★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.133

明けましておめでとうございます。
本年も「Ryuの目」をよろしくお願いします。

新年を迎えました。
オリンピックに浮かれず、原発を忘れず、東北に思いを遣る。
安部政権がいよいよ仮面を剥がし始めたか…。

私の今年一番の目標は生まれ故郷の山口県宇部市での個展開催です。
57歳で絵を始めた時、漠然と10年後に個展が出来ればと考えていましたが、68歳になる今年の11月に実行しようと考えています。
「(仮称)ふるさと個展/古磯隆生の絵と建築」をと思っています。
詳しいことはいずれ、追ってご連絡致します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.133》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−赤穂四十七志の美学と靖国神社参拝の心情−

歌舞伎や映画で赤穂四十七志の討ち入り物語が幾度と無く取り上げられてきた。日本を代表する忠誠心の美学であり結晶にまで昇華している。封建時代の話ではあるが、その目的や方法は現在にも通じるもので、一般日本人の心に訴えてくる。どうりで「半沢直樹」の連続ドラマに人気が集まるはずだ。要するに同じ系列の話だからであろう。それは「いじめ」と「仕返し」という二つの感情が対立する構図であり、実は世界中何処にでもある話なのだ。「吉良上野介」の屋敷討ち入りや「高田の馬場」の決闘も「OK牧場」の決闘も似たような構図であった。

以上をより深く理解するために少し冷静になって、より客観的に分析してみようと思う。先ず「いじめ」から始めよう。現代の教育の場での「いじめ」や会社や他のあらゆる組織でも存在するであろう「いじめ」は、規約や法律では律しきれない人間の個人的な醜い感情の発露である。目的達成への責任と競争意識とが熾烈になると、人間誰でもが心の何処かに持っている醜い部分が顔を出す。これを抑える力とそうでない気持ちとのバランスが崩れると事件が起きて、醜くなったり、時には美しくなったりもする。その両方共に小説や映画の題材になる要素を秘めている。この現れ方と対処の仕方とが、文化によって異なってくるので、誤解されたり、喧嘩になったりするのだ。では何がどう違うのだろうか。

ここで英語と日本語とを対比させながらその表現や意味合いを調べてみると、次第に霧が晴れるように違いが少しずつ見えてくる。先ず四つの単語の意味から入ってみたい。Responsibility, accountability & dutyの真の意味を字引の奥底から掘り返してみよう。
三省堂の英和辞典(Beacon)では
Responsibility: 責任、義務、信頼性、責任を負うべき人
Webster’s New World Dictionary(ウェブスタ−の英英辞典)では
    Responsibility: a being responsible, obligation,
    a person that one is responsible for とある。

両字引とも驚くほど似ている。というよりはむしろ英和辞典は英英辞典から引用したのであろう。そこまではよい。しかしここで、責任とresponsibility、義務とobligation がそれぞれ正しい訳で同じ概念(意味)なのかどうかの深読みをしてみる必要がある。例えば「この責任は誰が取るのだ」と「私は責任を取って辞職いたします」という文章での責任は、英語の responsibility とは微妙にではあるが意味合いが違う。responsibility の場合には、そう簡単に辞めるわけにはいかなくなる。Responsibility は他者(委員会や会社組織など)から与えられた(委任された)任務であるから、結果を出す責任がある。Responsibility は共同体のなかでの共同体のための任務なので、辞職したり自殺したりすれば、責任逃避をした卑怯で意気地のない行いとして理解されること間違いない。責任を取って見事に切腹を遂げた、というのは、侍時代の話であり、現時点から見るとresponsibility を全うしたとは言い難い。恐らく当時は恥と名誉とが一緒になって美しく自決をすることが許されたのであろう。今では残念ながら無駄死にである。「お前はその責任を取れるか」というのは脅し文句のような響きと意味を持っているが、英語圏では「responsibility の無い仕事はしたくないので、むしろ responsibility を引き受けれる立場においてもらいたい」と言い返す人が多いと思う。要するに脅し文句にはならないのだ。同様に日本語の「義務」には二つの意味があるように思う。一つは「責任上そうしなければならない、たとえしたくなくても」というものと「そのように約束したので、最後までやる」というものとが考えられる。英語の obligation では「約束(契約など)をしたので最後まで責任を持って仕事をやり遂げて結果を出す」ということになる。四の五の言わない、ということだ。日本で一番誤解されている言葉は accountability であろう。日本では「説明責任」と訳されているようだが、私にはその訳の意味がよく理解できない。アメリカでの責任という言葉には結果を出さなければいけない、という意味が強く意識されていることを理解していれば、accountability にはresponsibility以上の結果を出すために量的結果だけではなしに質の向上を図り、自信と誇りを持って仕事をしたい、という意味合いが強く意識されている。Accountability は responsibility よりも上のレベルの結果を出す、という意図で遂行される行為である。

