★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.81

夏があったのかなかったのか、残暑は身に感じました。
さて日本で遂にと言うか、やっとと言うべきか、政権交代が起こりました。
基本的にリセットするべきかそのままで行くべきかの選択だったと思います。
その意味に於いて、国民としての自覚が求められますね。
先日、樹齢千年と言われるトチノキを見てきました。その逞しいエネルギーに感動しました。写真を貼付しましたのでご覧下さい。

では《Ryuの目・Ⅱ −no.81》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供はお馴染みの岸本雄二さんです。
          鳩山民主党に期待する文章をいただきました。

−代表ということ−

もし私が何か特別な賞を授与したり、大きな失敗をしたりすると、日本では、日本生まれで早稲田大学の卒業生で、アメリカ滞在45年の大学教授の岸本雄二、となるでしょうか。アメリカでは、クレムソン大学の岸本雄二教授、となるでしょう。いずれにしても、個人の意思とは関係なく、私は、日本と早稲田大学とクレムソン大学と、さらに当然ではあるが、岸本家に関係付けて認識されるのである。もう少し平たく言うと、これらの組織を代表していることになる。しかし、私はハーヴァード大学マサチューセッツ大学の学位も取得しており、建築家でもあり、と履歴書を全部披瀝したくもなるが、実は、それらは、細かいことのようだ。
私のIDとして登場するこれらの組織にたいする私の責任というものは、一生涯ついてまわるに違いない。国によってはID に対する考え方(連想の仕方)が大分違ってくるし、責任の範囲もだいぶ異なってくるようだ。日本的に言えば、これらの組織にとって、「恥ずかしくないように」頑張ります、となり、アメリカでは、これらの組織に「感謝」します、となる。日本では、息子が逮捕されれば親は辞職に追い込まれたりする。本人が酔っ払い運転で捕まったりすると大変だ。恐らくは、両国とも同じように、「大学教授が」となってくるに違いない。

一度組織と関係を持つと、その縁はなかなか切れない。自分を律していくには都合のよいプレッシャーになるが、自由に羽ばたきたいときには、足枷になってくることもある。人とは都合よく出来ているものだ。しかし、ここで私が言いたいことは、人生において自分と関係を持った組織にたいして、もう少し耳目を開いて観点を広げたらどうなるか、ということだ。
組織と自分との関係がうまくいっているときは、殆どの場合、双方が必要とし合っている筈だ。大学にとっての学生は大切な顧客であり、学生にとってその大学は正に「学び舎」である。私はこのような関係を「コラボレーション」と呼んでいる。親子や夫婦関係、売り手と買い手、国民と国家、愛犬と飼い主、野球の試合と観客、など全て「コラボレーション」の関係である。お互いが必要とし合い、お互いが必要とする部分を見極めて、相互補完的関係を築きあげれば、この「チームワーク(コラボレーション)」は相乗関係となり、益々発展していく。正に「ウィン・ウィン」である。であるなら、母校や職場や国籍を自分との「コラボレーション」としてみた場合、相互が必要とする部分を見極め、そのことだけに責任をとり、その他は、迷惑をかけない範囲において、相互ともに自由の立場である、考えて差し支えないだろう。

JFケネディーはうまいことをいった。「自分が国のために何が出来るかを考えてください」と。そうなのだ、国に一方的にしてもらいたいことだけを要求していては、真の「コラボレーション」にはならない。
このたびの選挙演説で、またはマニフェストのなかで、「政府は国民のためにこれだけするから、国民は国のためにこれだけしてもらいたい」といってしかるべきであった。そうしない限り、真の相互補完で相乗関係の「コラボレーション」は成り立たない。国民も政府が国民に何を期待しているか、を聞き出すべきであった。お互いに理解し合える簡明な表現を使って意思の疎通をはかり、創造力豊かな解決策で相互を結びつける、これが立派な演説というものである。
今回の選挙戦でこのような演説や政見表明にはお目にかからなかったが、鳩山民主党は、「コラボレーション」の大切さを意識しているようなので、大いなる指導力を発揮してもらいたい。鳩山由紀夫民主党代表は、日本という国、民主党、鳩山家、をこの順序で代表しているのであるから、それに準じた責任のある言動をしてもらいたい。彼は頭脳明晰で政治力もあり、且つ慎重なる姿勢の指導者とお見受けした。大いに期待したい。
2009年9月4日   クレムソンにて
岸本雄二


