★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.112

先日、「今月の山中事情」でお馴染みの宇ぜん・榎本氏が毎年主催してる
「羽前・花見会」が東京で行われました。
桜はほぼ満開。久し振りに見る顔・顔・顔。話に花が咲き、酒量もぐんとアップ!!
その日の内に白州に戻ってきましたが、こちらの桜はまだまだ。堅い蕾を見せています。
樹齢二千年の山高神代桜の開花が待たれます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.112》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は真宅寛子さんです。
          大阪府の動物愛護推進員です。

−象の密猟−  

アフリカ象の密猟が2011年ケニアで約260頭にのぼった。2000年の50頭から5倍以上増えている。2011年夏、雌のリーダーの「ハリージャ」が麻酔銃をうたれ意識を失って倒れているのがみつかった。以前密猟未遂で受けた銃弾を象の保護団体がとりのぞき、発信機を装着し、蜜猟者を特定しょうとしていたやさきに、又密猟者におそわれ絶命した。象は経験豊かな雌のリーダーが、群れを引き入り一番過酷な旱魃期に食べ物、水のありかを捜し、生きながらえている。「ハリージャ」の群れは4歳から12歳の群れで「ハリージャ」を除くとまだ若く経験の浅い象ばかりで、孤児になると危険が迫ったときの対処方法がわからず死亡率が高くなり、保護団体もこの群れの行く末を危惧している。
1940年代500万頭いたアフリカ象は40万頭から60万頭に激減し、絶滅の危機がせまっている。密猟が増えた原因として、2004年以降南アフリカ、ナムビア、ボツアナの三国が条件付一度かぎりの象牙の輸出が認められたことが起因している。輸出国は日本で、印鑑、三味線のバチ、ビリヤードのキュー、工芸品に使用される。アフリカ象は雄、雌ともに牙があり、アジア象は雄だけに牙がある。アジア象も雄が密猟され、現在35000から50000頭しか生息せずアジア象も絶滅の危機に瀕している。アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5895メートル)をのぞむアンセボリ国立公園には1250頭の野生の象がいる。ケニアの野生生物公社(kws)の警備隊が空からも警備し、3000余の住民もレンジャーとして警戒にあたるが密猟はあとをたたない。
近年は自動小銃やライフルに変わって槍や毒矢が使用される。象に釘を踏ませて怪我をさせ、息絶えるまであとをつける方法もあるという。発砲音がなく、見つかっても証拠がでにくいためだがこの方法は長い間象を苦しめる手口で卑劣なやりかただ。象牙の国際取引はワシントン条約で厳しく規制されているようにみられるが、抜け道も多く、加工品にかえると輸入可能になる。近年、日本の大手ビリヤードキュー製造会社も不法に取り扱い摘発された。象牙は1キロ30ドルで密猟者は売るが最終的には1000ドルにはねあがる。新興国の富裕層の需要が密猟を増やしている。減少や、絶滅すると、生態系がこわれ、人にも地球にも悪い影響を与える。
野生動物生態学者のンジェネ氏は「密猟の実態を知り象牙商品の消費をやめてほしい」と訴えている。日本人も肝に銘じたい。

◆今月の隆眼−古磯隆生

−移住生活・その3−

4月に入りましたが、白州ではまだまだ夜はストーブを離せない日々です。先月届いた薪置きラックの話をします。
「住処探し」の最終回でストーブの話をしましたが、白州に移住して初めて、薪ストーブ生活の経験をしました。この冬で3度目です。愛称「みにくいアヒルの子」の小振りな薪ストーブはなかなか優れもので、結構暖かい。火の起こし方にも慣れてきました。枯葉を入れ、その上に小枝を載せ、さらに細木を数本載せ(ここまでは午前中に準備しておきます)、火を付けます。この細木まで火が回ったところで太めの木を1本入れ、これで3時間程度もたせます。天気の良い日の日中は部屋の中に陽溜まりが出来るので暖かく、ストーブは不要です。住まいの中で火を見ながら暖を取る生活は想像してたとおり楽しいものです。猫もストーブに寄ってきます。薪はお隣のしいたけ苑の方から細木や丸太で調達し、薪割りをして積み重ねておきます。主にクヌギの木が多いでしょうか。松・杉・檜などの針葉樹は、ススやタールの発生が多いということで避けていますが、1年以上乾燥させたものは大丈夫らしい。最近は薪の調達もなかなか大変になってきたとの話も聞きます。とりあえず来年分は調達出来ました。

