★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.128

また強烈な暑さが戻ってきました。どうぞご自愛下さい。
先月末に我が家の近くから撮った写真を貼付します。
少しは納涼気分になれるでしょうか?

先日ご紹介しましたが、NHK・BS3火野正平
「にっぽん縦断 こころ旅・山梨版」が再放送されます。
しかし、8月29日(木曜日)午前5時から6時までの前半30分です。
ちょっと早すぎますが…。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.128》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題は田邊むつみさんの「島便り」より。小笠原からです。

又小笠原に行っているの〜? と言われそうですが、はい、小笠原のトップシーズンと言われる7〜8月に懲りもせず 来ています。島の人から『夏はいいよ〜!是非、夏に来ないと』と言われ、7月に来てみようと思い実行しました。7月17日に小笠原の娘の家に着きました。お忙しい時間を送っていらっしゃる皆様には申し訳ないような島時間を送っております。

初めての小笠原の地を踏んだのが昨年2012年4月、嫌々、仕方なしの小笠原でした。島の生活もほとんど分からない状態の娘と2歳の孫(男の子)の転勤に、嫌々ながらくっついて来たものの・・・・・島にあるものは素晴らしい暖かい自然と温かい人情だけで、すさまじい程に 物資と街に娯楽が何もない島でした。余った時間を潰す?遊ぶものが無いのです(たとえば、レジャー施設、スポーツ施設、文化施設、遊興施設etc.・・・村民の為の公共スポーツ施設はありますが)6日〜7日に一回の定期船「おが丸」入港日に入ってくる食料を求めて、島民が2軒しかないスーパー(コンビニ程の広さ)に物を買いあさりにいく状態、レジに並べば長蛇の列で会計に30分はかかるという酷さに呆れはてました。

過疎の田舎で暮らしたことがない私にとっては、都会とは余りにも勝手の違う大変な日々の連続でした。今年の冬の小笠原を経験し、定期船「おが丸」のドック入りで2週間、内地からの物資がほとんど入ってこない隔離生活にもあきらめて不便さに付き合いました。

あれから1年3ヵ月、悟り なんていう大仰なものではないですが、『あると便利』とか、『美味しいものが食べたい』と思わない(=初めから、そういうものはないと考えれば、腹も立たない)ようにしました。慣れもあるのでしょうが、それまでイライラしていたことがばかばかしく思えたのです。インターネットが入ることにより、数年前の小笠原と違い、格段と便利な生活になりました。内地との交通手段は、「おが丸」しかなく不便で高価なものですが、来れば別世界。島で快適に暮すには、物へのこだわりを薄くして、時系列をゆるく考えることがストレスを貯めないコツの1つかもしれません。



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−時間がたゆたう・2−

前回の三重県・大井田での茶会の続きです。

まだ陽のある内に懐石は終わりました。旨い酒であった。山口・周南の「カネナカ」は私には初めての酒でしたが、押しつけがましくなく、なかなか切れ味の良い酒でした。もう一度飲みたくなる酒です。
お茶に向けて一休み。この間に私も浴衣に着替え、気分を切換えました。

さて,茶室に向かいます。楼水軒に用意された草鞋を履いて露地に向かいます。外露地門を潜り、踏み石の具合を足裏に感じながら待合へ。腰掛待合で一呼吸おいて(今回は時間が押してきたので“迎え付け”は省略)、枝折戸から内露地に入り、蹲いで清めてから躙り口へ。外露地門から蹲いまでは、これから展開される非日常世界への気分の切換・集中に向けた日本独特の時空で、風情を演出する大切な装置です。蹲いで亭主の気合いを感じ取り、静かに清めます。
躙り口を潜ったところで、下がり壁に掛けられたこの茶室の額が目に入ります。この茶室は敬愛する御祖母の名に因んで「星期庵(せきあん)」と名付けられていました。茶室は四畳半丸畳半間鱗床。床には御祖母自筆の“星期”の文字色紙が軸に掛けられています。墨の土壁が空間を引き締めます。この墨の土壁に浮かぶスサ(?? )が目に印象的でした。黒い壁は杢目を美しく引き立てます。

さて、袴をつけた亭主の炭点前から始まりました。嘗て、仕事場では見せたことの無かった(?)ような真剣な表情です。いやいや何とも楽しい。ほほえましい中にも緊張感が漂っています。静謐なひとときです。炭を起こすにも形式化された美学。この作法、この形式…若い頃はこの伝統世界の作法や形式に反撥しもしましたが、歳月を経て面白がる自分がそこにいる事に内心苦笑い…。
この点前を自然にこなせるようになると一人前なのでしょうか。風炉での炭点前が終わり、つづいて妻の濃茶点前に入りました。お菓子は地元の和菓子屋さんで季節ものを、それぞれの希望に沿って事前に調達。ここから若干お茶の教室的雰囲気にもなり、和やかに作法や質疑が交わされます。これもまた楽し。
濃茶を口にすると、きりっと引き締まる思いです。濃茶の深い緑が何とも美しい。この文化は味わい深いものだとつくづく感じる時間です。

