★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.106

秋です。紅葉のシーズンになりました!!
カラ松の黄葉が楽しみです。
行動展出品作の写真を貼付します。ご覧下さい。
入選作(大地の目覚め/訪れ)の絵葉書が出来ました。
ご希望の方は住所をお知らせ下さい。

さて、秩父に移られた宇ぜん(榎本さん)の開店も近づいているようです。
年内にはオープンとか。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.106》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

中秋の名月

あ!流れた。宇宙を漂っている岩石が地球の重力圏内に入ると地球に引っ張られて大気圏に突入し、空気との摩擦を起こす。その結果、表面が超高温になり燃え始め、燃え尽きる前に地表に落下すれば隕石となるが、焼失してしまえば単なる流星として終わる。この辺までは、何とか理解できるし説明もできる。
しかし、この岩石を星というのには抵抗を感じる。余りにも小さいのだ。流れ星が流れている間に願い事をしたりして、想像性豊かな楽しい物語性を加えるのは個人の自由であるが、科学的な冷徹さを持って、何のエネルギーでこの流れ星は動いていたのかと考えるなら、当然この岩石の大きさが問題になるはずだ。
少し興ざめするのを覚悟でいうなら、この現象は小さな会社が大きな会社に吸収合併されたり、小国が大国の植民地になったりするのに似ている。月が軌道に乗って地球の周りを一定の速度で回周したり、地球が太陽の周りを一定の速さで回り続けるのは、惑星と恒星の相互引力関係の均衡が保たれている証拠である。自然にできたこの関係が必要条件が整った結果として可能になったかどうかは分からないが、人工的にこの関係を作り出し、一方的に必要条件としたのがサテライト(衛星)と地球との関係だ。この関係の均衡が崩れサテライトが軌道を離れ地球に突入して流れ星になると、サテライトに投資した投資家の損失になるだけだが、小国が大国に完全に吸収されてしまうのは、後々まで禍根が残る。特に文化や宗教の分野で問題が残りやすい。
ではアメリカと日本との関係をこのような角度から考察してみたらどうなるであろうか。他人の褌で相撲をとったり、コンピュータをいじくり回して他人の金を動かして大きな利益を生み出したりする場合に、動かした巨額の金がもたらす利益で世界一になったとしても、何か実態のない世界一で、砂上の楼閣のようにすぐ崩れてしまいそうな気がしてならない。実際、他国で起きた戦争や、政治的異変でエネルギー資源としての石油が輸入できなくなったり、輸入食糧がストップしたりすると、その場でその会社や国家は機能不全になり、潰れてしまうに違いない。第二次世界大戦バブル崩壊や、現在のギリシャなど、その例は枚挙に暇がない。特に日本は自国の防衛を他国にまかせっきりで、アメリカという大きな星(恒星)の周りを 回り続けている惑星的存在であることを忘れて恒星のように振舞っている。しかもいざという時には、アメリカが命をかけて日本を守ってくれると思っているような節があるから、お目出度いというか、あきれるというか、子供のようである。独立心とは、自分を守るのは自分である、という常識的建前だけでも持っていてもらいたい。我々は子供ではない!私は東北大震災は想定外ではなかったと思っている。恐らくは経済的な理由から、よって政治的な判断から十分過ぎる予防策を立てなかった、と私は判断している。マグニチュード9.1が想定外であったとは、まるで素人のような言い草でわないか。どうしてマグニチュード10で準備できなかったのだろうか。2万人以上が死んでいるのだ。冗談ではない。ある人は、飛行機を絶対安全に設計することは可能だが、果たして飛べるかどうかは保障の限りではない、などといって、予防の限界に釘を刺したりする。まったく幼稚な屁理屈だ。人命保障は国家の第一義の責任である筈だ。四分の一が海面より低いオランダがどのようにして、自国を海水の恐怖から守っているのか、調べてもらいたいものだ。
以上の人命保障のお粗末さは日本に限ったことではない。世界中で同じような問題に直面している、もしくは直面している筈の国は数多くあるに違いない。しかし日本に特有なのは、他国との確執があったときに、想定外では済まされない、ということだ。まったく冗談ではない。多分これほど自国の防衛を他国に頼りっきりにしているのは日本だけであろう。砂上の金で世界ランキングに顔を見せていることほど、怖いことはないと感じる。もう少し腰の据わった実態のあるもの、たとえば、文化や技術や思想やスポーツなど、他国に誇れて自国の自信にもつながり、世界が習いに来たくなるようなもの、それに心血注いで、投資をして、世界中の資産になるようなものに力を入れてもらいたい。そうすれば、恒星とか惑星とかに分類しないで、共生、協同することによって相互に益することに心血を注げるようになるはずだ。夜空を見上げて、月を地球の衛星としてではなく、地球と共生して相互補完的に存在している真に幻惑的で、眩いばかりの美しさを誇っている兄弟星と考えれば地球上での月の価値も上昇してくるに違いない。
今夜は中秋の名月のはずだ。初秋の夜空を見上げながら、このようなことを考えてみた。引退して出来た時間の無駄使いとは思いたくはない。
2011年9月12日
美しい大自然のなかの月を見上げながら、クレムソンにて、 岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

