★ Ryu の 目・Ⅱ☆ no.72

一年という時間はこんなにも短いのでしょうか。今年も早、師走です。
ありそうでなさそうな選挙。社会は不安だらけ。
この国の政治家は全員クビ!と言いたくなります。

みなさんの紅葉は如何でしたか?
では《Ryuの目・Ⅱ−no.72》をお楽しみ下さい。


◆今月の風 : 話題の提供は真宅寛子です。

−ペットショップの動物たちのゆくすえ−

世界中で日本ほどペットショップの多い国は見当たらない
店頭で売ることを禁止している国も多い。日本では生後1ヶ月にみたない犬や猫も売られている。無機質なケージの中で多勢の人の目にふれストレスはいかほどのものかと、胸が痛くなる。
母親やきょうだいと、共に2ヶ月くらい過ごすことで社会性がみにつき、おとなになってからの問題行動がおきにくくなる。日本人の小さいもの好きを利用して購買力をあおっているようにみえる。以前すんでいた国にはペットショップはなく、ブリーダーが新聞広告を出して買いたいものは家までみにいく。清潔な広い庭に犬種ごとに区分されている。母親や兄弟がいるので、性格などもわかりやすく、買う判断しやすいせいか、後に処分すようなこともほとんど聞かなかった。私の見た母親は温和で人懐こくて子犬の世話もよくしていたので、オスをてにいれた。思ったとおり、忠実で賢く、優しい素晴らしいジャーマンシェパードだった。
今飼っているゴールデンリトリーバは日本のペットショップで大きくなりすぎて、売れ残っていた。女店員が大きくなりすぎたので、もうすぐ処分される、と教えてくれた。いままでも、売れ残った動物たちはどうなっているのだろう、と疑問に思っていた。何ヶ月も狭いケージにいれられて、その挙句、殺されてはあまりに酷いので、飼うことにした。家につれて帰った当初は歩くこともできず、全てのものにおびえ散歩に行くこともいやがった。
売れ残った犬を買わせるために言ったのか、本当に処分されそうだったのかその店が突然クローズしたので、今となっては真実はわからないが、売れ残った動物たちは実のところ、どうなっているのだろう。
命を大切にするよりも、高く売るものとして扱われている、日本のペットの店頭販売にもっと厳しい規制をもうけ、ペットが不当な取り扱いをされないよう、法強化が必要だと思う。   豊中動物愛護グループ 真宅寛子


◆今月の隆眼−古磯隆生

−秋の音−

サラサラ、シャラシャラ、カサカサ、カシャカシャ、パリパリ、カサンカサン、落ち葉が発するさまざまな音です。今年も秋を楽しみました。
秋は聴覚、視覚を限りなく刺激してくれます。色の変わり行く様を存分に楽しませてくれる宝庫…ICU国際基督教大学キャンパスを今年も訪れました。
11月も終わりの頃でしたから例年ですと少し遅いかなと思われる時期でしたが、今年の紅葉はいささかバランバランでした。一番気になったのはケヤキでした。多くのケヤキの小枝が紅葉の前に既に枯れていました。この現象はICUだけでなく東京のあちこちのケヤキに見られました。
インターネットでその原因らしきことを探しましたがなかなかわかりません。小枝の剪定が必要との意見がありますが、凡そケヤキの姿を残さない剪定は勘弁してもらいたいところで、サボテンのようなケヤキを作らないでほしいものです。「樹木医によると 少し時期が早いように思いますが、けやきの果実は自ら枯らした小枝と共に一緒に風に飛ばされ遠くまで行き、広く子孫を残そうとするようです。」との書き込みもありました。
ケヤキの小枝の枯れ以外は楓の紅葉がマチマチでしたが、銀杏の黄葉はいつも通りとても綺麗で、その中に飛び込んで黄に染まってみたい欲望に駆られました。
今年は音を楽しみました。冒頭に書きましたが、落ち葉を踏みしめると様々な音が発せられます。落ち葉の乾燥の度合いによって微妙な音の変化を楽しむことが出来ました。とても面白かったのは風に転がる葉の音でした。その音を追っていると全く楽しくなってきます。思わず顔がほころんでしまう一時でした。
数日前、井の頭公園に行きました。ここはケヤキをのぞき様々な紅葉が入り交じり豊かな紅葉を映していました。今年も紅葉を楽しみました。
この時期が終わるとすっかり葉を落としたケヤキの木立の美しさが現れます。



◆今月の山中事情39回−榎本久(飯能・宇ぜん亭主)

−一期一会−

山中で暮らす。それも営業を伴っての毎日はより多忙になった。それなりの年令であるので、大きな未来像を描く必要はないが、都会での暮らし方とはやはり確実に違う。
先日、東京時代の講談社のお客様T氏が飯能市在住のスウェーデン人M氏と来店してくれた。「榎本さん、黙って東京を出て行ってひどいよ!」と開口一番言われた。黙って出てはいない筈だ。引っ越しの案内も確かに出させていただいた筈だが。だが一時間もしないうちに私の暮らし振りが理解できたのか「やりたいように生きていますね」と、店や出来上がったばかりのギャラリーを見回して、つぶやくでもなく言っていた。
スウェーデン人M氏は、日本が好きな人である。飯能市に住む以前は、東京やその他の町に住んでいたと言う。日本の伝統的なことに惹かれ、興味が尽きないらしい。特に「日本の食」の分野に興味を持ち、その素材や製品の分析などをしている。
T氏の来店は、そのM氏の調査分析したものを本にする為だった。その表紙に、日本の食の原風景である、家庭の食卓の「おかず」を私に作って欲しいとの依頼の為だった。いくら過去に親しくさせていいただいたとは言え、こんな山の中にわざわざご足労をおかけいただいたことに私は感極まった。そして快諾をさせていただいた。お陰様で、先頃、そのすべてを終えることが出来た。
以前、「石の上の三年」を書かせていただいたが、何ごともまず三年が、ひとつのターニングポイントのようだ。それが過ぎたら、急に何か楽になったようなのだ。肩ひじが張らないと言うか、少し余裕のようなものが生まれた。何も見えなかったものが、逆に何かが見えているのである。
私の店には、同年輩以上の方が圧倒的に多い。店に入るなり、私の暮らし振りを、いきなり羨ましがるのである。それまでの私の葛藤や道程などと、どなたも知らず勝手なことをのたまうのである。そんな方々が、コーヒーを飲みながら長居をし、いろいろの話を置いて行く。そうなのです。当店は今や課外授業の場と化しているのです。
いろいろの話を持って帰る人もいます。次の来店の時は、答案用紙を返しに来るがごとく、又長居をして近況を語る。
峠で店を張る面白さの一面がこのことであり、その面白さを感じるまで、やはり三年の月日が必要なのでした。
答案用紙を持ち帰ったまま、ずっとお見えにならない方もいる。一期一会である以上心配をしても仕方ないのではありますが、印象的な人々が多くいる故、心にかかる。