★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.151

新国立競技場建設問題がにわかにクローズアップされてますが、現案で進めるには無理がある思われますが、そのまま進められそうです。。
そもそも、国際コンペ(設計競技)でこの案が1位になったこと自体に私は疑問を感じています。 都心の空間に建てられるべき案ではなく、無限の拡がりを感じさせる平原や砂漠に建てるといいと思われる案で、時代錯誤的と思っていました。
そして、修正された現案には原案の伸びやかさはもはや全くありません。
問題を多々はらんでおり、コストは異常です。
その後の審査員の発言に、国民の税金を使うのだという認識が欠落していました。
このコンペの審査委員長を務めた安藤忠雄氏からの発言がありません。
こんなことが今の日本でまかり通るのはなぜか?
オリンピック誘致演説をした首相のメンツか?

福島の友人より:
東京電力福島第一原子力発電所の爆発事故後の福島県の状況の一部をお知らせします。
前回はイノシシの異常繁殖による農作物の被害をお知らせしましたが、今回はそれと類似した状況を知っていただきたいと思います。
 農家の高齢化により担い手が不足し耕作放棄地が多くなってきていますが、原発事故以来、今設定されている避難地域、居住制限地区、居住制限解除準備地域は住民がいませんし、居住制限が解除された地域でも住民の帰還割合が50〜60%と言う状況で耕作放棄地の増加に拍車をかけています。帰還して農業を再開しても、隣接地が耕作放棄地のためイノシシの他小動物(ネズミ、イタチ、ハクビシン、等々)の生息地であったり、害虫の巣にもなっているため生産に悪影響を及ぼしているのです。これら一時的な対処療法でなく地域ぐるみ、市町村単位の対策を積極的に行う必要がありますが予算の減額は今年をピークに来年以降は減額が報道されています。
また、除染についてても山林は手つかず状態で、山林の下にある農地をどうするか問題はまだまだ山積しています。もっともっと県民がまとまり声を大きく国に、世論に訴えていくべきと思っています。


仮面を剥ぎ、なりふり構わず牙を見せてきた安部政権。
民主党の失敗が安部政権を誕生させる要因になりました、悔やまれます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.151》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−文化、思考、言葉−

私は今、自分の使っている日本語に挑戦しています。それは、英語で可能なことは、日本語でも出来るはず、と言う考えからです。どういうことかといいますと、日本語から「思う」と言う表現を出来得る限り抜いてしまう、ということです。
例えば、(1)私は明日から早朝の散歩を始めます(ようと思います、又は、ようかなと思います)。(2)その意見は間違っています(いると思います)。(3)このスープは少し辛めです(だと思います、又は、かなと思います)。(4)貴方の批判は厳し過ぎます(ると思います、又は、るかなと思います)。(5)この絵には迫力があります(あると思います、又は、あるかなと思います)。

以上の例で、私が何を言わんとしているかは、大体お分かりいただけると思います。「思います」で文を締めくくると表現が軟らかくなり、角が立たなくなり、主張が弱くなり、そして次第に曖昧になり、時には意見があるのかどうかさえ疑わしくなることがあります。相手を傷つけず、人の気持を考慮した、日本的な「和」の表現だと言う人もいます。確かにそういうこともあるにはあるでしょう。しかし、こうとも考えられます。余り断定的にいうと聞き手を反対側に立たせたり、責任を取らされたり、喧嘩になったり、とにかく相手と厳しい関係になりそうだし、出来るだけ波風を立てたくないで、語尾に「思います」や「かなと思います」をつけて反対の場合の逃げ口上を双方に用意しているのです、と。
要するに一言で「自信のない表現」と言われても仕方がありません。又は事なかれ主義といわれるかも知れません。少なくとも国際舞台では批判的に受け取られ、もしそれが「和」であるというなら、その「和」は通用しません。会話をしている時に話し相手の気持を考え、それ以上に自分の立場も計算して、誰も窮地に追い込まないようにする話術が、日本語にはあります。これは日本文化の特徴なのです。ええ?本当ですか?
先ず、日本語に特有な会話術は、実は英語にもあるのです。否定、肯定、丁寧、断定的、相手の気持を考慮、厳しい関係を避ける、などなど、どれをとっても日本語だけにある専売特許ではありません。では何がどう違うのでしょうか。
この違いこそが、文化の違いなのかなと思います(?)。そうです、言葉の違いではなくて、その表現を使う人の気持の違いです。これは明らかに文化的問題です。
文化の中で一番大きな特徴は、何に「価値」を置くかに尽きる、と言っても過言ではありません。例えば(A)「あの人は、親切で分け隔て無く人と接するので、信頼がおけます」。だから「あの人の云う事は、額面どおりに受け取り、全面的に信頼しても決して裏切られる事はありません」。これはその人を大変高く評価している表現ですし、万国共通の人を評価する仕方です。(B)「親切にしてくれたからといって、あの人を全面的に信頼してはいけません。もし裏切られたら馬鹿を見るのは貴方ですよ」。これは厳しい評価です。実は、どの文化にも(A)と(B)両方の型がありますが、ここでは特に「親切」と「信頼」という精神的なものに価値を置いて人を評価している点が重要です。例えば、その人の社会的地位や貯金の額や学歴などに価値を置くと「寛一お宮」になってしまいます。それでは、判断力、決断力、行動力などに価値を置くとどうなるでしょうか。
それは個人的な資質(能力)に価値を置いていることになります。この三つの「力」はグループを牽引していく人、即ち指導者の資質を言っています。

