★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.105

菅政権も短命に終わり、野田政権が誕生しました。
崖っぷちに立たされた民主党、3人目の総理です。
日本はどういう方向に向かおうとしているのだろうか。

東に大震災、西に大型台風。またまた甚大な被害をもたらしました。

9.11から10年。疑心暗鬼の連鎖は?

では《Ryuの目・Ⅱ−no.105》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−翻訳後感−

二年半をかけて270ページの英文の本を日本語に翻訳し出版にこぎつけた。最初に走り読みして大筋を把握したときから自分の気持ちにピタッと来る何かがある内容だった。著者の思想が私の考え方に近かったこともあって、自分が書いているような気持ちで、終始できたのは幸いであった。著者の情熱を幾分かでも伝えることができたと思う。
この本「ジオ・ポンティとカルロ・モリーノ」には、性格が相反する個性的な二人のイタリア人建築家が、理想に向かって創造的設計活動を推し進めていく様が、人間味豊かに、暖かく克明に描かれており、その過程が探偵物語のようにヒントを小出しにしながら、読者を最後まで引き付けていて見事な書きっぷりである。創造的活動に携わるひとなら、是非一度読んで頂きたいたいと思う、といったら宣伝文句に聞こえるかもしれないが、それが私の希望なのだ。創造的活動とは、必ずしも芸術活動だけに限ったことではなく、科学、政治、経済、医療、教育、農業、家事などあらゆる仕事が創造力を必要としていることは言うまでも無い。
私の夢と理想は、世の中の人びとが責任と自信を持ち、寛容の心で他人との協力関係の必要性を認めて共同作業に力を入れ、仕事や作品の可能性を追求し、そのためには失敗をも恐れない姿勢で意思を貫いてもらいたい。
この本の主人公である二人の建築家ジオ・ポンティとカルロ・モリーノは、非常に巾の広い交友関係を持ち、それを製作活動に反映させていた。そして最後まで自分に忠実であり続けた。勿論完全ではなかったからこそ努力する意味があったのだ。未完成の完成に情熱を傾け続けた、まさに私が理想としているパターンである。教育者が生徒を教育する際に理想とする教育の型の一つであろう。だからこそ多くの異なる職業に携わる人々に読んでもらいたいのだ。
私の役目は翻訳者ではあったが、この本を訳すに当たって、あたかも自分の著書のようなつもりで翻訳に取り組んだ。私と著者のキース・グリーン教授とのあいだにも、理想的ともいえる協力態勢を敷いて多くの話し合いの場を持ち、相互に教育し合えたと思う。私と著者との間にも多くの共通点があることも幸いした。
俗っぽくいうなら、趣味と仕事とを同一線上に置いたので、自然に情熱が沸いてきたということだ。出版社にいわせると、一般に書き始めてから出版までかかる時間は翻訳の方が長くかかるそうだ。まさに英語と日本語との狭間で苦戦した二年間であった。文化が違うと、適訳語に乏しく、相互に存在しない語彙だらけであることが分かった。和英も英和辞典ともに辞書を必要とする言葉のうち半分近くに適訳がない。英英や和和(?)で調べて自分で訳すしかないし、それがまた大変勉強になったのだ。複数の文化の間で双方に共通項のない部分には、当然共通の語彙が無いことは分かるが、今回のように各頁にそのような場面が幾つもあると、最初のうちは、ため息がでてしまった。が、その内にそれが面白くなり、私の滞米46年が大いに力を発揮する結果になった。趣味と勉強が一つになったような作業であったので、これからも翻訳を続けていきたいと思っている。
2011年8月7日 熱暑のクレムソンにて、岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

