★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.120

もうと言うべきか、またと言うべきか、光陰矢の如し,早師走です。

中央道笹子トンネルの大事故、日頃よく利用してる私にとっては他人事ではありません。

畑の楽しみもシーズンオフに入りました。代わって、ストーブに薪が入り、“火を楽しむ”時間帯に入りました。

最近出版された本を二冊紹介したいと思います。
・『「二重国籍」詩人 野口米次郎』
   堀まどか著 名古屋大学出版 定価8400+税
  ※今、日本を考える時、俯瞰しておくべき本の一つと感じました。彫刻家イサムノグチの父親。

・『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』
   菅直人著 幻冬舎新書 定価860+税
  ※マスコミ報道からだけでは解らなかったこと、伝えられなかったことがいろいろ出てきます。

さて衆議院選挙です。
期待の大きさに比例するように期待を大いに裏切った民主党
政権交代」は本当に意味がなかったのでしょうか?
少なくともこれまで表に出なかった様々な情報が表に出てきました。
その様々に出てきた情報に対し、国民は他人(政治家)任せとはいかなく
なりました。
時計の針は元に戻したくはないなー…。
さて、政権交代を経験した国民はこれからの日本のあり方に対してどのような判断をするのでしょう。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.120》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は山口在住の友人からです。
        私(古磯)の父の実家は山口県・柳井・大畠村でした。
        小高い所にあるその実家に子供の頃よく行き、縁側から
        瀬戸内海を眺めていたのを覚えています。
        その景色の中に祝島があったのかも知れません。
        この文章を読んでその頃が彷彿とさせられました。

先週末(11月初旬)、寒くなる前にと乗船40分の小さな船旅に行ってきました。原発反対で揺れる上関町の美しい瀬戸内の海と穏やかな島の暮らしを確かめに。3.11も原発反対ももっと真剣に向き合うことができるかもしれないという思いから友人と出掛けて来ました。
柳井市室津半島南端の上関町室津の船着場から一日三便の定期船で祝島に渡ると海の向こうには佐田岬半島伊方原発が見え、北の松江には島根原発、西に玄海原発が乱立。これらを廃炉にしようという時に更に新設しようとする国策に地元の声が届いているのでしょか…。
自然は自然のままに、未来は産声をあげる子供達のためにも大切にしたい…。
祝島の入江に寄り添う石積練塀の集落から山路を4km歩くと親子三代で築いたという天を仰ぐ城壁のような棚田(写真貼付)があります。偶然出逢った、80歳になられる三代目の平さんからは誠実に自然と向き合って生きてこられた話を伺うことができ心満たされる一日でした。
出掛ける前には遠くに感じていた祝島は、とても身近な島に感じられるようになり、夏の碧い海原や桜の季節にも再び訪れたいと思いながら最終便で島を離れました。
離島の暮らしが大変でも平和そのものが充満している祖先から受け継いできた島の暮らしを何人たりとも犯してはならないのだとも強く感じた船旅でした。

写真説明:
平さんの素性は分かりませが粗末な石積みの「平家塚」もありますからご先祖は「平家の落人」なのではなかろうかと友人と話しています。
石垣に寄り添って建つ黒い家は、読み書きも出来なかった明治生まれの祖父の平さんが山の木を切り出して建てられたそうです。二階建てですから石垣の高さは見上げる程だし下部の岩は人の背丈もある大岩でした。島の小さな段々畑の石垣はビワとミカンの木で埋まっていました。人なつっこい猫は沢山いましたが、島の小学校は四人だけだそうです。


◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

− ドナー −

医療技術の進歩には目を見張るものがあります。ノーベル医学・生理学賞の対象となったiPS細胞の研究は再生医療に道を開き、母体血清マーカー検査は胎児異常の確率予測などを可能にする。それらの技術は“自律的”と言ってもいい位にどんどん開発されて行きますが、一方で、生命の根源にかかわるこれらの問題に対する倫理の問いかけは停滞しているように感じます。
生体肝移植は日本では20年の歳月を経て(まだ20年)6000例を超え、その技術的進歩はやはりめざましいものがあるようです。がしかし、一方でこのめざましい進歩にもかかわらず、臓器を他者に移植する行為に対する問いかけ、死生観に関する問いかけ、あるいは個体としての人のアイデンティティー、等についての問いかけは、それらの技術的進歩に対してどのようになされてきたのであろうか。
最近、このような問いかけをせざるを得ない事態に直面しました。我が家族が肝臓の提供を求められました。親戚に肝臓ガンの方がいて、その内科的治療が限界に達し、後は生体肝移植しか生き延びる方法は無いと医者から提案をされたのです。そして、この生体肝の臓器提供者(生体ドナー)の候補として我が妻がターゲット(血液型適合により)にされました。
これは青天の霹靂でした。この話を提案された時点では実感性がなく、軽い気持ちで協力出来ることはしようと本人も思っていたのですが、しかし、いざいろいろと調べていく内に、これは簡単な問題ではないぞと考えるようになりました。

健康上問題を抱えない人から、その人の体にメスを入れ、その肝臓を6〜7割程度切除し、それをレシピエント(臓器受容者)に提供する。医療行為とは言え、ひとの健康体を傷つけ、その臓器を移植する行為に素朴に疑問を覚えずにはいられませんでした。
ドナーにとってはこれは当然のことながら危険性を伴う大手術です。尚かつ、合併症を引き起こす可能性を内在させます。
友人の医師から情報を提供してもらい、同時にインターネットで情報の収集に乗り出しました。生体肝移植手術そのものに関することやそれへの関心、レシピエントに関する情報(成功事例、生存率、等々)は様々に入手出来るのですが、ドナーにとっての諸問題、様々な悩みに関してはなかなか情報発信がありません。日本肝移植研究会の調査による統計的資料から入手出来る情報は、それはそれで有用なのですが、生(ナマ)の悩みの解決に繋がる情報が見当たりません。どうしてもレシピエント側の情報が主要になり、ドナー側の情報が足りない。積極的提供者の感想は入手できるのですが、躊躇いのある提供者の情報は無い。ドナー側としては、切除手術そのものに対する不安の払拭、術後の合併症に対する不安、予後或いはその後の人生に於ける大手術の負荷による心身への影響の不安、等々の情報が欲しく、私や妻がこれまでに診てもらった医師にも聞きましたが有用な情報は入りませんでした。

結局、インターネット等では肝心の情報が入らず、なかなか判断が出来ないので、移植手術担当の医師に直接会って情報を得ることにしました。
質問は術前、手術、術後に関して様々にしましたが、我々が一番知りたかったポイントは以下の二点でした。
 1)60歳を越えた人間の肝臓がドナーとして適正かどうかの問題…“適正かどうか”への医師からの回答は無く、65歳まで提供は可能との回答…実例は少ない
 2)60歳を越えてる妻が、2年半前に脳腫瘍の摘出手術をしており、さらに肝臓切除の手術をした場合の心身への負荷とその後の生活(人生)・寿命への影響…医師からの回答無し(データ無しとのこと)

直接話は聞いたものの、肝心な回答が得られず、不安(心配)は解消されませんでした。その医師からは、「少しでも“迷い”が残ったら引き受けないでもらいたい」とはっきり忠告をされました。

結論として、妻は肝臓の提供に踏み切れませんでした。自分独りではなく、子供も夫もいる立場で、且つ、年齢的に適当とは思えない状態を考えれば、今後を含め今の自分の人生を大事にしたいと考えるのは当然のことのように思えます。辛い決断だったと察せられます。

“ドナー”という立場は、自分の臓器を切除する訳ですから、そのことによって身体的マイナスが惹起されず、予後を含めて全てのプロセスが上手く行った場合のみ“身体的にプラスマイナスがゼロ”の状態に戻れることになります。ですから、提供することによって生じる可能性のあるマイナス要因…手術の失敗による万が一のことや手術による合併症の発症、予後の体調等への影響…を含め、その後の人生にどんな影響があろうとも、提供による精神的満足感の方が勝り、提供による“後悔はしない”というしっかりした覚悟が必要で、その覚悟が無い限り生体臓器提供者にはなれないということを痛感しました。
また、“臓器提供の打診”については、誰がどの様に候補者に打診するかは大変重要な手続きと思われました。候補対象になった人はその話を聞かされた時点で大変重い提案をされたことになる訳で、その結論が“提供する”にせよ“提供しない”にせよ、“覚悟の決断”を強いられることになります。ですから、結論の出し方による人間関係等への影響を考えれば、出来るだけドライにお互いが了解し合える環境が必要と思われます。

