★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.103

西の方の地域は梅雨明けしたようで、いよいよ暑い夏です。
東日本大震災から4ヶ月が経ちました。政界の混乱には眼を覆います。
今回の大震災は図らずも日本の政治家の実像を暴き出しました。アメリカの政治学者が言ってました「日本の政治家は国民に甘えていると」。相も変わらぬ政争。呆れかえってしまいます。
はたして、首相が代わったらうまく行くかどうか甚だ疑問ですが、政治がこんなに機能不全に陥ってしまってる以上、もはや一国の責任者としては交代するしかないのではと思います。

なでしこジャパンがドイツワールドカップでベスト4に進出!!
明るいニュースは気持ちをホッとさせてくれます。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.103》をお楽しみ下さい。

◆今月の風 : 話題の提供は前回に続いて岸本雄二さんです。

原発の敗北が語るもの、それは地球を愛することだ−

東北地震による原発の大惨事で分かってきたことは、原発とは原子力エネルギーで水を沸騰させ、その蒸気の圧力で発電機のタービンを回転させて電気を作る装置である、ということだ。何のことはない、巨大な湯沸かし器なのである。
では原子力エネルギーが必要になった理由を考えてみよう。現在、世界のエネルギーの大半は電気エネルギーが担っている。原子力開発以前は、水力(水位差)と火力(化石資源:石炭・石油・天然ガス)を応用して発電機のタービンを回し、電気エネルギーに換えて国家の需要に答えていた。水力発電も火力発電も共に問題が多くなったので原子力発電に移行しようとした、というのが真相のようだ。
広島や長崎への原子爆弾投下でその威力の凄まじさを目の当たりに見せつけられたのは、日本国民だけではなく世界各国の人々皆一様にその威力のすさまじさに強く印象ずけられた。この力の平和利用に最大の関心と期待が寄せられたのは当然だ。その後ウラン資源開発を行い幾多の実験や犠牲を重ね、さらに使用済み原子力廃棄物の再利用など、各種の方法で安全を期して、各国で原子力発電を開始した。原子力平和利用と兵器利用との技術的距離が余りに近いため、これが政治的に国家間の力関係を有利にするよう巧みに利用された。そのためであろうか、原子力発電廃棄物の処理に関しては、回答が出ないまま、各国での原子力発電の数は急上昇し、原発事故も多発するようにかった。
東北大震災による20,000人以上の犠牲者の殆どは津波の被害者であり、いまのところ原発とは直接には関係なさそうだが、原発が自然の破壊力に敗北したという事実を認識しなければならない。しかも時間がたって放射能被爆の影響による犠牲者が出てくる可能性は十分ある。スリーマイル・アイランドやチェルノブリイの例が度々引き合いに出されるが、物理学会や医療学会の研究発表などに見る学者たちの報告に見る限り、米国における年間の被爆者死亡数は、20,000人以上であるという恐ろしい数字がでている。もしこれが事実だとしたら、福島原発による被爆者の追跡調査が必要だ。研究者には、謙虚にしかも着実に調査を続けてもらいたい。
私は原子力発電という表現が気になってしょうがない。水力も火力も原子力も電気を起こすということに関しては、元を正せばひとつで、古い電気の発明まで辿れるほど旧式な理学や工学の考え方に頼っているようだ。電気という現象を通さないで、川に設置された水車で直接臼を回して粉をひいたりしていた頃ののんびりとした時代のことをつい考えてしまう。私がまだ小学校の頃に何かの教科書で、ベンジャミン・フランクリンが凧揚げをしていて雷がその凧に落ちて電気の存在に気が付き、それを徹底的に応用開発したのがトーマス・エジソンで、その会社が今のジェネラル・エレクトリック社になった、というものだ。その真意はともあれ、そこに何か一つの真理のようなものを私は感じ取るのだ。それを簡単にいうなら、再利用可能な自然エネルギーを使って起こせる電力で養える人間の数が地球上の人類の規模の限界なのではないか、ということだ。各種の公害がすでにそのことを示唆しているにもかかわらず、人類はそれに気が付いてか気付かないでか、公害問題を発明発見で処理しようとして、その発明発見がさらに次々と新しい公害を作り出してきた。
人類は、地球上の生物の中では、地球の健康管理に対しては徹底して寄生虫的存在であり続け、公害製造の専門的存在としても活躍してきた。即ち他の全生物が行ってきた自浄作用の恩恵に「おんぶに抱っこ」と重ね、しかもそれにチャレンジし続けてきた。人間は地球や自然を必要としてきたが地球は人間を必要としていない、というのが事実である。近代になってからは、産業公害だけではなしに、エジプトのピラミッドや中国の万里の長城や様々なローマ帝国遺跡などのいわゆる文化遺跡は、生物一般から見れば今回の東北大震災でまだ片付けきれないでいる瓦礫である。誤解しないでいただきたい。私は人類も当然地球上に存在し、その文明文化を創造し享受する権利があると考えているが、問題はその質でありその量ありその用途である。現在、私が直感的に感じることは、再利用可能な自然エネルギーによる発電だけで養える人口が適当な人類の規模であり、その範囲で世界遺産なり文明文化の発展に貢献するために工業技術を発展させてもよいと考えている。但し自浄可能な範囲を限界としての話だ。そうすれば寄生虫としての汚名を返上することも可能である。総人類の限界がどのぐらいか、という問題は専門家に任せるとし、私はできうる限りこの方向に沿って私なりの正しいアイディアを提供していきたい。
しかし、現実問題として人口を急激に減少さすことは、経済、政治、教育、健康などに大問題を起こすので、100年の計とし、10年で一区切りの10段階方式をとれば、実現の可能性が見えてくる。各文明文化および各国が相互に協力調整しながら独自の方法で実践していったらよいと思う。あとは、生存のために各自がどの程度真剣に取り組むかである。私にいわせれば、選択の余地はないのである。本来サステイナビリティとは地球が地球本来の姿を維持する即ちサステイン(sustain)することである。
私は引退してから(たった一ヶ月間ではあるが)素直に物事が見通せるようになってきように感じる。もし以上を奇抜な、突飛な考え方で現実性がない、と一笑に付すなら、あなたは、まだものが見えていないといわなければならない。
先ず、新しい語彙を作らなければならない。今までの人類愛とか、人間性などは、人間中心の思想であり、寄生虫的な存在を是認している思想である。人間の存在の素晴らしさを謳いあげ、一生物種としての人類種を念頭に意識してかかれば、それはそれで十分に救いはある。では、読者一人一人が自分に問いただすところから始めよう。ここでは原発事故から地球のサステイナビリティに関わる考えを発展させてきたが、この度の大震災での被害を無駄にしないためにも、我々一人一人が真剣に考えれば、何億という考え方が生まれ、そのなかから目が覚めるようなアイディアを探して抽出し、地球を必ず救うのだという強い使命感と、そのための意識転換をしなければならない。これを地球愛といってもよいだろう。そうなのだ。人間性謳歌すると同時に母なる大地である地球を愛さなければならないのだ。
2011年6月12日 初夏の暑さ厳しいクレムソンにて、岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

