★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.127

猛暑と言うべきか、異常な暑さが押し寄せてます。
それでも白州では夕刻になると気温も下がり、ひぐらしの鳴き出した声にホッと息をつきます。

さて、参議院選挙が近づきました。
未だに終息しない原発事故がなし崩し的に過去形で扱われようとし(この国のエネルギー政策が見えない)、また、憲法9条ばかりか“個人の尊重”までをもターゲットにした憲法改正がひそかに練られていることが気がかりです。アベノミクスに目を眩らませてはならない…。
しなやかでバランス感覚のある日本であって欲しい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.127》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。
          これまでに様々な話題を頂き、そのストックの中より。

−人類の自己評価−

「のど元過ぎれば熱さ忘れる」とか「台風は忘れた頃やって来る」とは人間の弱さと限界を言い当てて妙である。そして人は「臭いものに蓋」をし続けて、人間中心主義的知性の決定版である「人類愛」を提唱し、それを理由(言い訳)にして問題の本質から目を遠ざけて、真に必要な解決や決断を先延ばしにしてきた。そして遂に本当の「つけ」が回ってきたようだ。もう人間性や人類愛の蔭に隠れ続けることは許されるべきではない、という時期にきている。人類を含む全生物が生存するためには絶対に必要な資源である「地球」の限界を真剣に見極め、資源としての地球との均衡状態を保ちつつ、如何にして共存していくか、さらにはそうすることによって改めて人間の本質にせまり、文明を再定義し人類愛の表現を正して、人類と地球が均衡を保って進んでいくべき方向を模索していくことが、我々に与えられた課題であると考える。
以上の指摘は、経済発展のための即戦力にはなりにくいが、長期的ビジョンを提供して全人類の生存に関わる方向を打ち出す手がかりにはなると確信している。本来ビジョンとはそういうもので、文化や生活環境が異なる人々が協力して力を結集できる、そういう力を持っている。

レーシング・カーのために開発した自動車の技術は、その後の自動車産業全体の発展に多大なる貢献をしたといわれている。戦争を奨励するつもりは決してないが、皮肉なことに一国の存在を賭けた国家間の争いのために開発した技術がその後の文明に果たした役割には絶大なものがある。とりわけ技術の平和利用となった場合には万民に受け入れられてきた。例えば交通技術、コミュニケーション技術、原子力エネルギー、電子機器、材料、 等など我々の生活全般に関係しているものばかりである。しかしこれら全ては、地球資源が無限であるとの仮定の上に成り立っているものばかりだ。

研究・製造・販売が一箇所で完結していた時代には、労賃を上げれば購買力がつき、製品が売るにつれて販売力も上がるという良循環が可能であった。世界規模の経済発展がなされているいま、競争力をつけるため安い労働力を探して発展途上国へ生産基地を移し、本社・研究所・生産地・販売などの機能を分散して、各社とも生き残り作戦を重ねている。当然生産基地を担わされた地域、すなわち発展途上国では、公害が問題になる。しかしオーナーたちのいる本社では、生産に直接関わらないので、公害には概して冷たく、生産地の公害を人
ごとのようにみなして批判的ですらある。大変無責任で困った現象である。中国やベトナムやメキシコなどの公害は他人事である筈がない。アメリカ、日本、ヨーロッパなどにあるそれぞれの企業の本社も公害製造の共犯であることを忘れてはならない。これは単に汚染空気や汚染水などの問題だけではなく、資源枯渇の問題にも直接関係した責任問題である。二酸化炭素や資源不足、砂漠化など、世界的規模の問題ばかりである。
どうしてこのように経済競争をし続け大量生産をし、発明発見を推し進めて需要にたいする供給を盲目的にし続けなければならないのだろうか。この需要増加と経済競争激化を変えない限り、公害は増え続け、資源が枯渇するのは誰がみても当然の帰結である。

