★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.101

東日本大震災から二ヶ月が経ちました。
被災地の方々にはまだまだ大変な日々が続いています。
白州では田圃に水が引かれ、透明感に満ちた風景がいつもの通り現出しました。同時に、蛙の鳴き声が一斉に聴かれ始めました。
一方で被災の困難が、一方でこれまでの日常が…。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.101》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は再び佐藤晃一さんです。前回同様、4月15日に自ら発信された「こころ余りて・・・・」から転載させていただきました。

話がいきなり逸れるようですが、年来の友人が、一昨年、(他私学の教員を)定年退職したのを機に、自宅に浮世絵展示室を作り、かねて蒐集してきた浮世絵を展示公開する傍ら、機関紙を発行して自身の浮世絵研究の成果を世に問うことを始めたのです。機関紙は年に5,6回のペースでしょうか、現時点で3号です。
ところが、その3号の紙面の半分(B5,8頁のうち4頁)を使って、原発事故についての論評を載せたのです。従って、本来掲載すべき「平常展」紹介記事は心ならずも概観するだけで紙面が尽きてしまったようでした。つまり、彼はそれほどにこの度の原発事故を「重大事件」と見ているのです。その彼がその紙面で原発関連の書物を数点紹介していましたので、昨夕、紀伊国屋サザンシアターで芝居を観るついでに下階の書店に立ち寄り、所掲の内からその1冊を求めました。書名は『原子炉時限爆弾〜大地震におびえる日本列島』。

昨年8月に刊行されたこの書、私が求めたのは今年4月5日発行の3刷(つまり、書中で心配・警告・予告していたことが現実になってから半月後の刊行)で、「どの書棚に?」と探すまでもなく、レジの真ん前の書棚に、他の類書と共に、平積みになっていました。
もしこの度の事故がまだ起きていなかったら、この(いかにもマユツバ的な題名の)本を買うことはなかったでしょう。それほどに露骨で、恫喝的とも言うべき題名です。でも、すでに起きてしまった後だからか、数ある類書の中からこの本を選んでしまったのです。
そして早速、序章から読み始めたのですが、これがまたいかにも「アナタはご存じないでしょうが、実はですねぇ」といった調子。「嘘だと思ったら調べてご覧なさいな」といった態度なのです。
たとえば「世界でも有数の地震国日本では、地震原発事故を誘発する可能性が高いのだが、万一それが起きた場合でも、原発の所有者は犠牲者に賠償金を支払わなくてもいいんだ」とあるのです。「そんな馬鹿な!」と私は思います。そして「よし、調べてやろうじゃないか」となります。その結果が以下の通りです。
原子力に関する賠償に関する法律 (原賠法) 」第3条に「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に係る原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる。ただし、その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によつて生じたものであるときは、この限りでない」とあります。
文末の「この限りでない」が気になり、さらに下を読んで行くと、第17条に 「政府は、第3条第1項ただし書の場合」として「政府は(中略)
原子力損害で同項に規定する額(第7条に規定)をこえると認められるものが生じた場合においては、被災者の救助及び被害の拡大の防止のため必要な措置を講ずるようにするものとする」とあります。
法律には全く疎い私がこれを読み解くには多少の勇気が要るのですが、敢えて解かせて頂くとすれば、例えば「今回の原発事故は巨大な天災地変の結果生起した事故なのだから、原発所有者は賠償の責は負わなくてよい。万一、特例などにより何がしかの賠償金あるいは見舞金を支給するとなれば、それは政府が支給するものとする。つまり、税金(又は国債など)などから支払われることになる」。
要するに、今回の場合は「東電が支払うのはせいぜい見舞金。それ以上のものを支払う義務を負う必要はない」ということ。この読み取りは間違っているでしょうか。事態の重要性と意外性から見て、どこか間違っているのではないか・・・と思わざるを得ないのですが、それがどこだか分からないのです。
昨日の今日ですので、今はまだ第1章に入ったばかりですが、その最初の10行を読んで、また考え込んでしまいしまた。

この本は今回の「東日本」大地震の事故を想定して書いたのではなく、いずれ確実に起きるはずの東海大地震を想定し、もしそれが現実に起きた時の浜岡原発静岡県御前崎中部電力所有・1976年3月営業運転開始)が、いかに最大級の危機にさらされるか、について書かれていることが分かりました。浜崎原発を建てた時の想定最大マグニチュードは8.0だったそうです。今回の東日本は9.1でした。8.0が想定で、9.1が事実です。このことから、今後、必要があって誰が何を造る場合でも、想定マグニチュードは9.1以上でなければなりません。いまさら、8.0は通用しないのです。万万が一、8.0を想定最大マグニチュードにしなければならない事情が生起した時は、現時点で既に「想定外の地震」が起きたことは確かなのだから、8.0を超えた時の防衛策を周到に整える完全義務が生ずることになります。
このことを第1章の冒頭10行の文は教えてくれました。まだまだ先があるのですが、要するに、この『原子炉時限爆弾』はそんな過激な、しかし(今のところは)真っ当と思わざるを得ない本のようです。どこまで「真っ当な本」だと思い続けられるか、もうしばらくきちんと読んでみるつもりです


