★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.147

『3.11』
あれから4年が経ちました。
ジャーナリズムはこの時期になると競って報道しますが、もう少し日頃からきめ細かい報道を心がけるべきではないでしょうか?
まだまだ堪え忍んで居られる方々が多くいらっしゃる。
未だ制御できない原発なのに、忘却?・・・・・

春は弥生。しかし、ここ白州では今日も小雪が舞っています。
春を告げる福寿草が一輪、顔を覗かせました(写真貼付)。

さて、2月の銀座ギャラリーでのWORK TEN、上野での行動美術TOKYO展も無事終わりました。
多くの方々に足をお運び頂きました。感謝申し上げます。
行動美術TOKYO展では奨励賞を受賞し、秋の行動展に向けて励みになりました。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.147》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は滝本加代さんです。

−町医者の辞め時−

贅沢な悩みだと読まないでください。町医者の引退時期についてのつぶやきです。私は68才の誕生日を迎えました。耳鼻科の開業医です。すでに30年以上続けています。地域に住まいを持ちながらのビル開業です。患者さんたちも同じように一世代ほど歳を取りました。小さかった患者達は、社会人になり、親になり、その子どもを診ることもあります。そして、多くの高齢の患者さんを見送りました。勿論、新しい患者さんも来てくれます。
ダンボールいっぱいのお金があるやろうからここを譲って世界一周の豪華旅行でもいきなはれ。元気なうちに。」と、遠慮のない80歳の常連さん。「ま、先生が診察している間は、来ますがね。」とも、言ってくれます。常連さん達の多くは、良くも悪くもならない慢性疾患。待合室は穏やかな温みがあります。
「実はね、まだ外国に行ったことがないのよ。」それを聞くと、相手にいつも驚かれる。そう、確かに元気なうちに外国旅行もいいな。

常連さんに言われるまでもなく辞め時を考えることが多くなりました。このままでは何か人生の大事なもの『時』を失うのでないかと考えるからです。先日、私が地区医師会の耳鼻科医20名のうちの二番目の最高齢者と知ったときの困惑。そろそろ辞めることを考えるべきかなあ。前の世代の医師の中には、健康が許す限り80歳を超えても診察されているかたがおられる。みなさん奥さんにすべてを任せて、診療だけに専念されている。会計、レセプト、薬屋さんとの交渉、設備、人事などなどすべてをお任せです。奥さんが倒れて、あるいは懇願されての引退もあります。ここまで診療に執着したくないなあ。私の年齢に合わすように,以前より老人の割合が多くなり、患者数は少なくなりました。
若いお母さん達は隣のイケメン医師のほうに連れていくらしく、子供たちが特に減りました。そりゃあ、気持ちは分かりますよ。そして、モンスターペイシェントもいるし、理不尽な医療過誤に巻き込まれたこともあります。職員募集は悩みの種です。
でも、私はなぜ辞めていないのか、なかなか辞める気にならないのか。言ってしまえば、診療が嫌いでないから。自身の健康問題もない。機器に囲まれたコックピットのような診察室で、患者さんの椅子を上げたり下げたり回したりして、耳、咽喉、鼻を診察します。患者さんといっしょに、悩み考え解決の道を探します。
風邪や花粉症の患者さんも多いけど、悪性腫瘍も見つかります。専門医への紹介は毎日数通あります。おかげさまでの挨拶に元気が出ます。これ以上の充実感を得るものを辞めても思い至らないのです。ここは自分のお城だし大将だしね。

結局、町医者の辞める理由の一番は体力を含む健康問題。こうなれば、倒れて辞めるのも美学かなと慰めつつ、だらだらと続けていくのかなあ。賢過ぎる医師は、開業して10年もすれば、大きなストレスを感じ辞めたくなるようです。
町医者は、医学の最先端に見合う治療は出来ません。悩み事相談所みたいなところもあります。私は、幸い賢過ぎることもなく、カウンセラー大好き人間です。
ということで、地域に役立っていると信じてもう少し頑張ってみようかな。
大海知らずの井の中の蛙でもいいか。
長いつぶやきにおつきあいありがとうございました
2015 3 10 滝本加代