私はアメリカに長く住んでいますので、英語で考えたり話したりする環境に浸っており、考え方も感じ方も共に英語的傾向が強くなっています。私が人や組織を評価する場合に、「信頼」と「三つの力」に価値を置く傾向があります。実はこの二つは共に指導者の資質なのです。指導者の資質とは、個人の才能であり価値なのです。日本文化では、どちらかと言えば、個人と連帯関係のある組織や会社など、個人よりも個人を取り巻く環境に重きを置く傾向にあります。

日本では、人を推薦する時に指導能力を評価する事は稀ですが、アメリカでは指導者としての資質はを大変重要なこととして評価します。指導者に必要な資質、たとえば、判断力、実行力、責任感、信頼感、などは広い意味での人間として尊敬され得る一般的資質だからです。進学のためや卒業後の職探しのための推薦状では、物事を判断する目、決断を下す姿勢、そして、実行に移す気力などを評価する文面に力点をおきます。この傾向は、若い人が友人や先輩などと協同して仕事をするときにも発揮されます。個人の能力に価値をおき基準に据えるので個人主義といわれています。他人と一緒に協同作業ができる才能も実は個人の資質と考えられます。個人主義では各個人の「自己の確立」に重きが置かれます。利己主義では決してありません。国際的にもそうですが、特にアメリカで注目される価値感は「言行一致の人」(Man of Integrity)です。何に価値を置くかによって文化の違いが次第に見えてきたようです。
50年間にわたるアメリカ生活は、私の判断から決断へ向けての姿勢と、それに伴う行動力や責任の所在を常に明確にする姿勢などが高く評価されてきましたので、楽しく生き甲斐のあるものになっています。大学や州政府は私の生来の資質を発揮できる機会や場所を提供してくれており大変感謝しています。当然責任も同時に背負う事になります。しかし、逆に責任の余り無い仕事は、実りも少なく、判断も決断も重要事項とは云えなくなります。結果に対して責任を持たない場合に、アメリカでの仕事は高く評価されません。半沢直樹は何処の社会でも歓迎されますが、アメリカの場合には、指導的立場にいる人は、皆、半沢直樹であることを期待されます。ですから、半沢直樹のドラマはアメリカでは人気番組にはなり難いはずです。その国の特色を指摘するのに、半沢直樹のドラマが人気番組になり得る国(日本)となり難い国(アメリカ)と言う文化的な判別方法も考えられますが、読者のお考えはどうでしょうか。
実は、私も最近までは、日本語の文章や手紙には「思います」を多用していました。しかし英語で話したり、文章を書いたりする場合には、意識して「思います(I think …..; It seems….; Perhaps)」を排除してきました。その理由は、英語社会では、曖昧な文章は主張が弱く、説得力の無いものと判断されるからです。数年前に英語で書かれた本を日本語に訳して出版しましたが、そのために、日本語のあやふや(wishy-washy)な表現を殆ど使わないで済むような英語と一年間向き合いました。そのお陰で説得力のある文章を書くことができるようになったのではないか、と自負しています。もう一度言いますと、文末を「と思う」で締めくくる書き方や姿勢は、国際舞台では評価されません。より的確に言いますと、通用しません。

