★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.148

4月になりました。始まりの月でもあります。
福島の友人から以下の様なメールが届きましたので紹介します。

◆さて今日は3月11日、四年目の東日本大震災原発事故の日でした。
被災者、犠牲になった方に再度妻と共に黙祷をしたところです。
この時期にだけ特集として報道することが「風化」を助長しています。
もっともっと、今の状況はどうなっているのか、何が問題となって、なぜ進まないのか、そのためにはどうすればいいのか、等々を全国の人達に日常的に知ってもらうことが前に進むことと思います。
アンケート調査によれば68%の人が「風化」していると回答しています。また、原発事故に関しては東京電力の隠ぺい体質は依然として続いており、信頼関係は築けないでいることも全国的に報道すべきです。さらに、事故調査報告が政府を始め三機関でなされているにもかかわらず責任の所在は不明です。今後のためにも絶対「風化」させてはいけません。
2月13日から始まった我が家の除染はようやく終局になりつつあります。
庭に長年かかって育てた小さな草花が剥ぎ取られ、花崗岩の白い山砂が敷き詰められ、周囲は砕石が敷き詰められて殺風景になってしまいました。その剥ぎ取られた土は、仮置き場がまちにないため自宅敷地内に地中埋設・地上保管となり、いつ仮置き場に搬出するか決まっていません。
我が家の梅が間もなくほころびそうで、除染で殺風景になった庭にも春が見えるようになってきました。
 ・メルケル氏 近隣諸国 仲良くし 日本も共に 脱原発
 ・原発の 事故から四年 除染中 風化は進み 無かったことに


樹齢2000年と言われる山高神代桜エドヒガン)が今年も素晴らしい花をつけました(写真貼付)。
その末裔とのふれこみで買って植えた苗木が5年経って、今年初めて
花を咲かせました…いずれはこの下で宴…!!。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.148》をお楽しみ下さい。

◆今月の風 : 今月の話題は二題。

まずは岸本雄二さんです。

−平和と心−

2013年11月4日にクレムソン・ロータリークラブ昼食会の初めに行う祈りで、私が伝えた有名人の言葉です。
 著名人の平和に関する言葉を引用して、私の祈りといたします。     
 ・マハトマ・ガンジー
   愛(love) の力が、力に憧れる(love) 心を支配できる日が来たら、世界は平和になるでしょう。
 ・ゴタマ・ブッダ(仏):
   平和は心の内から生まれるもので、外から与えられるものではありません。
 ・ラルフ・ワルド・エマーソン
   平和は暴力によってではなく、理解によってのみ得られるものです。
 ・アルベルト・アインシュタイン
   平和は力では決して得られず、理解によってのみ到達できすものです。
 ・マリア・テレッサ:
   平和は微笑みと共のにやって来ます。
 ・ジョン・レノン
   貴方は私を「夢見る人」と言うかも知れません。でも夢を見るのは私だけではありません。
   何時の日にか貴方も私たちの仲間に加わり世界は一つになるでしょう。
 ・ウィンストン・チャーチル
   誰も生きるに価値ある人生を見つけることは決してありません。
   価値ある人生とは自ら創り出すものなのですから。
マーティン・ルーサー・キング, Jr.:
   この世で一番大切なそして緊急を要することは、貴方がこの世の中(他人)のために何をするか、
   なのです。
 世界の偉大な啓蒙思想家は平和について大体同じようなことを述べています。
 同様に、平和へのたゆまない努力をしているロータリーの一員であることを私は誇りに思います。
 アーメン

このような会の最初に行う祈りをInvocationと言うが、ロータリー・クラブの場合には、毎週違う希望者が行うことになっている。私は、この準備のためには便利なグーグルで検索をして、大変勉強になった。以上のように偉大な頭脳たちは偶然にも皆一神教の信奉者たちであった。恐らくは宗教の根源まで到達すると、信仰の違いを乗り越えて自由の精神を獲得できるようである。皆自分のことだけではなく他人をおもんぱかっての発言である。
さて、ここからは私の視点で平和と心についての問題点を見つめてみたい。意見が衝突したり、利益を横取りされた時に、平和的解決がないものか、と色々頭を捻ることはよいが、何の解決策も想い浮ばない場合にはどうしたらよいのだろうか。間違えば個人的な殴り合いの喧嘩や国家間の場合には戦争にまで発展することさえある。経済問題の場合には領土拡張や資源獲得などという形をとって戦争を起こし、日本では未だ経験したことはないが、宗教間のいがみあい(意見の相違)から発展した戦争が外国では何度となく起こっているし、現時点でも世界各地で進行中である。しかしこれらの諸問題が必ずしも戦争では解決されなかった、という事実から我々は多くを学んできた。そこで戦争にまで発展する以前に平和的に解決しようではないか、との目的から世界各国が協力して設立した国際機関が古くは国際連盟であり、現在では国際連合(国連)であろう。しかしこれら国際的に組織された機関は、すでにその初めから矛盾を内包している。国連において一触即発の国家間の経済摩擦や人種問題を評議する評議委員になっている国が、その問題の当事者であったり、またそれらの国が軍事大国や経済大国であったりする場合に拒否権を発動できるので、当然の結果として公平な判断や決断が下せなくなる。各国の利益代表である国連大使は自国の利益を優先し、武力や経済力で各国の力関係を左右しようとし、真の平和的解決とはほど遠い内容の議論がなされがちだ。先に書いた世界の偉大な頭脳たちによる平和への示唆に富んだ発言に対して、先ず反対する人はいないであろう。しかし実行に移すことは非常に難しい。それは、他国をおもんぱかっている余裕がないからであり、思想の違いを隠れ蓑にする人間の浅さからであろう。

