★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.116

クレムソンの岸本雄治さんから、8月発信のRyuの目に是非載せてほしいと、原発に関する意見を頂きました。
大変重要な指摘がなされたと思います。
皆さんのご意見もお聞かせ下さい。

さて、サッカーなでしこジャパンは惜しくもアメリカに負けました。でも良い試合でした。
ワールドカップの時よりも数段高いレベルだったように素人目に映りました。

暑い夏がつづきます。
納涼に白州の夕時の写真を貼付します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.116》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

原発事故から学んだ、不安だ−

津波地震に起因した原発事故から一年4ヶ月が過ぎた。先ず結論から言えば、日本政府への失望とそれに伴う信頼感の喪失、さらには現在の日本における原子力発電の技術にたいする自信喪失であった。ついでにもう一歩踏み込んで言わせてもらえれば、信頼感と自信というしっかりとした絆で結ばれた人間関係を維持するためのに必要な根本的要素が喪失したのである。これが夫婦関係であれば、離婚である。残念ながら自国日本との離婚は難しい。これが友人関係であったなら、恐らくは友情へ終止符が打たれたであろう。現場の責任者や政府高官、調査団の指導者たちの言葉を平たいの日本語に翻訳するなら、虚報、偽り、に加えてそれを許している背後の現代文化がある。
昨日テレビでNHK の特別ドキュメンタリー番組を見た。このような真摯な番組を放映したNHK に賞賛の意を称したい。全く考えさせられた内容だった。恐らくは、何処の国にでも起こりうる問題であろうが、必ずしも何処の国でも発表するとは限らない。これを発表したNHKは立派である。
SR弁についての課題から話してみよう。SR 弁は圧力を和らげて、核燃料のメルトダウンを防ぐ最後の砦の役目をするはずだった。まず増え続けるガスを抜いて水素爆発を防ぎ、核燃料の周りに水を送り込んで温度を下げて、と幾通りかの機能を備えた最後の弁なのである。津波で全ての電源が機能不全に陥り、臨時の電源として12ボルトの充電池が多数必要になった。到着したのは2ボルトの充電池ばかりで使い物にならなかった。当時パニックに陥っていた現場の技術系責任者たちは何を取り寄せてよいかの判断が出来なかった。必要な200個あまりの12ボルトの充電池は、集積地に集められたまま運送されずじまいに終わった。今でもそのままになっている。その代わりに2ボルトの使い物にならない電池が送られてきていた。どうも問題の一つは、人間側の能力不足にあったようだ。現場が放射能で汚染されたために、危険な現場へ充電池を運ぶための方法が見つからなかった、とも言っていた。一人の犠牲が何万人を救うかもしれないときにである。命を懸けて国を守ると言う、戦争を知らない世代の情けない及び腰が露呈してしまった。人(米国)の褌(軍隊)で相撲を取っている日本の限界かもしれない。安全装置は、二重三重に考えて万全を期したつもりであったそうだ。それに比べて人間の限界や能力不足に関しては、あまり考えていなかったようだ。その能力不足の人間が考えた安全装置は決して万全ではなかったのだ。当時の現場の責任者たちは、このまま行けばチェルノブイリよりもひどい最悪の状態になるのではないか、多分自分たちは生きて現場を出れないかもしれない、という最悪の状況が頭をよぎったそうだ。初めて聞いた話である。恐らくは、頭の隅に引っかかっていた万が一の安全準備不完全さが突然現実になって現れてパニックに陥ったのだろう。
結局は一号機から4号機まで水素爆発を起こし核燃料がメルトダウンしたが、SR弁が作動したようなのだ。従って最悪の状態だけは回避できたようだ。しかし、SR弁に何が起きて、どうして最悪の状態が回避できたのかは、いまだに分かっていない。現場はいまだに核汚染度がひど過ぎて近寄れないとのことである。まだ何も分かっていないだけではなくSR弁に関しての調査も行なわれておらず、他所の原発のSR弁についての安全確認もされていない、と報告していた。しかし、原発は再開しようとしている。どうしてこのようなことが可能なのだろうか。能力不足ではあるが、虚偽は得意な政府だからであろうか。これは皮肉ではなく本当に心配して言っているのである。
以上は昨夜のドキュメンタリーを見ての感想であるが、今日のニュース解説と政府の調査委員会の発表とによれば、はっきりと準備不足と安全対策の不完全さを指摘して、原発事故の大失態は地震津波対策の不十分さをはっきりと指摘していた。しかも一年四ヶ月たった現在でも、SR弁の作動不可能の原因が調べられていない。それでいて他の地域の原発は安全である、といって作動開始ということらしい。なんとも末恐ろしい日本ではある。日本人はどうして猛反対をしないのだろうか。生命の安全よりも原発による電力供給をして経済を最優先させる真のエコノミックアニマルになりさがってしまったのだろうか。以上のような安全対策の不完全さと言う事実は確かに不安材料の一つではあるが、このようなことを許している態度、思考形式、ひいては現在の日本文化をも含めた人間社会に対する「安全」と言う概念をとことん突き詰めれない「日本」にこそ本当の不安を感じるのは私だけであろうか。日本政府は、現在、日本の安全と沖縄の安全と言う二つの異なる「安全性」に直面しいる。一つは軍備を持たない日本を、アメリカの軍隊を使って仮想敵国から守る、という綱渡りであり、他は、その軍隊が使うオスプレイという輸送機は安全なのか、というもう一つ次元の違う安全性である。この二つの異なる「安全性」を検証している日本政府の態度は、地震津波原発事故の一連の安全性問題に対してつまずいた日本の思考形式と非常に似ていて、気味が悪いほどである。私の頭のなかは、日本の政府への不信からくる不安で一杯だ。原発の安全性に関して最重要案件のSR弁の検証を第一の安全性優先事項として徹底した調査をする代わりに、それをうやむやにして、経済性を優先するその態度、どうにかならないものだろうか。アメリカの軍隊とそのオスプレイ輸送機とは仮想敵国から日本を守るためのSR弁なのだろうか。ここのところを徹底してもらいたい。選挙民の皆さん、声を大きくして考え話し合って、日本の安全性を回復する指針を模索してください。
2012年7月23日  異国にいて憤懣やるかたない引退学者  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

