようだ。又は何かの前兆か。
友達に一部始終を話したら、さすがに驚いて、そんな話を聴いたことがない、といって、私にドアを開けるときや、運転するとき、また交差点を渡るときには特に注意したほうがよい、と言ってくれた。半分冗談で、どうも後の半分は真剣のようであった。
実は昨日、床屋をやっている友達から電話が掛かってきて、今日ちょっと寄って貰いたい、といってきたので昼食後に寄ってみた。一昨日彼が隣町の本屋でこの聖書を探していたら、本屋の主人が出てきた。日本人の友人に上げる聖書を探している、と説明したら、それは奥にあるので持って来る、と言って奥から持ってきて「この聖書を貴方に差し上げる」、と言ったのである。そして無料で貰ってきた聖書(実際は$75)を私に進呈してくれたのであった。ここに来て流石にこの二日間は出来すぎた話ばかりなので、どう反応してよいか分からず、現実感のない状態が今でも続いている。
気味が悪いのを通り越して、本来なら末恐ろしく感じても可笑しくない筈なのだ。しかし、怖いことはまだ何も起きていなし、その兆候さえも無い。今は金曜日の午後4時である。ハリケーンの影響で外は霧雨が降っている。気温も下がってきたようだ。アトランタで明日行われる予定のリレー・レースもハリケーンのため中止になった。私は、愛犬を伴って今から10キロほど走ってこようかと考えてみたが、さてどうしたものかと迷っている。私は迷信深い方ではないのだが。この文章を書きながら10分ほど走ろうかどうしようか考えた。行くことにした。ただし愛犬は置いていく、と決めた。濡れた道路は滑りやすく、後ろから坂を下ってくる自動車が私と犬に気がついて急ブレーキを掛けるとスリップするかもしれない。慌てた犬が走り出すと、どういうことになるか分からない。
たった今、驟雨の中を10キロ走ってずぶ濡れになって帰ってきた。何時もの中学校の400メートルトラックには、16羽の七面鳥が芝生の中の虫を食んでいた。と、そこへ鷹が一羽舞い降りてきて、小さめの七面鳥を仲間から引き離そうと懸命に周りを舞っていたが、大人の七面鳥たちは歩きながら子供を庇って徐々に森の中へと消えていった。この光景は、テレビでよく見るアフリカの大草原でライオンがやるカモシカ狩りとそっくりである。考えてみると、人間の社会での出来事、政治家たちの勢力争いや、テレビドラマで会社や官庁での仲間争いと、信じられないほどよく似ている。
正直、サプライズには少し食傷気味だ。しかし現実は私の食傷などものともしない。実は先ほどメールで、クレムソン大学での私の同僚が交通事故で亡くなったことを知らせてきた。交通事故は無駄死にだと思っていたが、いざ身近に起こってみると、その重さは深刻だ。彼は立派な教育者であっただけではなしに、人に好かれるいい奴であった。私は、今こそ奇跡の蘇生(復活)が可能ならば、と願ってやまない気持である。今テレビの画面でサウスカロライナ州の州都コロンビアで、1000年に一度の洪水で何千軒の家々が浸水し何万の人々が停電で困っている、と伝えている。その上、水道の水が汚染されて飲めなくなっているとのことである。
不思議である。進呈された聖書を読んでみようか、と言う気持になってきた。
神頼みと言うことなのか。奇跡への哀願でこの講を閉めることにする。
2015年10月5日 ハリケーン一過の清清しい朝  岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−重奏−

自分の絵について語るのは何となく面映ゆいのですが、語らないとその意図したところがが何とも伝わり難いので語ることにしました。
対象は、9月14日から20日まで京橋にあるギャラリー檜B・Cで開催された「碧き空の色ー15の旋律ー」展に出品した「大地の目覚め/重奏」についてです。
添付した写真を観ていただければすぐにお解りになる方もいらっしゃるかも知れません。この絵の狙いは、勿論「大地の目覚め」シリーズなので、雨上がりの水溜まりに映った樹木・・やがてそれは消え行くつかの間の現れ・・が基本テーマで、その表現の模索のひとつではあるのですが、今回はもう一つ別の試みをしています。それは“昼”と“夜”、すなわち明るさのある世界(時間)と仄かな灯りしかない暗い世界(時間)のそれぞれの世界(時間)で一枚の絵が全く別の表情を見せる(現出させる)ことを目論んでいます。
色彩豊かな明るい世界ではその豊かさを楽しめばよい。一方で必ず訪れる暗くモノトーンな夜の世界では、僅かな灯りを得て現出する別の空間を楽しもうではないか。
このヒントは、今から遡る35年程前の経験に依拠しています。
Ryuの目・no.5(2002年2月)に書いたのですが、大津・園城寺三井寺)光浄院客殿での“経験”が最近ふと頭をよぎる様になり、何とか表現出来ないものかと試行してみようと思い至りました。
その経験とは・・・