日本の政治家や学者の発言をテレビで聞いていますと、発言の締めくくりは殆ど「思います」で終わっています。これでは説得力に欠け、発言の内容を聞いている人にしっかり理解してもらいたい、と願っても難しいのではないでしょうか。勿論話し手も聞き手も日本人の場合には、その辺はピンツーカーである、と人は云うかも知れません。果たしてそうでしょうか。日本の街中での街頭インタビューでも質問された日本人は、殆ど全員が「・・・・・・と思いますが」と言っています。「思います」と「が」とで二重の防波堤を築いて、自分をのそ後ろに隠し、無意識にでしょうが聞き手には判断をさせないようにしているようです。これは明らかに私も含めた日本の文化なのでしょう。角を立てない「和」の文化です。冗談でしょう!「和」とはもっと真剣で高尚で、命を賭けても悔いないほどに深いものです。

以上の私の指摘は、私のアメリカ生活が長いからだ、と言われたことがあります。その指摘は正しいかも知れません。しかし私は国際的に通用してきています。一般に日本人は、人の前で自分の立場を明確にするような意見を表明しません。少なくとも、はっきりとはしません。角が立つからでしょうか。長い間自分の立場をあやふやにし続けていると、次第に自分の立場が見えなくなり意見そのものがなくなってきます。自分の意見を持っていない日本の学生が多いのには度々驚かされます。私は日米文化交流の一環として、多くの日本の一流大学とアメリカの大学との学術交流提携を取り決めてきましたので、私の意見は実体験から得たものです。
受験勉強での成功の鍵は「既成事実の正しい暗記」です。そこで、これは私の勝手な想像ですが、こうして努力の結果一流大学へ入り一流会社へ就職すると、無数にある情報から自分の意見を構築し、更には自分の意見に責任を取り、それを判断・実行の基準にして自分の人生を切り開く行こう、と言う姿勢は影が薄くなり、無難な道を歩む姿勢が大きく頭角を現してきます。半沢直樹の人気が高まる所以です。もし私の意見に反対又は間違えの指摘をしてくださる方がおいでの場合には、是非ご意見をお聞かせください。私は謙虚に、そして真摯に耳を傾けさせて頂きます。
「思う」と言う表現を極力排除した文章を書きますと、内容がはっきりしてくるだけでは無しに、きつく(強く)なります。注意しないと不必要な議論を呼び、時には喧嘩にさえなり兼ねません。しかし、それだからこそお互いの気持を慮って書いていくので、誤解に発した不必要な意見の食い違いは避けられると確信しています。
日本文化の思考と言葉について私見を述べてきましたが、一応ここで、筆を置かせていただきます。是非ご意見をお聞かせください。
20015年6月3日 ギックリ腰の兆があり、少し走るのを控えているので余分の時間ができました。
岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
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春画

いささか刺激的なタイトルですが、これは、私が歳を取って好色ボケ老人になったわけではありません。春画を通して見ることが出来る、現代が失った極めて健康的な“大らかさ”。偏見を除いて、機会があれば観て頂きたいと思い、話題にしました。
私はもともと琳派の絵(特に尾形光琳俵屋宗達)が好きで、その造形性、抽象性の素晴らしさにとても魅力を感じ、自分の作品作りにも様々参考にしていますが、浮世絵にも大いに興味を持っています。明治以降の禁欲的で妙な道徳的意識にいささか辟易するところがありますが、これら琳派の絵や浮世絵、浮世絵春画を観るにつけ、江戸文化の大らかで人間的な自由さに魅力を感じています。
先日、田中優子さんの「春画とそのからくり」という本を手に入れ、春画の見方に大変啓発されていたところ、たまたま平凡社の別冊太陽「春画」を目にする機会がありました。その素晴らしさについつい見入ってしまい、この本を何とか手に入れたいと思い、その入手に関して失敗談はあるものの先日やっとこの別冊太陽「春画」と別冊太陽「続・春画」を安く手に入れることが出来ました。
本当は原画が観られると言うこと無いのですが、なかなかその機会がありません・・・と思ってたところ、日本で初の春画展のニュースが入りました。9月19日から12月23日まで、目白の永青文庫美術館(理事長:細川護煕)で大英博物館の協力を得て開催されることになりました。2013年10月から2014年1月にかけてロンドンの大英博物館で最大規模の春画展「春画―日本美術における性とたのしみ」が開催され注目を集めたとの報道はありましたが、現実に我が目で観られるとなるとこれは大いに期待されます。