−移住生活・その5…畑−

“自家製の野菜で来客をもてなす”これは極上の楽しみです。これに地元のワイン・日本酒が加われば言うこと無し。

当初の移住目的は、“自然のある環境で暮らす”ことでした。つまり、農業をしたりという“いわゆる田舎暮らし”を求めての移住ではありませんでしたので、白州−東京を毎週行ったり来たりはしますが、生活のベースがこの自然豊かな環境にあると言うだけのことで、活動も活動範囲も以前とあまり変わらないことを想定しての移住でした。ところがこの3年の時間の経過は私自身に変化をもたらしてきてるようです。
移住当初、敷地の一部に畑を設け、姉がダイコン・ジャガイモ・コマツナ等の栽培を始めましたが、猿と鹿にことごとくやられました。動物は収穫の時期を実に良く観察している。そろそろ収穫の頃合いだなと思ってたその前夜や早朝に餌食となりました。この現実に姉は愕然とし、栽培を諦めてしまいました。その後、今度は妻が木製のデッキテラスでコンテナでの栽培を始めましたが、やはり留守の間に猿の餌食になりました。移住当初から猿や鹿の出現は頻繁でした。猿は早朝から夕方にかけての時間帯、鹿は深夜の出現です。それでもそれらを横目(?)で見ながら、トマトやオクラ、ピーマンなどコンテナ栽培で実ったものには愛着を感じ、わずかでしたが(猿の目を盗んで?)成果物を食すことは密やかな楽しみでもありました。
そんなことを繰り返していましたが、今年になって地元の方から、猿や鹿の出没しない所の畑をやってみないかとのお誘いがありました。私はあまり関心はありませんでしたが、妻はやる気満々でその話に飛びつきました。本人曰く“自給自足、地産地消がモットー”。
場所は我が家から車で数分(歩けば10数分)のところにあり、八ヶ岳甲斐駒ヶ岳鳳凰三山南アルプス)、金峰山秩父連山)を望むいいロケーションにあります。この地域では気温が安定する五月の連休過ぎあたりから畑の作業に入るようでした。それに、五月の連休は東京・横浜方面から訪れる人が多く、畑沿いの道路は温泉や渓谷に向かう車で渋滞が起きます。ですから、連休が明けて落ち着きが取り戻せた頃からが作業の開始です。
借りた広さは30坪程でしょうか。この位の広さになると、畝作りから始めるわけですからどうも妻一人でと言うわけには行かないように思われます。見かねて私が手伝うハメになりました。
さてどの様な展開になるのでしょうか?
つづく