◆今月の隆眼−古磯隆生
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−或る喜寿の祝い−

先日、或る喜寿を祝う集いがありました。喜寿を迎えられたのは某学園女子中・高等学校の元校長先生で、ある会のお世話をされています。その会は、この女子高の生徒の父親だけが集まる会(いつしか女人禁制の会に)で、「薄暮講座」と名付けられています。この学校の創始者が、日頃、学校での母親の活動やサークルは様々あるが、父親のそれは皆無で、学校に近づくことが無い父親をターゲットにした会が出来ないものかと話しておられたと言うことで、その意志を実現しようと今から20年近く前にこの校長先生が当時のPTA会長に相談されたことが、事の始まりです。

“娘が同じ学校である”この一点で、様々な年齢の、様々な職業の父親達への声掛けが始まり、初回は10人程が集まりました。私はと言うと、学校でアルコールを飲みながら父親と先生達が交歓する主旨に興味を示し、参加しました。“学校でアルコールを飲みながら…”このことは驚きました。この学校の自由な雰囲気が感じられる出来事です。この会は夏休みを除き毎月1回、学校内のセミナーハウスで持たれます。会員資格は特にありませんが、娘がこの女子校に在籍または卒業しているその父親であること(及び、その父親の友人もあり)。強いて言えば、酒が飲めない人はなかなか続かない(それほど酒がテーブルに並びます)。
各回は会員またはその知り合いをゲストとして招き、様々な話題を提供してもらい、その話を肴に飲みながら聞き入る。話の後はフリートーキングがなされます。様々な年齢、様々な職種ですから、話題は自ずと幅広くなり、視野を拡げてくれます。12月にはクリスマスコンサートと称して、この学園の大学音楽部の卒業生によるカルテットを、これまた飲みながら聴くというすばらしく贅沢な時間が繰りひろげられます。
娘の卒業はありますが、薄暮講座の会員の卒業はありません。父親達はTwilight Time になると学校に集まってきます。
この薄暮講座の“心”は“酒と遊び”です(と私は思っています)。
酒は「添え物」としての酒ではなく、この会にとってはなくてはならないものとしての酒、様々に遊び(心)を引き出す玉手箱(仕掛け)としての酒です。
その酒はというと、全国様々な地域の酒との出会いです。山口県が出した銘酒「獺祭」も、今のように入手しにくいほど拡がる以前の段階で口にしました。
遊びは幅広く展開されます。各回に提供される話題は様々な分野に及びます。また、酒を基点とする様々な文化に触れることにもなります。定期以外の番外編を含めると、屋形船、蕎麦打ち、落語、民謡、などなど。
参加者にとっては自分の仕事環境の中では得られない、違う世界の話や人との出会いがあり、有意義な時間や機会に巡り会うことが出来ます。
この父親達の集いは、当初の予想(当初は数回程度で終わるか?)をこえて、20年近くも続き(今年中に200回目を迎える)、今や会員は50名ほどにもなっているのでしょうか、世代は引き継がれ尚続いています。

この“希有な会”を立上げ、最初からずーっとお世話をされ、毎回「Twilight Times」という通信を発行され、且つ、話題提供者に事前取材をする番外編までお世話された元校長先生の喜寿の集い。当然、会員達は感謝の念と飾らない、“コク”のある人柄に惹かれ、集まり、いつものごとく盃を交わし、健康と今後の継続を願って乾杯しました。この歳月の中で、それぞれに年齢は重ねるものの、このような“希有な集まり”は可能な限り続けてほしいとの密やかな願い(無理強いは出来ない故)を込めての乾杯であったと感じました。この穏やかで暖かみを感じる宴は心地よい時間を提供してくれました。私は一次会で失礼し、最終列車で山梨に帰りましたが、車中、心地よかった時間帯をほろ酔い気分で反芻していました。すばらしい集まりです。


