★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.150

月になりました。
梅雨入りです(写真貼付)。

緑が美しく映える時がやって来ました。
5月の真夏日、さて6月は?

福島の友人より:
「震災後の福島県の状況の一部をお知らせします。
福島県の県土は、太平洋側を浜通り、県の真ん中で阿武隈川に沿った中通り会津地域の会津と三つの地域に分かれており、原発浜通りの真ん中の双葉町大熊町に設置されています。
原発事故後、浜通りから阿武隈山系にかけて居住制限区域等が設定され住民が避難し、山間地域・中山間地域を管理することが出来なくなり、イノシシ、イノブタの繁殖が異常に多くなり阿武隈山系を越えて中通りまで広範囲に生息し、民家の庭先まで来ておりそれによる農作物の被害が甚大になっています。行政機関の事業を活用した被害防止の電気柵設置、捕獲の檻の設置、銃による捕殺などにより対応をしているものの、数の多さに対応しきれていないのが実態です。
国では事業を利用した市町村の対応に委ねていますが、事業規制があり効果が追い付いていないようです。また、狩猟免許取得者の高齢化によって銃での捕殺が大幅に減少していることもあります。今までにない対応か、事業規制を緩和して地域住民が全員参加による対応をできるようにするべきです。原発設置は国の責任でもあることから事故後の責任も主体的に果たすべきです。事業を作って丸投げばかりでは本当の責任を持った対応とは言えません


さて、野党がアテにならない今、せめて与党議員に気骨のある政治家はいないのか?
この国の重大時なのに保身に身を任す自民党議員達。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.150》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−再び平和いついて−

私は今まで、機会あるごとに平和について話し、書いてきた。しかし現在(2015年5月)の日本の状態を鑑みるに、各方面で表明されている意見や評論を見るにつけ、心配と疑問の気持を抑える事ができない。
誰でも平和な世界に住みたいし、平穏な心の状態を保ちたい。この実現に取り組む努力をすることが政府の仕事である。当然である。が、果たしてそうであろうか。個人の集まりがコミュニティや企業であり国であり、そのどれもが平和であり幸せでありたいと願う。そのためには経済状態がよくなければならないし、自由が保障されなければならないし、教育が行き届いていなければならないし、文化活動も盛んでなければならない。まだ幾らでもある

経済状態が良好であるためには、企業発展のための資源や市場が豊富でなければならない。過去においてはこれら資源と市場が頻繁に戦争の直接間接の原因になってきた。戦争の原因は決して軍隊だけではない。一国の経済発展は世界規模の活動である。常に国際問題と直結している。よって世界の平和問題と直結しており、それに寄与する必要がある。自国の自由を維持するためには、世界規模の自由維持活動に貢献しなければならない。これ等の国際活動を成功させるためには、教育や文化活動を十分に行う必要がある。
それゆえ、自分の幸せや平穏なコニュニティや自国の平和を望むなら、世界の平和に貢献しなければならないのは明白である。義務とさえいえる。今の日本は擬似独立国である。自分の命を賭けて自国を守る姿勢も軍隊も無く、アメリカ任せである。世界の何処かで平和が脅かされるような問題が起きると、日本は資金を提供してきた。何のことは無い、日本は死ぬのはいやなのでお金で済まし、当事国がそのお金で戦争の道具を買って(作って)戦争をして、殺人を犯しても、日本は平和な国だ、と主張してきたのである。何と偽善を堂々とやっていることか。その度胸は素晴らしいが、恥ずかしさで少しは赤面してもらいたい。
日本は「現行憲法上どうしようもない」というかもしれないが、その意見は完全に非独立国のものである。自分の国の憲法であるのを都合よく忘れている。憲法は自分の信じる方向に改善すればよいのだ。多分、現在の安部政権はそれを実行に移そうとしているのだろう。「軍隊を持たない」=「平和国家」という幼稚な理論が通用するのは世界の何処にあるのだろうか。世界の中の日本という観念で眺めたら、この理論が意味を成さないのは明白である。

