★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.135

東日本大震災から丸3年が経過しました。
復興の足は遅く、被災地の方々のやるせない旋律が響きます。
あの、日常が破壊され、現代の我々の生き方に向かったはずの個々への警鐘は、東京オリンピックに掻き消されるように、以前の日常が再び展開され出したように感じます。これで良いのでしょうか?

さて、弥生です。三寒四温、春の気配が気持ちを明るくさせてくれます。(八ヶ岳秩父連山写真貼付)

2月14,15日の大雪は凄かった。白州の我が家のあたりで1.5mは積もったでしょう。その14日は丁度東京に行っていて、帰るに帰れず。鉄道も道路もダメで白州に戻れたのは18日でした。
雪でストーブの煙突は折れて使用不能になり(昨日復旧)、玄関前の寄り付きのガラス屋根が雪の重みで割れていました。
以来、連日の雪かきが続き、積もった雪はまだまだ溶け切りません。今朝も積雪なり。
侮っては行けない“自然”が意識された大雪でした。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.135》をお楽しみ下さい。



◆今月の風 : 話題の提供は滝本加代さんです。

詐病の話−    
全聾ではなかったあの佐村河内守氏の話です。
3月8日に佐村河内守氏の会見があり、既に書き終えていた話を少し手直ししました。本意は同じです。
彼(新垣隆氏でした。)の音楽については、CDを聞いたことがないので、高いレベルのものであったかどうか知らないし、彼が何を目指して嘘を言い続けていたかも知るところではありません。ただ耳鼻科医の私が興味を持ったのは、彼が全聾の二級の障害手帳を持っていたことです。しかもそれが詐病であったらしいこと。二級はなかなかないですよ。私の患者さんで二級の判定を貰った人はほとんどいません。先天的な聾でなければ、重篤な耳の病に掛かったとしても両耳ともが100dB以上(正常は30dB以下)の難聴の後遺症を残すことは
まずありません。考えられるのは内耳まで浸潤した真珠腫性の中耳炎か、重症の突発性難聴かですが、いずれも普通は片耳です。まれに珍しく両耳に起こったのでしょうか。彼の聾に至った耳病はいったいなんだったんでしょうか。
会見でも明らかになっていません。両耳とも100dBの聴力損失となると治療に当たった医師にとっては悔いの残る後遺症であり、忘れられない症例だと思います。勿論、全聾で聴力が回復することはまずありません。100dBとは、ガード下での鉄道走行音に相当します。障害判定をした医師が、耳病の経歴を知らない患者として診たとすれば、標準純音聴力検査で両耳とも100dB以上の結果は、詐病ではないかと疑がうはずです。疑わなかったとすれば何らかの強要があったのか、佐村河内守氏が天才的役者だったかでしょう。詐病かどうかは簡単に判定できます。脳波聴力検査をすれば良いのです。脳波聴検しないままに二級の障害手帳を発行した医師には深く反省してもらいたい。(相当の障害年金が下りていた可能性もあります。)今回、佐村河内守氏は脳波聴検で再検査して50dBだったとか。これは障害者ではなくて、中等度難聴のレベルです。高齢者の半分以上は中等度難聴です。障碍者手帳は勿論発行されません。繰り返しますが、全聾の人が、中等度難聴までに自然に良くなることはありません。

私たち開業医の現場でも、詐病の例は遭遇します。今回の例のようなことでなく、心因性難聴のケースです。小学校中学年から中学生までの女子に多く「学校で先生の声や友達の声が聞こえない。」と、訴えてきます。家族は驚いて、連れてきますが、子供が聞こえていないとは思ってなかったと言います。検査をすると両耳とも中等度から高度の難聴レベルになっています。しかし、わざと小さな声で、簡単な質問をすると反射的に答えてくれます。「痛くない?」とか「右?」とか。短い質問だとふっと答えてしまうのです。もうひとつ疑いがある場合には間を置いて二度検査をします。二度の検査に不合理なぶれがあります。それでもはっきりとしない場合は、脳波聴検を依頼します。結果に聴力異常のないことを確認して、親御さんに安心してもらいます。意識的か無意識的か分かりませんが、難聴を訴えていることには違いないので、子供の生活行動を注意し温かく見守っていただくようにお願いします。子供はストレスを耳で受け止めているのでしょう。
もしかしたら佐村河内守氏も心因性難聴?

