★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.115


先日、雨の軽井沢で観た緑は殊更美しく思われました。こんな梅雨とも間もなくお別れでしょうか。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.115》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−記憶の中に生きる−

文章を書いたり絵を描いたりして、生きていた証拠のようなものを、幸いにも私が既知を得た人々の記憶の中に残しておきたいと思う。これを現実のものとすべく、生きている内に実行に移しておく人は多くいる。私はもう一つ加えたいと考えている。墓石の意匠である。これは、生きている内に制作しなければ、何か心もとない。そうすれば、少なくとも後に残された人の負担にならないで済む。このように考えてからすでに8年ぐらい経った。
アイディアを思いついたそもそもの動機は、クレムソン大学のほぼ中央にセメタリー・ヒルと呼ばれる丘があり、きれいな公園墓地になっている。フット・ボール競技場に隣接しているので、ゲームが終了してからに立ち寄ってみた。多磨霊園のような感じの場所で、デートをしても悪くないような所である。よく見ると、墓石に彫ってある名前は私の知っている名前ばかりであった。最近なくなった親友でもあった学長や、建物の名前になっている有名教授や学部長の名前であったりした。私は、有名でもなければ、特別な功績を挙げたこともないただの建築学教授であるが、一応学長補佐を兼任して20年近く学長や大学のために努力し、それなりの成果はあげた、と自負している。度胸を決めて学長室のその係りらしい人に、「私もセメタリー・ヒルの住人(?)になれるのだろうか」とダメモトの気持ちで聞いてみた。一ヶ月ほどして、もう忘れられたのかと思っていたころ、OKであるとの返事が来た。驚いたと同時に感謝の気持ちが湧いてきた。都下の多磨霊園には岸本家の墓がすでにあるが、私と家内は人生の3分の2をアメリカで生活してきた者である。その活動の場に何か足跡を残しておきたい、と折に触れて考えてきたような気がする。
ご存知のように墓石の意匠はそれぞれ少しずつ異なっている。よく見ると大いに違っているのである。多磨霊園の岸本家の墓にはすでに代々使われている品の良い墓石がある。多分我々二人だけが入ることになるであろうセメタリー・ヒルの墓石は、私が意匠を決めなければならない。一度は、私の建築の学生に課題として「私の墓石」のデザインさせようとしたが、誰もデザインしたがらなかった。これは私の仕事である、と悟った。岸本の名前にこだわって、人生観や地域社会との関連など、私どもの人生をまとめた意匠にするかどうかである。
今日2012年2月12日にアトランタで、オーストリアバリトン歌手フローリアン・ボッシュのリサイタル、シューベルトの「冬の旅」を聴いてきた。配られたプログラムに全歌詞の対訳が載っていたので、それを見ながら透き通るような美声と感情のほとばしるような名演奏に聴き惚れていた。「墓が自分を呼んでいる」と訳せるような歌詞が彼の口からほとばしり出たときに、はた、と思いついたのである。私たちの墓は私たちの「生の証」ではなく、訪れてくれる人々を招くような、そして尋ねてきてくれたときに立ち止まり、できれば話しかけてくれるような、そういう墓であれば十分である、と悟ったのである。
対話の場だ。ローソクがあればなおさらよい。花があっても悪くはない。でも座る場所がなければ立ち話になってしまう。そうだ、霊園のなかにある憩いの場にしよう。私の知らない人が座ってくれればなおさらよい。知っている人には記憶を回想してもらい、知らない人には記憶を創ってもらおう。そうなのだ、リビングルームにしよう。持参の音楽をかけてもらってもいい、リビングルームなのだから。コーヒーや紅茶をすすってもらってもいい。新聞を読んでもらったらなおよい。我が家ではすでに食事持ち寄りの家庭音楽会を20年間開催してきた。だからお弁当を食べてもらってもよいし、歌をうたったりギターを弾いてもらってもよい。それら総てが「記憶の中に生きる」ことなのだ。だから憩いのリビングルームこそが岸本家の墓である。これでやっと安心した。