平和を勝ち取るためには死をもいとわないという表現は、清く勇ましく響くが、実はまことに意味深長な表現である。先ず「平和」の意味するところは必ずしも各国同じではない。平和を「独立と自由」に置き換えるとウクライナのクリミヤ半島でのロシアと国連またはEUとの確執そのものである。長い間流浪の民であったユダヤ教信者が独立と平和を念じて「イスラエル」を建国したのに対し、周囲のアラブ諸国が猛反対して戦争を何度も起こし、今だに決着していないだけではなく、宗教、人種、文化、利害(政治と経済)の全てにおいて衝突している状態だ。欧米とロシアという世界規模の、そして米ソによる冷戦当時から引き継がれた対立が、また再燃したのか、と思わせるような様相を呈している。アフガニスタンでのタリバン掃討作戦は国家とテロ組織(必ずしも宗教や国ではない)との戦い(大規模な刑事事件)や、シリアでの内戦、そしてISIS(イスラム国)に束縛されていた日本人の人質が二人とも殺害(断首)された。日本は行動を起こせずに未だに議論をしている有様だ。
ベトナム以来イラク、シリア、ウクライナと米国・ロシアが後ろにいる代理戦争が続き、国際摩擦は際限なく続いている。即ち過去の経験から何も学べないでいる。成長しなかったのは陣取り競争に忙しい政治家たちだけなのか、それとも一般市民もそうなのか、立ち止まって熟考してみる必要がある。政治家も一般市民であることを忘れてはならない。
私は、塩野七生の「ローマの物語」全15巻を2度熟読した。ローマ帝国が一千年以上継続し、その文化的手本であった古代ギリシャが国家として僅か百年しか続かなかった。この事実から、ローマとギリシャの根本的相違が何であるかを理解すれば、大人であり大きな心のローマと学生のようなギリシャとの対比されてくる。これを現代社会に被せると、ローマ抜きの現代世界戦争図鑑になってしまうよう。まことに寂しい限りだ。
「寛容」をその施政方針の中心に据えて一千年もの長期間継続した素晴らしいが実行は難しいローマの歴史、しかしこの動かし難い実績を直視する度量が我々現代人に欠けている。実はこの直視する度量こそが将来への成長第一歩であると信じたいのである。寛容=クレメンティア(ラテン語)とは寛容のために我慢を強いる事ではなく、先ず相違を認めその上で、違う枠組みにおける違う文化の発展をサポートすることなのである。偉人たちの残した言葉を実践に応用した場合には、「寛容」という姿勢と態度は力強く挑戦的でさえある。二千年前には有力な施政方針だったが、今は何故出来ないのだろうか。

文化や宗教の主義主張や価値体系を強制し過ぎると戦いになる。しかしローマの多神教の神々は人を守る「守護神」であったのであり、主義主張ではなかった。よって他人を説得する必要がなかった。日本の宗教感と何処か似ている。多神教である神道天皇家の宗教なので、日本の主流をなしてきた。日本にも仏教やキリスト教その他の一神教があるが、宗教戦争を起こすほどの強い教義の主張には至っていない。神道多神教であり他の多くの日本の一神教多神教的な様相を呈してきた、という日本の宗教の歴史がある。太平洋戦争では宗教色は一切無く、単に経済・資源・領土戦争であった。日本には文化的に「寛容」の精神を受け入れる土壌があり、他の宗教に対して寛容であるばかりではなく、自分の主義主張を他人に強要しない傾向がある。日本語自体が自分を表現するのを得意としていないようだ。自己表現や自分の才能を表明するための語彙も、欧米の言葉と比べると明らかに不足がちである。それ故であろうか、人間同士の表面的なぶつかり合いは極力避ける傾向にある。結果としては、日本人による反対意見の表明や敵対関係は表面には出にくく、裏にこもって陰湿になりがちである。
例えば、アメリカにおいて私は、専門の建築以外にも、絵画、音楽、diplomacy(教育、経済、文化における日米関係), フルマラソン等々を単なる趣味以上に真剣に追求する機会と環境を周囲の協力を得て作りだし、大いに楽しんできた。妬みで脚を引っ張られることもなく、寧ろ喜んでもらえて、ルネッサンス・マンなどとおだてられ、少し調子にのったりして、本当に幸運であった、と思っている。しかし、建築や絵画などにおいて反対意見を持つ人々はハッキリと主張を公の場で述べるので、対応し易い。しかし激しい論争や仲間割れになる場合が多い。その度に私は、アメリカは一神教の国であり、英語はその主張を支える語彙が豊富だと想わされる。

一般に一神教個人主義(断じて利己主義ではない)とは共存する傾向にあるようだ。その一神教の教義は人間の生き方を説いたり指示したりするので、それを信じる人と信じない人とに区別してしまう傾向がある。過去には、信じない人を異教徒と呼んだりして差別し、極端な場合は刑罰を与えたりしてきた。現在でもそれを実行している宗教もあると聞く。このような世界の状況下で、相互理解を深め、容認し、さらに相互サポートの姿勢を養えば、一神教の強烈な自己主張的傾向や、多神教の度の過ぎた「容認」の精神を矯正して、双方から歩み寄り相互の文化の長所を結びつけるように努力するなら、争いのエネルギーを創造のエネルギーに切り替えるとがこ可能になると考える。
適度に自制心の利いた自己表現、他の価値を敬う程度の容認の姿勢を養い、更に他人(他国)とのコラボレーションに意義を見出したら、後はそのプロジェクトに情熱を注ぎ込むだけである。コラボレーションでは、常にウィンウィンを心がければ万々歳である。「言うは易し」であるが、少なくとも方針や目的は皆でシェアできるはずである。ここでもう一度偉人たちのコトバを思い出してもらいたい。彼等の言葉の底辺に流れている精神は、心の持ち方について言っているのである。即ち物事に対処する時の姿勢を言っているのである。そして、その姿勢(施政)を目的達成に向かって維持するなら、それ自体がすでに平和なのである、と言っているのが理解できる。平和はその先で待っているのではなく、それへの過程自体が既に平和であり、正しい心の持ち方だと言っているのだ。まるで説教のように響くが、それでよいのだ。
私は「修身の時間」を経験した世代である。キリスト教の教会や仏教のお寺での説教を聴いたことのある人なら理解していただけると思うが、あの説教と言うものは「修身の時間」で習う「心の持ち方」と「心の平和」についての話なのだ。偉人たちの言葉も「平和と心」の話なである。
2015年2月15日 明日は雪が降るらしい。心だけは温めておこう。岸本雄二