2014.3.4 滝本加代



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−移住生活・その18/猫編その2・家出−

三女の愛猫ちーが死んだ当時、猫たちにも不思議な感情が芽生えていたのか、明らかにいつもとは違う様子が見て取れました。我々が不在の時の突然死だったわけですが、猫たちはその異変を見ていたに違いありません。いつもストーブのあるところに、適当な距離を保って三匹が居ましたから。
我々は死んだ『ちー』を布に包んで、段ボール箱(彼の好んだ居心地の良いハウス)に収めて置いたのですが、ゆずは吹き抜けの2階からそれをじっと見ているだけで近寄ろうとはしません。一方、りゅうはちーを起こすような仕草で、顔の当たりに手(足?)を何度も掛けました。しかし、何の反応もないので、やがて手を掛けるのを止めました。しばらくは様子が何か変でしたが、その内その状態にも慣れてきたようです。三女がニューヨークから戻ってくるまでの3日間はそんな状態でした。三女の帰宅を待って、居間からよく見えるところにある樹の下に埋めてやり、印に30cm位の石を置いてやりました。

さて、三女の愛猫ちーが死んでから一月近く経った昨年のクリスマス、密かに脱走を狙っていた(?)三番目の猫りゅうがスキをついて外に脱走しました。このりゅうの脱走は、実は初めてではありません。一昨年二度、やはりスキをついて脱走しました。脱走直後は“ヤッター!”とばかりに喜び勇んで我が庭や隣の樹間を駆け回っていましたが、やがてどこかへ姿をくらませました。
しかし、“シャバ”はそんなに甘い世界ではありませんでした。“シャバ”には猛勇の野良猫達、狸、ハクビシン、猿などさまざまな難敵ばかりが控えています。世間知らずの彼はこれにはさすがに“マイッタ!”ようで、一日か二日で尻尾を垂らし、情けない顔をして夕方帰ってきました。
何となく人間世界を彷彿させます…。
ところが一年以上経った今回はちと違いました。前回は季節もいい時期でしたが、今回は冬真っ盛りです。さすがに寒い時期ですから、空腹と寒さに震えてその日の内に帰ってくるのではと高を括っていましたが、夜になっても一向に帰ってくる気配がありません。本人(本猫)が学んだのか成長の証か分かりませんが、これまでとは様子が違います。次の日の夕方までは全く姿を現さず、どこに行ってしまったかいささかこちらも心配になりました。二日目の夕方になってやっと一度だけ居間に面したウッドデッキに顔を出し、ガラス越しにこ
ちらをチラッと見ましたが、家の中に入って来るような様子は全くありません。外に出しておいたエサを少しだけ口にし、再び暗闇に消えて行きました。自分の家はしっかり認識しているようですが、これまでのパターンとは違い、成長の跡?が窺われます。三日目になって、彼が、道路を挟んだ我が家の向かい側にある廃屋を根城にしていることを突き止めました。明るい内は姿が見えませんが、日が暮れるとそこに戻って来てうずくまっています。とりあえず、近所をうろうろしてることは分かったので、後は持久戦模様。それ以降、朝晩それぞれ一度ずつ声掛けをしてやることにしました。捕まえられるのでは?との警戒心を少しでも和らげる為です。しかし、彼にとって警戒する相手は私達だけではありません。猛勇の野良猫がうろつき廻っていますし、犬もいる。昼間は猿も出てくる。いやはや廻りは敵だらけ!“シャバ”は凄い!!ウッドデッキには好物のエサを二種類と水を置きました。そろそろ腹を空かして帰ってくるのでは…。夕方になるといつも通りデッキに顔を見せ(いよいよ習慣化したか?)、こちらの様子を窺いながらエサを少しだけ食べますが、ガラス戸を開けると逃げていってしまいます。それ程の量は食べていないので腹は空いてるはず。次の日の朝、エサ入れを見ると結構減っている。夜中に食べに戻ったんだと思っていました。ところが、それは別の野良猫が食べていることが分かりました。二匹の野良猫が、この餌を見つけ、昼間も食べに来ていることが分かりました。さて困った。数日間はこの状態が続きました。