人工的環境の設計者であり哲学的思考をし、芸術家でもある良心的な築築家は、第二次大戦後の世界的住宅不足の時期に、十分な質と量とを兼ね備えた住宅を供給することさえできなかった、と自己嫌悪に陥っていたと聞く。現代の思想家、政治家、教育者など、文明の指導的立場にいる人たち、またはいると自覚している人たちは、この需要・供給の競争激化をどう見ているのだろうか。自己嫌悪に陥っているならまだ救いはある。指導者的立場の自覚も意識もなくただ困ったことだ、と他人事のように嘆いているだけでは無責任もはなはだしく、救いがたい。
地球資源の規模と、その資源を享受している生物特に人類の規模との間のバランス関係が、未だに真剣に研究対象ともならずに最大の問題として存在している、と私は実感している。要するに地球という限られた資源に対して人間が増え過ぎ、その増えすぎた人間を支えるためにより多くの物資を必要とし、そのために需要が増え続け、環境が悲鳴を上げて公害現象を起こし、資源が使われ過ぎて枯渇しはじめた、ということなのである。誰にでも理解できる常識的な話である。これは人口を制限するなどという生易しい手段では解決されるわけもなく、大規模な人口減少が必要と考えられる。政治的、宗教的な各種の問題が人口減少と直結して派生してくるために、手がつけられないのだ。思想家とはそのために思考をめぐらせる地位にいる人々であり、政治家はそれを実践に移す専門家であるべき地位にいる人々だ。エコとか、自然エネルギーなどはその道具的存在であり、そのために使われるべき政策は大規模な人口減少である。
恐らくは現人口の十分の一ぐらいが目標に近いのではないかと想像するが、さし当たってその第一段階として人口を半分にするところから始めたらどうだろうか。そのために50年ぐらい必要なのではないかと想像する。その間に専門家たちがより正確な目標数を研究してくれるに違いない。

人類の自己評価という題でこの項を書き出した。地球資源の根本問題と正面から向き合えていない現代文明に私は失望している。我々の文明はその程度なのか、そして自分もその一部なのかというのが私の失望の原因だ。勿論個々の思想や発明発見にはこの世に生を得てよかった、と思わせるような素晴らしい質の高いものが多くある。例えば最近翻訳を終えたばかりの、キース・グリーン著「ジオ・ポンティとカルロ・モリーノ」という題の本の中での建築家の生き方も大いに参考になった。資質の高い人生訓を理解できず、したがって政治や教育に生かせないでいる現代社会の質にはいつも失望させられている。私もその一翼を担ってきた教育者であるので、いっそう顔が上げられない気がする。
要するに100年後に生まれてきた方がよかったのではないか、という妙な思いがしきりである。しかし100年後に人口が現在の十分の一になっていて、社会の前途に再び夢が生まれ、質の高い洗練された文化文明がゆきわたっている社会が存在しているかもしれない、という希望的観測が顔を出してきた。もしそうなら、私は現代文明を考え直す勇気と余裕がある。それまで私の模索が続くか、生命が尽きるかのどちらかであろう。

2011年6月20日 真夏を感じるクレムソンにて、 岸本雄二



◆今月の隆眼−古磯隆生
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−時間がたゆたう・1−               

梅雨明け前の一日、様々に想いのこもった時空の中で日がな茶会と酒宴に浸りました。
2002年6月10日発信の「Ryuの目・no.9」でご紹介しました<甦らせる>…「注」をまずお読み下さい…の11年後の続編です。

その友人は、嘗て勤務した設計事務所時代のシンガポールプロジェクトのチームメートで、以来かれこれ40年の付き合いになりましたが、八畳座敷(楼水軒)の修復、傷んでしまった御祖母の茶室の移築・修復、待合い・庭の作庭を終え、倉の修復から始まった16年に及ぶ実家再生計画がほぼ完成するということで、昨夏から完成のあかつきにはその友人が亭主で“一度お茶会をやろう”との約束があり、時期もいいのでいざ実行に移そうということになりました。

今回招待されたのは妻と末娘と私の三人で、三重県いなべ市の大井田に車で向かいました。朝6時白州出発。高速道路は出来るだけ避けて行こうとの方針で、塩尻から国道19号線(中山道)で木曽川沿いに下るルートにすることにしました。この冬、名古屋から小淵沢まで中央本線に乗る機会があり、木曽川沿いの車窓よりの雪景色がとても印象に残っていましたので、季節が変わってどんな顔を見せるか興味があったからです。名古屋の都市部は避けたかったので勝川から環状自動車道に乗り、予定よりは30分遅れて5時間半をかけて大井田につきました。大井田の田園風景は11年前とあまり変わりません。