さて、我が墓石はプライベートなラウンジのような雰囲気になってきだが、そこには何か、私や家内の遺品などが設置されるべきか。私の遺骨は多磨霊園とセメタリー・ヒルと、それに太平洋に、と考えている。どのような形で置かれるのか、撒かれるのか、飾られるのかはまだ決まっていない。現在の考えでは、多磨には普通の骨壷の中にいれて安置してもらい、太平洋にはばら撒いてもらう。クレムソンのセメタリー・ヒルには、ラウンジ・デザインの中に組み込んで、多分コンクリートのセメントに混ぜてもらったらどうだろう。または、セラミックのランニングシューズの形をした椅子をデザインしておくのもよい。その中に骨粉を入れておくのだ。そうすれば私の上に座ってもらえるかも知れない。次第に落ち着いた雰囲気が感じられるようになってきた。出来れば、少し気の利いたユーモアがあっても悪くない。やはり来た人に泣いてもらいたくない、微笑んでもらいたい。これで、方向性が見えてきた、と同時に課題もはっきりしてきた。我々二人と、来てくれる人たちとの会話(コラボレーション)の場がこのラウンジなのだ。このように死後のことを考えてきても不思議と悲しさがない。むしろ楽しくなってきた。死後の時間は悠久の世界である。一年に一人でも我がリビングルームに訪問客があれば満足だ。いや10年に一人でもよい。それが知人でも赤の他人でもよいのだ。無言の会話で結構。リビングルームに座ってくれている人も我が墓石の一部なのだから。
はじめは人の記憶の中に生き、しばらくすると人と記憶を作ることになり、そして多分純粋な原子へと変化していくのだろう。それが自然であり、それでよいのだ。
2012年2月16日 深夜ひとりで考えている。午前3時だ。 岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

− 移住生活・その4…鬱 −

白州に移住して丸3年が経ちました。体がやっと、“住処は白州だよ”ということを了解してきたようです。つまり、慣れるのに3年かかったということで、適応能力の劣化は疑いようもありません。この3年間という時間は初めて経験する時間帯でした。
2009年5月に白州に移住して以来、週の半分が東京で、半分が白州という生活を送ってきました。白州への移住に伴い、同じ時期に東京の事務所も移転しました。そのことによって予想もしていなかった事態が“私”に起こることになりました。東京から山梨への住まいの移住によってそれまで慣れ親しんだ住空間は一変した訳ですが、事務所の移転によっても慣れた仕事空間が一変しました(同じ武蔵野市内での移転なのですが…)。その結果、“慣れ親しんだ空間”、“思考する空間”を同時に喪失することになり、落ち着いてゆっくり“思考を巡らす空間”が見い出せない状況に陥りました。落ち着きを失った日々の始まりです。
私の中で底知れぬ“不安感”が芽生えて行ったように思います。毎週の移動と思考空間の欠落生活はやがて“私はどこの誰?”的感覚に陥るようになり、移住から1年を経過するあたりから一切の“やる気”が自分から失われて行くようになりました。私にとって予想だにしなかった驚くべき事態の発生です。とにかく“やる気”が出ない。猛暑はそれに追い討ちをかけました。頭で考える、“こんな筈ではない自分”と“やる気を失った現実の自分”とのギャップの大きさに悩まされることになります。
当初は猛暑のせいで、生まれて初めての“夏バテ”したためだと思っていましたが、夏が終わっても一向に戻りません。一方の“自分”が一方の“自分”に「こんなことでいいのか?」と問いかける日々。感覚も鈍感になり、五感を大事にしてきた“自分”とは思えない反応の鈍い日々。その間、仕事は何とかこなしてきました、自分でない自分が…。その辛く長い長い時間は1年以上続きました。このまま死んでしまうのではないだろうか?その方が楽だな…。こんなことを繰り返し考えていました。
一体自分に何が起こったのだろうか?どうしようもない、どうしていいかわからない自分。人生で初めて経験する時間帯でした。
その間、同じような変調を経験し、元気を取り戻した友人が「大丈夫だよ!古磯。必ず戻るから。やる気のある奴が陥るんだよなー…」。そう励ましてくれた友人も転居によって変調をきたしたのでした。
1年近くが経過したあたりから少しずつですが感覚が戻ってきました。何が契機になったのかはよく解りません。徐々に感覚も戻り、少しずつやる気も出始めた頃、以前からのかかりつけの医師にこのことを話したところ「古磯さん、それは鬱病ですよ。よく、何もしないで回復してきましたね。下手をすると深刻な状況になっていましたよ。早く言ってくれれば精神科医を紹介出来たのに。でも良かったですね。」
私は2004年以来、思いついたり気付いたことや打合わせしたこと等をいつも一冊のメモ帳に書き続けているのですが、2010年秋から2011年夏までは何もメモが残っていません。あの東日本大震災のことについても、津波の映像はしっかり記憶の中に残っているにもかかわらず、何のメモも残っていません。私にとって異常事態でした。
自分の意識しない内に、やはり老化していたのでしょう。思いもしなかった、環境の変化による自己喪失。自分の脆さを実感する出来事でした。

