★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.139

梅雨真っ盛りです。
台風による豪雨が心配されます。
それにしても安定しない天候。

安部政権のやり放題。野党のお粗末。

伸び伸びと拡がる我が家のスモークツリーをご紹介(写真貼付)。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.139》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−蟻−

お、地面にでかい亀裂が走っている。地割れか。いや、大地震か。でも揺れてはいないぞ。うわあ、亀裂から人間大の大蟻が這い上がってきた。夢なのか?でも、本物の土と草の臭いがする。目を閉じて暫し考える。首が痛い。手で草や首に触ってみて全てが分かった。僕は青空の下で昼寝をしていたのだ。草の上で大の字になって。地面の亀裂は目からたった10センチほどの所にあり、草は私の顔よりも背が高く、草の先にも大蟻が遊んでいた。両手で横を向いていた顔をそおっと真っ直ぐ上向きにすると、目に水滴が飛び込んできた。いつ
の間にか青空は消えていて、黒っぽい雲が大空を覆いだしていた。この水滴は大雨が来る前触れかもしれない。上半身を起こすと、あっという間に地面の亀裂は遥か彼方へ遠ざかってしまった。大蟻も胡麻粒のようになってしまった。

そうだ。少し疲れたので、いつも走っている大学校内の草むらに身体を横たえたら、いつの間にか寝てしまったようだ。頭に手をやったら蟻が一匹指の間に絡まってきた。疲労感はなかった。急に雨がはげしくなってきた。お陰ではっきりと目がさめた。身体についた草や土を払って又走り出した。雨を避けるために林を抜けて行くことにした。木の葉で覆われたトンネルは秋も深まったせいか、薄暗いとは行っても僕の髪の毛程度に隙間はあいていた。木の匂いがして大好きだ。時々木の根っこが小道を横切っているのでつまずかない様に下を向いて走った。ここは走りなれた林の道なので根のある場所は大体覚えている。

草の中でひと寝入りする前にすでに10キロ近く走っていたので、あと1,2キロでロッカールームのある体育館へたどり着くように近道をすることにした。直ぐに右へ曲がって池に沿って並ぶポプラ並木の下を雨に濡れないようにひた走りに走った。ひと寝入りの効果があって、いつもよりスピードを上げても呼吸は乱れなかった。75歳の老体でもまだ走れそうだ。いつもは50歳前後の若い連中と走っているので、少し自信をなくしていたのであるが、まだやれる、と思えてきた。これからは走る前に30分ぐらい睡眠を取るのも悪くはないという感じだ。そう思うと少し激しくなってきた雨も、汗ばんだ身体には気持ちよく感じられた。

蟻は良く働く事で知られている。よく動く足で一生懸命に働いているようにみえる蟻たちも、実は遊んでいるときだってあるはずだ。恐らくその半分ぐらいはエクササイズのような気がする。あの地面の割れ目から出て来た蟻さんのとぼけたような顔は、どうみても真面目に働いている顔ではなかった。でも遊びも仕事の一部なのかも知れない。そう考えると、僕のランニングも仕事の一部なのだ考えれる。とにかく走った後は、よしやるぞ、というスピリットの塊が身体の中を駆け巡るのだから。蟻さん有難う。引退後は、すること全てが大切なような気がして、楽しみながらしかも真剣に取り組んでいるので、まるで蟻さんそのままだ。またあの蟻に会いたい。
2013年11月6日   
晩秋の静かなクレムソンにて、75歳の誕生日を蟻と祝う。雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
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−戯れる−