つづいて佐貫惠吉さんです。

−確からしいこと(1)−

五月に高校の同期会旅行で八ヶ岳山麓南牧村にある野辺山宇宙電波観測所に立ち寄り見学する予定がある。 ここにあるミリ波電波望遠鏡が広大な宇宙から飛び込んでくる電波を解析し、超新星爆発ブラックホールの研究に威力を発揮していることは有名だ。
私が宇宙の成り立ちに興味を持つようになったのはそれほど昔ではない。実は、2010年の秋、私の患者である老詩人から、「時間と空間についていかに考えるか?」と唐突に質問された。本人は哲学科卒業だし、アンリ・ベルクソンという哲学者の時間と空間にかんする論考があることは知っていたので、「むしろそちらの専門でしょう」と返したら、そうではない、と言う。その時の会話はそれで終わったが、腑に落ちないので調べたら、「時間と空間の正体」を探ることこそ、今最もホットな「宇宙論」の課題だということがわかった。老詩人は、私が医者で「理科系」だから何か知っているだろう、と思って尋ねたにちがいない。医者は世間知らずで非常識、とよく言われるが、半分当たっていると思う。「診察室から見える世界」は現実のせいぜい半分、ということなのだろう。扉をこじ開けるようにして新しい世界に出なければ、向こうからは決してやってこない。だからこれはチャンスなのだ。
こうして「宇宙論」の本を探し始めたところ、2009年に邦訳が出たブライアン・グリーンという物理学者の「宇宙を織りなすもの−時間と空間の正体」上下(青木薫訳 草思社刊)を勧められた。もちろん一般向けの解説書だけど、数式を使わずにかなり高度なことまでわかりやすく書いているので有名になった本である。
以降この上下二巻本と格闘することになるのだが、あれから4年、何度か通読してもなかなか理解が深まらない。著者の前著「エレガントな宇宙」(邦訳2001年)、新刊「隠れていた宇宙」(上下 邦訳2013年)にも手を出してみたが、深まるどころか拡散していくばかりだった。納めどころが見つからないのだ。そこに、今年二月、2008年にノーベル賞を受賞した理論物理学者益川博士の新聞記事が目に飛び込んできた。
博士は言う。
素粒子物理学は、物質を構成する最も基本的な要素と運動法則を研究する学問です。多くの物理学者が、マクロでは宇宙の成り立ちを、ミクロでは原子より小さな世界を明らかにしてきました。僕と小林誠さんは1973年に物質の基本粒子として6種のクォークの存在を予言する理論を発表しました。
現在この分野で「標準理論」と呼ばれる6 種のクォークに基づく枠組みは70年代末には固まったものです。その後は、大型加速器を使った実験が重ねられ、95年までに全てのクォークが見つかりました。僕たちの理論は実証され、ノーベル物理学賞ももらいました。ただし、今は少しおかしな所に来ているんですね。
理論物理学者は標準理論で扱えていない重力を統一して説明しようと努めてきましたが、これが難しい。仕方なく“十次元の時空を想定すれば説明できる”なんて言っている。科学から空想になっちゃった。理論の可能性の追究には意味があるのですが、ちょっとむなしいね。この世の中に影響を及ぼす学問にしていかなければならないと思います。」

私は「あ、そうか!」と、悩んでいた「納めどころ」のヒントをもらったような気がした。ノーベル賞物理学者と素人の私が前提を共有しているわけがない。益川博士が批判している「十次元の時空」は、他ならぬブライアン・グリーンが提唱する「超ひも理論」の核心である。 博士が、この理論を理解できない私に救いの手をさしのべてくれたのか、と一瞬思ったが、それほど甘くはない。ブライアン・グリーン自身がすでに「隠れていた宇宙」で「これは科学か?」という疑問を、いろんな表現で随所に書いている。
結局こういうことなのだ。門外漢は、通常自分の知識と最先端の学問的知見との境界を認識し、この距離を縮めていく努力をすることになるが、物理学のこの領域では「空想と科学」の境界も見定めなければならない、ようなのである。「確からしい」のはこのあたりだろう、と私が「理解」するためには、この二つの境界を知ることである、ということになった。新しい知識を得ようとして(つまり、多少「背伸び」をして)読み始めたものが、今度の場合は、披露されている「空想」を楽しむのでなく、「科学」の到達点を見極める、というとても醒めた、難儀なものになってしまったわけだ。(続く)


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/
   Ryuの目ライブラリー:http://d.hatena.ne.jp/vivant/

−巨大地下空間/大谷石地下採掘場跡−

先日、宇都宮市にある大谷石(おおやいし)の地下採掘場跡に行きました。
この石は軽石凝灰岩の一種で、柔らかく加工がしやすいので、外壁や土蔵や塀などに古くから利用されてきました。ご存知の方も多いのではと思います。この採掘場跡については若干の情報は持っていましたが、実際に訪れ見るのは初めてです。そして、意図的ではなく“創られた”地下の石空間に静かな感動を覚えました。

