★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.113


5月になりました。
白州では田圃に水が張られ、再び透明感溢れる光景が現出しました。
どこにいたのか、蛙が一斉に鳴き始めています。
田畑が再び輝き出しました。
毎年繰り返される光景ですが、安堵します。

樹齢二千年と言われる山高神代桜エドヒガン)が今年も見事に花を咲かせました。
この桜を見る度に元気をもらう思いです。
少し時期がずれましたが、写真を添付します。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.113》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−山を走る−

先週の日曜日の朝、16キロの山道を走った。最初のうちは少し寒さを感じていたが、すぐに汗ばむようになり、真に快適な2時間だった。その日は鹿に出会うこともなく何か物足りなさを感じつつも、呼吸の調整をしながら美しい大自然のなかをただ走り続けていた。3月半ばで少しは芽を吹いていたがまだ殆ど枯れ木のような大木が立ち並び、その枝の間に見え隠れしながら大空を舞う鷹を一羽、私の目は捉えていた。私は速度を落として口笛を吹いてみた。
2度3度ふいているうちに、鷹が私を意識しながら輪を描いているのではないか、と直感した。少し走って周りに大木がなくなったころ空を見上げてみた。私は口笛を吹き続けた。兎に角今日の口笛はよく響くなあ、と自賛しているうちに、なんとまあ、空には10羽あまりの鷹が群れを成してそれぞれの輪を描きだしていた。
私の口笛は鷹と話していたのである。もうただ嬉しくて口笛を吹く続けた。実際は3、4分ぐらいの出来事であったろう。私はまだ4キロ程度しか走っていなかったのだが、鷹は明らかに目で私を捉えていた。走らなければ、と一鞭入れてまた走り出した。そうするとどうだろう、鷹たちは一気にばらばらに散ってしまった。私を生のまま食べるつもりだったのだろうか。冗談ではない、私は後一ヶ月でボストンマラソンを走らなければならない身だ。餌になどなっている暇はない。そうするとどうだろう、地面をけたたましく走り回るものがいた。5,6匹のリスの群れである。そうか、リスはリスで鷹に狙われていたのは自分たちだと勘違いしていたのだ。私が口笛で鷹と話したのは錯覚ではなかった。リスに感謝されてもよいぐらいだ。
見覚えのある湖と、水辺のピクニック用のテーブルやベンチが目に飛び込んできた。そうだ後1マイル(1.6K)で折り返し地点である。これからは連続した登り坂である。前方から若い男女が小走りに降りてくるのが見えた。「今朝の調子はどうですか」「まあまあです」と挨拶を交わす。そのすぐ後ろから犬を2匹連れて降りてくる中年のおじさんに会った。一匹は私の老犬「せさみ」と同じブラック・ラボ種のおとなしい犬であった。口笛を吹いたらすぐに寄ってきた。自分の子供に会ったような気がした。上り坂を走るときに疲れてくると、どんな理由でもいいから理屈をつけて止まりたくなるものだ。この黒犬もその理由に使われたのをわかっていたのだろうか。
これ以上登り続けると、山を突き抜けて空まで上がって行くのではないか、と思っていると、突然下り坂になって100メートルほど坂を下ると折り返し地点である。ここは水面に高低さのある二つの湖が出会っている地点で、左側の湖から右の湖へダムを通して滝のように水を流し込んでいる、心のやすらぐ光景だ。5分ほど目と心の保養をしてから帰路についた。帰りは不思議と疲労感がなく速度を上げて走った。湖際のピクニック・テーブルがあるところまではほとんど下りなので、真に快適であり、ランニング・ハイを感じながら走り続けた。あたかも止まって宙に浮いていて、動いているのは周りの景色であるかのような錯覚に襲われた。山を走っているうちに山が走っているように感じてくる。不思議だ。木の梢を通して見えた鷹は木の梢と一緒に動いていたようだ。
実はどちらが動いていてもよい。山で走ると山の一部になってしまう、要するにそういうことだ。
2012年3月14日 走れる人は幸せだ。  岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

