★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.134

早、如月になりました。
一昨日の大雪は、白州に移住して初めての大雪経験でした。
60〜70センチほど積もりました。辺り一面銀世界。
小鳥達が楽しそうに飛び回っています。
道路から玄関までの雪かきですら大変な作業でしたが、そんな中、
上賀茂神社の“立砂”を思わせる雪の造形を庭に見つけました(写真貼付)。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.134》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は古賀悦子さんです。

−父がいた場所−

タウン誌の記事に目が止まった。
そこには「『武蔵野の戦争を語る旧変電室保存を』11月23日、見学・学習会」とある。東京都が公園化するために、武蔵野市に唯一残る中島飛行機の建物「変電室」が撤去される可能性が高まってきたことから、市民が存続や有効活用を求めて動き始めたイベントであった。
集合場所の都立武蔵野中央公園は自宅からそれほど遠くなく、散歩がてらに何度も立ち寄ったことのある公園だ。秋晴れ、散歩日和も手伝って、夫を誘った。「父が戦争中働いていた所だと思う、見に行きたい。取り壊されるという旧変電室を見てみたい」夫も興味を示してくれた。

公園まで自転車で3、40分、ケヤキも桜も色づいて陽を浴びて美しい。黄金色に輝くイチョウ並木、赤や黄色に変身したモミジなどの紅葉が目にまぶしい。公園の入り口近くに人だかりが見えた。高齢者が目立つその様子にすぐにそれとわかった。参加者は50人ほどいただろうか、ほとんどがお年寄り。車いすで家族に支えられ参加している人もいた。2、30代の若い人も数人いたのが印象的だった。
主催の「武蔵野の空襲と戦争遺跡を記念する会」代表の挨拶と当時を知る人の話があった。戦後68年、かつてこの街が戦場だったということを知る人も少ないと。米軍の日本本土空襲では、中島飛行機武蔵野製作所が最初の攻撃目標となった。9回もの爆撃を受け、工場は壊滅した。犠牲者は工場内だけで200名以上、周辺の住民も巻き添えとなり、数百人が犠牲になったそうだ。
武蔵野製作所で働いていたという人は86歳で、当時16、7の学生だった。昭和19年4月以降に国民学校高等科以上の学徒動員で召集された人の一人だ。話をしてくれた女性は、「学校での授業はなかった。勉強することができなかった。毎日電車で三鷹まで通った。飛行機のエンジンをつくる工場で、触ったこともない旋盤を練習させられ働いた。おしゃれもできなかった。箸が転んでも笑う年ごろなのに笑うことのない暗い恐ろしい時代だった。空襲警報で防空壕まで必死で走る。仲間が目の前で傷つき亡くなるのを見た」
見学会は旧変電室のある空き地に移動した。雑草が茂る空き地の一角に鉄筋の建物がぽつんと建っていた。父が働いていた敷地に残る建物だ。この壁、この窓、今私も見る。
明治43年生まれの父、4歳下の母との間に6人の子どもをもうけ、戦前戦後を生き抜いた。戦時中は30代半ば、武蔵野製作所で工場長を務めていたという。戦後生まれの私が聞いた話は少ない。「戦争はいけない。米軍の飛行機が来ると爆弾が雨のように落ちてきて建物は壊れるし、仲間が目の前で死んだ。火だるまになった人を防火水槽まで必死で運んだこともある。火事場の馬鹿力とはこの事だ」と言っていた。私の知っている父は恰幅が良かったが、若いころの父は身長165?に体重は50?もない人だった。技術者ということもあり戦地に行くことはなかったが、標的にされた軍需工場で怖い体験をしていた。母も父の職場に爆弾が落ちるのを心配して、小さな子を抱えて不安でたまらなかったと話していた。改めて思う、父が爆撃の犠牲になっていたら私は生まれてくることはなかった。無駄に多くの命が奪われた場所に立ち「良く助かったものだ」と思った。
見学後は学習会会場でスライドを見ながら武蔵野の戦前、戦中、戦後の状況を知った。