江戸の性への大らかさが背景にあるとは言え、いわゆるポルノグラフィーとは違って、そこには江戸の人々の生活感やエロスを通した笑いが溢れており、さらに言えば、芸術作品にまで昇華された数々の浮世絵春画に見入ってしまいます。
特に喜多川歌麿浮世絵春画は絶品でしょう。画面全体の構成、形・色彩構成、布の表現、春画故の局部の見せ方、等々、群を抜いています(北斎の冨久寿楚宇も素晴らしい)。
そんな中で特に素晴らしい一枚を紹介しましょう。歌麿春画の最高傑作だろうと思いますが、「歌満くら(うたまくら)」の第十図です(写真貼付)。料理茶屋の二階での恋人同士の逢瀬です。その画面全体にうねる曲線、その構成、色彩の構成・配分、形の構成、衣装の表現といい、春画であることを忘れて惹き付けます。この絵には二人の顔や交接する局部は描かれていません(むしろ隠している)。見せているのは女性の白い襟足と太股だけで、衣装の布が支配する画面の中で美しく際立たせます。でも、それだけで充分に男女の交わりを想像させますが、よくよく見ると女性の鬢(びん)の下のところに、こちらを見る男性のするどい眼差しが描かれています。まるでこの画を観る者を観察するように・・・。何とも。

◆今月の山中事情111回−榎本久・宇ぜん亭主

−イクサヲノゾムセイケン−

   七〇年前 
   あれほど 
   手痛い目に遭って 
   イクサは割に 
   合わないと 
   知った筈だが
   イクサを知らない輩が 
   権力の座に就いた 
   とたん 
   武力を使ってみたいと 
   いう衝動が起きたようだ

   メチャクチャな 
   総理大臣がいる 
   今は民主主義の国だから 
   とにかく手続きを 
   どんな型ででもいいから 
   とって 
   堂々と国民に 
   死んでもらうのは 
   どうだろうと 
   新しい安保法案を 
   携えて 
   安部政権が 
   躍り出てきた 

   だが 
   その論理は 
   理解不能 
   意味不明だ 
   政治学者や 
   憲法学者でさえ 
   この法律は 
   難解、不明だが 
   違法の確率が 
   高いと 
   言っている 
   与党議員は 
   よほど優秀のようで 
   それを解するらしい 
   不思議だ 

   国民は 
   前のイクサで 
   辟易、飽き飽き 
   しているのに 
   少数の 
   そうでない 
   国民の意見ばかり 
   よく聞いて 
   この国に 
   また 
   ミサイルやピカドンが 
   飛んで来る国に 
   したがっている 

   他国の戦闘にに参加し 
   この国の 
   誰かが 
   誰かの命令で 
   一発の 
   弾丸を発した 
   とたん 
   この国にも 
   数えきれない 
   弾丸が 
   飛んで来ることになる

   安部政権は 
   そうならないよう 
   総合的に判断して 
   対処すると言う 
   このことについて 
   刺激を感じている 
   他国がある 

   国民の安全を守るため 
   と言っても 
   全国津々浦々 
   自衛隊を 
   配備することは不可能だ 
   したがって 
   国民を守ることは 
   出来ない 

   世界最強の武力を持つ 
   アメリカを背に 
   七〇年間守って来た 
   自民党の 
   安保政策を 
   かなぐり捨て 
   世論には 
   一切耳を貸さず 
   自説に酔うている 