根津美術館

ゴールデンウイークの一日、所用があって東京に出かけ、合間に根津美術館に行きました。根津美術館は初めてで、新装されたのは知っていましたので機会があれば行ってみたいと思っていました。お目当ては尾形光琳の燕子花図屏風です。燕子花図屏風はさすがでした。構図といい、色調といい、構成といい、シンプルで意匠性に富んだ作品は見応えがあります。私がこの光琳展で興味を惹かれたのは、この燕子花図屏風の為の習作と思しき一枚の燕子花図でした。小品ながらなかなかの出来映えで、燕子花図屏風への展開が予想される意味のあるものでした。習作の意味が改めて気付かされるいい機会となりました。紅白梅図屏風といい光琳の作品の素晴らしさを改めて感じる展覧会でした。
さて、この美術館を訪れて驚かされたのは広大な庭園です。これだけの庭園が、都心にあるとは知りませんでした。年月を掛けて作り上げられてきたこの庭園は五感の宝庫です。目に鮮やかな新緑にカキツバタ、小鳥の囀りと水のせせらぎ、新緑の樹木が放つ匂い、足裏に覚える様々な敷石の感触。庭園内にある茶室で一服できれば味覚の成就!森閑としたとても素晴らしい時空を提供してくれます。全てに過剰な現代社会の中で、シンプルに五感に訴えるこの空間に居ると、想像力を刺激され、気持ちも洗われるようで時間を忘れさせてくれる空間です。
ところで、新築された当の美術館本館は、光の明暗を意識した演出になっていて好感が持てます。庭の取り込みも悪くありません。ただ、最大の失敗はアプローチ(館への導入路)でした。さりげない構えで通りからうまく敷地内へ導き、通りとの隔てに植えられた竹林と外壁にあしらわれた切り竹の壁で囲んだ長いアプローチの空間は、気分切り替え装置としてはなかなか良いなと思ってた矢先、館への入り口のところで駐車場に面するとは!!折角切り替えられた気分もここで元の木阿弥、おじゃん!でした。都会の喧噪から気分を切り替え、館内の展示物への期待と関心を集中させて行く大切な導入路の空間なのに。
この美術館を設計した建築家はアプローチ空間の意味を理解していなかったようだ。


◆今月の山中事情73回−榎本久・宇ぜん亭主

人は数字を造ったことにより、万人がそれによってあらゆる場面で一喜一憂を知ることになった。何かを知ることは、これ程手っ取り早く一目瞭然なものはないが、その弊害もある。時間、距離、温度、記録、速度、量、面積、体積、統計、計理、等々その全ては数字によって表され、それに従って人は暮らしている。
その中で「お金」というものも出現し、以来人はそれをより多く手にする為、様々な手法をあみだし、生活の中に浸透させて来た。そしてそれは「富」の象徴となって人と人の間に格差となって拡がり、古来あった人との助け合う型(物々交換)はいつの間にか消滅して行くことになった。
現代に於いては、人は数字によって管理される側にある。起床から就寝まで数字は当然のごとく付きまとい、自身の余暇とて数字に支配される。運悪く病気になったら、データの為の数字が連日羅列され、そのことが病気の重度・軽度を知る基になる。会社というものの存在とてその数字に左右される。私達は日常の中にこのように数字の氾濫があるのだが、どういう訳か、そのことに麻痺しているようで別段の関心はなさそうだ。あるとすれば、新聞や、それに挟まれている広告や、ケイタイの類かも知れない。多くの場合、数字はやはり誠に有り難い存在であり、これなくして人間社会は成立しない。しかし、数字の「膨張」という観点から捉えると決して由とは出来ないものがある。それは「兵器の類」や前述の「金」である。この二種は人そのものを滅ぼす基であり、滅ぼさずともあまたの犠牲者を出す。
目標というものが数字になって翻弄されている。数字が人間の価値を決めている場合がある。人間社会は数字に委ね、その価値を表している。人間の価値は本来数字では表せないはずだが、それが時として大手を振るっている。労働の対価も如実に数字で表され、それを基準に人生さえ決定することになる。そのように考えると、数字の持つ恐ろしさを改めて知ることになるが、それからの逃避は出来ない。
現代社会の今後は果たしてどのように進展して行くのであろうか。人類が無限に地球に君臨し続け、ますます数字化されることになって行くのだろうか。