濃茶点前が一区切りついたところで、床の軸が下げられ、庭の花を生けた花台(亭主自作)が掛けられました。その後は我が妻の指導のもと、私を含めそれぞれが薄茶を点てあい(茶道教室に転化)、四人で茶を堪能。点て方の違いで、お茶の味も随分違うものだと気付く次第。なかなかきめ細かい泡ができません。残念ながら、私が点てた薄茶が一番旨くなかった。
外はすっかり日も暮れ、明かりが灯されました。この“時空の移り変わり”を感知する茶室の設え。あの「八窓席」の時空の変化は如何ばかりであろうかと想像を巡らしていました。日本の伝統的空間に於ける、時空の移り変わりを感知する仕掛けは絶妙です。
茶室での三時間ほどの時間はあっという間に過ぎ、堪能。夜の帳がすっかりおりました。

休憩を挟んで、夜の部(後席)は倉での酒宴です。本人手作りのキッチンカウンターを挟んでみんなで向かい合い、始まりです。料理人役は彼。まずはシャンペンで乾杯。夜の部はこのシャンペンと白ワインが口を満たします。夜の部の主役は末娘。シンガーソングライターの出番。ライブです…実は、彼はこのために末娘も招待したのでした。夜の静寂の中でギターの音と娘の声が響きます。
酔いに任せ、次第に忘我の世界へ。彼が何を作ってくれたのか定かには思い出せないのですが、胃袋は満たされていったようです。
私以外はみなそれぞれ主役を演じ、私はそれを肴に茶や酒に興じる非日常世界に没入。
様々に思いの中で時間がたゆたっていました。深夜就寝。

この茶会は妻と私のそれぞれの出身地である山形、山口と現在の住処である山梨に因んで「山尽くし茶会」と名付けられました。



◆今月の山中事情88回−榎本久・宇ぜん亭主

−祭り−

秩父地域は年中どこかで祭りが行われているという。「秩父の夜祭り」を筆頭に、朝早くからあちこちで、それを知らせる花火が鳴り、今日はどこだと人々は口を揃える。祭り好きの秩父人にとって、このことが胸の騒ぐ第一歩目である。特に「秩父夜祭り」「川瀬祭り(夏祭り)」に於いては、豪華に装飾の施された屋台や笠鉾は一年に一度それが為に人々はその日を迎えるのである。それらは各町内の格納庫に納められ、すべて有志によって管理されている。(参照秩父祭り検索)
市内の各々の家ではお客が訪ねて参り、そのもてなしに追われ、祭りを見たこともないおかみさんがたくさんいると言う。この日は朝から寝るまで、おかみさん方は裏方に徹しなければならないようだ。普段は閑散とした秩父市中も、秩父神社境内の周辺は大変な人だかりを呈し、祭りの力を感じるのだ。

祭りに静と動があるとすれば、秩父の祭りは動的で、男の祭りを彷彿される。川に御輿を担いで行き、清める(川瀬祭り)ことや、町内ごとの屋台に(重さ約20トン)を連ねて市内を曳行するのは圧巻である。飯能時代、初めて「秩父夜祭り(冬祭り)に行った。車では無理とのことで電車で行ったのだが、西武秩父駅が「新宿駅化」していた。聞けば、この夜は三十万人の人が秩父を訪れているとのこと。まさしくこの町は祭りと共にある町なのだと思った。
一方、私の育った鶴岡の祭りは静的だ。「化け物祭り」と称される「天神祭」は、菅原道真を偲んで行われているが、これは五月の春に行われる。流刑される道真公が、女装をして親しき人達と別れるが為、無言で市中に出たとされる逸話によって、老若男女が菅笠をかぶり、顔を隠し、女装をし、大人は酒とっくりに盃、子供はジュースを持って、知人を見つけては酒やジュースを強要する祭りだ。一切の言葉のやりとりはそこになく、もし顔や声が判明したら道真になれないことになり、良いことがないとの戒めのようなおもしろい祭りである。

祭りに好き嫌いと区別する必要はないが、私の幼少期はこんな風だったので、どちらかと言えば、静的な祭りが性に合っているようだ。「越中風の盆」もこんな類だ。祭りイコールうかれることであるが、それは無心になることでもある。考えてみれば、そういうことが生活の中に無くなっているのが現実であれば、子供の頃にならって想像外のことを真剣に思うことも大事なことだと思う。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/