★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.138

6月です。梅雨入りしました。
緑が一段と映える時節です。

国立競技場建替え計画(新国立競技場)が問題になっています。
国際コンペで1位となった案に対して、景観上の問題、建設費用の問題、構造上の問題、メンテナンス上の問題、…。この国際コンペ(審査委員長:安藤忠雄)の選考過程が5月30日、日本スポーツ振興センターからやっと公表されました(遅い!)。
しかし、指摘されてる諸問題に対して今後どの様に対処してゆくのか不明です。
少なくとも修正案は原案に比べて歪曲された感が否めません。
シドニーのオペラハウス国際コンペの二の舞にならなければよいが…。
コンペの評価基準に、国威発揚とばかりの「日本が世界に発信する力」という観点にはいささかの違和感を覚えます。
人口減少、高齢化社会の進む日本という国で、これからの巨大建築のあり方が問われてる案件です。

安部政権がいよいよ拙速に国の根幹を変えようとしています。
さて、日本の憲法、自衛はどうあるべきか?
今月はアメリカ在住の岸本さんから話題提供頂きました。
違う角度からの話題提供をお寄せ下さい。
審査が厳しい原子力規制委員2人が交代…政権に都合の悪い意見は排除?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.138》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−平和とは勝ち取るものである−

現在日本では、「防衛」と言う事について各種の論争が戦わされている。安部首相を中心として国会や専門家グループなどが、テレビのニュースで激しく渡り合っている。国民の生命を守る義務を遂行するために政府のとるべき行動をどのように法律で規定して、決断を下していくかがその焦点となっている。国民の命を守るのに自分の手を汚して守るのか、他人の手をよごすのか。さらに自国民を守ってくれるべき、その他国民が攻撃されたら日本はどうすべきか、が大きな話題になっている。
何かがおかしい。何だろう。何故だろう。そうなのだ。今まで何の疑いもせずに、平和憲法と謳ってきたものが、実は徹底的吟味もされず、ただ後生大事に神棚に納めていた、と言う事に気が付き始めたのだ。この物騒な世界の動きのなかで、ただじっとして、日本は他国に対して無害であり、他国を襲ったり侵略したりしない平和な国なのです、と発言してきたのである。
日本が他国を襲わないのは良いとして、他国が日本をおそったらどうなるのか。アメリカ様が守ってくれるから大丈夫、とは完全な他力本願である。
歴史的な定義として、このような国を植民地という。普通このような植民地には、そこを植民地としている国(アメリカ)が駐留軍をおいて、その国を庇護下に置き、税金を徴収したりしなかったり。これはローマ時代から同じである。その矛盾にやっと気が付いたのである。
そもそも、平和憲法といわれている日本国憲法は、第二次大戦後、アメリカ占領軍司令部の命令で、日本が二度と再び軍隊を持たぬ国にするために、若いアメリカの法律家達が徹夜で仕上げたものである。その間、駐留軍司令部による完全な情報統制下に置かれた日本国民は、あたかも日本政府(吉田茂内閣)が作ったかのように新憲法の発表を信じこまされて、納得させられたのである。(アメリカの国会図書館に全資料公開されている)。戦後70年もの間、占領軍の意図がこれほど成功するとは、誰も想像なかったであろう。
憲法によって属国根性を植えつけられた日本は、独立精神を忘れて、世界で唯一の軍隊を持たない国として、平和への希望と誇りとを世界に訴え続けてきた。しかし考えてみてもらいたい。戦後の日本に一時として、軍隊のいなかった期間はないのである。駐留軍と自衛隊(軍隊?)が常に存在していた。こんな矛盾があるだろうか。汚い戦争は駐留軍に任せて、戦争を禁じている日本は、自衛隊を保守一点張りに制限して、「日本は平和主義の国である」と主張しているのである。いま、日本はこの自己欺瞞に気が付き始めたようである。
大分遅くなったが、気が付いたことは良い事である。この偽善に耐えられずに、自衛隊本部に乗り込んで、腹を掻っ捌いた作家もいた。この自己矛盾を叫びつつ死んでいった評論家もいた。いま国会で、世界の中の日本にとっての真の「平和」とは何か、を徹底して話し合い、解明してもらいたい。
そして、国民一人ひとりが真剣に自分のこととして、「平和」について考えてもらいたい。
私の到達点は、世界の荒波の中で、「平和とは、与えられるものではなく、勝ち取るもの」である。