少し長くなったが、日米間の言葉を通した文化の違いを理解していただけただろうか。では、ここで話の核心に入ろう。安部首相がこの時期にどうして靖国神社を訪問したのであろうか。恐らく長い間の懸案であった沖縄普天間基地問題に一応の解決をもたらしたことと関係していると思う。しかし、どうして靖国神社を訪問したのか、と記者に聞かれて、今までの首相と異口同音に、日本のために尊い命を捨てた人達に感謝の気持ちを表して何故悪いのか、他人にとやかく言われる筋合いではない、という内容の事をより無難で角のない表現を使って言っている。日本のために責任を全うした人の霊を慰める、ということに関しては、どの国も文句を言っていない、と私は理解している。中国や韓国が言っているのは、あくまでも、「歴史を誤解(曲解)している。」即ち戦時中に日本軍が中国や朝鮮で行った数々の殺戮や乱暴行為について言っているのだ。
首相の靖国神社訪問はそれらの残虐行為を正当化して我々の気持ちを逆撫でしている、とも言っているのだ。それに対して日本の首相は安部首相も含めて、今まで何のコメントもしていない。日本の歴史のなかでその部分がブラックホールになっていて、あたかも言論統制されているかのように、誰も真実を徹底して究明していない(多分言論統制されているのだろう)。これほど重大な国際問題を日本は、日本人はどうして無視して通過しようとしているのだろうか。
むしろ科学的に徹底して研究して、十分なデータを揃えて事実を明白にしてこそ、国際的な誤解を解消して信頼を獲得するするまたとない機会ではないか。それこそ日本人が誇りを持ってできる accountability である。少なくとも responsibility の遂行でよい結果をだすように期待しているのは私だけではないであろう。そうすれば、尖閣諸島問題も竹島問題もこんなに困難な事態になっていなかったと思えてならない。

忠臣蔵の話は、時代錯誤のようでいて、実はいまだに日本人の心の中にある美しき忠誠心とその個人としての責任の取り方への共感として生きている。命を投げだしてまで遂行した忠誠心や潔白の証明は、その根本問題を解決するよりもより美しいのだ、という日本文化なのだろうか。それは、日本ではいまでも通用しているようである。しかし通用するのは日本の国内だけであることも肝に銘ずる必要がある。紙っぺら一枚に署名した契約書よりも、腹を割って話し合った約束のほうが重要である、という精神は、どちらかが約束を違えるまでは通用する。
しかしそれ以後は問題解決が困難になって醜い言葉の応酬になり、遂には報道陣カメラの砲列の前で、代表者が一斉に頭を下げる無意味な偽善的行事がおこなわれる顛末となるのが落ちである。今度の場合には、朋友国であるはずのアメリカに「困った事をしてくれたものだ」といわれてしまった。ヨーロッパからも「近隣諸国に不必要な刺激を与えて不安定な状況を作り出してしまった」といわれている。首相の個人的な美しき道徳が国際的には通用しないことが明白になったと思う。

四十七人の浪人は、すでに潰れてしまった自藩のしかも余り自制心の効かない不甲斐ない藩主浅野内匠頭のために、個人的な理由から美しく自決したのである。安部首相は、自分の美しき良心のために戦没した英霊を慰めるべく、日本の威信と国際的緊張を犠牲にして、靖国神社へ参ったのである。どうもこの二つには類似点が多すぎる。忠臣蔵靖国神社訪問も日本国内では十分に通用するのである。

忠臣蔵靖国神社訪問が日本文化圏内だけで理解されるのと同様に「半沢直樹」も外国の異文化圏で放映されたら、その反応は極めて薄いと考える。勿論「個人的なプライドと美しき良心」の話は世界中にあるが、この場合も、理由と方法とが余りにも日本的なので、外国で拍車喝采されるかは大きな疑問である。もしこの点が十分理解していただけるなら、読者は国際感覚が豊富であるといえるのではないだろうか。歌の文句に「浪花節だよ人生は」というのがあるが、これも日本国内だけで通用する内容である。現在のあらゆる商業活動や研究活動が国際的であるのと同様に、政治も全て国際的なのである。特に小さな島国の日本は、世界の人口相手の商業活動で成り立っている。日本が自国の文化と価値観の地方性を十分に理解してから国際感覚を磨けば、日本の美しき特殊性が理解され、その重要性を世界に広めてしかも認めさせることが出来るはずである。
外国人にとっては、日本は美しくエキゾテックな国で、是非一度訪問してみたい国なのだ。いま日本では「クールジャパン」を売り出しているようだが、純日本的な「忠臣蔵」や「半沢直樹」を売り出して理解してもらえば、安部首相の靖国神社訪問も一緒の理解してもらえるかも知れない。多分理解と同情の両方を一度に得られるに違いない。ソチ冬季五輪の国際舞台でも勝ってもらいたいが、毎日の行いの中にも国際的成長の機会は多くあることを記憶に留めておいていただきたい。日本、頑張ろう。