菅総理ご苦労様−

菅政権が幕を閉じました。この一年三ヶ月、その成果については様々な意見があるでしょう。国民からの支持もままならなかった現実が物語っている。それはそれとして、幼稚園時代からの友人・同級生である菅直人氏に“ご苦労さまでした”と労をねぎらってあげたい。誰が総理やっても大変な政治状況の上に、この未曾有の大震災である。殆どをこの大震災の対応に体を張ったと言っても過言ではない。原発対応を含め頑張ったと思う。
山口県から上京し、学生時代はもっぱら政治の話ばかりしていた彼が、大学紛争をきっかけに市民運動に乗り出し、やがて政治の世界へと進んで行く。上京後、同じ武蔵野・三鷹に住んだ私は選挙の度にポスター貼りや推薦葉書の住所書き、演説会動員の一人、差し入れ、などで影ながら応援してきた。昔こんなこともあった。菅事務所から「菅直人を応援する会」で幼なじみとして応援の挨拶をしてくれないかとの打診があった。が、私は断った。私は建築の設計を志しているので、政治活動に組みするつもりはない。あくまで個人的に彼を応援したいのだ、との肩肘張った理由からであった。しばらく後、伸子夫人から「古磯さんはシャイなのね」とたしなめられたこともあった。
さて、彼は学生時代から、「政治は権力だ。権力を取らねば政治は出来ない」と言っていた。その彼が、社会市民連合という小さな四人の政党から出発し、社会民主連合、さきがけと渡り、橋本内閣で厚生大臣に。薬害エイズ問題で注目を浴び、やがて民主党の党首に。伸子夫人の「脇が甘い」発言のあった女性問題や年金問題等、紆余曲折を経て念願の総理の座に。
しかし、小泉内閣以降続いた短命内閣の連鎖を彼も断ち切ることは出来なかった。国を預かる責任者の在任期間としてはやはり短い。腰を据えて取り組みをするには最低4,5年は必要だろう。日本の政治システムの問題でもある。短命に終わった理由は幾つか挙げられている。衆参の“ねじれ”…その責任の一端は彼にもある…だろうし、党内の対立でもあろう。東日本大震災への対応の遅れも指摘されている(このことに関しては、他の総理だったら迅速に出来たかどうかは疑問であるが)。しかし、限られた情報で判断するに、問題は人(組織)を束ね、人(組織)を動かすことがうまく出来なかったことにあるではないだろうか。総理の資質は“万能”であることではない。とすれば、組織(特に官僚)をどの様にうまく活性化させられるかが重要になる。この点に関して力不足だったのかも知れない。どうも目配り・気配りできるブレインが不足の感は否めないと感じていた。市民運動出身の初の宰相は、そのキャラクターを十分に生かしきれなかった。
政権につくと言うことは、野党時代とは全く異なった次元に立たされることなのだろう。革命とは異なり、それまでの体制との整合をある程度図った上で、自身の政策を遂行させねばならない。その意味で、キャラクターを生かした思うような政治が出来なかったのではないかと想像される。初めて、政権与党になった“野党”の試練でもある。
ドラマチックな政権交代から2年、熱気はとっくに冷め、今や崖っぷちに居る。
しかし、この2年間は日本の政治の様々な断面を露呈させた時間でもあった。長期自民党政権の官僚依存体制の暴露、強力な官僚組織と政治家の無力、民主党の未熟さと二大政党への遠い道のり、そして何よりも東日本大震災が露呈させた日本の政治家のレベル(資質)。
しかし、そうではあっても、日本の政治が良くなる為には政権交代可能なシステムを根づかせなければならない。政治が活性化する為にまだまだ辛抱が求められる。民主党には進化してもらわなくては困る。

エピソード:
学生時代よく麻雀をした。こんな事もあった。宇部の仲間(同級生)で徹マン(徹夜麻雀)をした時のこと。明け方になっていささか眠気がおそってきた頃、熱いやかんを彼(菅直人)がひっくり返した(昔からおっちょこちょいの所がある)。大した火傷にはならなかったが、その時一緒に居たいとこの姫井伸子さん(1歳年上。現、伸子夫人)が「しっかりしなさい!!」と彼をどやしつけた(方言、「怒鳴りつけた」の意)。あの時の伸子さんは迫力があった。多分現在も頭が上がらないのであろう。


◆今月の山中事情65回−榎本久・宇ぜん亭主

−夏休みのこと−

人生に於いて、楽しい日々などそうざらにはありはしない。ところが少年の時の夏休みは存分に吾を忘れるほど楽しませてくれた。夏休みは貴重な体験の日々であったことは確かだ。
初めての夏休みは昭和二十八年の夏だった。その春に小学一年生になった僕は、夏休みにどんな感慨を持っていたかは思い出せない。山形市の少し北方にある東根という町の大牧場の中で暮らす僕等の家族に、学校という重要性を深く考えていない気がしていた。いきおい学校が休みでも、そうでなくとも、そのような環境に暮らす僕にとって大きな差はなかったような気がしていた。

