★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.119


紅葉のシーズンです。
昨日、日帰りで山形から宮城を廻って白州に帰って来ました。がために、毎月10日発信のこの「Ryuの目」が今月は11日になってしまいました。
山形では銀杏の黄葉がとても印象に残りました。宮城蔵王に入ったのは午後四時を過ぎていましたが紅葉を満喫しました。
この蔵王山中の写真を貼付します。
夕暮れ時に近づいていましたので色合いが今ひとつですが雰囲気を味わってください。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.119》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−意見がある−

自分の意見とは、自分の意思と似ている。両方とも表明すれば他人に理解してもらえる機会が増して社会の中で住み易くなると同時に、他人からの標的となり攻撃される可能性も増す。表明しなければ自分はいないのと同じように扱われるかもしれない。英語でサイレント・マジョリティと言う言葉がある。意見を表明しない人が大多数を占める、ということだ。しかし選挙となると、このサイレント・マジョリティの投票が当落を決めてしまう場合が多いから恐ろしい。意見があっても何ら表明しない人はグループの中で仕事をしていて、貢献度と言う点で真に劣る存在だ。意見は文章で表しても、歌にして歌ってもよい。
イタリアのオペラ作曲家でウンベルト・ジョルダーノという人が「アンドレア・シェニエ」という詩人でもある革命家の話を歌劇にした。幕が上がるとすぐにアンドレア・シェニエが自分の書いた詩を朗々と見事に歌唱する、素晴らしいシーンがある。歌舞伎で大見得を切るのに似ている。これは、正に自分の意思を詩の形にして表明したもので、自信に満ち溢れた実に素晴らしいアリアである。結果としては、これが隠れた敵方の標的となるキッカケを作り、最終幕で捕まり断頭台の露と消えるのである。実際にあった話である。
これは劇的で且つロマンティックな例であるが、舞台芸術にとっては良く映える格好の題材だ。国会議員や市長の選挙では選挙演説の内容を良く理解し、自分の意思に従って投票することが一般には期待されている。自分にはあまりはっきりとした意見がない人に、果たして選挙演説を正しく理解できるのだろうか、と心配になってくる。また、議論をするということは、相手の意見を良く理解し、自分の意見を正しく表明することである。この場合にも自分の意見のない人には議論はできにくい。ここで分かってくるのは、自分に意見がない人には、議論も出来なければ選挙では投票しずらいだろう、ということだ。本当にそうだろうか。皆選挙もするし議論もしているではないか、と反論するだろう。ここでもう一つ条件を加えよう。自分の意見に従ってした行動にどれだけの人が責任をもてるのだろうか。もしも、自分の意見ではないが人の言っていたことが良さそうなので、それに従って行動をした、というなら、その行動に責任を取る、ということは、他人の意見に責任をとる、と言っているわけである。だんだん妙なことになってきた。
自分の意見のない一人の独立した人間(大人)は、自分の行動に責任をとることさえ出来にくくなってくるという、なんとも悲しい話である。自分の行動に無責任な人が、国や会社や大学を代表してよいのだろうか。さらにもう一つ条件をくわえるなら、それは信頼ということだろう。お互いに信頼するということは、相手の言動を信頼することだが、それぞれが自分の意見に従わないで行動しているなら、信頼関係は成立しない。もう、最終的には破局的である、とさえいえる。
私の言っていることは単なる言葉の遊びではない。責任を取れる自分の言動と信頼関係のことである。そんなに難しいことではない。実は、以上は民主主義の第一条件である、と私はいいたいのだ。民主主義が成立するための個人と社会との関係を言ったまでである。その社会が民主主義を必要とし、実行に移したいなら、責任のある自分の意見がなければならない、といっているだけである。そうすれば社会の構成員の間の信頼関係が醸成され、人間的社会になっていくからだ。このように考えてくると、民主主義があるはずだが、実はないのかも、と言うような国が何と多いことか。
以上で、いかに自分に「意見」があり、それに「責任」を持って表明し行動することが大切かが分かっていただけた、と思う。では、以上に対する貴方の「責任」ある「意見」を伺いたい!