ここで驚いたのは、スライドに映し出された画像はすべて米軍が公開した資料によるものと説明された。昭和19年に爆撃を目的とした調査の飛行機が上空を飛来し工場周辺を撮影している。この航空写真は現在見ることができるインターネットのグーグルアースと違わないほどの鮮明さだ。攻撃作戦の緻密さ、爆撃後の効果を追跡調査し詳細に分析している。そのデータ処理には驚いた。負け戦、力の差は歴然としていたはずだ。
日本有数の軍需工場が戦争時どんな状況にあったか米軍の資料から知ることができた。

日本は戦後、資料全て焼却処分してしまったそうだ。戦争の実態を後世に伝える術がない。国は戦後の総括を曖昧なまま、また秘密裏に国策を進めようとしている。唯一残った旧変電室、戦後は都営アパートの管理事務所として利用された。内部は改装されていたが、利用するに耐えうる建物だ。戦争遺跡として残す価値がある
と思った。
父がいた場所、米軍の資料から知る戦争の実態、多くの人に見てもらいたい。

追伸:
米軍の爆撃計画、攻撃目標はち密でも、風向きに影響され工場周辺へ被害が及び命を落とした住民がたくさんでたそうです。確認が出来た死者は近くの伏見稲荷神社が名前と性別、年齢を刻み、碑を立てています。しかし役所は確認もしないまま不明者を放置したままと聞きました。全ては「秘密という情報操作」がなせる技としか言いようがありません。




◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−移住生活・その17/猫偏その1−

さて、今回と次回は猫の話です。山梨に移住したのは我々人間だけではありません。我が家に居た猫達も一緒に移住しました。つまり、猫の移住生活も一方ではあると言うことで、今回はその一端をご紹介します。

我が家には3匹の猫がいました。我が家で猫を飼うようになった由来からまず話しましょう。もともと私はそれまで犬一辺倒で、どちらかと言うと猫は苦手の方でした。我が家は夫婦と娘3人の家族です。かれこれ15年ほど前からになりますが、三人の娘達がそれぞれの思いで年月をずらしながら猫を飼い始めました。最初の猫は雌の三毛猫で、長女が大学時代にアルバイト先に潜り込んだ生まれて間もない子猫を横浜のアパートで飼うようになったのが始まりです。それから少しして、二番目の猫は三女が小学校の頃、貯めていたお小遣いを全部はたいて売れ残っていたアメリカンカールという耳が外に向かって反っくり返った白黒の雄猫を買いました。その後しばらく経ってから、三匹目は次女が仕事に就いてから自分の愛猫が欲しいと、飼い手を探していた動物病院から5歳くらいの白黒の雄猫を引き取ってきました。この猫は動物病院に引き取られる前は一時野良猫をやっていたようです。以上が事の始まり経過のあらましです。
長女の猫(ゆず)は長女がアパートを替えた事に伴い我が家で飼われることになり、二番目の猫(ちー)と三番目の猫(りゅう)は飼い始めた時点から我が家に居ます。三匹共に外には出さず、家の中だけで飼っています。それぞれの猫は今や15歳、13歳、10歳程になりました。

その前に、苦手だった猫にどのように愛着を覚えるようになったか…。ある時、妻と子供達三人で妻の実家の山形に行くことになり、私が家でひとり留守番役をすることになりました。その時、長女が飼ってる猫ゆずを我が家につれて帰ったのが事の始まりです。否応なく、猫と私だけの時間帯を過ごすハメになったのですが、最初は警戒感を漂わせていた猫ゆずも、私しか居ない環境ではいつまでも知らぬ顔が出来なかったようで、やがて体を擦りつけてくるようになりました。何度かそうしてる内に、これはなかなか可愛いもんだなー…と感じるようになって行きました。これが私にとっての猫との出会いです。この猫ゆずはしばらく我が家に滞在した訳ですが、その間に三女がアメリカンカールと言う種類の猫を買ってきました。今から10数年前のことです。この二匹の同居は、猫それぞれに楽しかったようで、その後長女が猫ゆずをアパートにつれて帰ったところ、別居を悲しむように毎日鳴くようになったようです。止む無く猫ゆずを再び我が家に連れ帰ってきました。以来、後から来た猫りゅうを加え、三匹の猫が我が家に暮らすことになりました。それぞれ個性は違うものの、家の中に居ることが我々にとってとても癒しになることに気付いていきました。なかなかいいものだ…。