荷物を移し、一休みしてるところで桜湯が出されました。この一服は茶会気分を盛り上げるのに効果的で、これから始まるであろう“数寄な時空”を予感させるに充分でした。一休みしたところで、まずは友人がこの10年という歳月をかけて設えた庭、内・外の露地、待合い、茶室の下見です。ひとつひとつ、試行錯誤を繰り返しながら、参考書を片手に、過去から現在への様々な想いを胸に、一木一草に想いを寄せ、自分のイメージに合った空間を求めた作品(写真貼付)。
いやはやこの酔狂な御仁の思い入れ様は、想像を遙かに超えており、感動すら覚えさせるものでした。よくもまあこつこつ歳月を掛けてここまでにしたものです。これまで気付かなかったこの友人の内面の世界を垣間見せられた思いでした…。

さて、下見を終えたもののまだ時間は早いので温泉に行って気持ちを整えることにしました。友人と外湯に浸かりながら40年前のシンガポールプロジェクトチームの話に及び、夏休みにドイツ人のメンバーを含む若者5人(チームは7名)で奈良、鳥羽を車で旅した話題になりました。その旅の目的が、互いに定かには覚えていないのですが、確か、何故か、ドイツ人に日本のストリップを見せようという話になり、奈良猿沢の池付近のストリップ劇場を目指したように思います。しかし、到着時間が早すぎたので開場まで近くで一杯飲ろうと言うことになり、結局その飲み屋さんに腰が据わってしまい、気がついた時にはストリップ劇場は閉館してしまったという何とも締まらない結末でした。鳥羽ではスナックで地元のヤクザさんと妙に親しくなってしまい、ヤクザさんのリードでハシゴをすることになったのですが、ヤクザさん同士のトラブルが発生し、後からとても恐いおもいをすることになった事が思い出されました。いやはや青春の無謀な一コマでしょうか。

さていよいよ茶会の始まりです。妻は濃茶の点前をするよう事前打ち合わせで頼まれており、若干の緊張感の中にも楽しさが伺えました。まずは、蔵に接続する八畳座敷・楼水軒で懐石の始まりです。妻と末娘は浴衣に着替えました。お茶に全く疎い私にとっては初めての経験で、もの珍しくてしようがありません。驚いたことに何と、彼は懐石料理まで全て自分で準備していました。特に茶道を習ってきたわけではない彼は、多分、見様見真似で自己流を作り上げた?なかなかなものです。ただただその心尽くしに驚き、恐れ入る次第。
振る舞われた懐石は“飯、汁、向付、椀盛、焼物、預鉢、八寸、香物、酒(錫製の酒器)”。季節の素材があしらわれています。
酒は、私と妻のそれぞれの出身地である山口と山形の酒が用意されていました。山口は周南の「カネナカ」、山形は鶴岡の「はぐろすいしゅ」。いやはや気配りに感謝。
陽の明るい中で懐石に浸る経験は勿論初めてですが、ゆっくりとした時間の流れ、木々のそよぐ様、擦り合う風の音…その中で出される料理と酒に舌鼓を打ち、何とも言えない落ち着いたいい時間が流れます。
つづく

「注」:2002.06.10発信の「★ Ryu の 目 ☆ no.9 ◆通りすがり」より
<甦らせる>
30年来の友人に誘われて三重県の大井田に行って来ました。その友人が自ら6年の歳月をかけて甦らせた倉で、その話を肴に、嘗ての同僚3人で旧交を温めようとの企てです。およそ100戸くらいの村のほぼ中央にあるこの倉は、祖父によって90年程前に建てられ、この数十年は放置されていたとのことでした。写真で見る限り屋根の損傷がひどく、雨漏りによる梁・柱・壁の腐朽で廃屋同然だったことが窺われました。この修復を決意した当人は東京に住んでいますので、月1回の割合で当地に通い、みずから不慣れな大工仕事に挑戦することになったのです。何らの技も持ち合わせない人間が、しかも遠隔の地から通って倉の修復に挑戦するというこの希有な無謀さに脱帽し、感動すら覚えました。確かに技術は稚拙でした。しかし、この無謀な挑戦に共感する仲間を得て一生懸命、無心に作ったまさに手作りの一作は、本人の目論見の50パーセント程が達成されつつあると言ったところでしょうか、完成のあかつきには、村の人々が楽しく利用している様を描いていたのが印象的でした。この功利的時世において胸のすくような傑作です。



