★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.102

梅雨入りしました。
被災地の復旧が様々に伝えられています。
一方、震災を権力闘争に利用するこの国の政治家達には吐き気をもよおします。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.102》をお楽しみ下さい。

◆今月の風 : 話題の提供は岸本雄二さんです。

−自然科学−

地震津波原発事故と三段階連続の大被害を生じた東北大震災は、防災の限界と方法について改めてそれぞれの専門家が意見を述べている。ここで私が不信感をつのらせているのが二つの基礎的な考え方である。より率直に表現すれば、間違った考え方である。今回、災害のどの部分が自然災害でどの部分が人工災害か、という問いの仕方をしている。自然災害なら防ぎようがなく誰の責任でもないが、人工災害なら防げたかもしれないし、防げなかった場合でも誰の責任かはっきりしてくる、といっているようだ。何かおかしい。先ず、天気予報や地震予報では、予報を予測と言い換えると、防災思考に変わってくるし、果たして今回の地震を予測できなかったのか、という疑問も生まれてくる。予測を防災のためにするには、最悪の場合を予測し想定してそれに備えるようにしないと防災にならない。

科学は基本的には全て自然科学であるから、自然現象の観察から始まりその中にある規則的な傾向を探り出し、それを自然の法則として一般化してきたし、その自然の真理と思えるような根本的な現象に対しても、何度も挑戦がなされ、真理と思えるものも塗り替えられてきた。地球の重量や重力、空気や海の全体量、さらに月や地球外の物体との関係などが測定されて、限定された範囲内でのこれら物体の絶対量や性質が測定されてきた。これらは常に動いているので、その動き方を観察して性質の規則性を導き出し法則として抽出すれば、次の動きが予測される筈である。
しかるに、いままで天気予報や地震予報は、科学的とはいえないほどの低い確率の予測がなされてきた。台風や大地震は明らかに災害の予報なので、防災という観点を中心に、「最悪」の状態を想定して防災に備えての準備をしなければならなかった筈である。しかし今回は「最悪の場合」を想定しなければならない、という思考が明らかに欠けていたということであり、防災に対する準備が出来ていなかったことが歴然とした。今回の地震津波の大きさが想定外であった、といって責任回避をしているようで、これほど非科学的で情けない表現はない。最悪の場合を予測できなかった電力会社や政府、または専門研究者は、ただ誤りを認めて、今後このようなことは決してありません、でよいのだろうか。本当に予測できなかったのだろうか。私には、そうは思えないのだ。予測「できなかった」のではなく「しなかった」ように思えてならない。平たく言えば怠けていたのであり、決断力不足であったのだ。このように指摘すると責任の所在がわかってくるだけではなしに、次に予想されている東海地震に備えることができるようになる筈だ。

建築の耐震構造や航空機の安全性、そして橋梁の安全強度などは、身近な科学技術の安全性に関しての問題であり、一般市民も大いに興味のあることがらで、これらは自然科学を基礎とした人工災害の範疇にはいるようだ。しかし、これらは全て地震、空気、重力によって引き起こされる災害であり、しかもそれぞれ自然から加工して作った人工物である。今回の東北大震災の原因とまったく同じである。よって今回、最悪の場合を予測「できなかった」のではなく「しなかった」ということは、犯罪の範疇に入れてもよい種類のことではないだろうか。少なくとも過失致死罪、意図的に「最悪の状態」を考慮しなかったとなればどうなるか、である。
国益を考慮して国内に害を直接もたらさないようにするために、原因が国外(他国)に在るうちに始末する、という他国を無視した方法で一方的に引き起こされた戦争は非常に多く、歴史を彩ってきた。古くはローマ時代から、近年では、朝鮮・ベトナム戦争(米ソ戦争)、イラン・イラクアフガニスタン戦争(戦争とは言い難いキリスト教イスラム教の宗教色濃)などがある。目的を持って戦争をしている当事者同士が相互殺戮を繰り返すのは仕方がないとしても、第三者的な人々を巻き込んで殺人を犯すのは、私には、どうしても犯罪行為に思えてならない。今回の大量の死者を生んだ大災害を前もって最悪の場合を想定して十分な予防を「しなかった(怠った)」為政者や専門家の責任は重く、犯罪という言葉に相当する重大責任を負ってもらいたいと思えてならない。
その遠因が文化的なものであったり、政治的な駆け引きであったりして犯罪意識なしに行ったとしたらなおさである。責任とは本来そういうものだ。日本では特に個人の責任が見えにくく、委員会や重役会議など組織ぐるみの決定がなされて、指導者の責任が隠れてしまう文化的傾向が強いが、いまその問題をここで論じているひまはない。