2013年12月28日年の瀬に、宇宙ステーションのような高みから日本を眺めてみた。覆いかぶさるような大自然の中で。   
クレムソン大学名誉教授  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−私の酒歴/ワインの思い出−

これは外国に行って味わったワインの思い出話ではありません。山梨に移住して、勝沼で見つけたワインの話でもありません。私の子供の頃の淡い(?)思い出話です。
多分、4歳ころの…つまり今から60数年前のことで、山口県宇部市琴芝での古い木造の借家住まいだった頃の話です。

サラリーマンだった私の父はアルコールをこよなく愛した人で、日本酒、ウイスキー、ワイン、…何でも好みました。当時はまだ終戦後間もない頃ですから、アルコール事情がそんなに良いとは思いません。そんなある晩、わが家に来客がありました。話は進すみ、やがていつものごとく酒盛りが繰り広げられる段に至りました。既に夕食を終えていた私は、その場にたまたま顔を出すことになったようで、しばらく経って宴が盛り上がった頃、その場にあった赤玉ポートワインをひとくち口にする機会に恵まれ!ました。大人達が旨そうに口にするその得も知れぬ“液体”に子供心に不可思議な興味を抱いてはいました。それを口にする機会がついに訪れたのです。ほんのひとくち…。生まれて初めて口にしたその味は、甘いものが不足していた時代の子供の舌に染み込むように“甘味”を刻印してくれました。

ジャジャじゃーん!覚えてしまった“甘味”は翌日とんでもない行動に私を駆り立てました。昼前にはいつも通り母は買い物に出かけました。姉たちは学校でしたから、留守役の私は一人家に残されました。この時、前夜刻印された“甘味”が蘇ってきたのです。
行動開始!!外に出かけ、いつも一緒に遊んでいる一歳年上の友達を見つけ、我が家に誘い込みました。「おいしいものがあるから飲もう」と…。前夜口にした赤玉ポートワインは、いつもの父専用のガラス扉のケースに納められていました。我々二人はその前で、大人達と同じ格好にあぐらをかき、そっとそのワインを取り出し、切り子のグラスで宴の始まりです!!。
大人達の仕草を真似、ワインを酌み交わし、手拍子で歌ったかどうかは覚えていませんが、さて、どの位飲んだかは覚えてる由もありません。しばらくは歓談(!?)しながら口にしていたと思います。酔った真似事をしているうちに、本当に酔っぱらったのでしょう、警戒心も解け、次第に買い物に出た母のことが忘れ去られ
ていきました…。かれこれ小一時間ほどは経ったのではないかと思われますが、いい具合になった頃、突然に!玄関の戸の開く音がしました。
ガラガラガラー!!。母が買い物から帰ってきたのです。
ヤバイッ、シマッター!!! 
咄嗟に、ワインを仕舞おうと立ち上がりました…が…それからの記憶はありません……。
その後母から聞いた話によると…家に帰ったら、子供二人が赤い顔をしてひっくり返っていた!何しろびっくりした。赤玉ポートワインのそばで我が子と友達(ひろしちゃん)が真っ赤な顔をして倒れている。すぐに救急車を呼んだそうです。
幸い二人とも事なきを得ましたが、急性アルコール中毒!!

これが私のワインとの出会い、アルコールの初体験でした。淡い(!?)ワインの思い出です。
新年を迎え、連日アルコールに浸って思い出された子供の頃の数々のやらかしのひとつでした。



◆今月の山中事情93回−榎本久・宇ぜん亭主

−イタリア紀行−

イタリアの丁度真ん中、アドリア海に面した小さな町に居る。地中海気候の乾いた風土が顕著だ。オリーブ畑とブドー畑が連なる丘に白い建物が点在している。赤いトマト畑も垣間見え、彩りを添え、ヨーロッパそのものを映している。
海が青い。青が濃いので地上の色が尚発色している。人々は陽気そのものだ。一様に絵の中から飛び出して来たモデルの様に見える。野良から帰って来たモデル、酒場で酔っているモデル、工場から帰宅するモデル、商人も、漁師も、ビジネスマンもだ。まるで彼等はこの間観たイタリア映画のキャストにも見えた。
私はそのうちの一人の商人らしき人にホテルを紹介してほしいとお願いした。案の定、私の思った通りの古く、それでいて清潔で、丁度良い大きさのホテルに連れて行かれた。部屋も一人では広すぎる程だ。調度品もアンティークが並ぶ。
夏が終わったこの町もようやく平静を取り戻したのではないかと思えた。なぜなら、旅行者らしき人も見受けないからだ。このホテルはオーナー夫婦のみ。すべて夫婦でこなす。部屋数もたった六室。三階建てのロマネスク様式の小さなホテルはひとり異彩を放っている。六十がらみの陽気な夫婦にとってはそれでも充分仕事を満喫している風だ。夏は連日の満室で、それなりに大変だったと、オーバーアクションで答えてくれた。夏が終わり、こうしてゆっくり出来ることが楽しみだと。肩をゆすって手を上げた。イタリア人特有の茶目っ気で。