この大谷石に関する思い出エピソードをひとつ。
大学の建築学科に在籍していた学生時代の時のことです。そもそも、私が建築の道に進もうと思ったきっかけは、高校二年生の時、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの設計した落水荘ペンシルヴァニア州)という建物の写真を観てからです。こんな風な建物を造る建築家になりたいと…。それだけにこの建築家の作品には思い入れが多々ある訳ですが、そのフランク・ロイド・ライトが日本で設計した、日比谷の帝国ホテルの旧建物(1923〜1968・写真貼付 )の内外の素晴らしい彫刻的装飾に大谷石が多用されていました。
この建物は、当時としては地上3階の巨大ホテルであった訳ですが(関東大震災にもほとんど無傷で残った)、第二次大戦後の復興から経済成長へ走り出した日本の経済優先の波は、都心の一等地にある客室数の少ないこの建物を放っておきはしませんでした。高層の建物へと建て替えるべく計画が表され、この建物の貴重さを知るものは(主に建築関係者を中心に)この建築・空間を何とか残すべきと建て替え反対・保存運動を大規模に展開しましたが、一部の移設保存(玄関部分が博物館明治村/愛知県犬山市/に保存)されはしたものの、日比谷の貴重なオアシス空間は消滅しました。
この「取壊し一部移設」が決まりそうだと言うことでその前にと、同級生数人でホテルを見に行きました。エントランスホールやロビーまでは、ネクタイ、上着を着用していればチェックを受けることもなく入ることが出来、その空間の大谷石による装飾を見ることは出来ました。しかし、何とか見たいと思っていた大宴会場である「孔雀の間」には入る手だてがありません。孔雀の間にどうやって入り込むか・・・。夕刻、丁度どこかの企業が立食パーティーをやっていました。ラッキー!?!。ブレザーにネクタイ姿の我々は、その関係の若手社員装って(自分達は装えたと思っていた…)侵入。グラス片手にその装飾の数々をを見て回りました。時々、周りからの不振そうな眼差しを意識しつつ・・・いまから思えばとんでもない・・・時代はまだ大らかでした。

そんな思い出のある大谷石、その採掘場跡の大きさは想像をはるかに越えた地下の大空間でした。ひんやりとした薄暗い空間は、目が馴染むに連れてその拡がりを現します。石であるにもかかわらず、その硬さが感じられない拡がりを下方に向かって進みます。靴音が反響するわけでもありません。床・壁・天井が大谷石で囲まれた空間は、御影石の様な硬い石で囲まれた空間とは明らかに趣が異なっていました。
イベントが行われてると思しきところで、置かれたピアノの調律がたまたま行われていましたが、音は程良く吸収され、多少の反響はあるものの、強く反射される音とは違った優しい響きをしていました。それこそぐるりと石に囲まれている訳ですが、音が体に突き刺さってはきません。
手掘りや丸鋸で切り掘られた跡は照明の効果で浮き上がり、壁にリズミカルな影を刻みます。粗っぽい石肌の表面であるにもかかわらず、優しさが漂います。
照明の当てられた展示オブジェが、その影を大きな壁面に映していましたが、何とも幻想的な雰囲気を醸し出しています(写真貼付)。

或るポケット空間では、上空から自然光がスポットライトのように入り、その場所に設置されたオブジェを浮き上がらせます(写真貼付)。神秘的な神々しささえ漂わせます(写真貼付)。
しばしこのひんやりとした不思議な空間を彷徨い、石に刻まれた“思い”を想い、
時を忘れるひとときでした。

注:戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用され、
現在では、コンサートや美術展、演劇場、地下の教会として、また写真や映画
のスタジオとしても注目を集めている、とのことです。



◆今月の山中事情108回−榎本久・宇ぜん亭主

−ランチパスポート−

高知市の出版社が地元で創刊し、本を掲載店に持参すればワンコイン(税別)
でランチが食べられるお得感が評判になって、今では全国的となり、地元出版
社が高知のスタイルに沿って発刊している。秩父版もすでに昨年九月に発刊
され、当店も参加店になっている。
秩父版発刊では「えっ?」と当初は疑問に思う点があった。「ワンコインでラン
チを!」が、ランチパスポートのうりであるゆえ、ターゲットはサラリーマン
であるからである。サラリーマンが大勢いる都市部での現象ならうなづけるの
だが、秩父が?だからだ。ご多分に洩れず秩父市も将来、消滅都市と言われ
ている。ということでサラリーマンが右往左往するところではないからだ。まし
て一時間しかない昼食時間の中、店は連なる訳ではなく、あちこちに点在して
いるのだ。行きたい店にと思っても、移動だけで往復二時間かかる店もある。
そういう状況の中で、秩父のランチパスポートは発刊された。発行部数は三千
冊。出版元としては充分の数のようだ。その世界の人間でないのでその他の
ことは解らないが、その数は売れた。店の数は六十店ほどが参加。お客はそ
のランチを求めて、最大三千人が動く。
この地でランチパスポートが成り立ったのはなぜか。サラリーマンに代わるの
はおば様達だったのだ。おば様達は潜在的ユーザーだった。彼女達は昼の
余暇を利用し、この小さな町の経済活動を活発にすべく、東奔西走、北奔南
走してくれている。少なくとも当店に於いては、98%がおば様方がランチパス
ポートユーザーだ。秩父のランチパスポートは彼女達がなければ存在しなかっ
たかもしれない。
さて当店だが、このことで新しいお客の開拓となり、申し分のないツールと思
っている。もうけは望むべくもないが、リピーター獲得の為、逆に500円で何が
出来るかを己の勉強として取り組んでいる。そのことが店の存在を知らしむる
ことになる。おば様達のその行動力を見るにつけ、失礼ながら皆営業係と思
っている。いろいろの店でランチパスポートをかざし、同席している他のお客と
情報を交換していただくことは、大きな意義がある。
大分時間が掛かったが、少しは当店も知られて来た。小さなマーケットエリア
ではあるが、今の私にとっては、仕事をさせて貰えるだけでもありがたいことで
あると思っている。
ランチパスポートは全国で地域活性化起爆剤となっているようだ。
“よあるお客がつぶやいて行った。宇ぜんは人気NO.1だ”
そんなの嘘だ!