大自然の極微や極大の観察から原子力が開発され、無公害と称される電力が供給されるようになったが、実際は無公害どころか電力製造過程で発生する原子エネルギー廃棄物の処理の解決策すらも出来ていない状態のまま電力会社は電力を供給してきた。例えば癌の特効薬があるがその副作用で死亡する可能性が十分ある、というのと似ている。普通このような特効薬は使用許可が下りない。
しかし政府は原子力発電には使用許可を出している。今回またしても原子力発電の「副作用」(原子放射線漏れ)が大問題になっている。最悪の場合を考慮しなかったがゆえに、である。
いま仮に開き直って、文明的見地から、多少の犠牲はやむをえない、としよう。飛行機のテスト・パイロットやワクチンのモルモット的患者などのように、大地震で倒壊した建物の犠牲者や大津波でさらわれた犠牲者は、文明発展のためのやむをえない礎とならん、といったらどうであろうか。もしそうなら、文明の定義を変えなければならない。

自動車事故が頻発しても自動車産業は消えなかったし、戦争のためと称した殺人兵器の発明や製造を停止したことがない。大きな犠牲防止のための小さな犠牲である、というのがいままでの説明というよりは言い訳である。自然科学でも人類発展のためには小さな犠牲は我慢せよ、といっているのかのようだ。まことに人類愛とは裏腹な考えかただ。よし、もう一歩譲歩して、最小限の犠牲と言い換えてみよう。そこで最小限を定義しなければならない。正しくは、最大限(最悪)を予測してその犠牲を最小限に食い止める、というべきだろう。
世界貿易センターは、当時の最大限(最悪の場合)を旅客機747の飛行ミスに
よる激突を予測して建築構造設計がなされていた。しかし9-11大惨事の際に起きたガソリン爆発で発生した超高温度よる建築材の溶解は予測していなかった。(注:日本にはこのような最悪の場合を想定した建物はないといってさしつかえない)震度9.0が東京近辺におきたらどうなるのであろうか。建築構造設計家や全ての専門家も含めて、東京の建物は大丈夫である、といえるひとは一人もいないだろう。恐らくは全壊になると予測されれいるに違いない。そもそも建築の安全度とは、2時間以内に逃げ出してくれればよい、というまことに頼りがいのない安全性なので、全壊という表現は大げさではない筈だ。その際、逃げ切れなかった人の数をかぞえて、それを最小限度の犠牲とするのだろうか。
建物の火災では、煙に巻かれて倒れて焼け死ぬ人の数が一番多いといわれている。大地震の場合は市街地が火災になるので大惨事になる。今度の地震の場合も大津波で死亡する人の数のほうが直接地震による犠牲者の数より圧倒的に多かったことは、記憶に留めておいてほしい。

人災か自然災害かという設問で、もし最小限の犠牲者は「やむをえない」とするなら、現段階の文明は残念ながらこの程度なのだ、と諦めるしかなさそうだ。なんとも情けない。最小限の犠牲は強食弱肉の自然界でも一般に行われており、人間の戦争でも行われている。であるなら、自然科学や工学が直接左右する人間界での最小限の犠牲とは、どの程度のことをいっているのだろうか。人命の尊さ、価値、さらには意味をも含めて、人類は人命の最小限の犠牲について、公に堂々と話し合える度量があれば、それは一つの目安になる筈だ。生命保険会社に質問してみたいと思う。白人種、黄色人種、黒色人種の人命の値段(価値)の差はあるのか、あるならばどのぐらいの差なのか。さらに未開地の人々の人命の値段はどうであろうか。残念なことに人命の値段(価値)には差があるようだ。

