★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.77

五月になりました。連休は如何お過ごしでしたでしょうか。
私は移住騒動で連休が終わりました。

Ryuの目・?−no.46で話題提供して下さった日本人形作家の岩田宏子さんの作品(第22回伝統工芸人形展 で日本工芸会賞受賞作品を含め)を以下で観ることが出来ます。

http://www.nihon-kogeikai.com/KENSAKU/IWATA-HIROKO.html

では《Ryuの目・Ⅱ−no.77》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は再びクレムソンの岸本雄二さんです。

−察しあう心−

相手の気持ちを察しようとしながら、会話を進めると、話の運びがよくなるように感じます。しかも問題が生じにくくなり、次第に信頼関係が育まれてきて心が打ち解けくるような気持ちになります。私は英語圏に44年住んでおりますので、まずは英語と日本語の関係から「察しあい」について触れてみます。

「それはやらない方がいい」という日本語を幾通りの英語で表現できるかを考えてみました。直接的な強い言い方から、遠まわしな表現まで幾つか並べてみます。

Don’t you dare do it.              間違ってもしてはいけません
Don’t do it.                 やってはだめです
I wouldn’t do it. 私だったらやりません
It would be disadvantageous for you. (to do it.) 君のためにならないでしょう
It might perhaps be disadvantageous for you.  君のためにならないかも
It might not be in your best interest.      君のためになるとは思えない
They might find it inappropriate. 皆の迷惑になるから

このように幾通りにも表現できますが、どれも英語と日本語の対訳が出来る範囲内です。英語が母国語の人に聞けばまだ言い回しがあると思いますが、多分全て日本語に訳せると思います。主語が「私」になったり「君」になったりまた「皆」になったりしながら、ある行為を止めさせるために、相手の「心」に訴えてその行動を思い止まらせようとしています。微妙なコミュニケーションの「味」の違いが伺えます。
しかし、話している本人の気持ちに焦点を当ててみますと、相手の「心や行動」についての自分の「意思や気持ち」を表していることに気がつきます。相手の気持ちや立場を考えることによって、自分の気持ちが分かってくることに気がつきます。例えば、

(1)What would you like to eat tonight?   今晩何が食べたいですか
(2)How do you think of this?       これをどう思いますか

(1)の文章では、自分は今晩、特に食べたいものはないので、相手に聞いてみた、のかも知れませんし、(2)の文章は、自分にはこれについて意見はないので、相手の意見を聞いてみたのかも知れません。いかにも相手の気持ちを慮っているようですが、実は、自分にはこれという意見がなく、相手の意見を聞くことによって、自分の意見の無さを誤魔化しているのかも知れません。
「察しあう心」は学者の間で評判になったりして、日本文化の特色の一つとしてもてはやされましたが、以上の例だけからをみて、必ずしもそのようには思えません。どうもこれは日本人好みの「日本文化特殊論」の一つのように思えます。「察しあう心」は、自分の気持ちを伝えたり相手の意見を聞いたりするための言葉が存在する所には、多分、何処にでもあるように思えます。日本文化の専売特許というよりは、言葉そのものの持つ特殊技能なのでしょう。

いま日本では、包丁やナイフで切りつける事件が頻繁に起きていますが、これらの殺傷沙汰は、周りに「察しあう心」がもう少しあれば、思いとどまらせることができたのかも知れません。こういう事件を起こしそうな人たちは、往々にして、周りの人の理解がほしかった場合が多いからです。人との暖かい意思の疎通は、何時の時代にも必要です。「察しあう心」のような文化の基礎的な知恵こそ「ゆとりの教育」に生かしてもらいたいと思います。

2008年7月30日
クレムソンにて
岸本雄二




◆今月の隆眼−古磯隆生

キュービズム建築−

五月の連休を利用しての移住を目論んでいた私は、その準備にすっかり頭を奪われ、Ryuの目の我が話題の準備を怠ってしまっていました。連休が明けて東京に舞い戻り、Ryuの目発信(毎月10日)までに時間的余裕の無いことに気づかされ、さて今回は何を話題にしようかと思案。日頃の不勉強がたたってこういう時にオタオタする己を見せつけられたわけです。とはいうもののどうしたもんかと考えていましたところ、以前に貰った「チェコキュービズム建築とデザイン1911−1925展」の葉書を思いだし、それに飛びついて昨日銀座のギャラリーに赴きました。