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
  今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズです。
  今までとは少し違う色合いの作品です。  
  サイズは36.4cm × 51.5cmです。
  お楽しみ下さい(写真貼付)。

4月になりました。始まりの月でもあります。
福島の友人から以下の様なメールが届きましたので紹介します。

◆さて今日は3月11日、四年目の東日本大震災原発事故の日でした。
被災者、犠牲になった方に再度妻と共に黙祷をしたところです。
この時期にだけ特集として報道することが「風化」を助長しています。
もっともっと、今の状況はどうなっているのか、何が問題となって、なぜ進まないのか、そのためにはどうすればいいのか、等々を全国の人達に日常的に知ってもらうことが前に進むことと思います。
アンケート調査によれば68%の人が「風化」していると回答しています。また、原発事故に関しては東京電力の隠ぺい体質は依然として続いており、信頼関係は築けないでいることも全国的に報道すべきです。さらに、事故調査報告が政府を始め三機関でなされているにもかかわらず責任の所在は不明です。今後のためにも絶対「風化」させてはいけません。
2月13日から始まった我が家の除染はようやく終局になりつつあります。
庭に長年かかって育てた小さな草花が剥ぎ取られ、花崗岩の白い山砂が敷き詰められ、周囲は砕石が敷き詰められて殺風景になってしまいました。その剥ぎ取られた土は、仮置き場がまちにないため自宅敷地内に地中埋設・地上保管となり、いつ仮置き場に搬出するか決まっていません。
我が家の梅が間もなくほころびそうで、除染で殺風景になった庭にも春が見えるようになってきました。
 ・メルケル氏 近隣諸国 仲良くし 日本も共に 脱原発
 ・原発の 事故から四年 除染中 風化は進み 無かったことに


樹齢2000年と言われる山高神代桜エドヒガン)が今年も素晴らしい花をつけました(写真貼付)。
その末裔とのふれこみで買って植えた苗木が5年経って、今年初めて
花を咲かせました…いずれはこの下で宴…!!。

では《Ryuの目・?−no.148》をお楽しみ下さい。




◆今月の風 : 今月の話題は二題。

まずは岸本雄二さんです。

−平和と心−

2013年11月4日にクレムソン・ロータリークラブ昼食会の初めに行う祈りで、私が伝えた有名人の言葉です。
 著名人の平和に関する言葉を引用して、私の祈りといたします。     
 ・マハトマ・ガンジー
   愛(love) の力が、力に憧れる(love) 心を支配できる日が来たら、世界は平和になるでしょう。
 ・ゴタマ・ブッダ(仏):
   平和は心の内から生まれるもので、外から与えられるものではありません。
 ・ラルフ・ワルド・エマーソン
   平和は暴力によってではなく、理解によってのみ得られるものです。
 ・アルベルト・アインシュタイン
   平和は力では決して得られず、理解によってのみ到達できすものです。
 ・マリア・テレッサ:
   平和は微笑みと共のにやって来ます。
 ・ジョン・レノン
   貴方は私を「夢見る人」と言うかも知れません。でも夢を見るのは私だけではありません。
   何時の日にか貴方も私たちの仲間に加わり世界は一つになるでしょう。
 ・ウィンストン・チャーチル
   誰も生きるに価値ある人生を見つけることは決してありません。
   価値ある人生とは自ら創り出すものなのですから。
マーティン・ルーサー・キング, Jr.:
   この世で一番大切なそして緊急を要することは、貴方がこの世の中(他人)のために何をするか、
   なのです。
 世界の偉大な啓蒙思想家は平和について大体同じようなことを述べています。
 同様に、平和へのたゆまない努力をしているロータリーの一員であることを私は誇りに思います。
 アーメン

このような会の最初に行う祈りをInvocationと言うが、ロータリー・クラブの場合には、毎週違う希望者が行うことになっている。私は、この準備のためには便利なグーグルで検索をして、大変勉強になった。以上のように偉大な頭脳たちは偶然にも皆一神教の信奉者たちであった。恐らくは宗教の根源まで到達すると、信仰の違いを乗り越えて自由の精神を獲得できるようである。皆自分のことだけではなく他人をおもんぱかっての発言である。
さて、ここからは私の視点で平和と心についての問題点を見つめてみたい。意見が衝突したり、利益を横取りされた時に、平和的解決がないものか、と色々頭を捻ることはよいが、何の解決策も想い浮ばない場合にはどうしたらよいのだろうか。間違えば個人的な殴り合いの喧嘩や国家間の場合には戦争にまで発展することさえある。経済問題の場合には領土拡張や資源獲得などという形をとって戦争を起こし、日本では未だ経験したことはないが、宗教間のいがみあい(意見の相違)から発展した戦争が外国では何度となく起こっているし、現時点でも世界各地で進行中である。しかしこれらの諸問題が必ずしも戦争では解決されなかった、という事実から我々は多くを学んできた。そこで戦争にまで発展する以前に平和的に解決しようではないか、との目的から世界各国が協力して設立した国際機関が古くは国際連盟であり、現在では国際連合(国連)であろう。しかしこれら国際的に組織された機関は、すでにその初めから矛盾を内包している。国連において一触即発の国家間の経済摩擦や人種問題を評議する評議委員になっている国が、その問題の当事者であったり、またそれらの国が軍事大国や経済大国であったりする場合に拒否権を発動できるので、当然の結果として公平な判断や決断が下せなくなる。各国の利益代表である国連大使は自国の利益を優先し、武力や経済力で各国の力関係を左右しようとし、真の平和的解決とはほど遠い内容の議論がなされがちだ。先に書いた世界の偉大な頭脳たちによる平和への示唆に富んだ発言に対して、先ず反対する人はいないであろう。しかし実行に移すことは非常に難しい。それは、他国をおもんぱかっている余裕がないからであり、思想の違いを隠れ蓑にする人間の浅さからであろう。