その後、妻とも話し合いましたが、我々自身が逆の立場だったら,すなわちレシピエントの立場だったとしても他者に臓器の提供は求めないだろう。ただこれが子供に対して或いは夫婦間の臓器移植だったら提供に踏み切るかも知れないねということでした。
人には人それぞれの人生があり、生活がある。自分の“生”を延ばす為に生きている他者に臓器の提供を求めるあり方は、明らかに反自然であるし、人間の傲慢さではないのだろうかと思えます。それ故、自分の人生・生を大事にする、それと同等に他者の人生・生に思いを遣る。レシピエント、ドナーのどちらの側に立つにしろ、その中から判断が導き出され、その判断をお互いが尊重出来る…生体臓器移植にはそんなバックグラウンドが必要と思われます。
その後、その方は奥さんからの移植…血液型不適合移植…に踏み切られました。

この話題を提供しようと思ったのは、同じような事態に直面する人がいたら何がしかの参考になればと考えたからです。と言うのも、インターネットを含め、情報を集めようとしましたが、ドナー側からの発信が少なく、ある場合でも臓器を提供することによる“満足感”の話が多く、いわば成功事例のようなものばかりで、失敗例や後悔、拒否などの発信が皆無だったからです。

臓器提供を打診された時点でこの悩ましさは始まり、どちらの結論にしろ結論を出した後も溶解しません。


◆今月の山中事情80回−榎本久・宇ぜん亭主

−意欲のこと−

私はかつて、見るもの、聞くもの、触れるものに無関心ではいられなかった。それらが、好きなのかと言えば、そういうことではなく、その場を去り難いある種の余韻や郷愁のようなものを感じたからだ。何もかにもに感情を顕わにしたわけではないが、知らぬ領域を含め自分の「感性」と近いものには興味を示していたのである。それほど多くは行っていない旅にしても、その土地の玄関口に降り立っただけで、その土地の持つ独得のにおいや雰囲気が伝わり我が「感性」と相まってそこへいざなわれてしまう。不思議なもので、そういうことは無意識のうちに行われている。
好きなことに於いては尚更である。他者が感じないことに喜々として、一人悦に入っている。身に覚えのある御仁なら解ってもらえるだろう。たとえば「盃」がある。用を足す為なら、そこら中に安価なものがあり、あわよくばタダで貰える。
そして酒以外にはほとんど他のことでは使わない。なのに何かの本で「見る」ことによって、それを扱っている店に行く。店の方に「聞き」そのものに「触れ」てしまう。「感性」とはやっかいなもので、心はすでに「買う」衝動一辺倒だ。
多くの説明は耳に入らず、他者からみれば「法外」な値段のその代物を我がものにして前述のごとく喜々として持ち帰るのである。そしてそれで飲んだ酒が一体どんな味であったのかは絶対に説明出来ないでいる。そこにあるのは己の「感性」という摩訶不思議なものだけなのだ。ことほど左様に人間の購買心というものはすべてこの「感性」によって引き起こされるもので、平たく言えば買うものの違い位であろう。
物の価値観を何にどう置くかですべての物が変わる。ひとつあればこと足りるものが、その「感性」によって又ひとつ欲望が生まれ不必要なものが増えることになる。この社会はその経済活動によって成り立っている。消費行動を否定するとおそらく生きて行く方向が見えなくなる。一見無駄なような消費行動も大事なことでもある。
とことがそんな私が、その「感性=意欲」を失ってずい分と経っている。脳にあるその種の神経の損傷のせいか「見る、聞く、触れる」の「感性」が希薄になったのだ。不必要なものを買わなくなるのは経済の為には良いことなのだが、それが完全に回復するのかしないのかが目下の私の関心事である。「意欲」というのは言い替えれば「やる気」だ。行動的になろうと小さな努力はしているが、疾病中という制限のあるがゆえ簡単ではない。只今仕事のようなことをしているが、心はいつもおだやかではない。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/