★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.136

4月になりました。
芽吹きの時期は、人によっては辛い時期でもある。
一方、若者達の“始まり”の時期でもある。
我が庭の福寿草も目覚めました(写真貼付)。

樹齢二千年と言われる武川の山高神代桜は今年も見事に花を咲かせました。
添付写真をご覧下さい。このたくましい生命力に感動します。

つい先日(6日)には“なごり雪”も…“自然”が意識されます(写真貼付)。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.136》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−空気−

空気のような人、と言えば居るのだか居ないのだかよく分からない人、のことといえるでしょうか。居ても害にならない人、と、居ても居なくてもどうでもよい人、とでは少し感じが違ってくる。どうでもよい人とは必要のない人になるし、いつでも使える人といえば、とっさの時に役に立つ人となり、かなり重要さが増してくる。
空気と人とは本当に良く似ている。澄み切った空気が十分あるときは、むしろ空気の存在を意識しないが、一旦空気が汚れたり不足してくると、途端に空気の有難さが倍増してくる。澄み切った空気でも化粧水や脂粉を撒くと、ほんのりと女性を意識したり、強すぎるとナイトクラブや百貨店の化粧品売り場を想像したりする。これが密室状態の朝の満員電車の中だと殆ど汚染空気か毒物をも想像してしまう。とくにサリン事件の経験者は悪夢を思い出すかもしれない。

よく空気を読むという。私は空気を読むのが嫌いな人種であるが、空気が読めないのではない。他人の事ばかり気にし過ぎて自分の意図を伝えれないのが嫌なのだ。コミュニケーションの第一歩目は、まず相互理解から始まると思うからだ。お互いの考えや好き嫌いは知っておいたほうが相手を理解するのに役に立つ。自分の意見を言い過ぎて相手にしゃべる機会を与えないのは、確かに困ったことだ、とまでは理解している。相手に話す話題が無かったり、余り意見が豊富でない場合には、出来るだけ相手にしゃべり易いようにしてあげるのが
礼儀であり、コミュニケーションのコツであるが、これにも限界がある。この段階になってくると、確かに空気を読む技術が効果を発揮する。何故双方はそのように向かい合っているのかを考えて、その目的に適うようにすればよいわけである。空気を読むとはそういうことだと承知している。
数年前に私が中国へ行ったときのことである。北京、天津、上海などの大学を訪れたときのことだ。協同研究や学術交流などの可能性を探して、毎日それぞれの分野のトップと話す機会があった。私はいつものように早朝5時頃、5,6キロ走ってから朝食を取って、アポイントメントへ望むわけだ。この朝のランニングに問題があった。私ではなく、空気の方だ。白いのである。そのうちに胸が痛くなってきた。まだ自動車が走り出す前の早い時間である。この汚染は何処から来るのだろうか。それが私の知りたい事であった。面会する人々は、学部長や、副学長などである。面談の終わったときに、その場の空気を読んで、やんわりとこの質問をした。そうするとどうであろう。どの大学でも同じ答えが返ってきたではないか。「これは汚染ではありません。白い空気です。」と。
今のように中国の大都市で汚染が真剣に問題視されるようになる数年前の話である。空気を読みながら空気の事を聞いたのだが、中国の言論の統制を経験しただけで、後味の悪い結果になった。私の中国に対する印象が変わった瞬間であった。
1960年代の日本が経験した「光化学スモッグ現象」でマスクがよく売れたことを記憶している人は多いいだろう。当時は先進国である米国が、労賃は低いが生産性の高い日本に投資をして、働き蜂のような日本人が戦後の復興を「追い越せ追い抜け」を掛け声にして、わき目も振らずに働いた結果が光化学スモッグであった。同じことを今の先進国日本が低賃金の東南アジアの国々にやらせているのであり、「白い空気」の間接的責任は先進国日本にあることは明白である。決して他人事では済まされない。偏西風が中国の白い空気を日本へ吹き流してくる場合には、我々は被害者なのだ、といっているようだ。この白い空気現象の読み方は、即日本の知的レベルと誠実度の表明になるので真剣に考える必要がある、と思うのは私だけではないはずだ。このことに責任を感ずべきは、勿論日本だけではない。しかし、他人のことは先ずさておいて、自分の意見を述べようではないか。意見が無いとはいわさない。多分日本人が今の中国政府だったら、皆でテーブルの向こう側で、無数の報道カメラに向かって、一斉に頭を下げて、意味の無い、無責任な態度と心で「まことに申し訳ありませんでした」。何と白々しいことか!これを悲しいと思うならまだ救いはある。
これを国際感覚でみたら、日本国民侮辱、として蔑み哀れみ馬鹿にされている、と思って間違いない。多くの外国人知識層がそのように考えていることを知ってもらいたい。特に、東北原発の問題での同じ悪習は外国の学者には耐え難いことなのだ。私にも耐え難いことなのである。「偽善」であるからだ。日本にいる日本人知識層はどのように見ているのだろうか。日本の習慣や文化が「偽善」であるはずが無いので、これは日本の最近の責任逃れをしながら対社会的な一時逃れの悲しき挨拶、と言えば理解してもらえると思う。私はアメリカでこの様子をテレビで観ていて、これは私の知っている日本ではない、と強く感じている。この雰囲気又は空気は全く読む必要のないものだ。国民を侮辱していること甚だしい。私の知っている日本の空気はもっと透き通っていた。今は本当に汚染されている。白い空気ならぬ白い習慣である。
2013年11月9日 白い習慣に憤りを感じている老人  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−ある陶芸家の個展−