膠着状態が続き、事態を打開すべくこちらにも覚悟が強いられました!寒さにめげず、夕方ウッドデッキの戸を猫が通れる位の巾で開けておく事にしました。ストーブはありますが、標高700メートル弱ですからさすがに寒い!ダウンジャケットを着込んでの持久戦です。戸を開けておくといっても、顔を出す頃合いを見計らってせいぜい2時間程まで。それ以上はこちらが参ってしまいます。しかし、彼は家に入ろうとはしませんでした。暮れの大晦日から正月の2日までは娘達が戻ってきていたので、この“さむーい試み”は一時中断。夕方にはいつも通りデッキに顔を見せ、餌を口にします。次女も愛猫を心配そうに見ていますが、為す術がなく落ち着きません。かれこれ10日が過ぎました。本人(本猫)は寒さにもめげず、すっかりアウトドアライフを満喫してるようです。寒さ、空腹よりも自由を謳歌する方が楽しいようです。若さか!?飼い主に似たか!??

子供達の居なくなった正月3日の夕方、我々はついに勝負に出ました!!今回は猫エサを室内に移し、2間巾ある開口の内の1間巾のガラス引戸を思い切って開け放ちました。3種類の好物のエサと水を部屋の中の方へ導くように一列に並べ、その先には好んでいた段ボールハウス(段ボール箱)とストーブ。
我々夫婦は着込んで吹き抜けの2階に陣取り、彼が現れるのをジーっと待ちます。猫との知恵比べ?
しばらくして予想の時間に彼はいつも通り顔を見せました。始めは外から様子を窺っていましたが、人の気配が無さそうだと判断し、差し足で家に入って来ました。外を窺いながらエサに食いつき始めました。しかし、10日間に及ぶシャバ暮らしのせいでしょうか、一口食べては外を警戒し、それを繰り返します。やがて少し落ち着いたのでしょう、一通り食べ終えるとストーブのそばに置いてある自分の段ボールハウスへと向かいました。そして、そこに入って毛繕いを始めました。作戦通り!チャンス到来!!毛繕いに夢中になった頃合い
を見計らい私は抜き足差し足で2階から隣の姉の家に移り(並列の二世帯住宅で、2階からも行き来できるようにしてある)、姉の方の居間からそーっとウッドデッキに出、我が家の側のデッキに向かい、開けておいたガラス戸にそーーっと近づきました。外は真っ暗。その時、中で毛繕いをしていた『りゅう』はガラス越しの私に気付き、咄嗟にデッキに向かって逃げ出そうとしました…。
が、時既に遅し!!私の手は引き戸を素早く閉めていました。りゅうは「しまった!」との表情を顕わにしました。それからしばらくは大変でした。これまでに聞いたことの無いような声でわめき続けました。目は怒りに狂ったような形相です。しばらくは近づくのを避け、本人の好きに任せることにしました。

ところで、もう一匹のゆず(雌15才)は、そもそも夕方ガラス戸を開けるようになってからは、その時間帯だけ我々の寝室に閉じこめました。彼女としては大変不満な時間帯です。りゅうが脱走した時、彼女は脱走に最初は気付いていなかったようですが、程なく窓から外に居るりゅうを見つけた時、“えっ?、おまえ、そこで何やってんの?”と言ってるように思える唸り声を上げていました。部屋の中を往ったり来たり、そわそわ落ち着きません。その内、りゅうの姿も見えなくなり、以降何となく落ち着きません。時々、夕方ガラス越しにりゅうを見かけた時は、ガラスによって睨んでいました。そんな日々が経過していきました。そして、りゅうを部屋内に囲い込んだ時、ゆずは我々の寝室に閉じこめてありましたが、その異変を敏感に察知し、りゅうの叫び声に反応して部屋内から応答するような声を発していました。

さて、怒り狂ってたりゅうもしばらくして落ち着いて来たようで、怒り狂った形相も消え、声は枯れて何とも素敵な“青江美奈張り”のハスキーボイスになっていました。…ついに本人も諦めたようです。その日はそのままそっとしておいてやり明くる日洗ってやりました。そこで気付いたのですが、背中に噛みつかれた痕。毛が抜け血の混じった大きなかさぶたがあり、歯形が三っつ残っていました。やはり“シャバ”は大変だったみたいです。

仲の良かった『ちー』が死に、苦手な姉さん猫に睨まれる日々で、“家出”をしたくなったのでしょうか?
その後、次第に落ち着きを取り戻し、元のような生活になりました。が、はっきり変わったのは、以前に比べて大層人なつっこくなりました。フリーの苦労が身に浸みたか?それとも猫の処世術か??…。我が猫の家出顛末記でした。
愛猫ちーに捧ぐ(写真貼付)


