★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.92

猛暑が続きます。如何お過ごしでしょうか。
今年の暑さは殊のほか体にこたえます。歳のせいでしょうか?
どうぞ熱中症にお気を付け下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ−no.92》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は先月に続き岸本雄二さんです。
          
−ふるさと−

誰にでも「ふるさと」はあります。心の拠り所、思い出の終着点、帰いりたいと言えるところ、懐かしい匂いや音で胸が塞がれそうになるところ、等々、これらすべてが一つになって心を和ませてくれるところが「ふるさと」なのでしょう。

私にとって、アメリカは南部サウス・カロライナ州のクレムソンという小さな大学町が、正に「ふるさと」と言うにふさわしいところです。州立クレムソン大学で教鞭をとって28年、ここには私が「ふるさと」と呼べるもろもろの日常生活があります。町の人口は僅か8000人ですが、クレムソン大学には17000人の学生が勉強していますので、学生中心の町です。ここの小さなダウンタウンには、学生相手のバーが数件、レストランが数件、洋品店、雑貨や、お土産や、銀行、コピーショップ、コーヒーショップ、保険金融業、花屋さん、本屋さん、薬局など一応何でも揃っています。そのうちの半分以上で私は常連になっています。

なかでも一番数が多いいのはやはり食べ物やで、うち7軒で私の食べるものが決まっています。中に入るとただ座るだけで注文しなくてすみます。コーヒーショップでは、車をパークする前に窓越しに親指を上げて合図をしますと、なかに入ったときには、すでにできあがったアイステイ―が待っていてくれます。
コピーショップ(コーヒーショップにあらず)などは、ただ入って駄弁ってくるだけでバナナとテイ―を出してくれます(午前中の授業前にはうってつけ)。
雑貨屋にいたっては、入るだけで、そこのおばさんが挨拶に抱きついてきてキャンデイ―を一つくれます。

中でも楽しいところは、エッソ(Esso)クラブというバー兼食堂のようなところです。ここは、クレムソン大学のアメリカン・フットボールの試合がテレビで全国中継されるときにはよく紹介されるところです。30年位前まではエッソのガソリン・スタンドだったところで、元々余りインテリではない、まあ労働者風の人たちが飲んだり食べたりするところだった、と聞いています。今でもときどき、黒革ジャンパーに身を包んだ昔はビートニックスだったようなおじさんやおじいさんたちが、ニコニコしながらハーレイ・デイヴィッドソンを乗りつけてビールのがぶ飲みを楽しむ様を拝見します。

一般に力仕事の従事する人たち、農業や、ガソリン・スタンドや道路で働く人たちをレッド・ネックといいます。要するに屋外で毎日働いているので、首の周りが日焼けして赤くなっている人たちです。余り知性があるとはいえない、と思われている人たちです。私の観察では、学校教育的な知性がないだけだと思っていますが。まあ、余りよい呼び名ではありません。しかし、教養があっても、レッドネック的に振る舞いたがる人々も多くいます。エッソ・クラブの客はレッドネックが大半だったのですが、今は、クレムソン大学の学生が半数位占めるようになっています。

いつも元気な女の子たち5,6人が給仕をして客の間を活発に動きまわっています。私が何時ものように金曜日のランニングの後の昼食に入っていきますと、すぐに大きな声で「やわらかい鶏肉のサラダ半分と余分のお皿一枚、それにアイステイ―とスイートポテトのキャセロール、ですね!」。思わずアイズチを打つと10分ぐらいで、とにかく美味しい昼食が運ばれてきます。殆どの客はビールも注文しますが、私は金曜の午後は授業がありますので、アイステイ―で喉を潤します。一度家内を連れてエッソ・クラブで昼食をとりましたが、味はともかく、雰囲気が御気に召さなかったようです。そこで、金曜日にはスイートポテトのキャセロールを余分に注文して、家内へのお土産にしています。ここには、テレビが大小8台あって、全てスポーツ番組を中継しています。正にレッドネック専門の食堂です。

いわゆるブルーグラスやカントリー・ミュジック愛好家にはレッドネックが多いようです。ブルースについても同じことが言えると思います。音楽は直接的で必ずしもレッドネックのイメージとは重なりません。

NHKのテレビ番組で、いま売り出し中の演歌歌手ジェロが、日本の演歌とアメリカのブルースが意外に近いといっていましたが、歌詞の内容や観客層など確かに共通点がいくつかあります。