先月、3月11日の午後、私は東京の地下鉄茅場町駅近くにあるレトロなビルの2階の一室に居ました。知り合いの陶芸家(37歳)の作品を観ていました。

10年程前、縁あって制作工房の設計を依頼されました。京都で修行し、東京に戻って結婚、若い夫婦の活動開始(開窯)に少しでも力になれればとの思いで工房の設計を引き受けました。以来、彼の作品を見続けることになります。今回は3度目の個展でした。2度目の個展で受けた印象は、若いけれども繊細で美意識のしっかりした完成度の高い器を作る作家だなとの印象でした。そう言う意味では、逆に完成度の高さがむしろ心配でした。“早すぎる”。
2度目の個展は2011年の東日本大震災の4ヶ月前で、以来3年4ヶ月振りです。
しかし、今回の個展は様相を全く異にしていました。あの“3.11”はこの作家に衝撃を与えました。自然の崩壊、人々の生活の崩壊、命の崩壊、そして原発の崩壊。それは彼から作る力さえ奪ったのかも知れません。誰もがそうであったように、戸惑い、無力感に苛まれ、自問自答の繰り返し、…。
3年間もがき苦しんだ時間の中から生まれ出たものは陶板で作られた押し寄せるような波でした。“こころの波動”でしょう。様々な形をした波動が陶板から削り出されていました。穏やかさはありません。不安が漂っています。案内の葉書には“心に抱いてきた思いを「かたち」にしました”と書かれています。
この“こころの波動”を中心に、その間もがきながら制作したであろうと思われる器類が並べてありました。しかし、前回のような美意識の作品とは一変していました。もがくような形、迷い、畏れ、不安、躊躇、…制作中の不安定な心情がそのまま見て取れます。どうやって作ればいいのだろうか…。そんな印象を強く受けました。ものを造る人間同士としてこの作家に何を言えばいいのか。私も又“3.11”に衝撃を受けた一人ではあるが、自分とはまた違う位相に彼はある。

後日、ある食事の会があり、そこで偶然、彼の京都での修業で師事した師匠の手になる器を観る機会がありました。その時、2度目の個展の時に“早すぎる”と直感した意味が解りました。それは、師匠の作品に近づくことが、言い替えればよりうまく“まねる”能力に長けていたのではないだろうか、それは自分自身の中から出たものではまだ無いということであろう。自分が慕う師匠の技を“まねる”事を通して修行していく。それはそれで一つの進み方である。しかしそれは一方でその枠をどうやって乗り越えていくかという問題を内包するやり方でもある。その意味ではいずれは行き詰まる…。