東日本大震災の後、「住処探し」をしばらく休んでいましたが、再開致します。

−住処探し・その19−

2009年3月。4月中の竣工に向けて工事も終盤に入り、白州の現場通いは毎週の様になりました。様々な職方が現場に入り、目に見えて出来上がっていきます。床、壁、天井が仕上がって行き、設備機器もセッティングされ、日に日に家らしさが見える様になります。住まうイメージも膨らむ時期です。別途発注のキッチンの工事も始まりました。このキッチンは今回の設計の特徴の一つです。普通は一直線状(I字型)かL字型配置のキッチンが一般的ですが、“台所”を意識させない、LDKを一体として使うという今回の設計方針に馴染みません。基本的なキッチンの考え方は3点ありました。まず、妻と私が同時にそして気軽に使うことが出来ること。将来釣ってくるであろう(?…まだ実現していない)60〜70センチクラスの真鯛が捌けるカウンター(調理台)を確保すること。そして、今まで見たことのないキッチンにしてみることです。
考えたのが130センチの正方形のキッチンでした。主旨としてはアイランド型にして、ぐるりと回れる様に配置したかったのですが、そうするには残念ながらLDKのスペースが足りません。そこで、一辺は壁にくっつけ、残り三辺をガス台用、調理台用、流し用に割り振りました。ガス台と流し台が向かい合う配置です。キッチンの色はLDKのアクセントカラーとして黄色にしました。
キッチンの上部には吊り戸もレンジフードも何もありません。吹き抜け空間のなかでシンプルに配置させました。排気はカウンタの下から外部へ排出します。

