★Ryuの目・Ⅱ−no.114

梅雨入りしました。緑が一段と鮮やかな時期になりました。梅雨の楽しみのひとつです。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.114》をお楽しみ下さい。



◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−無限−

私は無限に続く物体を見たことがない。「大海原」も「サハラ砂漠」も地平線へ消えていくだけである。「万里の長城」が山から山へ無限に続くようにみえるが、人口衛星から見た地球で、確認できる人工の物体は「万里の長城」である、と言ったその瞬間に無限でなくなってしまう。最大限の宇宙ですら無限ではなさそうだ。そうすると、無限は永遠とか絶対という概念と同様に相対的はものであり、厳密には存在しにくくなり、あまり正確な概念とは言えなくなってきた。高等学校で微積分を習い、無限の概念を教えられたが、やはり現実には存在しないのだろう。

しかし、人間はないものねだりが大好きだから、頭の体操をしながら無限を想定して、他の概念を導きだしたりしている。それは逆に、無限が存在しないことの証明のようなものだが。宗教では、一般に科学的証明が要らないので、神や仏の世界、また天国や地獄を持ち出して無限の代わりにしているようだ。要するに人間が経験することのない、経験できない世界の話なのだ。しかし、経験できないと思われている世界を映画にすると、SF映画と称して幻想のような世界を作り出している。そして、技術の進歩によってSF映画が次第に現実化してくる、という不思議な現象が起きている。では、頭の体操をしてSF映画をつくり、無限を弄んでいたはずなのに、いつしか、この遊びが現実化してくることがあるのだろうか。今のところはまだのようだ。

言葉の世界である文学でしか存在しない世界、絵を通して視覚に訴える世界、音楽でしか存在し得ない世界があることは誰でも知っている。村上春樹やシャガ−ルやドビッシイの世界は幻想的である。村上春樹はこの幻想と現実の世界を自由に出入りしている。彼は柔軟で強靭な思考能力を持っているのだろう。芸術家は透明人間がするようなことを生身でやっている。このような芸術こそが人間世界に必要な潤滑油の役目を担っているように思える。しかしその潤滑油には無限を期待しなくてもよい。それでも芸術は存在するのだ。なにしろ芸術には自由があるから。そういう意味では私も芸術家の端くれだ。というよりも、幻想と現実を弄びたがるのが私である。だから楽しい。芸術の創作活動とはそもそもそういうもなのだ。それは芸術が想像と創造の世界だからなのか。芸術は確かに神や絶対の世界を目指す傾向がある。では無限は芸術の対象になり得るのだろうか。それはどちらでもよいだろう。

しかし無限には、だらしない部分がある。唯だらだらといつまでも続く部分だ。勿論人間の感性から見ての話で、無限自身とは無関係だが。世の中には、このだらしない部分に魅力を感じる人もいるだろう。実は私もその一人なのだ。何故か。そこに私の入り込める余地を見出すからだ。無限に身を任せながら、自分の存在を確かめられるからだ。その方法が私にとっての芸術なのである。創作活動それ自身が無限のだらだらの中で時々光ったりするからだと思う。その瞬間が私の形であり、色であり、光でもあるのだ。だらだらの中で突如頭をもたげる表現が他人の目に留まると、その瞬間に会話が交わされている、と感じる。満足だ。もしその人が反応してくれれば、なおさら嬉しくなる。ほとんど無限とも思える長い人類史のなの、一人の短い人生のなかで、突如頭をもたげた表現が、誰かの目に留まり、意識される、これはもうたまらなく嬉しい。

この満足の瞬間を一度ならず経験させてくれる人生には、ただただ感謝の気持ちで一杯だ。ありがとう。

2012年2月4日 静かな土曜日の午後 久しぶりに夫婦と犬の家族3人で6キロの運動。




◆今月の隆眼−古磯隆生(http://www.jade.dti.ne.jp/~vivant

「一枚の絵」

稟とした、心地よい緊張感を漂わせた一枚のペン画(写真貼付)。集落の光景が描かれている。古びた板張りの外壁に瓦屋根。蛇行した路に沿う家並み。路の向こうには裏山に向かうと思われる石段が覗いている。道端にポツンと置かれた一斗缶らしきもの。焼却かゴミ入れに使ってるのだろうか。その向かい側には何かを干しかけているようだ。道端から伺える生活。

日本の原風景を想わせるこの絵。絵のサインは「1970.8. T.KOISO」。

先日、部屋の片付けをしていたところ、古い段ボール箱の中から、かつて描いたペン画が一枚出てきました。漁村集落を描いたものです。この日付から計算すると、23歳の時ですから大学4年生の夏(私は二浪して大学に入った)です。