私は、東京に生まれて25歳まで東京育ち、そのあと、しばらくアメリカを転々として、南部のほぼ中央にあるクレムソンに落ち着いたわけです。私はクラシック音楽の愛好家ですが、心情的には演歌なのかな、と最近思うようになっています。ブルースがアメリカの心なら日本の心情は演歌なのでしょうか。

「ふるさと」から少し脱線しましたが、でも落ち着くところへ落ち着いたようです。「ふるさと」は心のよりどころなのです。「生みの親より育ての親」といいますが、私にとってはクレムソンが育ての親なのです。少し演歌的に聞こえませんか。


◆今月の隆眼−古磯隆生

−住処探し・その11−
売却住宅の接道問題も時間はかかったものの、近所の方々の了解を得て何とかクリアーし、晴れて売りに出すことが可能になりました。その間、世の中の不動産の売買は低調モードに入っていき、さてどのタイミングで売れるかは神のみぞ知るです。それは資金繰りにも影響を与えます。
接道問題と併行して、白州での二世帯住宅の検討に入りました。
田畑や山々を望み、樹木に囲まれた環境での“住まう空間”の計画です。自ずと都会での住まいとは違った手法が必要になります。都会では隣を含め周囲へ与える影響、或いは周囲から受ける影響が強いのでそれらに対する配慮が求められます。一方、自然環境の豊かな所では、自然との応答が課題になります。
一番大きな違いは、周囲(環境)に対して“開く”か“閉じる”かです。周囲の環境が不安定(変化が早い)で、建物が近接しているような都会の環境では“外に開いた”空間を作るわけにはいきません。周囲の変化を受けて居住環境がいっぺんに悪くなる可能性があるからです。従って居住性を高めるには“外に対しては閉じ”、“内に向かって開く”形式が求められます。それは外に対して表情を余り見せない事となり、街並みの形成にも影響を与えます。それに対して自然に囲まれた環境では周囲が安定しており、ある日突然隣にビルが建つ様なことはあまり想定されませんし、隣家とも接近することがありませんから、自然と関係を持つ“外に開いた”空間が可能となります。自然の変化を受けとめる居住空間です。生活スタイルとしてはシンプルな生活をすることを前提としての取り組みになります。
一方で、なかなか厳しい予算の中での計画になるものですから、それなりの覚悟を持って設計に取りかかることになります。つまり、まずは風雨を凌ぐシンプルなシェルターの確保が第一優先になるだろうと言うことで、これまでのように様々な空間の可能性を追求する設計の仕方とは違ったアプローチが必要になります。幸い、都会と違って周囲との関係を余り考慮する必要が少ないので、こちらの都合優先で計画できるのが救いです。
つづく




◆今月の山中事情52回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−甲子(きのえね)様の大掃除−

この鎮守様のある所は、昔ならもっと辺鄙な所であっただろう。今は国道がすぐ下を通り、登り口にはそれほど立派ではない鳥居が建ち、近くに祠があることを知らせている。参道よ言うよりケモノ道と言った方がふさわしいかも。しかし、そこを詣でる人の姿などまず見かけることはない。だが村の衆は月一度、杉の葉の落ちている参道やお堂を掃除し、注連縄(しめなわ)に新しい御幣を連し、廻りを清浄める。米、塩、野菜、魚、酒を供し、深々と村の安全を祈る。
この一連の行動を各班が受け持ちし、月に一度皆がすることを習しとしている。

昔は、そこに集まることを唯一の楽しみにしていて、酒盛りが夜を徹して行われたらしい。今はすぐ下を国道が横切り、側を特急列車が走る時代になった。
住む人も減り、その行事もただのセレモニーのようになった。それでもこの村に住む人は村の守り神として大切にし、敬虔さを失わず、永々と今日まで続けている。この鎮守様の自慢は、出征兵士が参拝したお陰で誰も死なずに帰ってきたと言うことだ。そんな甲子様が鎮座しているところは、健脚な人でも結構息切れする所にある。お年寄りにはとても無理な勾配だ。それゆえ、若者とて近寄らないのだろう。
私もそうだが、よそから転居して来た者にとって、この行事を理解し、その担い手になるのは仲々難しい。只参加しているだけだ。文化の継承は時の風潮と相まって判断するしかないだろう。出て行った者、入って来た者それぞれに理由があってコミュニティは形成される。いつまで続けられるか分からないが今後のことはその時しかるべき人に委ねられるだろう。少子高齢化と過疎化はこういうことも問題になる。

 宇ぜんホームページ
  http://www012.upp.so-net.ne.jp/mtd/uzen/