正方形にすると作業動線が長くなると言う不合理は最初からわかっていましたし、ガス台と流しが向かい合うのは極めて作業性が悪そうだと言うこともわかっていました。しかし、ガス台、流し台の脇にカウンターが確保出来ますし、調理台の幅は何と130センチも確保できます。これなら1メートルクラスの魚だって捌けます!この不合理この上ないキッチンですが使ってみると以外にいいのです。広い調理台のスペースは様々な使い方が出来ます。ガス台や流しの使い方にしても、段取りを考えて使えばそれほど問題になりません。キッチン学からすれば合理的な作業動線、効率的な作業性が重視されますからこの正方形のキッチンは落第かも知れません。しかし、視野を少し広げて、その家独自のキッチンの使い方やLDK空間の在り方を考えた場合、違う発想もあり得ます。使い方次第でどのようにでも対応可能と思いました。生活の中でキッチン空間を楽しむことも大切なことです。
そして、この奇案を面白がって作ってくれるキッチン屋さんがいました。20年来の付き合いのある方(株式会社ウスイ)で、意図を理解してくれ、快く引き受けてくれました。
興味のある方は白州にお出掛け下さい。


◆今月の山中事情63回−榎本久・宇ぜん亭主

−恐竜の末路−

地球が出来て四十億年とも言われているが、かつて一億年もの間この地球上に存在し、我が世の春を謳歌していたと言われる恐竜がいた。体長数十メートル、体重数十トンの巨体を持つものも居て、この地球上を闊歩し、あるものを喰い、あるものを蹴散し、あるものを威嚇し、あるものを踏み躙ったであろう。
里山の小さな丘には、黄花コスモスの黄色とマーガレットの白が不統一に咲き合って、遠くから見るとかえってそれがとても良いコントラストだ。下方には、この辺の元庄屋さんだった農家の、四枚ばかりの田圃に水が張られ、苗が夏風にそよいでいた。四方に竹を立て、白の御幣が付けられている。その部分だけまだ苗は植えられておらず、かつて聞いていた、秩父神社へ奉納する献上米を作る田圃であることが容易に分かった。
前日の雨で草が勢いよく突っ立ている道を散歩と称し秩父まで出て、BOOKOFFに行く。用水路には握りこぶし大の石ころがごろごろと転がっていて、強い雨があったことを知らせている。舗装された道とそうでない道を交互に歩くのだが、いよいよ暑くなって来た。ツバメがひんぱんに田の上を飛んでその暑さを和らがせてくれる。ペチャクチャペチャクチャ話をしながら飛んでいる様、ツバメ語を解したら楽しいだろうなと思った。ニラはバランス悪くてっぺんに濃いむらさき色の丸い型の種を貯え、哲学者のように立っていた。
秩父の町に行く道すがらはいつもこのように新しい小さな発見をしながら、足腰を鍛える為に歩いている。何かを発見したり、感じたりすることは今の私には精神衛生上とても良いことと思っている。
それにしても、BOOKOFFで買った文庫本が、そこで売ったら一冊たった二十円であったのには驚いた。同じ店での取引だったのに何か腑に落ちないでいる。その本は又四百円になるのか?
十本ばかり桐の木立がある。その下は刈り取られた雑草が又少し芽を出していた。むらさきのラッパのような桐の花がその雑草の上にあちこち落ちていた。その一角を左に曲がったとたん、人差し指くらいのトカゲが、車にでも轢かれたのか、腹を上にして潰れていた。
太古の恐竜の末裔と称されるワニやトカゲだが、かつては何者をも踏みつぶしていたであろう者が、今その逆となってみじめな姿になっている。
恐竜はその〈巨体〉をもてあまして滅びたという説もあるが、〈小〉になって現在まで生き延びる術を手にしたとも言われている。だがその現実を見て憐れになった。生物は突如と現れたものではないだろうが、ふと民主党の現状が過ぎった。
2009年に彼等が政権をある意味〈突如〉手に入れ、恐竜のごとく闊歩し、冒頭のごとく振る舞いそして今日の姿である。今や生き延びることだけに窮窮としている。
恐竜がそうであったかは知らないが、その支持者であった人々はもう過半数は離れたであろう。おそらく、かつての「社会党」のようにならないとは誰も言えないであろう。つぶされたトカゲがそれを教えてくれた

宇ぜんホームページ
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