自然科学という題で書き出して人命の価値にまで話題が発展してきたが、自然科学の力で人命の価値を定義して、その定義を人間科学(!)で証明するようにしたらどうであろうか。ここで、卓上の学問が人命という根本的現実課題と結びつき、相互協力できる可能性が見えてきたような気がする。そしてここにこそ教育の基本がある、と思えてくる。そうに違いない。
自然科学と教育と人間科学という三課題を関連付けて、現実に即した思想教育が必要になってくる。しかも初等教育から高等教育までどの段階でも必要になってくる。先ずは、このような内容の教育のできる教師から育成しなければならないだろう。自然科学の教育的思考が、人間科学の助けによって人間の価値の最低限の線を引いてくれると信じるなら、大震災で転んでもただでは起きないぞ、という不屈の精神で新しい第一歩を踏み出せるかもしれない。いや、そうしない限り、今回亡くなった方々は浮かばれそうにない。
2011年5月10日 初夏の香りのするクレムソンにて、引退3日前、岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

蔵王の家−

3.11から3ヶ月近くが経過した6月の土曜日、宮城県蔵王に行って来ました。揺れはまだまだ連日のごとく続いているようですが、一応の落ち着きは戻ってきたとのことでした。蔵王には6年前に設計した山荘があり、今度の地震での損傷が気になっていました。
山梨(白州)を夜中の2時半に出発し、中央自動車道圏央道関越自動車道北関東自動車道を経由して東北自動車道に出ました。東北自動車道に入ると雰囲気が一変しました。早朝にもかかわらず、東北方面に向かって走行している車の量が異常に多い。速度も、通ってきた他の高速道路に比べて10キロ程度アップして走っている。急いでいる雰囲気が伝わってきました。道路は至る所に応急措置した跡が見られ、デコボコが絶えません。途中で寄ったパーキングエリアも混んでいて、人々の表情に緊張感が感じられます。被災地に向かうボランティアと思われるグループも見受けられました。何らかの関係で被災地に向かう人々が早朝から動き出しているのでしょう、緊張が伝わります。
東北自動車道を白石ICで降り、一般道を蔵王町に向かって進みます。目的地は遠刈田温泉です。途中、瓦屋根の家の棟にはブルーのシートがかけられ、土嚢で押さえている光景があちこちに見られます。出発から6時間半後の午前9時に目的地に着きました。ホテルで朝食を取り、コーヒーで一息入れて目的の山荘に向かいました。
現地には工務店の人が先に来て待っていてくれました。説明を受けながら外部を見て回わりました。基礎に若干のクラックが見受けられるものの、金属(ガルバリウム鋼板)の屋根、1階の板張りと2階の金属張り(ガルバリウム鋼板)の外壁には異常は見られない。窓ガラスも割れてはいない。外から見た限り問題は無さそうです。外回りを一通り見終えて室内に入りました。先に工務店から内部の状況に関して報告を受けていましたが、実際に内部に入ってみると、あちこちの壁に入ったクラックが生々しい。
内壁材は石膏ボードを使用していますが、そのボードの継ぎ目の部分でクラックが発生していました。内部の造作廻り等も細かく見ましたが不具合は発生していませんでした。建物の水平と垂直性も問題は無さそうです。一番心配した構造体の歪みも発生していないようで、まずは一安心しました。
蔵王町は震度が7前後の大地震だったようですが、相当の揺れだったことが想像されました。地震時は立っていられなかったようで、三度の強い揺れがあり、三度目の揺れの時目の前で窓サッシが飛び外れたとの話を聞きました。倒壊した家もあったようですが、そこの場合は地盤に問題があったとのことでした。
この眼で実態を確認したくて現地に向かいました。木造建物の粘り強さを感じましたが、他の家の損傷状態なども見て廻り、様々に考えさせられる経験をしました。