◆今月の隆眼−古磯隆生

−戸惑い−

東日本大震災から二ヶ月、被災地での復旧・復興に向けた様々な活動が連日テレビに映し出されている。気丈に立ち上がる方がいらっしゃれば、中にはなかなか立ち上がれない方もいらっしゃるかも知れない。不明者はまだたくさんいる。一方、原発は終息の見通しも立たず、地域を越えた不安は増幅している。これほど制御不能状態になろうとは、想像しなかった事態だし、“原発”なるものの得体の知れない怖さを感じさせるに十分だ。
一瞬の内に消滅した故郷、消滅はしないものの帰ることを拒まれる故郷。人々の想いは如何ばかりか。長い時間をかけて、自然との間で形成されてきた街や集落、そこに刻まれた記憶(歴史)の数々。人が存在し、蓄積されてきたものは人々の心の中に生き続ける。新しい街作りはそれらを包み込まなければなるまい。「復興構想会議」は過去を未来をどんな風に構想するだろうか…。未曾有の大津波に、<居住地は高台へ>と一斉に連呼されているが、それだけでは済むまい。この時期だからこそ冷静に見据えたいものである。

被災地以外の地域では、計画停電も回避されるようになり、節電モードではあるものの“日常性”が戻ってきた。東京では“スピードアップされた日常の時間”が復活し、山梨・白州では、テレビや新聞の報道以外は、大震災は無かったかのような平穏で“ゆっくり流れる時間”の日常である。ゴールデンウイークは遠出を避けたと思われる人々が、八ヶ岳近辺に繰り出し、主要道路は非日常的な交通量であった。
“日常性”が原発に支えられていた断面があからさまになった。スピードアップされた日常の意識の外にあった現実を突きつけられた。さてどう向き合うか。
明るいことに慣れた生活、夜中でも煌々と明かりが点く街、便利さに浸った現代人に対して、この震災は何を突きつけたか…戸惑う時間帯にある。


◆今月の山中事情61回−榎本久・宇ぜん亭主

−巨大地震 NO.2−

その蒼い豊かな海から人々は数多度(あまたたび)の恩恵をもたらされながら、共存していた。だが突如、その海が黒い海と化し、平穏の暮らしを脅かし、人々に襲いかかった。慣れ親しんだ街々を瞬時に破壊し、諸共その黒い海に引きずって行った。そこに残ったのは、かつての原形を止めぬ、むごたらしい残骸のみになった。一瞬の出来事に、人々はひたすら生きのびるのみになり、そのあとにはおののきと慟哭絶望と呻きばかりを置いて行った。
平成二十三年三月十一日の大震災は、予期されていたことが現実となって起き、日本中、世界中に大きな衝撃を与えた。凄じいばかりのエネルギーは、あらゆるものをなぎ倒し、人々の営みを掻き消した。そこには茫然自失した人々の姿があり、テレビ局の無神経なインタビューが今でも気に障っている。犠牲者三万人とも言われ、黒い海のそこかしこに連れ誘われた。連日、新聞の死亡欄におびただしい方々の名が載るが、日々が過ぐるにつれ、一つのニュースとしてしか見ていない自分が居ることに気がつき、腹立たしく思っている。
ひとまず、全体的に冷静さがようやくにして成り、復旧・復興の為の国家的プロジェクトが起きようとしている。そのことは当然だが、人心はいたく傷ついている。私達はどのように被災者と向き合うか、が一人一人の問題にもなって来た。
五十年前の中学卒業式が、丁度、この震災の頃であった。Cさんは親の転勤で、完全にクラスの皆んなと別れなければならず、教室の片隅で別れを惜しんで泣いていた。それを垣間見た私は、彼女の涙が気になった。以後、ペンフレンドとなり、高校生活のやりとりや、地元のことなどを伝えていた。
やがて社会人となって家族を持つようになってからは、年賀状のやりとりだけになってしまったが、この震災に遭われて、今度はそのことが気になり、賀状を引っ張り出して電話番号を確認し、掛けてみた。仙台市宮城野区の住所は、かなりひどくやられているので、もしやと思ったが、意外にも弾んだ声で女性が出た。おそるおそる「Cさんですか?」と私は第一声を上げた。五十年前の彼女の声などとっくに忘れていて、私であることを告げ、あとは無事であったことをひたすら喜んだ。他にもホテルで働いていた時の友人も無事で、胸をなでおろした。
震災がもたらした直近のエピソードだが、Cさんと旧交をこういう形で深めるのは皮肉と言えば皮肉だ。すっかり初老となった我々だが、五十年間、仙台と関東でそれぞれが暮らし、一度も会うこともなく日々は過ぎた。そう言えば今だ我々は中学三年生のままであることを気づかされたのである。

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