私は、何度も言ってきたが、平和主義者である。但し、惨めなほど幼稚で保守的な理論にしがみついている平和主義者ではない。積極的に平和に貢献する、と言う姿勢の平和主義者である。国家間の摩擦を解決するのに戦争に訴えるのは最後の手段であろう。しかし、その最後の方法を選んだ場合には、命を賭して平和を獲得する覚悟で努力をするべきである。マハトマ・ガンジーの無抵抗主義は彼個人の主義としては、立派でありそれでよい。何も反対はない。しかし、一国を代表する首相が、無抵抗主義で多くの国民の犠牲を招いたのでは、平和とは正に反対の結果を招きかねない。彼が云わんとしていたのは、力では決して平和は得られない、と云う事だ。
平和を獲得し守っていくためには、世界の中での日本の「平和とは」、国民一人一人の「幸せとは」を十分に考察して定義し、そのための法律を創り、それに沿って目的達成のための各種の方法を編み出していくことが望ましい。これが私の平和論である。
ご存知のように、戦争があっても平和な国はあるし、戦争がなくても平和でない国もある。軍隊の有る無しは、その国が採用した世界における自国の平和獲得のための方法に合致しているかどうかの問題である。今の日本の憲法改正の議論、特に軍備に関するものは、世界の平和への貢献という部分が大きく欠落している。これでは幾ら話し合っても正しい結論には達しないであろう。経済だけが世界を股にかけて駆け巡り、世界を利用するだけ利用して、世界の平和は日本と関係ありませんでは、誰も日本に耳を傾けでくれないだろう。

最後に私の平和に関する姿勢を明確にしておきたい。各自、各国、各文化圏にはそれぞれの平和に対する、歴史があり、培った考え方があるだろう。私は、その根底に流れている精神は「自由獲得」であると考えている。それぞれの人間が、法律に則ってそれぞれの「幸せや平和」を追求する「自由」を獲得出来る環境、これこそが平和の条件であると考える。この環境が脅かされる場合に問題が起きる。この環境保護のためにこそ、各国政府が苦労しているのだと信じたい。実は必ずしもそうでないので問題が複雑になるのだが。
死を宣告された癌患者が、残された人生の質を取るか、量をとるか、がよく話題になる。どのような治療をしても苦しむだけで治る見込みの無い癌と向き合って、短い残りの人生をどのように過ごすか。幸せの「質」を追求するか、「量」を選ぶか、「寛一とお宮」ではないが、これは永遠の課題で、非常に個人差のある問題だ。しかし、政治家は、時には自国の将来について、このような判断を迫られるのである。考えてみると、私個人もこのような立場に何回と無く立った覚えがある。例えば、月給の額で就職を決めるか、仕事の内容で決めるか、などである。これらは各自各国が、歴史と将来を考察して考えねばならない永遠の課題である。

以上で明らかなように「戦争か平和か」という設問からは余り実り多い答えは期待できない。批評や評論は専門家に任せて、先ず各自が自分の意見をしっかり持つことが肝心だ。これは民主主義の基本である。自分の意見が有って初めて議論ができるのである。
2015年5月10日  母の日、平和への感謝は母への感謝につながる。
クレムソンにて岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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−人生観−

先日、国立新美術館である女性画家にお目にかかった折、思わぬ感謝の言葉が伝えられました。
彼女は今年の4月、山口県からエドヒガンの山高神代桜山梨県北杜市)を観にわざわざ山梨までみえました。昨秋の宇部での私の個展の折、会場で初めてお会いしたのですが、樹をテーマにした絵の多いことから、樹のもつ生命力の話に展開し、その生命力に魅せられいるのだとの話を聞くに及んで、私が樹齢2000年の神代桜の話をしましたところ、にわかには信じがたい樹齢の桜だということで記憶に残ったようでした。私も初めてこの桜を観た時、そのたくましい姿、2000年を生き抜いた生命力に感動を覚えました。
その彼女の弟さん二人が昨年末から続けて亡くなられたそうで、落ち込んで絵も描けない状態に陥っていた時、桜の時期になりふとこの話を想い出し、是非観てみたい、観なければと彼女を突き動かしました。