◆今月の山中事情107回−榎本久・宇ぜん亭主

−臼(うす)職人のこと−

東京駅界隈に創業百年のホテルがあるという。
飯能時代からのお客様で、臼を造っている方がいる。埼玉県の名工としても数えられている。仮にAさんとさせてもらう。Aさんは、そのホテルに臼の製作を依頼されていた。そのホテルでは毎年正月になるともちつき大会を催していたようだ。自分の製作した臼が多くの人の目に留まることは制作者の冥利に尽きると、毎年よろこんでいた。
職人の世界は、どんな仕事でもそうなのだが、最終的には制作者に突きあたる。臼とてそうである。その姿が大きければ大きいほどそこに秘められたドラマがある。
まずはその臼となる素材選びである。多くは欅のようだが、樹齢百年もの木を見極める選別眼がその後の臼になる命運を握る。材料が良くともすぐ臼にすることは出来ない。必要な日時のあいだ、寝かせておかねばならないからだ。暇のかかる仕事なのだが、それがその後の臼の良し悪しにかかわることになる。15mの巨木と言えども、臼として使用できるのはわずか4m。数にして6個位とか。Aさんはその素材を求め、10トン車を駆って至るところへ出向く。
情熱がなければ出来ない仕事だ。また、Aさんは職人と作家の違いをよく説く。職人は使い手の気持ちに立って物を造る。作家は自己を全面に出して物を作る。そのホテルの臼は使用しない時はAさんが管理している。この年も恒例のもちつき大会は催された。東京駅界隈を行き来する人達にももちのつく音が聞こえていた筈だ。宿泊者や通りがかりの人もそのもちは振るまわれ、めでたくもちつき大会は終了した。担当者も安堵した。Aさんは臼の使用後について、こまかに羅列したマニュアルを記したものを預けてあった。臼というものがどれほどデリケートなものかを熟知していたからだ。
担当者は新人だった。渡したマニュアル通りやっていないなと直感した。三日経っても臼は送られて来ないからだ。Aさんは不安になった。乾燥したホテル内に放置していたら臼に亀裂が入る。その心配は的中した。担当者はイベントの成功のみに神経を使い、臼に対してはそうはしなかったのだ。数日後送られて来た臼には無惨な割れ目が入っていた。ホテルの名や施した見事な臼だが、もうもちつき用としては使えなくなっていた。
マニュアル通りに扱ってくれればこの様にならなかったことに,Aさんは言った。
「あなたの会社が百年続けて来られたと言うが、この臼とてその頃芽を出したのです。あなたの会社と同じように、本物の風雪に耐えて、大きな木になり、臼になりました。そのための注意書きを作って、大事にしてほしいと願いました。そんなにむずかしいお願いではなかった筈です。少し注意を払っていただければあのようにはならなかったのです。それをおこたって、あの臼は臼ではなくなりました。会社にたとえれば倒産です。私は木のことについてはあらゆることを学びました。木のことを知らないとこの仕事は出来ないからです。おねがいしたことが守られず、臼は壊れました。そういうことで、誠に申し訳ありませんが、今後御社への納入はお断りいたします。永い間お世話になり、ありがとうございました。」と電話を切った。
ホテルの担当者は、その電話で臼について自分は何ひとつ知識の無かったことを恥入った。Aさんという職人が、木について一語一語、かみしめて語ったことは、形を変えて、自分達の生き方さえ批判されていたのだ。臼の年輪はそれを教えていたのだ。
後日、担当者と役員がAさんのところに赴き、無知がゆえの非礼を詫び、Aさんの怒りを解いたとのことだった。私達も知らない仕事に対し、ぞんざいになったりすることが良くある。思慮をもってあたる心がけがないと、とんでもないことになることを今の度は教えてくれた。
宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/

◆Ryu ギャラリー(写真貼付)

 今回は、「落」シリーズの13番目の作品です。
 ちょっと趣向を変えてみました。サイズは36.4cm × 51.5cmです。
 どんな情景を想像されますか?

◆様々情報

★「はてなダイアリー」というブログでRyuの目の掲載をしています。  
  これまで発信したものは全て掲載しています。
  私のホームページにリンクしておりますのでご覧下さい。
    http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant/