★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.118


すっかり秋になりました。白州でも稲が刈られ、農家の方々は一段落といったところでしょうか。
今月の終わりから来月にかけて紅葉のシーズンです。
今年もカラ松の黄葉が見たい!!

国立新美術館での行動展に沢山の方々が足を運んでくださいました。
山口、奈良からもお運び頂きました。感謝申し上げます。
間もなく入選作品の絵葉書が出来ますので、ご希望の方は仰って下さい。

井の頭公園彼岸花を見つけました。写真貼付します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.118》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−褌−

七転び八起き、とは上手いことを言ったものだ。これは、幸運のことではなく逞しい精神力のことを言ったものであろう。それをもう一歩進めて、転ばないように心がけれるようにしたい。実はこの3ヶ月の間に2回転んでしまった。一回目は足首の捻挫であり、クレムソンでの気持ちよい早朝のランニング中に起こった。10週間目の今もまだ腫れが完全に引いていないので、まだ走れずにいる。2回目は2日前に東京のアメリカン・クラブで行なわれたサウスカロライナ州知事主催の昼食会の直後に起こった。今度は手の平の打撲である。歩道から車道へ滑り落ちてバランスを失い思わず右手をついて頭から突っ込むのを防いだために右手首が犠牲になった。一日経って手のこうが腫れだし、今日は指や手首にも伝播している。両方とも骨に異常はないが重度の打撲というのが医者の診断だ。レントゲンをとってもらい2週間で直るといわれた。足首捻挫の時は休まずに車椅子に乗って夏期講座を教え、今回も手に包帯をして東京での日程をこなしている。二転び二起きである。このように考えてきていま初めて分かったのだが、七転び八起きとは七回転んで、七回目もおきあがる意志の強さのことであって、八回起きたのでは数が合わない。私の場合には二転び二起きにして打ち止めにしたい。それとも天上で誰かが私も試しているのだろうか。または単純に私が歳をとったということなのか。多分後者であろう。幸いにして。どちらの場合も骨折はしていないので、気を付けながらでも活動中止をしなくて済んでいる。気力も充実している。少なくとも二回の試練はパスである。
以上は怪我の場合であるが、これが精神的打撲であったらどうであろうか。仕事上の失敗や近親者の死去、又は失恋などは相当な精神的打撲になりうる。でも失望のどん底に留まっていてよいことは一つもないのだ。だから打撲からの選択としては立ち直るしかないのである。残りの人生に最善を尽くすしかないということだ。打撲を逆手にとってバネとし、以前よりも強く、優美に変身成長できる機会ともとれる。では、四回も全力で転んで四回も立ち上がれる人は、四回も変身成長する機会に恵まれたといえるのだろうか。いま全力と書いたが、全力で転ばないと成長には中々繋がらない。全力で転べば死ぬかも知れないが成長にもみるべきものがあることは確かだ。人生とはそういうものだと思う。少し転べば少し成長するかもしれないが、逆に衰退する可能性さえある。与えられた人生を全力で歩めば十分に価値あるものに改善できるはずだ。
以上は個人の打撲のはなしだが、これが会社や国家の場合はどうであろうか。日本という国が松葉杖を突いて、軍隊のない集団を第二次大戦敗戦後67年に渉って生き抜いてきたわけだ。いま集団と書いたが、独立国家と言えるだけの自信がなかったのでそういう表現を使ってみた。尖閣諸島竹島北方領土など、中国や韓国やロシアとの国境領土問題で、対外的に四苦八苦している日本の政府を観るにつけ、情けなく思い限りなく弱気な自国の政府をみて、それが自分に投影されてやりきれなくなる。これが小泉首相だったらどうしただろう、などとつい詮無いことを考えてしまう。いい加減に杖をはずして、即ち米国の庇護下から抜け出して独立国になれるよう改善してもらいたい。宮本武蔵は絵もたしなんだようだが、刀を持たない武蔵の絵を見たいと思う人はいないだろう。
日本にとって領土問題は、真の意味での試練の時である。日露戦争関東大震災、敗戦、東北大震災、と各種の試練を切り抜けてきたように見えるが、第二次世界大戦の無条件降伏から日本はまだ立ち直ってはいないのだ。自分を誤魔化して他人の褌で相撲を取り続けるのはもうよそうではないか。お相撲さんがインタビューの度にいっている言葉を想起していただきたい。「自分の相撲を取る」ことを常に考えているのだ。尖閣諸島竹島北方領土、沖縄の基地、全て「人の褌」と直結した問題だ。日本の政府よ、日本人による、日本人のための、日本人の「褌」を作ってもらいたい。そして自分のことは自分で責任を取れる国にしてほしい、と望んでいるのは私だけではないはずだ。
2012年9月12日 
足や手の痛みも次第に遠のきつつある、気力十分の70代。岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