2012年2月28日 日本の大学生との対話を明日に控えて。  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

− 佇まいー

秋のある日、東京・三鷹で自転車散策をしました。この日は知り合いの個展を観に行く以外特に予定は無く、久し振りに自転車で散策してみようと出かけました。今から10年程前、三鷹市基本構想、第三次基本計画の策定に向け、素案段階から市民参加を実現すべく集まった400人の市民による《みたか市民プラン21会議》に参加し、市域を見て回りました。その2年半の活動後《まちの風》というグループ名でまちづくりボランティア活動をしてきましたが、その活動は現在休止しています。私自身も山梨に移住し活動への参加がだんだん困難になっていったわけです。そんな経緯もあり、市域の変化が何となく気になっていました。限られた範囲での散策でしたが、やはり樹木、緑地、畑などはどんどん少なくなっていました。居住空間の貧困化が一段と進んでいるとの印象でした。


そんな中、タイムスリップしたようなホッとする素敵な家を見つけました(添付写真)。この場所は三鷹駅にほど近いところにありますが、変化がどんどん進むエリアの中で、じっと佇んでいるかのように存在していました。多分、昭和30年代に建てられた家でしょう。力のある建築家が設計したものと推察されます。外から見ることが出来るのは、道路から玄関までの寄りつきの部分だけでしたが、その設えに設計者の配慮が十分に窺える空間でした。住まいにとっては、その寄りつきはとても重要で、設計者も意を注ぐところです。“家が人を優しく迎えてくれる”そんな空間でした。瓦屋根の木造平屋建て。塀と玄関部分の一部に今はあまり見られなくなったあの大谷石が使用されています。手前のステンレスのポール(バリカー)は近年セットされたものでしょう。鉄製の門扉やガレージの扉に施された赤のプレートは印象的でした。アメリカの建築家F.L.ライトのデザインモチーフが取り入れられたと思われます。全体に低く抑えられたスケール感覚は、落ち着きを感じさせます。何よりも感心させられたのは、住み手の心配りでしょう。多分、建設当時の姿を丁寧に維持されてるのでしょう。窓のサッシも木製のままでした。この家をとても大切にして住んでいる姿が感じられました。設計者冥利に尽きるところです。



◆今月の山中事情79回−榎本久・宇ぜん亭主

−運動会−

不思議なことだ。在京中は町内のあらゆる行事に一切の協力をしなかった私だった。我が家の子供達の運動会にさえ、仕事と称して行かなかったのである。しかしながら前回も触れたが、村の行事は何よりも最優先に考慮しなければならない。したがって、祭りや運動会、清掃は班長となると不参加は認められず、ことごとくその行事に加わって役目を果たさねばならない。私にとってはいわば掟であった。
この度は運動会である。私にとって中学生以来だ。五十年振りでこの村で運動会に関わった。役員としてだがその役目は接待係。各町会の会長、市議、市長のエライ方々に茶菓子を出す仕事だ。来賓席の隣にその係りがある。運動会は全ての参加者のラジオ体操から始まった。中学生、高校生、大学生は見えず、幼年、小学生、その父母と老人が参加している。基本的には老人が外に出て、健康の維持促進がこの運動会の主旨であろう。
来賓席には仲々エライ方々が来ない。この日は市内のあちこちで運動会が催され、その為順繰りに廻っているので、時間の誤差が生じているのだ。来賓の祝辞は遅れながらも運動会そのものは進行した。結局来賓席には二、三人が居るだけ。いよいよ選手の行進となった。見なれた方々が満面の笑顔で歩いて来た。思い思いのいで立ちで、まさに村の運動会そのものだ。来賓席前を通過した。不揃いながら「頭右!」にして挙手をする。その時私は来賓席の通路の最前線に立って、彼等に拍手を送っていた。意図した訳ではなかったが、気がついたらそこに居たのである。まるで市長のように…。近所の人が言うには、私と気づかず挙手をしたとか。
幼年から老人までよく考えたプログラムがあった。運動会の為、二ヶ月前から各戸より集めた品物はこの日福袋のようにして賞品を作り、スタートラインから十メートル先に置かれたその袋を、鉤竿で鉤る競技があった。中身は分からないが、確実に賞品をゲット出来るので、二度も三度もエントリーしているオバサンがいた。すべての競技では幼年からお年寄りまで分けへだてなく賞品が貰えるのである(速い人、遅い人にかかわらず)。半日の間、走ったり(歩いている?)、転がしたり、投げたり、皆童心に帰って真剣だ。フィナーレは当日その場に居るすべての人に対し、ナンバーくじが渡され、本当の福引きが行われた。楽しく、笑いに満ちた村最大の行事が終了したのである。
もし班長を引き受けなかったら、ずっと前の学校行事の余韻を再び感じただろうかとふと脳裏をかすめた。秋のすがすがしいその日、私は中学生の気分だった。
齢を重ねたからだろうか、人の輪の中に自然に入って行くことが出来た自分を不思議に思っている。次は聖神社のお祭りに参内だ。

宇ぜんホームページ
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