◆今月の山中事情62回−榎本久・宇ぜん亭主

−さらば民主党

菅内閣をずっと見てきた。永く自民党を支持してきた人々が、翻意して、民主党政権が樹立したことはまぎれもない事実だ。おそらくその力がなければ到底それが叶うことではなかったであろう。と同時に、民主党の本質を見抜けぬ、私も含めた「俄民主党支持者」の支持を受けてものことであった。子供手当等の目玉政策は、国民にとっては恩恵がすぐに受けられるとの錯覚の中で、あの鳩山内閣が出現したが、予期せぬ自身の「子供手当問題」であえなく頓挫し、民主党政権の幼稚さを早速露呈させた。しからば汚名返上をと満を持して菅内閣が登場し、今度こそはと期待を集めた。私はその時「自民党化」だけは禁物であると苦言を呈した。が、党内勢力の二分化で出だしから「自民党化」となり、掲げた政策がなかなか実行されず、「自民党化以上」の内閣になってしまった。その中で大地震に見舞われ、その政治的処理を急がなければならない為、彼の標榜することは一旦外に置かねばならないことは気の毒だが、とは言え、それ以前の国政の方向が宙に浮いたり、なし崩しに葬むられたりされ、批判を囲うこと大となった。
野党時代舌鋒鋭く自民党政権を追求していた時は、日本の未来に何かを感じさせるものがあったその本人が、今となっては虚空を見つめ、永田町の議員諸氏にしか通用しない言葉を多用して答弁している姿は憐れだ。しかしそういうすべてが馴れあいのパフォーマンスであったのなら容易に理解出来、結果現状なのである。かくして私も「反菅」となってしまった。翻意したかつての「自民党支持者」や「俄民主党支持者」の希みを易々と反古にしたことは許されない。
「国民生活が第一」「熟議の民主主義」「最小不幸社会の実現」のフレーズがあまりに物悲しい。
国民が「政治」を知ることが、もし恐怖と感じているならば、それこそ「自民党化」の何ものでもなく、時計の針が又戻ってしまい、この国の行く末が心配でならない。
震災の処理の仕方とて、いろいろ喧しく各方面から言われているが、目下の政府の長であるなら、その任務に率先して当たるのは至極当然である。(首相歳費は六月から返上すると言っている)経産大臣は東電の幹部の給与が半減されたことに対し、それでは足りないと苦言を呈したとか、しかしそれは笑止千万だ。
国策でもある原子力発電ならば監督官庁の長のご本人は如何しているのか?
まだある。政党交付金を掠めとっておきながら政界の浄化は依然として進まず(小沢問題しかり)、その交付金の効果は見えないでいる。既得権益ゆえ頬かむりし、それを返上して被災地へとの声も聞かない。このことは総理は何故提唱しないのか理解に苦しむ。あえて難しく考えているのか、難しくしているのかと勘ぐってしまう。
と言うことで、国が国民に恩恵を与えることなど菅内閣といえども無いことが明らかになった。加えて統一選挙のその結果は目を覆う惨状だ。あれほど美辞麗句を並べ、自民党以上の嘘を、多くの国民につきまくったあの頃とうって変わり、候補者は右往左往しながら、一体何を訴えたかったのだろう。残念ながら民意はあの日以来(民主党にとって思い当たるあの日が多すぎた)完全に離れている。それも折り込み済みで、任期満了を待つなどと思い上がっているの
であれば国民を愚弄するにも程がある。権力とは自分の為でなく、国民の為にある。最高権力者といえども国民の為以外それを行使することは許されない。
菅さんには、そうでないことを期待したのだが…。
天声人語」にタイムリーな記事があった。『今年の政党交付金の初回分80億円が国庫から支払われた。民主党45億円、自民党25億円、公明党5.6億円、みんな2.7億円、社民1.9億円、国民新党など四党に数千万円ずつ。通年ではこれの四倍が渡る。義援金が一千億円を突破し、著名人がこぞって私財を供した時期だ。今回だけでも遠慮するデリカシーを永田町に望むのはどうやら難しい。民に耐乏を訴えながら示しがつかない。交付金が始まって以来16年、、すでに5千億円の血税が集散を重ねる政党の金庫に移った。企業や団体の献金に代わるはずが、そちらの功は怪しい。「支持政党」無しが五割の時代、国の施しに頼る政党活動にもの申したい納税者もいるであろう…』


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