さて、われわれ夫婦が白州へ移住するに伴って、これらの猫三匹も白州へ移住しました。日本ではアパートで猫を飼うことは多くのところは許可されませんので、娘達から別れて移住です。
さて、白州に移住して程なく、我が家のデッキには猿をはじめ、野良猫、よその飼い猫が姿を現すようになりました。野良猫とよその飼い猫は時間をずらしてほぼ毎日のようにやって来、我が猫とガラス越しに唸りあっています。“移住もの”へのアイサツでしょうか。外の猫の世界では縄張りがはっきりしているようで、外猫同士がぶつかることはあまりありません。群れで現れる猿は猫などに見向きもしません。猫の方でも何故か猿には反応しませんが、外を飛び交う小鳥には反応しています。日々、猫にはそんな日常が繰り返されていきました。
4年半が過ぎ、猫たちも楽しげに?移住生活を過ごして来ました。それでも、人間の世界と同じように、猫の世界でも三匹が集まると好き嫌いが生じるようで、一番目のゆずと三番目のりゅうの折り合いがどうもスムーズに行きません。二番目の猫はそれぞれの猫と折り合っています。特に、二番目と三番目の猫はよくじゃれ合っていました。
ところが、昨年の11月に二番目の猫ちーが、我々夫婦が留守をしていた間に心臓麻痺か何かで突然死んでしまいました。これには猫たちのみならず、我々夫婦も驚きと落胆が襲いました。その時ニューヨークに行っていた三女は、自分の愛猫ちーの訃報に急遽予定をキャンセルして白州に埋葬の為に戻ってきました。このちーはとても面白い猫で、来客があると必ずホストを勤めます。他の二匹は来客の場合は2階に閉じこもって顔を出そうとはしませんが、ちーだけは初めての人でも人見知りする様子は全く無く、いつも歓迎のスタンス。ブルーチーズが好きで、その時はワインも一口飲ります。個性の強い変わった猫でした。
この猫ちーが突然死んでからというもの、その後の二匹の猫たちの様子はそれぞれ何となく落ち着きません。15歳のゆずと10歳のりゅうとの折り合いは相変わらず良くはない。ぎこちない関係が始まりました。以来、りゅうはよく外をじーっと眺める日々が始まりました。
そして、猫ちーの死後一月経ったクリスマスにこの猫りゅうが脱走してしまいました。
つづく