20世紀前半は建築界も激動の時期で、近代建築の様々な運動が展開された生き生きとした時代でした。我が事務所の略称「atelier vivant」の名前も実は、当時の活発な建築界の動向を発信していた「L'architecture vivant」というフランスの建築雑誌の名前から拝借したものです。(vivant=vivid)
さて、ギャラリーではチェコの当時の若き三人の建築家(ヨゼフ・ホホル、ヨゼフ・ゴチャール、パウ゛ェル・ヤナーク)の作品を写真パネルで紹介していました。チェコに於いてのみキュービズムの影響が建築にまで及んだとのことで、その実体に興味を抱いていました。

伝統的に日本の「内−外の空間を融合させる」ことの感性に親しんだ向きには、西欧建築のこれまた伝統的に重要な対象となってきた「ファサード(建築の正面外観)の扱い、様式」というのはとっつきにくい面もありますが、それでも若き建築家達がそれまでのファサードの様式に立ち向かい、キュービズムという力を得て新たなファサード=建築スタイルを模索してる姿が感じ取れる写真でした。
私は、“建築の建築たる生命線はその空間にある”と考えていますので、このキュービズム展が主にファサードのみに焦点を当てている(家具調度類・階段手すり等のデザイン写真はありますが)ことにいささか物足りなさを感じはしました。
しかし、当時の熱気を感じさせる写真を見るにつけ、今日の無表情な建築との対比において、考えさせられるものがありました。

チェコキュービズム建築とデザイン1911−1925展」
3月6日〜5月23日、INAXギャラリー
中央区京橋3-6-18 INAX GINZA 2F TEL.03-5250-6530

★山梨への移住はしたものの事務所は東京ですので、行ったり来たりの生活になりますが、一方が「寂」で一方が「騒」。この「騒・寂」の異空間の往来(彷徨)がどのようなことになるのかいずれお話ししたいと考えています。



◆今月の山中事情44回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−平成二十一年度「長屋の花見」−

恒例という形容詞が何となくサマになって、第七回「羽前会」の花見が本年も四月五日に催された。幹事の吉岡さんも私も五日の天気予報だけ雨マークが付いていることに多いに不満を抱きながらも、特別の神頼みをするでもなく、当日は来てしまった。
今年はどなたがお目見えするかと、そわそわしながら山の店を午前七時に料理を積んで出発した。朝の天気予報は予想に反して、完全に、パーフェクトに、満塁ホームランのごとく快晴を報じていた。天は我等やさしき羊達に味方して、花を散らすことなく、風もそよ風であり、寒さも与えず、昨年の花見の不始末を謝らんばかりに始まりから終わりまで見守ってくれた。そんな陽気に応えるように久方振りにお会いする方に出会い、健勝を喜び合った。齢のせいであろうか、いつの間にか涙腺がゆるんでしまった。

落語「長屋の花見」ではないが、当店で出会った方々が何の縁もゆかりもないのに、三々五々やってくる。「あら!」「おう!」と言ってその隣に腰をおろす。誰が持ってきたかわからない酒を当たり前のように飲み、かつ食べる。お互いの健康やら仕事のことを話し、その確認をする。その後、当人同士には何の関係も生じないことになっているのだが、この数時間同級生のような、OB会のようなそんな光景になっていたのであります。
そのことをつくづく垣間見ていると、日本人の桜に対する情念は桜を主(あるじ)に仕立て、それを理由にして素直に集うことの何と素晴らしいことか。
私は桜に対して何度も頭を下げたい思いにかられた。残念ながら花の命は短くて、今はみどりの葉のみになってしまったが、元気を確認出来た皆様に心よりお礼を申し上げます。
そして、毎年お骨折りをいただいております吉岡さんにこの場をお借りして感謝を申し上げます。
どうぞ来年もお会い出来ますように!再見!