★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.129

暑かった夏もどうやら往ってくれたようです。
暑い時期に少し体調を崩しましたが、回復力の衰えに愕然…これも老いかー…。

今月は、榎本氏と私それぞれにもたらされた訃報に対する想いが偶然重なりました。

2020年のオリンピックが東京で開催される由。
安部総理は汚染水が完全にコントロール出来てるとミエ(ウソ?)をきりました。
本当にそうしてもらいたい思いです。

秩父連山を望む夏の夕暮れの風景写真をひとつ。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.129》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          これまでに様々な話題を頂き、そのストックの中より。

−火山−

「火山」を「火を噴く山」と読むと得心がいく。山の木々に火がついて火事が起きたのではなく、地球(地中)が火事なのだから。その地球は、練炭のように中心部は常に「火の玉」だという。そのお陰でか、地球は暖かく生物が生息し人類の歴史も刻まれてきた。「火の玉」は憎むだけではなしに感謝してよい対象ともいえる。噴煙や土石流などマグマが吹き上げる火柱や煙などは危険であるが見事であり、殆ど宗教的、芸術的ですらある。
火山帯が張りめぐっている日本列島に住む人は、「火の玉」の上に座っているようなものであるが、同時に地球の内部を垣間見る機会を与えられたと思えなくもない。そこから噴き上げられてくる岩石は、地球の外から飛来する流れ星と同様に、宇宙の神秘を届けてくれる、と考えれば、そこにも人知を超えた何かが入りこむ余地ができてくる。
現実的な危険予防に関しては、政府や自衛隊だけの責任ではなく、都市計画家、建築家、科学者、技術者、教育者など、ありとあらゆる職種の人々が普段から、「火を噴く山」を真剣に受け止めて、「火の玉」の上に座っていることをよく自覚し、防災について研究を怠りなくしておけばよいと思うのだが、果たして十分な準備や装備はできているのだろうか。少なくとも、私にはそうは見えない。
これらの職種に携わる人々にとっては、この危険はまたとない「機会」でもあり、常に問題意識を持ってことに当たっていれば、「火の玉」が火を噴いても余り慌てないですむ筈だ。私も建築家の一人であるので、これは他人ごとではなく、責任の重さを感じて恐縮している次第だ。

さて、「火を噴く山」を芸術的に捉えて、多くの芸術家が刺激されて多種多様な表現をしてきたし、今もそうしているはずだ。この地球の中心と宇宙を繋ぐ光景は、神々しくさえある。当然過去において人々は、多くの宗教的な感覚の反映をそこに見い出した。新燃岳が噴火して土石流に脅かされているときに、このような発言は不敬だなどど言わないでほしい。危険であればあるほど芸術家は興奮を覚え、映画を作りたくなり、音楽を作曲したくなる。平穏無事なときには見えないものが、危機に際して本物の人間が見えてきたりするのと同じである。霧島火山帯付近に住む人たちの安全を祈る気持ちは誰でも同じである。

ベスビオス火山は一瞬にして古都ポンペイを埋め尽くし焼きつくしてしまった。多くの絵画、演劇、音楽などが創作され観光資源となり、イタリアのナポリから観るこの火山は当時を彷彿させて十分である。ハワイや桜島や霧島、阿蘇その他数多くの活火山が、時折思い出したように、まるで地球が春先にアレルギーでくしゃみでもするかのように火を噴いて、地球と宇宙とを繋げる活動をしている。海中に噴出しているマグマの中に生息する生物もいると聞いた。地球物理学、地球の歴史、宇宙の中の地球、など教育や研究などの材料を提供してくれる「機会」となるので、最大限に利用してもらいたい。是非小学校から大学までの科学、文化・芸術、技術などの教育に即刻応用して、生徒と教師が同じ情報で同じ目線に立って教室が議論伯仲の場になるようにしたら素晴らしいと思う。当然多くの授業で既にそのようにしているとは思うのだが。アメリカで多額の研究費を使って、中西部に起きる巨大な竜巻を追跡して、竜巻生成の瞬間を捉えて、その原理を解明しようとしているグループがある。この「火を噴く山」についても出来れば地震などとも関連させながら、それを研究する追跡隊を組織して、火山の徹底研究をし、予知や予防対策などを徹底的に究明したらどうであろうか。天気予報よりは多くの情報を集めているのではないかとと想像するが、その予防対策は、新聞やテレビで報道されている限りではまことに頼りない。火山列島の日本とって、この分野で世界の第一人者になるまたとない「機会」だと思うのだが。

2011年2月20日 クレムソンにて、岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant
http://www.architect-w.com/data/15365/