◆今月の隆眼−古磯隆生

−住処探し・その1−

五月に住まいの拠点を東京の吉祥寺から山梨県北杜市の白州町に移しましたが(仕事の拠点はしばらくは東京です)、移住計画の行動開始は丁度4年前に遡ります。そのあたりのことを思い出しながら話してみようと思います。
移住して四ヶ月が過ぎました。東京−山梨を往ったり来たりの‘彷徨生活’は、二ヶ月目あたりから想定を越えた不安定さが私にのしかかるようになり、我が心身は様々な調整反応を強いられたようです。順応能力の減退か?多分、慣れてしまえば済むような類のこととは察せられますが、住まいも、仕事場も移したために慣れた場所を喪失し、そのために‘思考する’時間と場所が見つからないのが原因と思われます。つまり私にとっての拠点が感知できない。この貴重な?違和感はこの不慣れな時間にしか感じ得ないことかも知れません。その意味に於いて、いささかマゾヒスティックなスタンスですが、自己検証の意味も込めてまずはこの間の事を語ってみたいとも思います。
人は「思い切った大胆ことをしたね」とか「別荘気分で理想的だね」とか言われますが、内実はそんなことではなく私自身にとってはもっとシリアスなことで、安住な老後の世界を想定したものではありません。

そもそも何故移住を考えたかとうことからお話します。
高校卒業を機に山口県から上京しておよそ45年、その間求めていた刺激的な都会生活が続いてきた訳ですが、この4,5年前あたりから自身、都会という環境にとても違和感と言うか負荷を感じる様になってきました。年齢のことも関係あるかも知れません。建築設計という私の仕事の立場でこんな事を言うのも変な話ですが、ここかしこで確かに町は作り変えられきれいに整備されて(造られ過ぎの面も多分にあります)きました。が、心身は共にちっとも安らぎを覚えない。どころか、むしろストレスすら感じる様になってきていました。
8年程前から関わり出したまちづくりのボランティア活動を通して知った街の中の希少(貴重)な自然も開発の名のもとにどんどん消滅していきます。まちは多様性を失っていき、私がイメージしていたのとは異なる別の論理で作られてしまう現実の前に無力感さえ覚える様になってきていました。と同時に、都会の喧噪の中よりも“自然”により刺激を感じる様に自分自身が変化してきたのでしょう。雨上がりの水溜まりに感じた“大地の目覚め”。併行して、自然環境に恵まれたところでの設計の仕事の機会は、今から思えば、私の中の変化を助長していったように思います。
つづく



◆今月の山中事情48回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−60回目の米作り−

日常の中で、ものを数えることは、至極当然にある。
私のような仕事にも、五名様のご予約。三〇個の弁当。
ビールを何本お飲みになったか等の極当たり前の数がそこにある。
その数が多ければ多いほど仕事として成り立ち、営業や生活の基盤をより強固なものにして行くことにつながる。
あるテレビ番組を見た。棚田が、むせび泣きたくなるほど美しい関西のとある農家の御夫婦のことだった。一帯の棚田は三千五百坪だと言う。そのうち何枚かを、その御夫婦が数十年にわたって耕作して来たのだ。カメラアングルはただただ美しい景色のみを映しているのだが、今日までの長きにわたってその棚田に全身全霊を込めて米作りをされて来たのである。
ところが、インタビューに応じた老農夫の言葉が私の脳裏にこびりついてしまった。
「米作りは、一年かけてやるものだ。一年で一回と数えると私はまだ六〇回しか米を作っていません」と。
気の遠くなるほどの時間をかけて米作りをされて来たはずなのに、数に直すと六〇回しかしてないと言う。長い稲作の歴史からみれば、ものの数ではないかも知れないが、一年を経なければ米は出来ないのである。その一年とてただ黙って過すわけではない。下準備をやらなければ、収穫にはこぎつけない。
それを六〇年も続けているのに、その苦労をみじんも感じさせず、「まだ六〇回しかやっていない」と気負いなくおっしゃる姿に私は脱帽した。おそらく、一〇〇回でも、二〇〇回でも米作りしたい筈だが、一年で一回では、その意欲があっても、まさに命との競争だ。即席ですませる訳には行かない農業の過酷さをまざまざと知らされた。
単純に数が多いだけでよろこんではいけない大事なことがあった。