天候が不順だった4月始め、この神代桜のある実相寺で待ち合わせることにし、到着の連絡をもらってから現地に向かいました。歓迎するかのようにこの時間帯だけは雨も止み、薄日すら差していました。人混みの中、無心にスケッチをしている彼女を見つけました。後から聞いた話ですが、その2000年の桜を観るやいなや感動!気がついたらスケッチブックを開いて無中でペンを走らせていたそうです。その数時間の滞在で受けた感動は、“描かなくっちゃー!”と彼女を駆り立てたようで、その日の内に山口に戻り、今度は夢中になって絵の制作に取りかかった。その間は弟たちのことはすっから頭から離れ、絵に没頭していたそうです。その絵は六本木の国立新美術館での「第一美術展」で展示されていました。
あの3.11東日本大震災への想いを描いた作品でした。
そんな背景があり、美術館でお目にかかるなり、「2000年の神代桜で生き返った、本当に感謝いたします」の言葉が吐き出されました。

一方で、樹齢2000年の桜を観てた方の中には、年老いた姿をさらけ出してる、伸びた枝はあちこち棒で支えられており、老いを見せつけられる想いで辛いと言う方も周りにいたとのことでした。
2000年を生き抜いてきた桜の生命力に感動し、エネルギーをもらった人。
或いは、その姿に老いを見、悲しさを覚える人。1本の桜にまみえるに、人それぞれの生きてきた、或いは、生きていこうとする様が投影される。
話を聞くに及んで、改めて、その人それぞれの人生観を垣間見る想いがしました。



◆今月の山中事情110回−榎本久・宇ぜん亭主

−任務−

ホッチキスの存在を意識することなどおそらくあまりないと思うが、便利と思う時と、そうでない時がある。
たとえば領収書を束ねて留めた時、はみ出した小さなレジ領収書が留めきれずにあると気になる。かまわず他の領収書にパチッとつけるのは美的なこともあって二度打ちはしたくない。ところが重宝に使ったはずの針を他のレジ領収書からはがす段となると意外にめんどうなのだ。領収書がもろいからきれいに針を抜くことが出来ない。領収書を片づけているといつもそんな目に遭う。
我々の暮らしではその程度の任務しかホッチキスにはないが、あのか弱き針で国家の機密を束ねたり、企業の最高の機密を束ねていることだってある。そう思うとあの小さな針がすこぶる重要な役割を担っていることに気づく。暮らしの中に何気なくあるあらゆる物。それらを意識してあげるだけでもその重要さが浮き出てくる。

ラップもその一例だ。
ラップの使用時間のはかなさは、秒単位で終了することもある。ほとんど再利用されることなくゴミ箱行きが常だ。任務と言えばそれが任務なのかも知れないが、石油資源をこのように使っていいのかと私は思ってしまう。軽くて、気密性にすぐれ、透明だ。この利便性は現代社会には欠かせない生活物資だが、資源回収率は限りなくゼロに近い。アップの再利用を小耳にはさんだ。もしラップに最後のご奉公を願うなら、使ったラップを集めておき、適度な大きさに丸めてクレンザーをまぶしてシンクを磨くとピカピカときれいになるとのことです。(私はまだやっていない)
大げさに言えば、これら消耗品は他のそれらより感謝されることなく、利便性のみの認識で終わっている。
今日も無意識の中で、役所や会社や工場や学校や病院やお店でその任務を果たすため、パチッ。レンジでチン。

時あたかも国会では、自衛隊員の海外派兵を可能とする審議が行われている。それ自体「消火試合だ」「あとは数の力で決めるのみ」の観測があるが、政府は、七十年間戦死者は一人も出していないと言っている。しかし自衛隊員はこれまで1,800名以上「殉死」扱いで亡くなっている。これには自死も含まれているが、今度の法案が通れば、確実に「戦死」としてカウントされることになる。
このように自衛隊員の命を消耗品のように軽んずるのであれば、それはOUTだ。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー

 今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズです。
  サイズは36.4cm × 51.5cmです。
  (パステル+アクリル絵の具)
  お楽しみ下さい(写真貼付)。