−偲ぶ−                  
8月の始め、東京・三鷹市で「荒川賢一さんを偲ぶ会」が開かれました。私は残念ながら体調不良で出席することが出来ませんでしたが、荒川さんへの思いを綴っておきたいという気持ちになりました。そう言う人柄の方でした。
荒川賢一という名前をご存知の方は、このRyuの目の読者の方々の中でも数名しかいらっしゃらないかも知れません。三鷹市で市民活動された方々にとってはご存知の方は多いでしょう。三鷹環境市民連(住み良い環境をつくる三鷹市民連絡会の略称)を創設され、長く会長として活動されてきました。都市の居住環境が次第に劣化してゆく中、一市民として地道にその問題に取り組まれた方です。
しかし、私が知ることとなったのは、環境市民連の活動を通してではありません。このRyuの目でも以前に度々紹介しました(市民参加の実験/まちづくりと政治…実験の継続/一市民としてのまちづくり/まちの中の四季、等々)が、三鷹市基本計画策定に対して市民からの提言を行い、これを基本計画に反映させることを目的とした公募により集まった「みたか市民プラン21会議(400名弱が参加して1999年10月から2001年11月までの2年間、期間限定で活動した市民の自立的な組織)」に於いてです。
この会議の特徴は、行政が素案を作成・提案して市民の意見を聞く従来のやり方と違い、市による素案作成前に市民が白紙から提言を行うという新しい市民参加の実験でした。市民プラン21会議は活動開始に際して市と「パートナーシップ協定」を交わし、市民組織と市が対等の立場で協働して基本構想・基本計画の素案を作成するというものでした。10の分科会に分かれ、私はその第一部会(都市基盤の整備)に参加しましたが、その部会の世話役をされてました。
私にとって、自分の住んでるまちでこのような活動に参加するのは初めての経験でした。足元を見ていなかった!参加者の多くは既に様々な地域活動をしてきた方々ばかりです。時には厳しい意見のやりとりもあり、初参加の私には歴戦の勇士を前に腰の引ける思いでした(自分の住んでるまちをこのような視点から見たことはなく、問題点の所在もよくわからない状態でしたから)。歴戦の勇士達はそれまでの自己の個別活動領域の披瀝やそこからの主張がなかなか強く、“都市基盤の整備”という全体的な整合性を求めながら都市基盤のあり方を提案してゆくというそれまでとは違ったスタンスのこの会のあり方に、しばらくは戸惑いが様々に見られたように思います。そんな中、いつも笑顔を浮かべて、焦らず応対されていたのが荒川さんで、その懐の深さ・広さがバラバラになりかける会をまとめていったのだなという印象を強く持っています。
そんなメンバーの中ではド素人同然の私は、かみ合わない違和感を覚え、途中で止めようかとも考えましたが、そんな時に私に発表の機会を与えて下さり、市民運動としては“素人くさい”提案を評価していただいたのが荒川さんでした。それをきっかけに私も最後まで活動することとなり、『「アメニティ豊かなまち」をめざして』という第一分科会としての提案が行われました。
笑顔を絶やさず、落ち着いて、相手を受けとめながら対応される。人間に対して視野の広い方でした。活動キャリアで圧倒するのでなく、あくまで一人の市民としての発言を大切にされる。そんな荒川さんに、しなやかな人間力を感じ取りました。その印象は、私の故郷で環境問題に立ち上がった一人の主婦・上田芳江さん(注記をお読み下さい)とダブります。
このRyuの目・?の「今月の風」への話題提供者第一号が荒川さんでした( Ryu の 目・? no.1 2003.01.10)。私には第一号にふさわしい方だと思えたのでしょう。その時の話題を再掲します。
このRyuの目を愛読していただき、励ましのメールも寄せてくださった。


※再掲:今月の風:話題の提供は荒川賢一さん
  ( Ryu の 目・? no.1 2003.01.10)

―年賀状のことー 
昨年末、親しい友人が真剣な顔で「年賀状をつくる気がしない」と言いました。日本銀行のアンケート「生活調査」によると、暮らしが前年より「苦しくなった」と感じているのが49.9%、勤め先での雇用・処遇に不安との回答が83.3%です。暮らしにも経済にも将来が見えないのに「あけましておめでとう」はないだろうと。
しかし当面する不況が深刻なのは事実ですが、もっと心配なのがイラク、どうしても戦争に持ちこみたいブッシュ大統領と平和解決を望む国際世論とのせめぎあいです。友人の気持ちは良く分かりますが、戦争の危機から目をそむければあとで悔いだけが残ります。その事は戦中戦後の辛い歴史で体験ずみ。
「ま、年に一度のご無沙汰お詫びはね…」と友人は欠礼を思いとどまりました。そして私は「世論」にも参加すべく、今年の年賀には「大切なキーワードは平和」と書き始めました。戦争には勝者も敗者もない、真の勝者は平和を選択したものだ。
 