移住から5年が経ち、白州での生活も腰を落ち着けて過ごせるようになりました。「東京時代」との一番の違いは何と言っても自然との関わりでしょう。様々な場面で自然との関わりを感じ取る生活環境です。そんな関わりは、表現を変えれば“戯れ”かも知れません。
東京で暮らしてる時は、ひたすら“見る自然”を求めていたように思われます。勿論、公園や神社の境内などに行くと、特に夏などは樹木に覆われた日陰で、気持ちの良い時間を過ごすわけですが、基本は“見る自然”であったように思います。新緑や紅葉もその対象の一要素のように思います。人工の空間の中でのアクセントとしての樹木であったりするわけです。都市スケールでみると公園も都市空間の中でのアクセントと言っても良いかも知れません。移住生活ではそれが“見る自然”ではなく、その中にいる自然であり、対象として“戯れる自然”に変わります。前回お話しした「新緑浴」も新緑を眺めるのではなく、新緑の中に這い入り、5時間彷徨い、様々な新緑素を全身で感じ取る行為、即ち、良い要素も良くない要素も含めて受け容れ、その中を浮遊するがごときです。目に飛び込む新緑、心地よいせせらぎ、小鳥の囀り、草木花の香り、一休みして食べるおにぎりの味、足裏に感じる土や石の感触、五感を刺激することこの上もありません。
昨秋の、近くにある尾白川渓谷トレッキングも紅葉との“戯れ”でした。この川の流れは生活に密着します。田畑への水の供給源です。四季折々に眺める川でもあります。
日常的な“戯れ”は庭や周囲の草木花の四季折々の様子ですが、やはり何と言っても畑仕事でしょうか。作物の植え付け、生長は日々の楽しみでありますが、それだけが楽しいのではありません。雑草、虫、土も対象です。雑草の出方は毎年違います。虫のつき方や種類も毎年違います。雑草取り、虫取りをしながらその変化を感じ取ることが出来ます。そして土いじり。フカフカした土、大きなミミズ、モグラの穴、根切り虫、等々。すべてが“その中に入って”の応答です。
2月のドカ雪には驚きました。その中での自然の厳しさを目の当たりにもしました。不便さも感じましたが、これとて自然の一部。遅かった雪解けは植物たちに例年とは違った対応をさせました。全般的に成長は例年より遅かったのですが、花の付き方がいつもより綺麗に感じます。
これからも“戯れる”生活が続きます。それは創造の原点でしょう。



◆今月の山中事情99回−榎本久・宇ぜん亭主

−食の今昔−

数十年前、わが国では芋一本に人々が群がっていた。だが現在の日本を見渡すと、同じ国とは思えないほど、町のどこを歩いても食べものがある。都会に至ってはこれでもか、これでもかと、食べものがひしめきあっている。そのことを知っている私は、本当にこの国の現状なのかと疑ってしまう。膨大な量と種類が連日人々の胃で消費され明日への糧となっている。本来食品関係ではなかった企業も参入し、とどまることを知らない。つまりは何でもありの型になってしまっている。製鉄会社が野菜を作ったり、掃除会社がドーナツを作っている。それが見事に社会に溶け込んで、食をカバーしているのだ。雑誌をめくればそこにも、テレビをつければそこにも、P・Cをクリックすればそこにも満載だ。しかし食欲はそんなヤワではなく、麻痺するどころか、あれもこれもと欲するのである。これも国民が一丸となって成し得た結果ゆえ、過去を語るのは辞めよう。

ツールを利用し、欲するものをいとも簡単に手に入れることにより、人々は至る所から美味なる物、珍なる物を得、皆評論家にもなった。最新ツールを利用すれば、発信先にすぐ出向き、その商品の行程を知るでもなく、お金を払うことで即座に要求は満たされる。三万円のすし屋に行ったことが、すしのすべてだと言わんばかりに…。食に関してそのように人心が変わったのである。一方では「B級グルメ」なるものによって、食を競争のものにされている。もともとはそこで食べられていたものが、表沙汰になっただけなのに、ランクづけされ、何やら合点が行かないふしもある。
食の提供者としての私だが、師匠に教わったことを愚直に行い、現状のすさまじい食の世界にたてついている。高カロリーの摂り過ぎによる、健康を害する問題がかなり前から指摘され、成人病の大きな問題に発展している。子供達は子供達で、若年性の病気を発症し、これも社会問題になっている。食が満たされたことによる新しい問題は、存外やっかいだ。
芋の取り合いは今はない。この豊かな暮らしは先人の努力によって成されたのだが、今後もずっと続く保証はない。再び何らかの事情で食料困窮の日々に見舞われるかもと私はおののいている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/