◆今月の山中事情95回−榎本久・宇ぜん亭主

前回の「大相撲考」について追記:
里山関のことを十両に陥落するだろうと記しましたが、協会の粋なはからいで、幕内に残留することが出来ました。おそらくあの熱戦が協会幹部の心を揺さぶったのでしょう。
では山中事情95回をお楽しみ下さい。

−モモタロー異説−

鬼ヶ島から帰ったモモタローは、犬、猿、雉子は口が利けないことをいいことに、それぞれにわずかな食べ物を与えただけで、鬼ヶ島で奪った金、銀、財宝をひとりじめにした。鬼が奪ったそれらは誰の所有物か解っていながら返すことなく、素知らぬ振りをして京の大店十軒に持ち込み、すべて換金した。それほどその量は多かったのである。モモタローは大変な資産家となり、世の中は金があればなんでも可能になることを若輩の身で知った。
ある日、京に出かけた時、破格な品をいともたやすく買ったものだから、またたく間にその名は国中に知れ渡った。そうなると各々の店ではモモタローの気を引こうとあれこれ品揃えをして売りつけようとした。ほどなくして成人になったモモタローは、これまでの生活に満足出来なくなり、突飛な発想を持つようになった。
そんなモモタローの所業に、下僕達は日々さいなまれる。たとえば、カグヤ姫を月から連れて来て、一緒に月に行きたいと言い、困った下僕は、カグヤ姫はとっくに死んでいて、もうこの世には居ないと説得するのだが、それならばとそこいら一体の竹林を全部切ってカグヤ姫に似た女を探せと命じた。下僕達は全ての竹を切って探し続けたが、カグヤ姫のような女は見当たらず、その報告をしびれを切らして待っていたモモタローはやっとカグヤ姫は一人しか居ないことを知った。又、リュウグウ城に行く為の海の道を調べさせたり、お日様はなぜ夕方になると姿を消すのかと問い正したりして、下僕達を困らせた。
時は過ぎモモタローも四十才となった。横暴さはなかなか治まらず、下僕達も近寄り難くなり、彼等の部屋に屯することが多くなった。鬼退治に少年の頃より体重が五貫目(20kg)も増え、あの美男の面影はどこにも無くなってしまい、ただの中年肥りの男となっていた。金、銀、財宝を売った金で国中に財産を持っていて、暮らしは少しも揺らぐことはないのだが、下僕は次々に居なくなった。下僕達にしてみれば、このままモモタローの側に居れば安泰な暮らしは保証されていたようだが、何につけても暴君のように振る舞うモモタローに嫌気がさし、去って行ったのだ。
一人身のモモタローは広大な邸宅で思い通りに過ごしていたのだが、今は大声で人を呼んでも誰ひとり返答する者も居ず、衣食をどうすれば良いのかも解らず、困惑の毎日だった。それに拍車をかけるかのように世の中は自然災害が各地でひんぱんに起き、官僚の腐敗がはびこり、経済は疲弊し、混沌となってきた。当然京に出ても物資は何もなく、金があればなんでも満たされるということはならなかった。たまたま大根一本を買うことが出来たが、それを料理する術はモモタローにはなかった。それでも金の力で民衆の食べているものを分け
て貰って糊口を凌いだ。
こういう状況になってようやく世の中のことを理解することが出来たモモタローは、ふと頭を過ぎった。あの川のあるふる里に帰ってみようとモモタローは思ったのだ。
桃を拾ってくれた両親はもうこの世には居ないが…

「岡山に伝わる桃太郎伝説は、異国からやって来た温羅(うら)という鬼が暴れていると聞き、朝廷は退治のため、武人を派遣した。それが五十狭芹彦命(いさせりひこのみこと)、すなわち桃太郎だった。桃太郎は犬のように勇敢な犬飼健(いぬかいたける)、雉子のような忠誠心のある留玉臣(とめたまおみ)、猿のように知恵の働く楽々森彦(ささもりひこ)の三人の部下とともに鬼の城を攻め、ついに鬼を倒す。桃太郎はその後、吉備津彦と改名し吉備津神社の主神となる」とか。−−読売新聞より

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