平和を勝ち取るためには死をもいとわないという表現は、清く勇ましく響くが、実はまことに意味深長な表現である。先ず「平和」の意味するところは必ずしも各国同じではない。平和を「独立と自由」に置き換えるとウクライナのクリミヤ半島でのロシアと国連またはEUとの確執そのものである。長い間流浪の民であったユダヤ教信者が独立と平和を念じて「イスラエル」を建国したのに対し、周囲のアラブ諸国が猛反対して戦争を何度も起こし、今だに決着していないだけではなく、宗教、人種、文化、利害(政治と経済)の全てにおいて衝突している状態だ。欧米とロシアという世界規模の、そして米ソによる冷戦当時から引き継がれた対立が、また再燃したのか、と思わせるような様相を呈している。アフガニスタンでのタリバン掃討作戦は国家とテロ組織(必ずしも宗教や国ではない)との戦い(大規模な刑事事件)や、シリアでの内戦、そしてISIS(イスラム国)に束縛されていた日本人の人質が二人とも殺害(断首)された。日本は行動を起こせずに未だに議論をしている有様だ。
ベトナム以来イラク、シリア、ウクライナと米国・ロシアが後ろにいる代理戦争が続き、国際摩擦は際限なく続いている。即ち過去の経験から何も学べないでいる。成長しなかったのは陣取り競争に忙しい政治家たちだけなのか、それとも一般市民もそうなのか、立ち止まって熟考してみる必要がある。政治家も一般市民であることを忘れてはならない。
私は、塩野七生の「ローマの物語」全15巻を2度熟読した。ローマ帝国が一千年以上継続し、その文化的手本であった古代ギリシャが国家として僅か百年しか続かなかった。この事実から、ローマとギリシャの根本的相違が何であるかを理解すれば、大人であり大きな心のローマと学生のようなギリシャとの対比されてくる。これを現代社会に被せると、ローマ抜きの現代世界戦争図鑑になってしまうよう。まことに寂しい限りだ。
「寛容」をその施政方針の中心に据えて一千年もの長期間継続した素晴らしいが実行は難しいローマの歴史、しかしこの動かし難い実績を直視する度量が我々現代人に欠けている。実はこの直視する度量こそが将来への成長第一歩であると信じたいのである。寛容=クレメンティア(ラテン語)とは寛容のために我慢を強いる事ではなく、先ず相違を認めその上で、違う枠組みにおける違う文化の発展をサポートすることなのである。偉人たちの残した言葉を実践に応用した場合には、「寛容」という姿勢と態度は力強く挑戦的でさえある。二千年前には有力な施政方針だったが、今は何故出来ないのだろうか。

文化や宗教の主義主張や価値体系を強制し過ぎると戦いになる。しかしローマの多神教の神々は人を守る「守護神」であったのであり、主義主張ではなかった。よって他人を説得する必要がなかった。日本の宗教感と何処か似ている。多神教である神道天皇家の宗教なので、日本の主流をなしてきた。日本にも仏教やキリスト教その他の一神教があるが、宗教戦争を起こすほどの強い教義の主張には至っていない。神道多神教であり他の多くの日本の一神教多神教的な様相を呈してきた、という日本の宗教の歴史がある。太平洋戦争では宗教色は一切無く、単に経済・資源・領土戦争であった。日本には文化的に「寛容」の精神を受け入れる土壌があり、他の宗教に対して寛容であるばかりではなく、自分の主義主張を他人に強要しない傾向がある。日本語自体が自分を表現するのを得意としていないようだ。自己表現や自分の才能を表明するための語彙も、欧米の言葉と比べると明らかに不足がちである。それ故であろうか、人間同士の表面的なぶつかり合いは極力避ける傾向にある。結果としては、日本人による反対意見の表明や敵対関係は表面には出にくく、裏にこもって陰湿になりがちである。
例えば、アメリカにおいて私は、専門の建築以外にも、絵画、音楽、diplomacy(教育、経済、文化における日米関係), フルマラソン等々を単なる趣味以上に真剣に追求する機会と環境を周囲の協力を得て作りだし、大いに楽しんできた。妬みで脚を引っ張られることもなく、寧ろ喜んでもらえて、ルネッサンス・マンなどとおだてられ、少し調子にのったりして、本当に幸運であった、と思っている。しかし、建築や絵画などにおいて反対意見を持つ人々はハッキリと主張を公の場で述べるので、対応し易い。しかし激しい論争や仲間割れになる場合が多い。その度に私は、アメリカは一神教の国であり、英語はその主張を支える語彙が豊富だと想わされる。

一般に一神教個人主義(断じて利己主義ではない)とは共存する傾向にあるようだ。その一神教の教義は人間の生き方を説いたり指示したりするので、それを信じる人と信じない人とに区別してしまう傾向がある。過去には、信じない人を異教徒と呼んだりして差別し、極端な場合は刑罰を与えたりしてきた。現在でもそれを実行している宗教もあると聞く。このような世界の状況下で、相互理解を深め、容認し、さらに相互サポートの姿勢を養えば、一神教の強烈な自己主張的傾向や、多神教の度の過ぎた「容認」の精神を矯正して、双方から歩み寄り相互の文化の長所を結びつけるように努力するなら、争いのエネルギーを創造のエネルギーに切り替えるとがこ可能になると考える。
適度に自制心の利いた自己表現、他の価値を敬う程度の容認の姿勢を養い、更に他人(他国)とのコラボレーションに意義を見出したら、後はそのプロジェクトに情熱を注ぎ込むだけである。コラボレーションでは、常にウィンウィンを心がければ万々歳である。「言うは易し」であるが、少なくとも方針や目的は皆でシェアできるはずである。ここでもう一度偉人たちのコトバを思い出してもらいたい。彼等の言葉の底辺に流れている精神は、心の持ち方について言っているのである。即ち物事に対処する時の姿勢を言っているのである。そして、その姿勢(施政)を目的達成に向かって維持するなら、それ自体がすでに平和なのである、と言っているのが理解できる。平和はその先で待っているのではなく、それへの過程自体が既に平和であり、正しい心の持ち方だと言っているのだ。まるで説教のように響くが、それでよいのだ。
私は「修身の時間」を経験した世代である。キリスト教の教会や仏教のお寺での説教を聴いたことのある人なら理解していただけると思うが、あの説教と言うものは「修身の時間」で習う「心の持ち方」と「心の平和」についての話なのだ。偉人たちの言葉も「平和と心」の話なである。
2015年2月15日 明日は雪が降るらしい。心だけは温めておこう。岸本雄二