雨合羽に包まれ顔だけを出したその顔は、黒く焦げていた。父がまだやまぬ雨に打たれ担架に乗せられ、我が家に運ばれて来たのだ。昭和二十八年八月一日夏休みが始まって少し過ぎた日だった。その日は朝から大雨が間断なく降り、雷がずっと騒いでいた。昼を過ぎた頃、特別大きな音がして僕は耳を塞いだ。
電話など各家庭には無い時代だ。父の同僚が大雨を序で運んで来てくれたのだった。我が家が異様なざわめきになった。父が落雷感電死したのである。
その後雷はずっと起こらず、父に落ちたのだからもうこの世に雷は無いと僕は思った。
家畜の品種改良の技師をしていた父は、当時「種畜場(現在は畜産試験場)」と称される所で働いていた。そこは場内を川が流れているほど広大な牧場だ。
公務員官舎で僕達は暮らしていたのだが、主の居なくなった家族がそこで暮らし続けることは出来ず、夫を失った悲しみと、引っ越さねばならない悲しみが母に重くのしかかった。
初めての夏休みは弔問客の相手を長男として、子供心に振る舞っていたようだ。
遊ぶことも出来ず悲しい夏休みがそこにあった。すいか、西洋梨、瓜、青りんごが父の遺影の前に山と盛られ、改めて父がこの世に居ないことを知らされた。
強烈な太陽も顔を出していた。僕の夏休みはこうして悲しいことから始まった。
それ以来心のどこかにその日のことが澱のように漂っている。母は父だけが頼りであっただけに、世の中の右も左も分からない人だったと思う。結局、父の実家を頼るしか方途がなく、依って日本海側の庄内にある父の実家に我が家族は身を寄せた。その後、鶴岡市のアパートの一室に転居し、母子家庭の典型のような暮らしになった。官舎に住んでいたころは、庭はあり、それなりの広さの家に住んでいたので、子供の僕でも屈辱的であった。母なりの情報入手で住まいを何度か替えた。通っている小学校の近くにも住んだ。
今のように冷房の類は無い時代なので、氷は唯一の夏の楽しみであった。近所の氷屋から食パンの大きさ位のを買い、かち割って食べたり、溶けた冷たい水を飲むのが何より嬉しかった。それは毎日のことではなく、今に思えば、なんと質素な暮らしぶりだったのかと思う。しかし僕達は他に何も知らないので満ち足りていた。
いつの間にか友人が出来ていた。あの暗い体験の夏休みが、予想もしなかった楽しみを僕に与えてくれた。そしてそのことごとくに僕は夢中になった。川原に行ったり、小川の魚を捕ったり、長馬、ビー玉、石けり、紙芝居、缶けりやメンコ、飽きてきたらかくれんぼ、駒まわしと遊ぶことが次から次と出て、宿題などそっちのけだった。墓地の大木に「陣地」を造り、「探検ごっこ」をしていたら、地域児童会の女子に「危険だからやめた方がいいです」と言われ、すごすごと退席したこともあった。小学校では、先生が「当直」と称し、警備の担当をしていた。僕の担任の先生が「当直」の夜、先生と一緒に広い校内のパトロールをした。夜の学校は予想外に暗く、懐中電灯の明かりが逆に恐かった。特にトイレはその気配が強く、誰かが潜んでいるのではと、先生の後にこわごわいた。一年生から六年生まで並んで建つ校舎と体育館、トイレ、職員室などを隈無く廻ると結構な時間を要した。小柄な担任の先生だったが、度胸は大であった。野外映画鑑賞も楽しみだった。牧場の中で育った僕はこれ迄述べたことが何ひとつしていなかっただけに、映画などというものは驚天動地だったが、親を失くすシーンは嫌だった。その時はすぐ母の身を案じ、不安だった。
今のように、林間とか臨海の学校行事は無く、親も居ないような僕の家庭状況は、連れ立ってどこかに行った記憶もない夏休みだった。父の生きている時、僕がもっと小さい時に、どこかに行っているのだろうけれど、その記憶が無いので言いようもない。しかし、決して恨んではいない。むしろあの大自然の記憶が残る、素晴らしい環境の中で、一瞬の出来事の様でもあったとしても、僕はその景色は忘れないし、そこで暮らした事実をなつかしんでいる。父母が居なかったら叶わないことであるからだ。
長じるにつれ、夏休みが義務的に感じるようになった。やはり夏休みというものを鮮明に感じるのはこの年令の頃だと思っている。
今駅頭のアパートの一室でこれを書いた。近くに農園があり、電車が着くたび黄色の声を聴く。学校でなのか、地域の団体でなのか判らないが、ひたすら、人生の楽しい思い出であることを願っている。
夏休みは自己決定を下す社会的実験なのだ。


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