◆今月の山中事情76回−榎本久・宇ぜん亭主

−旧交−

さる休業日に、かつてからの仲間で、現在は県内のとある町で寿司屋を営業しているK君の店に数年振りに行った。思えば彼の所には二〇才から出入りしていたので、かれこれ四十五年間も関わりをもたせてもらっている。依って故郷の学友達よりも深い交際をさせてもらっていることになる。共にこの道の修業時代を東京で出会い、その後様々な場所で顔を合わせることになり縁は続いた。いつしか忘れることの出来ない友人となっていた。
今回もふとしたことから訪ねる気持ちになった。同じ埼玉県なのだが、ずい分遠いところと勝手に思い込んでいたが、実質一時間半位で行けるところであった。夕刻五時よりも早く着き、仕込みで忙しいところを詫びた。相変わらず温和な表情で迎えてくれ、心を許しあえる友人だとつくづく思った。味覚が不確かになった私にとって、寿司は唯一“旨さ”を感じる食べものだ。とは言え、メタボ気味の我が身体はたくさんの食べ物は禁物だ。その旨を伝え、昔話をつまみにあの頃の話をお茶をすすりながら交わした。
この世界に入って数ヶ月が過ぎたら、正月になった。私は彼の父上が経営する店を手伝うと称し、遊びに行った。家族総出で働いていて(ご両親を含めて四、五人の兄姉が居た)、それはそれは忙しい寿司屋の正月だった。物見遊山のつもりで行ったK君の実家で私は本当に駆り出され、生まれて初めて刺身を切る作業を先代(彼の父上)に言い渡された。「榎本君、その辺のネタを適当に使って刺身を下駄に盛ってくれ!」と言われたのだ。それまで鍋ばかり洗っていた者が急にそんなことを言われ、内心はドキドキしていた。しかし、そのやり方は先輩諸氏を見て多少解っていたので、初めてネタに触れた時はうれしさにひたすら喜んでいた。K君は生まれながらそういう環境で育ったので、私のような感動があったかをいつも聞こうと思ってすぐに忘れてしまっている。仕事は深夜一時まで続いた。四十五年前の日本の寿司屋は町の要であった。先代はそのあと宴会の終わった二階の座敷に半紙をひろげ、書の練習を始めた。私はいささかそちらの方に興味があったので、終わる迄お付き合いをしたようだ。聞けば“六十から始めて一年目だ”と言う。将に“六十からの手習い”だ。凛とした「味」という字が、店内に飾られている。そのよもやま話は(先代とのこと)K君は知らない。しかしここに来るとあの正月のことを思い出すのである。そしておもむろに使い古した庖丁を取り出し、私に見せた。実は彼の兄も寿司職人だったが今は故人となり、残された庖丁が、先代のものと合わせ、たくさんあるので引きとってくれないかと言われ、二丁の庖丁をゆずり受けた。先代の使っていた柳刃と小出刃だった。まさか大切なものを私が使わせていただくとは、只々、世の不思議を感じた大きなたましいを頂いたと思っている。先代には結局数える程しかお会いしていなかったが、息子の友人として大切に扱ってくれた。寿司のことはどういう訳か一切聞くこともなく、教わってもいない。和食を覚えなければならないので、きっとそういう判断をしてくれたのであろう。しかし一つだけ意外なものを教えてくれた。めんどうなクリームコロッケである。どうして私に教えたのか今となっては聞く術もない。だが不肖のの弟子は今日まで、一度もそのコロッケを作っていないでいる。でもそんなことを急に想い出したK君の店でのことであった。
時が経ち、ご多分に洩れず、この町の姿も変わって行った。町の要としての寿司店も、あの店この店と閉店していった。経済の乱高下が吹き荒れたことにより、K君の店もその例外には成り得なかった。それでも寿司商組合の組合長として奮闘しているが、ものごとは簡単ではない。しかし、町の灯を消すわけにはいかないと柔和な表情のなかにも決意の目を見た。のんきな私とは対照的に、世の中の大事を抱えていたのである。私もK君の父上と始めて会った頃の年令になった。一体私は世の中で何事を成したかと、虚ろな目で天空を見つめている。

宇ぜんホームページ
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