つづいて佐貫惠吉さんです。

−確からしいこと(1)−

五月に高校の同期会旅行で八ヶ岳山麓南牧村にある野辺山宇宙電波観測所に立ち寄り見学する予定がある。 ここにあるミリ波電波望遠鏡が広大な宇宙から飛び込んでくる電波を解析し、超新星爆発ブラックホールの研究に威力を発揮していることは有名だ。
私が宇宙の成り立ちに興味を持つようになったのはそれほど昔ではない。実は、2010年の秋、私の患者である老詩人から、「時間と空間についていかに考えるか?」と唐突に質問された。本人は哲学科卒業だし、アンリ・ベルクソンという哲学者の時間と空間にかんする論考があることは知っていたので、「むしろそちらの専門でしょう」と返したら、そうではない、と言う。その時の会話はそれで終わったが、腑に落ちないので調べたら、「時間と空間の正体」を探ることこそ、今最もホットな「宇宙論」の課題だということがわかった。老詩人は、私が医者で「理科系」だから何か知っているだろう、と思って尋ねたにちがいない。医者は世間知らずで非常識、とよく言われるが、半分当たっていると思う。「診察室から見える世界」は現実のせいぜい半分、ということなのだろう。扉をこじ開けるようにして新しい世界に出なければ、向こうからは決してやってこない。だからこれはチャンスなのだ。
こうして「宇宙論」の本を探し始めたところ、2009年に邦訳が出たブライアン・グリーンという物理学者の「宇宙を織りなすもの−時間と空間の正体」上下(青木薫訳 草思社刊)を勧められた。もちろん一般向けの解説書だけど、数式を使わずにかなり高度なことまでわかりやすく書いているので有名になった本である。
以降この上下二巻本と格闘することになるのだが、あれから4年、何度か通読してもなかなか理解が深まらない。著者の前著「エレガントな宇宙」(邦訳2001年)、新刊「隠れていた宇宙」(上下 邦訳2013年)にも手を出してみたが、深まるどころか拡散していくばかりだった。納めどころが見つからないのだ。そこに、今年二月、2008年にノーベル賞を受賞した理論物理学者益川博士の新聞記事が目に飛び込んできた。
博士は言う。
素粒子物理学は、物質を構成する最も基本的な要素と運動法則を研究する学問です。多くの物理学者が、マクロでは宇宙の成り立ちを、ミクロでは原子より小さな世界を明らかにしてきました。僕と小林誠さんは1973年に物質の基本粒子として6種のクォークの存在を予言する理論を発表しました。
現在この分野で「標準理論」と呼ばれる6 種のクォークに基づく枠組みは70年代末には固まったものです。その後は、大型加速器を使った実験が重ねられ、95年までに全てのクォークが見つかりました。僕たちの理論は実証され、ノーベル物理学賞ももらいました。ただし、今は少しおかしな所に来ているんですね。
理論物理学者は標準理論で扱えていない重力を統一して説明しようと努めてきましたが、これが難しい。仕方なく“十次元の時空を想定すれば説明できる”なんて言っている。科学から空想になっちゃった。理論の可能性の追究には意味があるのですが、ちょっとむなしいね。この世の中に影響を及ぼす学問にしていかなければならないと思います。」

結局こういうことなのだ。門外漢は、通常自分の知識と最先端の学問的知見との境界を認識し、この距離を縮めていく努力をすることになるが、物理学のこの領域では「空想と科学」の境界も見定めなければならない、ようなのである。「確からしい」のはこのあたりだろう、と私が「理解」するためには、この二つの境界を知ることである、ということになった。新しい知識を得ようとして(つまり、多少「背伸び」をして)読み始めたものが、今度の場合は、披露されている「空想」を楽しむのでなく、「科学」の到達点を見極める、というとても醒めた、難儀なものになってしまったわけだ。(続く)


◆今月の隆眼−古磯隆生
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−巨大地下空間/大谷石地下採掘場跡−

先日、宇都宮市にある大谷石(おおやいし)の地下採掘場跡に行きました。
この石は軽石凝灰岩の一種で、柔らかく加工がしやすいので、外壁や土蔵や塀などに古くから利用されてきました。ご存知の方も多いのではと思います。この採掘場跡については若干の情報は持っていましたが、実際に訪れ見るのは初めてです。そして、意図的ではなく“創られた”地下の石空間に静かな感動を覚えました。