ストーブがセットされて以来、室内用の薪置きラックをずーと探していたのですが、なかなか気に入ったものが見つかりませんでした。インテリアの一部ですから好みに合わないものを置く気にはなりません。仕方なくこの数年、最初は段ボール箱に、次にはポリバケツにとりあえずその日に使用する分だけ入れて代用していました。そんな折り、昨年末に遊びに来てくれた岡山の友人から、薪置きラックを制作してあげるから簡単なスケッチを送って欲しいと、思ってもいなかった提案がなされました。気に入ったものが見つからない以上、自分で気に入るものを作るしかない。これはとても有り難い提案でした。こういうもののデザインを考えるのもまた楽しいものです。さてどんなデザインにしようかなー…いい時間です。
デザインは次のような条件で考えることにしました。まず、製作工程を少なくすること(組み立て式は行程が増えそうなので避ける)。そして、機能的には薪を積んで置くだけ(薪を入れての持ち運び等は考えない)。この条件で、余分なもののないシンプルな形にすることでした。薪も乾きやすく、掃除もし易いもの。デザインそのものはすぐに出来ました。鉄板を切断、折り曲げ、溶接、塗装という制作行程。簡単な図面にして送りました。友人はすぐに制作に取り掛かってくれました(簡単だったとのこと)。
こうして出来上がった薪置きラックが先月届きました。添付写真の中央です。しっくり来ています。左側が愛称「みにくいアヒルの子」のストーブです。このオリジナル薪置きラックがセットされて部屋の雰囲気がぐっと落ち着き、良くなりました。置物ひとつで部屋の雰囲気が変わることがあります。この感覚は大事にしたいですね。毎日の火起こしが一段と楽しくなりました。我が家ではこのラックを“アヒルの子”と呼ぶことにしています。“冬という時間”が楽しめます。友人に感謝。


◆今月の山中事情72回−榎本久・宇ぜん亭主

−卒業証書−
昨年のことだが、私は病院帰りに西武秩父線のとある駅の長椅子に腰かけ、電車を待っていた。時を同じくして中学生の数人も仲間同士ふざけながら電車を待っていた。そのうちの二人が、電車が来るにはまだ時間があることを知っているらしく、私の座っている反対側の椅子にどすんと座り、やおらテキストらしきものを取り出した。どうやら今日はテストだったらしく、自己採点をしているようで、話し合っていた。私はもう一度そのテキストらしきものを垣間見たら、「数学」の問題であった。時は三学期の学期末だったのである。私も遙かなるその昔を思い起こした。そしてその問題を突如反芻してみたのだが、今度は全くその問題が解らないことに陥ってしまっていた。今の中学生のレベルの高さに降参してしまったのである。そう言えば、小学生から英語が学習に取り入れられている時代であり、パソコンとて当たり前に扱う時代であることを知りながら、昔のまま教育がなされていると時代錯誤をしている自分があった。
「中学の課程を修了したことを証明します」
「高等学校の課程を修了したことを証明します」
と卒業証書としていただいたそれがどこかに仕舞ってある(大学には行ってないのでない)。ところがである。冒頭の数学の問題が解らないまま私は中学・高校を卒業していることに気がついたのである。数学だけではない。国語、漢文、理科、化学、物理、歴史、社会、英語なども習ったが、どの科目ひとつとっても「終了」したとは到底思っていないのである。そんな輩が、その教育を「終了」したという「お墨付き」をいただき世に出ていることが滑稽で仕方がないのである。そして私は私で、その「お墨付き」で中学・高校の教育を「終了」したのだと錯覚を起こし、誰かに何かを言っている。中学の問題ひとつ解けないで「大人」のツラを振りかざし、高等教育を受けたフリをしていたのだ。
そしてもっと「質」の悪いのは、私の高校の名を我が町の人がもし聞いたなら「○○高校ですかあ、じゃあ優秀なのね」とくる。それは全く当たっていないのに、私は学校側から「終了」させられてしまったのだ。
たしかに世に出て働き始めたら、いろいろの学習は知らなくともいいことが多々あった。数学は「加減乗除」さえ知っていれば何とかなる。コーヒー一杯出すのにいちいち連立方程式でものごとを考えて出すことはない。安全にスピーディーに出すことを考えるのが真っ当だろう。「国語」は「いろは」か「あいうえお」を覚えれば生きていける。その他のことは特別そのことが必要なら現場で覚えることが出来る。そう考えると学校で全部教わって「終了」することは必要でないのかも知れない。しかし、あの卒業証書なるものは、すべての課程を理解したということで「終了」という意味になっている筈で、理解していない私にとっては「ニセ」の「お墨付き」を貰ったようで、すごく気持ちがよろしくないのであります。全国に私と同じ年齢の方がたくさん居ます。時を同じくして皆さんも私と同じように卒業証書をいただいた筈です。(その前もあり、その後も続いているが)その中には経済界の重鎮、大学の教授、法曹界の先生、官僚や政治家(まさしく菅直人前総理大臣)などになられた偉い方々と瞬間同じ扱いを受け、各学校を「終了」したことになっていることはいくらなんでもどさくさ的である。なんだか呉越同舟させて貰ったようで、甚だ合点がいかないでいる。
何かを想うことにぶつかりふとこのようなことが蘇り、青春の一途さや、愚かなことを懐かしんでいる。いつの間にやら齢を重ね、老人の類に入れられ、それぞれが何を模索して生きているのかと、我々団塊の世代の日々を思っている。

宇ぜんホームページ
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