2014年5月27日 誠に平和なクレムソンにて 岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

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−新緑浴−

昨秋、我が家から10分程のところにある尾白川の渓谷トレッキングコースに移住後初めて挑戦してみました。この紅葉時期のトレッキングは私にはとても刺激的な経験でした。とはいえ、もともと山歩きにそれ程興味をいだかなかった私なので、これで打ち止めと決め込んでいました…が……春になり、暖かくなるにつれて新緑が目に染み込むようになり、新緑の時期にもう一度尾白川渓谷を歩いてみたいと思うようになりました…。
5月になり、尾白渓谷トレッキングを予定したのですが、2月の歴史的ドカ雪によって、渓谷コースで崩落・倒木があり、通行不能になっていました。開通の見通しは一向に立たないとのこと。そこでやむなく仲間に相談したところ、尾白川は諦めて川俣川渓谷はどうかとの提案がされました。その方面には全く疎い私なので、尾白川渓谷の新緑はまたの機会にでもと考え、とりあえず新緑が堪能出来ればとの思いから川俣川渓谷をトライしてみることにしました。
さて、八ヶ岳を流れ出るこの川俣川は東沢と西沢に分かれますが、目当ては東沢です。川俣林道の渓谷入り口までは車で行きます。朝9時半にスタート。しかし、この渓谷コースも2月の大雪でその大半が通行不能となっていることが現地でわかりましたが、「吐竜の滝」までは行けるとのこと。この「吐竜の滝」の名前こそは聞いていましたが、実際に行くのは初めてで、さてどんな滝か楽しみでもありました。その先はルートを変更して山道で新緑を楽しむことにしました。
前回の尾白川渓谷の時は初めてということもあり、尚かつ、準登山コースになるアップダウンの激しい、危険な箇所も多いハードなコースであったため、気持ちに余裕はあまりなく、必死で先導者について歩きましたが、今回は仲間も増え、コースも尾白川渓谷ほどのハードさは無く、後方で道草をしながら…と言うほど気持ちにも余裕がありました。その余裕は新緑だけでなく、様々な草木花を楽しむことにもなります。
お目当ての「吐竜の滝」までは何と言うこともなく平坦な林道です。渓流の音を耳にしながら出発から程なく到着しました。大きな滝ではないが、幾筋もの滝があり、近くまで寄ることも出来る楽しめる滝です。(写真貼付)

さて、吐竜の滝からは川沿いが通行不能なので、山道に入ります。木々に覆われた空間ではバリエーション豊かに“新緑”が展開されます(写真貼付)。

カラマツの一段と濃い緑はそれらの新緑を引き立てます。そこは様々な草木花との出会いの空間でもあります。むき出た樹根の造形が目を惹く、とてつもなく面白い。目を和ませる花のアクセント。草花に疎い私にとって、詳しい仲間の同行は草花に興味を抱かせ、楽しく、新たな“歩き”の発見です。道中に出会った花は九輪草イカリ草、舞鶴草、翁草、等々…とか。更に、思わず見上げた、圧倒されそうな巨岩の壁(写真貼付)。絵になりそうだなー…。

きつい登りのところでも仲間の笑い声は元気を引き出してくれます。前回は、先導者の熊避けの鈴の音が一定のリズムを刻んでくれましたが、今回はこの“笑い声”が和らいだリズムをつくり出します。
山道ルートには牧場も登場します。八ヶ岳牧場、牧場公園。樹林から一転、開けた視界には南アルプスが一望(写真貼付)。気分爽快!山々が美しい。乳牛の姿もちらほら。

清流を楽しみ、アップダウンを楽しみ、草木花を楽しみ、山々の眺めを楽しみ、最後は再び吐竜の滝に戻り、一休み。
落水に見入り、音に聴き入る無心の時間です。絵になる…。
5時間に及ぶ山歩きは、いささか時期がずれたとは言え、新緑に溢れた時空を堪能し、全身が活性化されるそんな時間でした。結構!、結構!



◆今月の山中事情98回−榎本久・宇ぜん亭主

ティッシュ考−

消費税増税で日用の物が上がり、その為買い控えもささやかな抵抗策として起こしている。安いと思っていた商品も“エッ“と思う値段になっていると、すかさず「倹約」の単語が頭を過る。しかしたかだか二ヶ月でオカミに馴れさせられている。背に腹は代えられず、彼らの軍門に下らざるを得ない。今まで、何気なく使っていたティッシュ。無駄遣いの代表のようなものである。それのことで又、ずい分昔のことを思い出してしまった。思えば、この肌ざわりのなめらかなティッシュなど無いその昔は、粗悪だろうが、黒ずんでいようが、厚めのちり紙が必需品として使われていた。ちょっと上等なものはもう少し白く、薄くやわらかで、子供心にもその優劣がわかり、わが家の家計が脳裏をかすんだ。そして私はもっと凄まじい経験をさせられた。
新聞紙をハンカチ大に折り、袋状になっている所に洟(はな)をかむのである。十カ所作れば十回かむことが出来た。内側から順々にかんで行くのだが、時間が経つと内側の部分が乾き、再度使えることになっている。洟は粘液なので新聞紙から洩らないので充分用を足した。これこそ究極のエコ用具と思うのだが、現代にあっては使うのが憚れる。
ティッシュの使用頻度は各々で違うが、無駄遣いの代表のような物を造っている製紙業者にとって、節約され過ぎると経営の根幹をゆすぶられるが、値上げすることになっても同じ憂き目に遭うようで、痛し痒しだ。
世の中が便利になったことにより、利用者は、そのコストはすでに組み込まれ購買を余儀なくされている。それが、絶対的に必要であれば仕方がないが、我が家を見回しただけでもずい分無駄なものが散見している。果たしてその時、本当に必要だったのだろうかと…。ティッシュのみならず、その瞬間で役目の終わる消費材のなんと多いことか。
ラップはティッシュと双璧だ。あんなに多用途に使われていながら、再利用もされず、用が済めば瞬時にゴミと化す。
一方では「もったいない」「エコを」と唱えても、不便を望まぬ人の割合が圧倒的に多くなった我が国では、それを受け容れる人はもうわずかであろうから、今の世にタテついても“同感“とうなずいてくれる人はそう居なそうだ。


宇ぜんホームページ
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