それにしても、イタリアは全土が食の都だ。我が国と同じで、海に囲まれ、特にシーフードは群を抜く。どんな所にもスペシャリストが居て、旅行者に満足を与えている。このホテルの本日のお客は私一人であった。逆に言えば、大変幸運でもある。私の為に全身全霊をかけてもてなしていただけるからである。
昔話に花を咲かせる私達の関係であれば良かったのだが、生憎の初対面で、言葉もままならなぬとなればボディーランゲージしかない。日本から来たことは理解して貰ったが、お互いその他はちんぷんかんぷんだ。それでも異国情緒にも酔い、ワインにも酔い、奥様の料理にも酔い、一日目のイタリアの夜はあっという間に過ぎてしまった。夫婦のもてなしは完璧だった。

翌朝港に出た。海の香りは同じだ。日本の漁港とは趣を異にしている。漁民のいでたちも違えば、船の形も違う。港には漁から帰った船が数隻あった。獲れた魚は見たこともない物がいろいろある。しかし、系統はなんとなく分かった。そして、刺身はどうかなと私はすぐ思うのだが、この国の料理人は別のことを考えるだろう。小高い丘を登り、港を見下ろした。海を囲むようにCの字のごとく町があった。どこにも、こうして民族は集落を造り、ずっと生きて来たのかと思うと、一人の人間の価値を改めて見出したように思えた。

帰りは別の道を通った。町の教会だ。尖塔の上に十字架があった。建築物としての興味から近くに寄ったり、遠くに行ったりして眺めた。おそらく遠い時代からここに在り、この町の中心であり続けているようだ。石だたみの続く細い道を下り、海の匂いが薄まってホテルの裏手に着いた。八時になっていた。奥様はボリュームのある朝食を用意していて下さった。日本人であるからと、配慮がそこかしこに行き届いている。白身魚(おそらくカレイ)のムニエルと生野菜がガラスボールにこんもりと盛られ、ごはんさえ付けてくれている。醤油もある。イタリアは米作の国でもあり、米はイタリア料理にはなくてはならない野菜だ。日本では私は朝はパン食なのに異国でごはんを出される幸せにひたすら感謝した。
昼頃、ザックに忍ばせておいた「たまごやき鍋」を取り出した(海外に行く時は「たまごやき鍋」をいつも持って行く)。昨夜いただいた「魚介スープ」があるかと聞くと、あると言う。それならばと、たまご十個、スープ二〇〇CC、トマトミジン切り一個分も依頼した。キッチンペーパーに油をつけ、「たまごやき鍋」を熱した。イタリアでの「たまごやき」の開始である。奥様は何が始まるのかとそわそわ。ご主人は椅子に背をかけ悠然と見ている。たまごを解き、スープとトマトを入れ、熱した鍋に一回目を流す。二回目、三回目と流し、四回目は型を整えながら、仕上げをして終了。巻き上げて焼く作業に驚いていた。黄色の中に赤の点々のトマト。魚介スープの入った複雑な味とかおりのする「たまごやき」を早速昼ごはんで食す。一同「ブラボー」。
その際、私が日本で料理人であることを初めて伝え、どこの国でも代表的スープがあり、「たまごやき」はそれを利用すれば作れることを伝えた。オムレツがその仲間だが固さが多少違う。奥様はそそくさとメモ帳を持ってきて、「たまごやき」の分量を聞いた。とりあえずフライパンで作りたいとか。

この町の空にも星が瞬いていた。日本ではまじまじと空など見ていなかったのに、どうしたことだろう。「旅をする行為の一つ」とマニアルに書いてあるなら、それに従ったのであろうが、決してそんなマニアルはない。無事今日も過ぎ、見知らぬ土地で二日目が終わる。
大きなことを成し得た訳ではないが、この満足感は一体何だろう。人と人が接することの大切さを味わうと、ほんの些細なことにも満足を得るようだ。そこには、金銭の介在や名誉のやりとりなど、何もなくとも相手が心の底から喜ぶ行為をしてあげることが、信頼を得、信用を与えることにつながるのだ。異国に来るとその度合いが強いのは帰属する所が無いからかも知れない。
世界はこうして見返りを望まぬ人々によって成り立っている。それを知っただけで今回の旅は私への格別のプレゼントだったのだ。明日は船で南部に行こうと思う。
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目が覚めた。新年の一番電車が通った。すばらしい初夢をみていたのだ!!


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