−「社会人間」になるとういうことー
ある日、電車に乗ると、いきなり前に座っていた女性から席を譲られた時のショックは忘れられません、それも数年前の事になります、時の流れの早い事。ビジネスを卒業してもう15年余、後期高齢者のお仲間に入ると急に「老い」という言葉が気になるようになりました。シングルだから余計そうなのかもしれません。よく、高齢者は家に引きこもりがちと言われますが、会社組織から解放され、地域の市民運動に関わるようになってから12年余、学ぶ事が多く、とにかく良く動き回るようになりました。炊事から始まる雑事を含め、地域の暮らしに根ざした活動の中で、会社人間が「社会人間」に脱皮できたと喜んでいます。
あるお医者さんが書いてました「明るく前向きに生きると免疫力が高まる」。市民運動は老いに負けない秘訣でもある事を証明したいもの。もうしばらくは、市民しょう!と覚悟しているところです。    荒川賢一


※注記:2001年11月10日発信Ryuの目☆no.2−《通りすがり》より

「緑で公害から町がよみがえるまで − 宇部市緑化二十年の記録」…これは30年前に書かれた私の生まれ故郷、山口県宇部市での記録書(絶版)です。著者は上田芳江・山崎盛司の共著です。上田芳江さんは宇部在住の主婦でした。この本の第一章の一節に「空気はタールの匂いがしみこんでいます。その空気を吸う市民の吐く息は石炭の臭いがするのです。体からは黒い汗がにじみ出ます。ワイシャツは黒い油で汚れます。そして、町には昼夜の区別なく灰(燃焼しきらない石炭の灰)が降り続けるのでした。」昭和20年代後半、石炭の町・化学工業都市としての宇部の姿です。イギリスのマンチェスターを越す世界第一位の降灰量であったとも…。そして、環境の荒廃した町では眼病と少年の非行が増え続けました。ここから、わが子を想う主婦が立ち上がりました。“女性の目”は〈花いっぱい運動〉、〈緑化運動の展開〉へと向かいます。他の一節に「人間形成の最後の仕上げをするものは環境であるというわかりきったことがらを、私たちは忘れがちだった…」とあります。今、宇部は「緑と花と彫刻のまち」として、1997年。国連環境計画(UNEP)より〈グローバル500賞〉を受賞するまでに至りました。
時代あるいは状況が異なるとはいえ、われわれの居住環境を考えるとき、「人間形成の最後の仕上げをするものは環境である…」の下りは深くこころに刻まれる思いがします。



◆今月の山中事情89回−榎本久・宇ぜん亭主

−追悼−

あの猛暑の続く八月のある日、友人の奥様が亡くなられた。淋しくて悲しくてやりきれない思いでいる。病の報をされて来たのは一年前だったのだが、ご本人との会話や友人の話す治療経過で、克服するのではと現代医学のそれに期待をしていたのです。事実、治療のない日は仕事をしていたとのことで、社会との接点を持つことで病が食い止められているのではと私は勝手に思い込んでいました。その間彼とは別件で会うことがあり、そのうち皆で食事でもということで、遂ぞ入院見舞いをすることもなく時が経ってしまいました。少し気がかりだったが、余りしつこく電話をするのも失礼だと思ったことが仇になってしまいました。私が入院した時は、イの一番に来ていただき、落ち込んでいる私に励ましの言葉を何度も言って下さったのに、ご自分の方が早く居なくなるなんてこの世のはからいの無情さを只々恨んでいます。
現代はI・P・Sなどの高度の医療技術が次から次に発表され、あたかも全ての病気が治るかのようにマスコミは伝え、光明を与えています。難病に苦しむ患者、重症な患者の多くはその報道の度に一喜をし、しかし、よくよく聞けば数年から数十年先のことと知り、今度は一憂しているのが現実です。私的に言わせていただければ、こういう報道はかなり現実的になってから発表されるのが患者諸氏の為にも良いのではと思うのですがいかがでしょうか?彼女とて現代医学の先端治療を受けていたにもかかわらず、それでも帰らぬ人となってしまいました。医療の限界であったと言われてしまえばそれまでだが、生きる者の定めとしてその生を全うしたという厳粛な事実以外語る言葉が見つからないでいる。
私はこの友人夫妻に対し“あこがれ”を持っていました。立居振舞いが常にスマートで笑みを絶やさない彼等は、がさつな私に世の中での振舞いを身をもって教えていただいていたような気がしてなりません。遠く離れてしまっても気を掛けていただける幸せは、患った者としてひたすら感謝の念で一杯でした。思い出ばかり残して下さいました。何かの際はそれを思い出すことが供養になると言われるようですが、本当はそれは相当先のことであり、堪え忍ぶことが今の心境であります。友人もおそらく連日耐えていることと推察しています。死者との対話をする日が夏の行事としてあります。厳かと言うより喧噪の空気が漂い、悲しみを和らげさせてくれる時期でもあります。生き残りし者が死者に対し何が出来るかは一人一人の心の中にあることですが、この年の夏にあったことも忘れてはならないと私は思って居ります。合掌

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/