− 移住生活・その7…時間 −

白州での生活が3年を越え、自身に様々に変化が感じられますが、一番は“時間”の感覚の変化でしょうか。こちら(白州)に来て農家の方と接する機会も増え、その生活を垣間見るに、皆さん実によく働かれる。一年中休みの日は無いのではとさえ思われます。作物に土日、休日はありませんから、休んではいられないのでしょうが、朝早くから夕方まで。必要に応じて休息をとっているようですが、天候の悪い日でもその具合に応じてこなさなければならない仕事をしている。暑い夏は早朝と夕方に仕事をし、日中の暑い時間帯は適当に休む、あるいは室内での仕事に切り替える。
見方を変えれば、この自在な時間の使い方が実は生きるリズムにすごくいいのではと思うようになりました。適当に体を休ませながらも、特に休日を設けず働き、生活する。
私が東京で生活してる時は、忙しい時は土日もなく夜遅くまで仕事をしていましたが、基本的には7日サイクルで日曜日は休み(人によっては土日が休み)。日曜日は気分転換を兼ねて平日とは違った時間の過ごし方をする。テレビを始め、あらゆるものが休日モードに設定されている。この“7日リズム”が身に染みついていましたが、今年になってからこのサイクルをルーズにしてみました。尤も、時間に束縛される要因が少ないから可能なのですが…。
毎週、東京での決まった仕事がありますから、基本的には7日サイクルで動いてはいるのですが、休む日を特に設けない。土曜日も日曜日も祭日も日頃と同じように生活してゆく。日常的には朝畑に行き、一休みして10時頃から自分の仕事にとりかかる。運動はテニスをしていますが、休みの日だからと言うわけではありません。来客の場合でもこちらは特に曜日の意識はありません。良い時間を過ごせることこそが一番大切なことですから。このような過ごし方の生活をし出してみると、実に具合がいい。
建築の設計に於いても、また、絵の制作に於いてもそうですが、取り掛かっている時間帯は勿論のこと、それ以外の時間も常に頭の中はそのことが占めています。夢に出ることもあります。その設計或いは制作が一区切りつくまで続き、ある意味で非常に充実した時間を連綿と過ごしていることになります。これはとても充実感のある良い時間帯です。どうもそのような時間の過ごし方をしているような感覚なのです。
新しい環境に慣れ、やっと周りを見る余裕が出てきたと言うことでしょう。都会と違ってゆったりと時間が流れる。


◆今月の山中事情78回−榎本久・宇ぜん亭主

−散髪屋−

この町に来てもう一年が過ぎた。いつの間にやら近所の方々とも顔見知りとなり、町会の班長も引き受け、地元の行事等を微力ながらこなしている。秩父は一年中どこかで祭りが行われている。であるから、その連絡や案内が班長の仕事で、なかなか大変だ。その祭りの場所も知らない者が班長なので笑ってしまう。でも何とかやっている。私なりに思うのだが、祭りや地域行事が多いのは、それぞれが他者との交流を求めている証左であり、絆を確認するが為なのかも知れない。
在京中は一切の町内行事に参加したことがなかったが、ここでは何やらすんなり参加出来た。それゆえ、班長は何より優先して地域の行事を大事にしなければならない。
さて我がことだが、国道沿いに「床屋さん」がある。日曜大工風にペンキを塗った店構えだ。今はやりの「バーバー」ではない。その店にお世話になっている。店内に椅子が一つしかない。誰もが貸し切りだ。壁にはペンキローラーで描かれた太陽の光線らしきものが、青、黄、白の線で下から上えと放射状に伸びている。店主の日曜大工風作品だ。それを初めて見た時はかなり驚いた。店主は六十歳前後のがっちりした体格である。当初はそういう状況下にあったので多少気圧された。必要最小限のことをお願いしての散髪だった。その体格は洗髪の時おおいに発揮した。シャンプーをかけ、その大きな手で我が頭を包んだと思ったら、まるで砲丸を磨くがごとく、ゴシゴシ我が頭を洗う。さほど汚れていない我が頭を左右前後にていねいに洗い、閉口するのは、いつ終わるか解らない程洗うので、終わった時は疲労困憊だ。
病の後遺症は、高所、速度、刃物、等恐怖につながる様々なことにあるが、床屋さんでは当然刃物だ。これまでも何度か床屋さんに行っていたが顔剃りになった時の極度の緊張は穏やかでなかった。ここでも店主の風貌と相まって、顔剃りの時の緊張は最高潮だった。
なぜこれ程の緊張をするのかと言えば、私の方にもし意味のない動きが生じた場合や、店主側にもしミスを起こしたらとの先走った考えをしてしまうからである。
無防備な顔の上に刃物があることを極度におそれるのはその為なのだ。全て病気のなせることなのです。かつてはすべての店主に全幅の信頼をもって顔を差し向けていた筈なのに、今はどうしようもありません。しかしよく考えてみれば、健常者とて想定外のことが起きると思えば、首の近くに刃物があることは決して穏やかなことではないのであります。この頃は店主とも打ち解け、その理由を言って顔は剃って貰っていない。よってそのストレスから解放されている。そして行く度に注文を言えるようになった。嫌な顔をせず、むしろ喜んで一対一の攻防が数十分続き、私に満足感を与えてくれる。決して小綺麗な、今はやりの店ではないが、なぜか安堵する「床屋さん」だ。どんな仕事も、実はそのことが絶対必要条件であるのだが、そう感じるところが急速に減っている。私も心しなければならない。
余談だが、「NHKスペシャル」で高倉健の特集があった。都内某所に受付係がいる厳かな理髪店があり、彼は東京にいる時は毎日その理髪店に行くそうだ。そして彼専用の個室でオーナーがあのヘアスタイルを仕上げているとか。驚くのは、そこで食事をしたり、ジャンパーなどの私物や台本の入ったバッグまで置いてあったことだ。信頼とはこういうこと化なのかと思った。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/