3年を経過した現在はすっかり調子も戻りました。以前にも増して“やる気”が起こり、創作意欲に燃えてる日々です。感覚も敏感さを取り戻し、白州という素晴らしい環境に感謝の日々です。
都会に居ると、“自然を求めること”に敏感になります。3年経過した現在は自然に恵まれた空間に居ます。自然を“求める自分”から“中にいる自分”へ。
私の中で何かが確実に変わりました。大きな変化が起こっているように感じます。



◆今月の山中事情75回−榎本久・宇ぜん亭主

−カラスとつばめ−

もうひと月以上も前のことだ。それは自然界に於いてはごく当たり前の現象であろう。つばめが緊急発進した。その囀りがけたたましい。一族郎党が向かうのは一羽のカラスだ。カラスはつばめの卵をくわえ、悠然と巣に戻るところを、つばめ達は戦闘機のごとくカラスの行く手を猛然とさえぎる。上に下にのその様は圧巻である。つばめ達は何度となく果敢に挑みかかる。その健気なさは涙の出る思いだ。味をしめたカラスはその後もつばめの巣の近くで「カーカー」とわめいている。体格で絶対優位なカラスにとって彼等はモノの数ではなかろう。労せずして、そこにエサがある方が何かとつばめの波長の短い囀りは、子を失った無念の囀りに聞こえ、哀しいドラマを見ているようであった。
一方カラスとて巣に戻ればヒナの親だ。育てるエサなど選んではいられない。よってこのようなことが過去から今日まで続けられて来ている。感傷などにひたってはいられない。自然界の凄まじい掟がそこにあった。
つばめ、すずめなどの小鳥にとってカラスは巨悪である。
童謡に「夕やけこやけで日が暮れて、山のお寺の鐘がなる。お手手つないで皆帰ろ。カラスと一緒に帰りましょ。」「子供が帰ったあとからは、まあるい大きなお月様。小鳥が夢を見る頃は、空にはきらきら銀の星」
この童謡は小鳥達にはブラックジョークだ。小鳥達はおちおち夢など見ている暇はないと思う。
小鳥の囀りが、おだやかに聞こえたとしても小鳥達の間では危険情報のシグナルを発しているのではないだろうか。悠然と大空を飛翔しているかのようなカラスや、せわしなく飛ぶ小鳥達。我々にとっては平和的に見えても、常に生命がおびやかされているのだ。そのことに於いては、アフリカのサバンナで繰り広げられていることと大して遜色のないことが、この小さなエリアで起きているという事実だ。
人間関係も同様だ。大企業や政界のエライ人達は、国民という「卵」をくわえて、何やら烏合している。


宇ぜんホームページが新しくなりました。
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