この大谷石に関する思い出エピソードをひとつ。
大学の建築学科に在籍していた学生時代の時のことです。そもそも、私が建築の道に進もうと思ったきっかけは、高校二年生の時、アメリカの建築家フランク・ロイド・ライトの設計した落水荘ペンシルヴァニア州)という建物の写真を観てからです。こんな風な建物を造る建築家になりたいと…。それだけにこの建築家の作品には思い入れが多々ある訳ですが、そのフランク・ロイド・ライトが日本で設計した、日比谷の帝国ホテルの旧建物(1923〜1968・写真貼付 )の内外の素晴らしい彫刻的装飾に大谷石が多用されていました。
この建物は、当時としては地上3階の巨大ホテルであった訳ですが(関東大震災にもほとんど無傷で残った)、第二次大戦後の復興から経済成長へ走り出した日本の経済優先の波は、都心の一等地にある客室数の少ないこの建物を放っておきはしませんでした。高層の建物へと建て替えるべく計画が表され、この建物の貴重さを知るものは(主に建築関係者を中心に)この建築・空間を何とか残すべきと建て替え反対・保存運動を大規模に展開しましたが、一部の移設保存(玄関部分が博物館明治村/愛知県犬山市/に保存)されはしたものの、日比谷の貴重なオアシス空間は消滅しました。
この「取壊し一部移設」が決まりそうだと言うことでその前にと、同級生数人でホテルを見に行きました。エントランスホールやロビーまでは、ネクタイ、上着を着用していればチェックを受けることもなく入ることが出来、その空間の大谷石による装飾を見ることは出来ました。しかし、何とか見たいと思っていた大宴会場である「孔雀の間」には入る手だてがありません。孔雀の間にどうやって入り込むか・・・。夕刻、丁度どこかの企業が立食パーティーをやっていました。ラッキー!?!。ブレザーにネクタイ姿の我々は、その関係の若手社員装って(自分達は装えたと思っていた…)侵入。グラス片手にその装飾の数々をを見て回りました。時々、周りからの不振そうな眼差しを意識しつつ・・・いまから思えばとんでもない・・・時代はまだ大らかでした。

そんな思い出のある大谷石、その採掘場跡の大きさは想像をはるかに越えた地下の大空間でした。ひんやりとした薄暗い空間は、目が馴染むに連れてその拡がりを現します。石であるにもかかわらず、その硬さが感じられない拡がりを下方に向かって進みます。靴音が反響するわけでもありません。床・壁・天井が大谷石で囲まれた空間は、御影石の様な硬い石で囲まれた空間とは明らかに趣が異なっていました。
イベントが行われてると思しきところで、置かれたピアノの調律がたまたま行われていましたが、音は程良く吸収され、多少の反響はあるものの、強く反射される音とは違った優しい響きをしていました。それこそぐるりと石に囲まれている訳ですが、音が体に突き刺さってはきません。
手掘りや丸鋸で切り掘られた跡は照明の効果で浮き上がり、壁にリズミカルな影を刻みます。粗っぽい石肌の表面であるにもかかわらず、優しさが漂います。
照明の当てられた展示オブジェが、その影を大きな壁面に映していましたが、何とも幻想的な雰囲気を醸し出しています(写真貼付)。

或るポケット空間では、上空から自然光がスポットライトのように入り、その場所に設置されたオブジェを浮き上がらせます(写真貼付)。神秘的な神々しささえ漂わせます(写真貼付)。
しばしこのひんやりとした不思議な空間を彷徨い、石に刻まれた“思い”を想い、
時を忘れるひとときでした。

注:戦争中は地下の秘密工場として、戦後は政府米の貯蔵庫として利用され、
現在では、コンサートや美術展、演劇場、地下の教会として、また写真や映画
のスタジオとしても注目を集めている、とのことです。



◆今月の山中事情108回−榎本久・宇ぜん亭主

−ランチパスポート−

高知市の出版社が地元で創刊し、本を掲載店に持参すればワンコイン(税別)
でランチが食べられるお得感が評判になって、今では全国的となり、地元出版
社が高知のスタイルに沿って発刊している。秩父版もすでに昨年九月に発刊
され、当店も参加店になっている。
秩父版発刊では「えっ?」と当初は疑問に思う点があった。「ワンコインでラン
チを!」が、ランチパスポートのうりであるゆえ、ターゲットはサラリーマン
であるからである。サラリーマンが大勢いる都市部での現象ならうなづけるの
だが、秩父が?だからだ。ご多分に洩れず秩父市も将来、消滅都市と言われ
ている。ということでサラリーマンが右往左往するところではないからだ。まし
て一時間しかない昼食時間の中、店は連なる訳ではなく、あちこちに点在して
いるのだ。行きたい店にと思っても、移動だけで往復二時間かかる店もある。
そういう状況の中で、秩父のランチパスポートは発刊された。発行部数は三千
冊。出版元としては充分の数のようだ。その世界の人間でないのでその他の
ことは解らないが、その数は売れた。店の数は六十店ほどが参加。お客はそ
のランチを求めて、最大三千人が動く。
この地でランチパスポートが成り立ったのはなぜか。サラリーマンに代わるの
はおば様達だったのだ。おば様達は潜在的ユーザーだった。彼女達は昼の
余暇を利用し、この小さな町の経済活動を活発にすべく、東奔西走、北奔南
走してくれている。少なくとも当店に於いては、98%がおば様方がランチパス
ポートユーザーだ。秩父のランチパスポートは彼女達がなければ存在しなかっ
たかもしれない。
さて当店だが、このことで新しいお客の開拓となり、申し分のないツールと思
っている。もうけは望むべくもないが、リピーター獲得の為、逆に500円で何が
出来るかを己の勉強として取り組んでいる。そのことが店の存在を知らしむる
ことになる。おば様達のその行動力を見るにつけ、失礼ながら皆営業係と思
っている。いろいろの店でランチパスポートをかざし、同席している他のお客と
情報を交換していただくことは、大きな意義がある。
大分時間が掛かったが、少しは当店も知られて来た。小さなマーケットエリア
ではあるが、今の私にとっては、仕事をさせて貰えるだけでもありがたいことで
あると思っている。
ランチパスポートは全国で地域活性化起爆剤となっているようだ。
“よあるお客がつぶやいて行った。宇ぜんは人気NO.1だ”
そんなの嘘だ!


宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/


◆Ryu ギャラリー
  今月の一枚は「大地の目覚め」シリーズです。
  今までとは少し違う色合いの作品です。  
  サイズは36.4cm × 51.5cmです。
  お楽しみ下さい(写真貼付)。