−住処探し・その21−

2009年4月。家から車で10分程のところにある、樹齢2000年と言われる武川の山高神代桜エドヒガン)はこの年も見事な花を咲かせていました。二千年の時間を貫いてきたこの老大木の姿にはただただ圧倒されます。
春の訪れたこの時期、建築現場では足場も取れ、建物、家具等が着々と出来上がって行きます。竣工の見通しも立ち、いよいよ移住に向けた様々な手続き等に取りかからねばなりません。引っ越しの段取り、住民票の移動手続き、家具カーテン類の調達、役所の竣工検査、住宅資金の手続き、等々。結構忙しくなります。
住民票の移動は、2月に水道の権利を確保する時点で必要になりました。厳密には移住前の住民票の移動は認められないことになっているようですが、それでは水道の権利が確保出来ず、引き込みの工事に取りかかれません。工事を担当する水道工事業者さんの提案で、姉か我々夫婦の内の一人だけ先に移住したことにしましょうとのことでした。結局、実際の移住前に早々に住民票を移動することで影響があまり無いと思われる妻の住民票を三鷹市から北杜市に移しました。これで一応給水管の、道路から敷地までの引き込みが許可され、工事も無事終わりました。こういうことは現地の人の知恵を借りないと、思いつかないものです。続いて4月に入って、家の売却との関係で姉の住民票を移動。私の住民票は引っ越しの後に移動しました。私の場合、住まいを引っ越した後、事務所の引っ越しを予定していましたので、住所変更等の手続きを一度で済ましたかったからです。住民票の移動に関しては、自治体によって居住環境が違うので、もう少し役所も柔軟な対応があっても良いのではないかと少し考えさせられました。
建物は完成前に役所の検査もあります。4月初旬の検査の時点では内部はまだ未完成の部分もありました。2階の吹き抜け部分に設ける腰壁を格子状のパネルで構成する計画にしていましたが、検査までにパネルが間に合わず、腰壁が出来ていません。「恐いですね」とは言われましたが、チェック対象ではありません。検査員も面白がっていたようで、盛んに色々な質問をしてきました。検査対象項目に対応する工事は終わっていましたので、検査は問題なく終了。これで融資の条件はクリア。
引っ越しの段取りとしては、まず引っ越し業者の選定から始まります。幾社か候補を選びましたが、ヒヤリングの結果、クロネコヤマトと佐川急便から見積もりを取ることにしました。東京から山梨に、二世帯分の引っ越しです。予定は5月の連休中です。休日の引っ越しは平日に比べて割高とのことでしたが、段取りと見積もりの結果、クロネコヤマトがそこそこの案を提示してくれたので決定。作業の段取りは、一日目は姉の家と私の家とそれぞれに荷物を運び出し、それらを大きな1台のトラック(確か4t車?)に積み替え、その1台で明くる日の早朝山梨に向かうとのことです。
引っ越しの段取りも決まり、長年蓄積された不要物の処分を含め、荷づくりの日々が始まります。
後は建物の完成を待って、引っ越しです。


◆今月の山中事情66回−榎本久・宇ぜん亭主

−秋に想う−

稲穂が垂れ、栗がはじけ、銀杏が落ち、柿の実が色づき、クルミもころがり、ドングリを拾う。梨も、ブドウも、リンゴも秋の里で競い合っている。そして里芋や大根、蓮、南瓜、甘藷(さつまいも)等々、暑い夏をくぐり抜けてまさに実りの秋を与えてくれる。
自然の絶妙な配慮は、心がひたすら動かされてならない。感謝の根源はまさに秋から発せられていることをつくづく思うのである。この糧があるから総ての人々が生きられるのだと大袈裟でなく心底思うのは僕一人ではないはずだ。
あらゆるものが実り、人々に行き渡ることによって対価が得られ、その対価により又次の年の糧の為耕作を促す。その循環は「生」の循環でもある。
一方、蝉の声も弱まり、秋あかねが飛び交う。夜ともなれば暗黒の中で、古来より響く虫達の合奏だ。僕はそれにも「生」の悦びを感ずるのだ。人間が万能でも、あの音色は絶対出せない。もしそう聴こえたとしても擬音を聴いたのだ。虫達の音色を愛で聴いてくれるのは多分人間だけのように思われる。その機微は人間だけに備わった感情であるならば、人間とはなんと素晴らしいものかを改めて感じ入ってしまう。自然がもたらす恩恵はモノだけではなく、人間の精神を育み、そこに触れるだけで蘇りを感じてしまうのである。ずい分前から誰かが「自然に帰れ」と言っていた。現実的には無理でも、精神論的には許容することは出来る。
地球という星のパイは決まっていて、自然と言われる処はずい分少なくなっていると言う。都市化させたのも、自然の中に構造物を造ったのも人間ゆえ、本当は矛盾しているが、人間の「本性」は自然なのだから言わんとすることは当然だ。ここでの自然は古来からのそれを指すが、人の営みがこのようになった以上、古来に戻すことは不可能になった。今我々は古来の自然の残滓に居る。その中で少しも変わらぬ自然の現象がある。噴火や地震やハリケーン・竜巻などの恐ろしい現象がそれだ。それでも何十万種の生き物は命をつないで今日迄ある。それもトータルの自然現象だ。その一つの自然現象である人間のみがとてつもないことを考え、行動をしている。今回の大地震で幸か不幸か露呈した原発放射能問題は、もともと自然界には無い元素を人間は造った。自然との調和を乱し、多くの人々の不安を引き起こしている。
人間以外は古来のままの行動をしているように思うのだが、人間は「進化」の名を借り、あらぬ方向に歩を進めている。警鐘はあるが果たして…。
自分に置き換え身の回りを見る。幼少の頃から見るとはるかに多くの雑多なものがはびこっている。「便利」を追求した「人間」のおみやげだ。それを手にした僕も矛盾を感じながら利用している。そして自然のものが少ないことに気づく。
かつての自然とは比較にならないが、それでも自然がまだ残る秋の町で僕は過ごしている。

宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/