個展会場でこの陶芸家は、観てくれてる人の反応から何かを吸収しようと必死でした。全身で…。
彼にとっての今のこの辛く、長い時間帯は、それまで順調に続いてきた陶芸作家としての制作の流れが突如断ち切られ、ひとり投げ出された時間帯でした。もがき、もがき、これまでとは違った角度からものを観、感じ、向き合う、…そおせざるを得ない。
多分、それはやがて、視野を広げ、内面世界を拡げ、これまでとは違った地平に立てる機会が訪れてくることに向かってるのではないだろうか。彼がこれまでに身につけた技術、美意識は消滅しないだろうし、新たな次元へと向かうのではないか。“自分のもの”を造り出すために、作家は、辛くても作り続けるしかない。それしかないのだから…。
そんな風に語りかけたい。そんな彼が復活するのを静かに見守っていよう。
若い作家の“戸惑う”作品は、でもそれは私を刺激するに充分でした。感謝。

野口一生HP:
http://members3.jcom.home.ne.jp/isseynoguchi/index.html



◆今月の山中事情96回−榎本久・宇ぜん亭主

−FINAL747−

大雪のあった2月14日の十日後、以前より親しくさせていただいている全日空の機長Y氏と沖縄に出かけた。と言うより、彼の勇退の旅にお付き合いをしたというのが正しい。奇しくも、彼の定年と彼が操縦するジャンボ機の就航が3月31日をもって終了することにより、その前に一人の乗客でありたいとの希望からであった。何度か沖縄方面にご一緒したことにより、声を掛けてくれたのだ。長年ジャンボ機と共に歩んで来られた人生。一人の乗客として、去来するものは何であっただろう。私には解るはずはないが、年齢的に近いこともあり、その仕事の出来なくなることの寂しさは痛いほど解る。誰にでも出来る職業ではないだけに、その感慨はいかばかりであったろう。
ジャンボ機の正式名称はB(ボーイング)747。日本の空を一番機が飛んだのは1970年3月11日。大阪万博開幕の三日前とか。高度経済成長という美酒に酔いしれる中、姿を見せた。全日空の導入は、旧型が1978年で新型は1990年に就航した。Y機長は1980年に初めて操縦桿を握った。客席数は旧型が525席、新型は565席の文字通りジャンボな飛行機である。これまでの搭乗回数は一月20回、一年240回×27年間(1987年〜2014年)であった。総飛行時間≒16700時間に及び、無事故にて終えた。
ジャンボ機の出現は観光事業に多大の恩恵を与えた。大量運行による海外旅行の一般化には大きく寄与し、観光地そのものがよりクローズアップした。
順調な経済活動を背景にジャンボ機の大量輸送は続いたが、バブルの煽りはこの業界も例外ではなく、景気の低迷がまとわりついたようだ。加えて燃費の悪さがずっとネックになっていた。
日本の空からジャンボ機が消える大きな要因は、その燃費問題や旅行スタイルが変化したことにあるようだ。それにしてもこれまで数え切れない乗客の命を預かり、目的地に運ぶ仕事を無事故で終了したことは誠に見事と申し上げるしかない。
パイロットは常に健康管理に留意し、いささかのミスも許されない。そういう究極的な状況を常に意識しながら、長年の間身を律することは凡人では出来るものではない。それ故、それをやり遂げた者のみが計り知れない達成感を得られるのである。未知の領域の世界は、我々はうかがい知れないが、それでも、一般的な職業はその話を聞けばおおよそのことは解る気はするけれど、パイロットのことを聞いてもそう易くうなずけるものではない。又、機長及びクルーは、時には軍人要員になり得ることもあるという。少し驚いたが、幸いそのような危機もなく終えることが出来たことは何よりと思う。
ジャンボ機は非常に安定した、素晴らしい飛行機で、パイロット冥利に尽きたとのことだった。飛行機のライセンスは、機種別になっており、その機種のライセンスを持っていなければ操縦出来ないとか。飛行機のライセンスの取得は莫大な費用が掛かるようで、機種が変わったからと言っておいそれとライセンス取得は大変らしい。よって27年間ジャンボ機一筋の人生は、まさに我が子のごとく愛着がしみついていたようだ。
久し振りに上空から見た沖縄の海は飽くまでも青く、南国の風情は何もかも包み込んでくれた。私は私でこの島々に別の感情が涌き、Y機長とは違う去来するものがあった。その任にある人の歴史の一頁に関わらせていただいたことは、何やらそれを共有したようでもあった。FINAL747の搭乗証明書をY氏の同僚が我々に贈ってくれた。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/