◆今月の山中事情87回−榎本久・宇ぜん亭主

−父の幽霊−

それは昭和五十六年の初夏のことだった。この世に幽霊は存在しないことになっているが、それを断言出来ない事実を私は経験した。
父は昭和二十八年八月一日落雷事故にて死んだ。このことについては以前も触れている。私が小学一年生の時のことだった。それから二十八年後、つまり昭和五十六年初夏の東京の店でのことである。一段落した昼どきに、お初の客が現れた。五十歳前後のカーキ色の上着を羽織った男の人である。開口一番「佐久間さんに会って来た」と言うのだ。我々は彼とはまだ一言も話をしていないし、とにかくお初の方だ。唐突な切り出しに「佐久間さんとは?」と私は聞き返した。彼は再び「山形県の東根で一緒に仕事をしていた佐久間さんだよ」言うのだ。瞬間、私はその時代に引き戻されたようなおかしな心理状態になっていた。確かに父の同僚であり、息子さんは私の同級生だ。私は何かの魔力にかかったように簡単に「ああそうですか」とうなずいたのだ。

彼に何ひとつ嫌疑を持たず、昼食の終了まで相手をしていたようだ。しかし、よく考えると「佐久間さんに会って来た」以外、何を言われたのか、何を注文されたのかさっぱり覚えていないのだ。ところが、その人が帰った後、スーと悪寒を背筋に感じた。咄嗟に「今の人おやじだ!と私は叫んだ。女房は「何言ってるの」と怪訝な顔をして嘲笑さえしたのだが、その日以来私は完全にその人の虜になった。
その後私は連日父の幽霊が頭から離れず、意を決して父がかつて勤めていた所が今もあるかを確認し、かつてそちらに勤めていた者の息子であることを名乗り、佐久間さんの電話番号を教えていただいた。青天の霹靂のごとく掛けた私からの電話だったが、佐久間さんはすっかり感極まって下さった。ことのいきさつを細かく伝えたあと、お盆にそちらに伺いたいと申し出たら快諾して下さった。
それまでの私は、ひたすら仕事のみの毎日で、何も見えていない状態であった。亡くなった家族にも気の回らない日々だった。そんな私に父は幽霊となって、もう少し世間を見渡す余裕を持てと出て来たのかも知れない。「俺はまだ浮かばれていない!二十八年も放ったらかしていやがって、何とかしろ!」と怒ってやむにやまれず店に来たと思っている。

お盆となり我が家一同は導かれるように東北道を走り、山形空港の駐車場で佐久間さんを待った。品川ナンバーを予め伝えておいたので、佐久間さん夫妻はすぐ見つけてくれ、私とは三十年振りの再開が実現した。だが名のっていただくまで、お顔が解らず、大変恐縮と困惑をしたのだが、佐久間さんは私の面影をよく覚えていて下さった。空港からそう遠くない所に父のかつての職場があった。佐久間さんは見知った職員の方々に私を紹介して下さった。三十年振りで見るそこかしこの風景は、この一画にかつて住んでいたことを想い返され、小学一年生で見た頃と変わっていないような気がした。そしてここにいること自体父が誘ったのだと思うと誠に不思議で複雑な気持ちだった。佐久間さんは私達をあちこち案内してくれたが、衝撃的だったのは、これまで聞かされていた「死の現場」が外ではなく、建物の中での出来事であったことだ。建物の中には垂直に金属が連なっている場所があり、そこに手を振れ電流が伝わって、感電をしたのが真実だった。セメントの床には放射状に数メートルの線が走り、その衝撃の激しさを物語っていた。
二十八年後もそのままだったのは雷の恐ろしさを伝える為にモニュメントとして残して置いたのかも知れない。佐久間さんは、父の死の目撃者であった後輩の方を紹介してくれた。その方は、私に一生つきまとう父の悲惨な状況を語ってくれた。

この日私はある種の満足感を持った。それは、私に課せられた目的を果たしたようだったからだ。父に対し子としてやるべきことは、こんなことしか出来なかったが、これ以上のことも出来なかったからだ。死の真相を知ってもそれがどうなる訳でもないが、父はそれも知ってほしかったのかも知れない。そして長い間父の本家に預けていた両親の位牌を我が家に安置し、今日まで日々手を合わせている。以来父の幽霊は一度も私の前に現れないでいる。
父の存命期間よりはるかに長く生きている私だが、又しても父のことを思い出してしまった。父母なくして己は存在しない故のことだが、雨降る日はどうしてかこんな感情になる。この年令で両親の五十回忌を済ませ、何だかもうやることがなくなったような気がする。

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