建築学科に入学し、二年生の時、某研究室に特別志願してゼミナールに参加させてもらい、「デザインサーベイ*」という漁村集落の調査(このときは丹後半島伊根町の舟屋郡*)に連れて行ってもらった。当時、建築学科に入ったものの、“建築設計”というものになかなかリアリティーを覚えることが出来ず、悩んでいました。集落の調査には何かリアリティーを感じることが出来るのではないか…そんなせっぱ詰まった思いで参加させてもらった。3年生の時は大学紛争の真っ最中で、当時、ノンセクトでこの運動にかかわっていたため調査には連れて行ってもらえなかった。4年生になり、大学紛争も終焉を迎え、授業も再開された。心の中にモヤモヤしたものを引きずったまま参加した漁村集落の調査。対象は三重県鳥羽市の菅島という離島でした。当時、調査そのものに疑問を抱き、先輩達に食って掛かったことが思い出されます。夜の桟橋で、果たしてこの調査は過疎化に悩んでいる村の人々にとって意味があるのだろうか?何かの力になれるのだろうか?自分達(建築に携わってる側)だけの自己満足の為にやっているのではないか?大学院生を困らせたものでした。自問自答しながら調査に参加し、もがく、そんなに時間帯の中で描いたのがこの一枚のペン画です。

緊張感を持って毎日を送っていた当時が思い出され、これからもまだまだ創作をしていきたいと考えている今の自分を激励する、そんな感覚にとらわれました。

偶然出てきた一枚の絵。四十二年前の自分との出会い。

*デザインサーベイ:1960年代後半から1970年代にかけて行われた調査。伝統的な街並みや集落を対象に実測等による方法で調査し、図面等で視覚化することを通して建築等の構成要素や集落コミュニティーの成立過程などを考察する。この調査を通して得られたものを建築設計に反映しようとするもの。

丹後半島伊根町の舟屋郡:朝日新聞の「日本の里100選」に選ばれた集落。Ryuの目・?☆no.74参照




◆今月の山中事情74回−榎本久・宇ぜん亭主

−手−

啄木ではないが、我が手を見つめることが時としてある。これまでの人生そのものを見つめているようでもあるが、とりわけ、商売をしてからの己が手に特別の感慨を持っている。その手は、それまでの人生の使い方とは全く意を異にしたからだ。品物を買い、それを捌き、味を整え、お客様に供する。後片づけなどの清掃や記帳に至るまですべて同じ手がやるのである。

これ迄米をどの位研いだであろう。魚は一体どの位煮たり、焼いたりしたであろう。たまごは何個割ったであろう。芋や、大根、ごぼうをどのの位剥いたであろう。それ以外の食材も含めて、この我が手は膨大な量を処理して来た。

三、四十代の頃の我が手は頑張っていた。一人で、三百人前の弁当を作った時は、徹夜で米を研ぎ、魚をやき、たまご焼きを作り、煮物を作った。手を使うということは全身を使うことであった。恐ろしい程の仕事の量をこなした後の達成感に「両手」を上げてよろこんだものだ。と同時にその凄まじさやいとおしさを改めて我が手に感じた。趣味のことに関わるのも又しかりである。

病んでからは残念ながらその活力を失ってしまった。あれだけ敏捷だった我が手は、運動神経の欠落によって意のままには動かなくなった。あの軽い、細く切った海苔でさえ、上手く盛ることが出来ないでいる。その手の動きは、回復するのが早いか、没するのが早いかの競争を呈している。そして思うのは、われわれ人間はいかに手に頼ってものごとが行われているかということである。

人間の身体にあるものは、ひとつ位欠けてもいいというものは無い。それゆえ手が持つ活用の重要さは説明など要さない。それが不自由になったもどかしさは、只歯がゆいのみならず、行動範囲が限定され、楽しさも半減されてしまう。過去があまりにも行動的であったが為、その落差に今だ困惑をしているのである。手だけでなく、足も同様なのだが、そういう状況でも再び商売を再開出来ることになり、私は誠に果報者と思っている。

「食」の中に「スローフード」という思想があります。食べものを作り出すことや、ライフスタイルまで、これを心がけることは実は大変なことなのですが、共感は出来ます。世の中がほとんどの分野で「ファースト」になり、追いていくのが私には難儀なゆえ、スローな暮らし方が必然的になりました。それはまるでどなたかが設定して下さったごとく私はここに居るのです。

ところが某所では身体や手を動かさず、口だけ動かしている輩がいて、世の停滞を招いているのが見受けられ顰蹙を買っている。

宇ぜんホームページ

  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/