◆今月の山中事情94回−榎本久・宇ぜん亭主

−大相撲考−

大相撲初場所千秋楽、「里山(さとやま)」対「高安(たかやす)」戦は」希に見る好一番であった。好角家の私は幼少の頃よりこよなく相撲を愛しているが、その長い時の中でもおそらくは一番の取り組みだったのではと思っている。それ程熾烈で感動的な一戦であった。「里山」はこの日まで七勝七敗の五分であった。番付は西前頭十六枚目、つまり西方の一番末席で、この一戦に負けると十両に陥落の憂き目に遭う。まして小柄である。彼独得の相撲スタイルで十四日間闘ってきたので、身体は疲労困憊だ。しかし勝てば幕内に残り、技能
賞の候補になっている。それ故、とにかく勝つことが全てを手に入れることが出来るのだ。「里山」は32歳である。この初場所は、三年六ヶ月かけて幕内に戻って来た力士だ。相撲人生のほとんどを幕下で生活を送った苦労人だ。時には腐ることもあったであろう相撲人生。ようやく十両を突破して幕内に戻ったのだが、なかなか勝星に恵まれず、とうとう七勝七敗で千秋楽を迎えてしまったのだ。観客もそんな「里山」の事情を理解しているので、相手の「高安」には悪いが皆「里山贔屓」であっただろう。独得の相撲の取り方は、彼なりの処世で覚えたものであろう。
立ち会いは互角であったが、「高安」有利となった。「里山」はくらいつき、得意な型に持ちこんだ。だが「高安」も簡単にはひかず、膠着になった。その様はがっぷり四つではなく、変則な型なのだが「里山」にとっては一番得意な型になったのだ。とは言え必死な「里山」。ひと呼吸おいて「里山」は「高安」を西土俵に押し込み、渾身の寄りで押し倒した。観客は割れんばかりの大歓声を上げ「里山」に拍手を送る。まるで優勝者に贈る拍手だった。「里山」の表情は、これまでの全ての苦労が報われた瞬間を映し出していて、私ももらい泣きしそうだった。近来見られぬ土俵の感動シーンがそこで繰り広げられていたからだ。

そんな感動に誰もが酔いしれていた・・・数秒後、大鳴門審判(元大関出島)が物言いの手を上げた。観客も、解説者(元横綱北の富士)も、アナウンサーもテレビ桟敷の全観客も(おそらく)そして他の審判員も、皆虚をつかれた。
長い審判員の協議の間、一体何がどうしたのかわからないでいたが、ようやく協議が終わり、説明があった。「里山」が禁じ手の髷を掴んだので反則敗とするとのことだった。今度は館内は大きな嘆息に変わった。その結果、負け越しとなり、技能賞も貰えず、幕内残留の可能性は限りなく遠のいたのである。

さて、私が相撲について書いたのは「里山」一人の問題ではなく、全力士に関わるからだ。髷はほとんどの力士にある。明治以前は、男性は髷を結っていたが、明治政府になって、侍を含めて断髪令を出した。ところが力士には適用されず、今日まで髷を結っている。大相撲にとってはかけがえのない象徴であり、美意識も含めて現代まで続いている。ところが日常生活は何かとめんどうではないかと推察するのだが、どうだろうか?
そして本題になるのだが、気になるのは、禁じ手としての「故意に相手の髷を掴むこと」の文言だ。「故意」を辞書で調べれば「わざとすること」とある。誰がわざと髷を掴もうとして相撲を取るだろうか。激しい闘いの中で偶然指が入ることはあっても、わざと髷をねらうことは至難だ。仮定の話だが、あの日里山がザンバラの力士と対戦していたらあの悲劇は起こらなかったろう。髷の構造とてどうも指が入り易いように曲げてあり、力士にとっては本当は気になることではないだろうか。「里山」がしたとされる「故意に相手の髷を掴んだ」うんぬんは、本人にその自覚はゼロにでも、審判は冷酷にそのように下したのである。だが、このように厳格な条文がありながら、時には見過ごされているケースを私は何度も見ている。ビデオは繰り返しその勝負を映し出しているが、明らかに判定とは違う結果を見ている。髷を持っていること、手が早くついていること、足が早く出たことなど上げたらキリがない。このようなことは今後も起きる観点から、実現は不可能と知りつつも、せめて「取り直し」にする位の改正を考えて貰いたいのだが…。
それにしても「里山」の心情を察すると余りある。このことを糧に再度新たな気持ちでチャレンジして欲しいと願うのみだ。多くのファンは決してあの日の「里山」の相撲は忘れてはいないだろうし、応援も一段と力が入るはずだ。
半世紀もの間相撲を見続けてきた私だが、このところとても面白くなっている。「里山」のごとく懸命に闘っている力士が多くいるからだ。幕下以下にも有望な力士が目白押しだ。どういうわけか「里山」の奮闘を見てふと相撲のことを書きたくなったのである。

宇ぜんホームページ
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