−光・明・陰・闇−2002.02
20年ほど前になりますが、京都の書院建築をいくつかまとめて見に行った折、大津市園城寺の光浄院客殿を訪ねた時のことです。この寺院は書院建築の初期の遺構として建築的に大変意味のあるもので、私も非常に啓発された建物のひとつです。このとき確か三度目だったと思います。午後の2時頃だったでしょうか、案内の僧侶に従って静まり返った客殿に一人通されました。昼なお薄暗い部屋には白熱灯の裸電球が灯されました…と、金碧濃彩の障壁画が煌々と照らし出されてきましたが、いつもながらこの書院の簡潔な造りと極彩色の取り合わせに違和感を覚えずにはいられませんでした。
たまたま僧侶の退出の時、照明の灯りを消してもらったのですが、その時初めてこの金碧濃彩のわけがわかりました。独り正座して静寂の中、障子を通して差し込むわずかな光を得た障壁画の金碧が鈍く浮き上がってきたではありませんか。先程まで感じていた違和感は最早ありません。造りと障壁画が混然一体となった空間が出現していました。このときの障壁画の奥深い味わいはとても印象に残っています。おそらく、夜は闇のなかで短檠(たんけい)や蝋燭の灯りが同じようにぼんやりと照らし出すのでしょう。
転じて現代住宅の多くは部屋の隅々まで明々と蛍光灯で照らし出しています。そこには住空間の奥行きが感じられません。高齢者には明るさは必要ですが、生活にリズムが必要なように、明るさにも強弱、明暗(陰)のリズムがあってこそ、住空間に抑揚、奥行きが生まれてくるものです。
日本的感性の“陰”の世界の味わいを散歩してみませんか?
谷崎潤一郎の《陰影礼賛》を一読されることをお奨めします。

この経験が蓄積され、絵の制作者の立場で蘇ってきました。
我々の世界は表があれば裏がある、明があれば暗がある、見えてる世界があれば見えてない世界がある。見えてる世界を通して見えてない世界に想いを馳せる。
そんな世界の二重性、多重性・・・その表現のひとつになるかもしれない。
残念ながらグループ展では自分の作品のために会場の光を落とす訳にはいきませんでした。
これが今回の話題の理由です。
しばらくは“昼”と“夜”の世界を彷徨ってみよう。


◆今月の山中事情114回−榎本久・宇ぜん亭主

−奔流する情報−

情報の氾濫と言われて久しいが、こんな私でさえ公私の情報に振り回されている。
TV、PC、ケイタイ、雑誌、新聞等が次から次に伝え、整理がつかないこともある。我が国ではこのところ凶悪な犯罪やおかしな事件があとをたたない。その犯罪の解決を見ることなく似たような犯罪が起き、その前に起きたことなどはすぐに忘却され、新たな事件に目を向かわされてしまう。よろこばしいことも悲しいことも、それを汲みとる時間もなく次のものに変えられてしまうことは、果たして、我々はそれに従わなければならないのだろうか。
その情報に出会って不安を覚えることも多くなったりしている。それまで知らなければコト足りていたことが、心を乱すのである。それが良いことならともかく、そうでないから困るのだ。
情報とは、知らせるべきことではあるけれど、あまりにもめまぐるしいこの頃の日本である。「食」の世界もすさまじい現象だ。情報と言いながらも宣伝そのものである。既存のものを重ねたり、混ぜたり、型を変えたりした物を、まるで別物のごとく仕上げ、情報網にのせる。それは深く心に留まることなどはどうでもよく、売れればよいという発想だ。新しいものを、とにかく知ってほしいことが情報としてひんぱんに伝えている。しかし、世にはそれをしなくとも売れるものは売れている。メディアを通さずとも、心に深く留まる物ゆえ支持されているのだ。
大規模災害の情報については、当初は大きく報道するが、その後の問題となる再建等のことは同情の報はするものの、被害者の一番の関心事の経済的救済についてはなんらの情報をすることなくニュースとして流さない情報もある。
メディアのそれは、不必要と思うのなら遮断すればよいが、人対人の場合はそうするわけには行かない。
あらゆる分野で技術の革新が止まることなく続いている。その為、昨日までの情報は無に帰す。それゆえ、今後情報の限界というものが発生しないものなのかと老婆心ごとく思ったりする。
我々のレベルでも知りたい情報はあるが、不思議なことだが、知りたい情報こそ知らせてもらえない。この国の「行き先」がその最たることだが、全くもって知る由もない。
この世に抗ってその奔流を止めることなど出来はしないが、それに流されないようにすることは出来る。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/

◆Ryu ギャラリー
今月の一枚は、9月14日から19日まで京橋・ギャラリー檜B・Cでの「碧き空の音−15の旋律−」展に出品した作品です。
明るい光を得た昼の世界、わずかな光しかない暗い夜の世界、それぞれで見せる趣の違を味わって頂きたい。
 タイトルは「大地の目覚め/重奏」
 サイズは130.3cm×89.4cm(P60号)です。
  (パステル+アクリル絵の具)
 お楽しみ下さい(写真貼付)。