   「大本営発表」「大本営発表」と 
   あの金切り声が 
   今度は 
   テレビから 
   聞こえてくるのであろうか 

   七〇年前 
   日本は 
   全国各地が 
   米軍機によって 
   焦土と化した 
   局地的に 
   イクサになったのは 
   沖縄だが 
   今度は 
   日本全土 
   いたるところが 
   イクサ場に 
   なるかも知れない 
   すべての国民が 
   その時を境に 
   想定もしたことのない 
   「敵」と 
   対峙し 
   手も足も出せずして 
   時の政権の 
   犠牲者として 
   あの沖縄戦
   ごとくなる 

   集団的自衛権の 
   行使は 
   このような 
   凄惨な状況を 
   再度招くことになる 

   軍備を増強しても 
   国民が 
   一人も死なないという 
   保証はどこにもなく 
   国が守るという 
   定義には 
   沖縄戦が 
   示したごとく 
   なし崩しにされる 

   まるで「聖職者」のごとく 
   この国の民が 
   心配で心配で 
   たまらないので 
   この挙に 
   出るのだと 
   言わんばかりだ 

   しかし 
   その考えが 
   想定国を 
   おかしな行動に 
   結びつけてはいまいか 
   今 
   日本を他国が 
   攻撃する国と 
   想定すれば 
   どこか 
   今だ戦時の 
   北朝鮮 
   国境問題を抱える 
   ロシアと中国 
   テロ行為が 
   考えられる 
   イスラム過激派だ 
   他の国々は 
   ほとんどが 
   友好的で 
   日本の協力や 
   援助が必要な 
   国々もある 
   その国が 
   日本を攻めるなど 
   想定も出来ない 
   それでも 
   そうなるかも知れないと 
   疑い 
   軍備を増強し 
   国際ナントカと 
   言っている 
   それぞれの国と 
   築いて来た 
   その友好的な 
   ことを 
   ソンリツヲオビヤカサレ 
   ないように 
   外交努力を 
   すれば良いのだ 

   強い国をめざしているようだ 
   一体何を強くしたいのか 
   「軍備を保持してはならない」と 
   憲法に銘記されて 
   いながらも 
   世界有数の 
   軍備を 
   持っている 
   しかし 
   世界中 
   至る所で使う 
   軍備ではなく 
   専守防衛用と 
   されている 
   その軍備を 
   もっともっと 
   持って 
   強い国に 
   なりたいようだ 

   経済も 
   強くしたいと 
   言っている 
   アベノミクスも 
   そうなりつつあるようだが 
   しかし 
   その二つは 
   「強い国」として 
   充分 
   世界に認識されている 
   より強くなる必要が 
   どこにあるのか 
   世界に通用するものが 
   我国にはこれだけあっても 
   足らないと 
   恐怖のように言う 

   これまで 
   日本は 
   エコノミックアニマルと 
   恐れられたことは 
   あったが 
   軍事的恐怖は 
   与えていなかった 
   アメリカの要求に 
   従順についていただけで 
   世界への 
   軍事的脅威を 
   直接的に 
   することは 
   なかったが 
   今後この 
   安保法案が 
   可決されれば 
   軍事的脅威を 
   世界に与えることになる 
   少なくとも 
   民間で培ってきた 
   あらゆる交流も 
   断絶されるかも知れない 

   それにしても 
   法律の解釈を 
   ねじまげ 
   屁理屈を 
   つけ 
   それ以上に 
   人間として 
   嫌悪の対象に 
   なってまで 
   この法律を 
   仕上げたいのは 
   結局は 
   アメリカの意図で 
   あるからか 

   安保そのものは 
   現行体制で 
   充分機能することに 
   なっている 

   再度言うが 
   外交努力を 
   惜しみなくやることもせず 
   一丁事を構えることを 
   易しとみるならば 
   あまりにも 
   拙速だ 
   いやしくも 
   この日本が 
   大国と称されているのは 
   専ら 
   為政者の拠るところでは 
   なく 
   民間人の依拠するところ 
   大なる所以だ 

   野球、サッカー、テニス、ゴルフ 
   相撲、観劇、落語、将棋、碁、などなど 
   ある日 
   「一切無用」の 
   達しが 
   あるかも知れないことを 
   想像してみよう 
   立法府の与党が 
   法律をいじり廻している

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズです。
 秋の行動展にむけて習作したものです。
  サイズは51.5cm × 72.8cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。